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Channel: ガメ・オベールの日本語練習帳_大庭亀夫の休日ver.5
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世界を見にいく

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モニもぼくも、小さいひとびと用にデザインされた生活から、ふつうの生活にもどってゆく。
サンクスギビングにアメリカへ買い物に行くのくらいから始まって、だんだんもとの生活に帰る予定です。
ふたりで、生活の変更をあれこれデザインするのは楽しいことで、南半球を中心にしたいというモニの意見をいれて、というよりも、夫とは言ってもモニさんのファンのようなものなので、議論の余地はなくて、そんな必要はないと思うというモニさんの意見を尻目に、シドニーにも生活の拠点を作った。
メルボルンとオークランドだけでは、心許ないからで、シドニーが、思いもかけず、でっかい田舎町から大都市になりはじめたのに目をつけて、わざわざニューヨークやロンドン、おパリまで出張らなくても都会の週末が送れるようにしよう、ということです。

シドニーの最大の魅力は、オペラの水準の高さで、モダンダンスやバレーは、それぞれ大陸欧州とニューヨークのほうが好みだが、オペラはシドニーのほうが安定している。もうひとつは、シドニーのほうが、演目にもよるが、観光客が多すぎるニューヨークよりも観客の質が高いので、演じるほうもリラックスしていて、楽しそうです。

クライストチャーチは、ぼくにとっては半分故郷のようなものなので、もちろん、引き払いはしない。
夏に常住する、というわけにはいかなくなったので、キャンパーバンで、南島をうろうろする策動の中心地として利用することにした。
ニュージーランドは、少なくともぼくが見聞きした範囲では、キャンパーバンで右往左往するには、世界じゅうでも最適の国で、まずキャンピングサイトが文句なく世界一である。
広いスペースの、たいていは芝の上にキャンパーバンを駐めて、電源につないで、オーニングと呼ぶ、日よけをクルマから繰り出して、テーブルを広げると、そこにはいきなり一家4人の天国が出現する。

一方で、キャンピングサイトのプールや遊具のあるスペースは、小さなひとびとの社交場でもあって、世界にはいろいろな同世代の仲間がいて、肩を並べて絵本に見入ったり、ハグしあって♡になったり、あるいはケンカをして泣き狂ったりする、良い一生のスタート地点でもある。
クライストチャーチは、日本で言えば、ぼくが大好きな名古屋みたいな地位ではないかと思うが、名古屋よりも自然がぐっと近くて、デニーデン、フィヨルドランドと分け入っていくと、あたりの景色が、地球的なものから、第三惑星系的な、宇宙的な人間の情緒を拒絶するような森林の光景に変わってゆく。
1910年代に、沿岸を航行していた英国海軍の士官や水兵たちが、絶滅したはずの巨鳥モアを目撃したと報告したのも、この辺りで、愛好家が毎年新種を発見するので有名な、バードウォッチングの聖地でもあります。

クイーンズタウンは、開けすぎて、ニュージーランドは観光開発が比較的上手な国なので、土産物屋を林立させて観覧車をぶったててしまうようなバカなことはしないが、妙に高級欧州リゾート風になってしまって、現実にも冬になると、大陸欧州やアメリカのオオガネモチたちが集う場所になって、子供の頃の、あの素朴な風情はなくなってしまった。

湖岸をセグウエイが走りまわり、夜にはひとり2万円というようなお勘定のレストランに人が犇めいて、ハリウッドや欧州のパパラッチたちもうろついて、経済のためにはよくても、あんまりぞっとしない町になったので、隣のアロータウンに別荘を買うべとおもって出かけてみると、むかし3000万円で売りに出ていた、ワインやピザのデリバリーサービス付きの、ちょうど同じ家が2億円になっていたりしていた。

バブルバブルビーなので、なんというか、やりきれない。

ニュージーランドの欠点は、いまもむかしも、何処へ行くにも遠いことで、隣国ということになっているオーストラリアがすでに2400キロというような水平線の遠くで、3時間はかかって、これがたとえばアメリカに行くとなると、ロサンジェルスですら12時間で、欧州に至っては24時間ほども滞空しないと着きはしない。

一回の旅行が長くなるのは、主に、この長時間のフライトがめんどくさいせいで、ニュージーランド人に多いパターンは、だからホテルに1ヶ月滞在する→ホテルではキッチンがなくて不便なのでアパートになる→快適なアパートは一泊あたりはホテルよりも高いので面倒くさくなって不動産として購入する、というのが最も多い。
言い訳をすると、逆に、北半球の冬からオーストラリアやニュージーンランドの夏に移動する味をしめたひとびとも同じで、生前はみな大騒ぎされて来なくなってしまうと幻滅なので黙ってシイィィーということにしていたが、デイビッド・ボウイはシドニーに家を持っていた。
ばれちった人で挙げるとシャナイア・トゥエインやブルネイの王子、サウディアラビアの王族、いろいろな人が、オーストラリアやニュージーランドに家を買って、いっぺん来てしまうと帰るのがめんどくさいので2,3ヶ月ひまをこいて帰ってゆくもののよーです。

アメリカは買い出しに行くにはもってこいの国で、なにしろ世界でいちばん物価が安いのと、どこに買い出しに行けば判りやすい、というのは、例えばフランスやイタリアで買い物に向いているのは、なんといってもランナーや、燭台、ブローチにネックレス、スカーフというような工芸品だが、欧州は相変わらず意地悪な欧州で、最も腕の良い職人の品物は、相変わらずアパートの一室で売っている。
店のサインもなにもない、例の、ただの部屋のような場所で、寸法をとり、好みを訊いて、では、3ヶ月後までに作っておきます、というような商売なので、知らなければわかりにくくて、買い物のしようがないが、アメリカは、そういう所は開明的でよく出来ていて、誰でもわかる目抜き通りに、ティファニーならティファニーの看板を掲げて公明正大に商売する。

その代わり値段が張るものだからといって、ちょっと地球を半周してオークランドまで出張販売に来てくれないか、というわけにはいかないが、どうしたって、アメリカ人の商売のやりかたのほうが現代的であると思います。

以前はオンラインで買っていたが、どういう理由によるのか、どんどんサイトが閉鎖されて、残ったところはインチキな違法商品を売るようになって、例えばUS版のiTunesカードはアメリカ領までいかないと買いにくくなってしまった。
だんだんめんどくさい成り行きになってきたので、今年から、またUSAのクレジットカードを復活させようと思っているが、それにしても、最近はまたテリトリーのマーケティングが厳しくなってきたので、アメリカマーケット向けの商品は、アメリカに出かけて買うのにしくはなし、と考えている。

いちばん近いのはハワイで、ハワイなら9時間もあれば着くが、ホノルルという町は頭で考えているときはいいが、到着すると意外にがっかりな町で、なんでもかんでも安っぽいうえに異様なくらい高い。
オアフの町がそんなに嫌ならせめてマウイ島に行けばいいわけだが、マウイの、たとえばホエーラーズビレッジにいると、買い物は出来なくて、いったいなにをしに来たのだろう、と中途半端な、もやもやした気持になってくる。

来年は2ヶ月ほどもマレーシアに行くことにして、日本語ツイッタで知り合った、ペナン島に住むLANAさんやCCさんに意見を求めたりして、アパートも航空券も予約してある。
何をしにいくのかというと、むかしはシンガポールだったので、シンガポールは物価も安くて、町のひとたちはマジメで、屋台の食べ物がおいしい、最新テクノロジーが充満した良い町だったが、最近は景気が良いのが続きすぎて、なにもかもオーストラリアやニュージーランドなみに、ぶわっかたかくなって、大戸屋の鰺の開きでビールを飲めば2000円を越えて、おまけに嘘までついて手を抜く国民性になってきたので、シンガポール人の友達たちに相談すると、まったくだ、シンガポール人はいまダメなのよ、マレーシアがいいとおもう、というわけで、初見の国に行ってみようといういうことになった。

テーブルの上に世界地図を広げて、ワインを飲みながら、あーでもないこーでもないとモニさんと計画する夜は楽しい。
ニュースを観れば世界は修羅のなかにあって、オートマチックライフルが火をふき、子供は爆撃で傷付き、黒板に砲弾が貫通した大穴が開いた、壁も屋根も吹き飛んでしまった教室で子供たちは勉強している。
奴隷市場で売られ、命からがら逃げ出した少女たちが、声をふりしぼるようにして、自分たちが耐えなければならなかった暴力と性的暴力について述べている。

最近、特に欧州系人だけが並ぶ集まりにいると、オーストラリア人もニュージーランド人も、北半球から離れていることを感謝すると同時に、中東人、アジア人、アフリカ人を警戒する孤立主義に近い感情が強くなっているのを感じる。
またぞろ、人種について言わずに外国人への嫌悪を述べる方便である「外国人の英語は聞きたくない」と口にだして言う人が増えた。

正直に言えば、自分の心のどこかにも、オーストラリアとニュージーランドだけにいて、平穏な繁栄を楽しむだけでええんちゃう?という気持がないとはいえない。
出だしの頃とは異なって、いまは、顔と顔をあわせる用事が出袋すれば、たいていは向こうのほうからこちらへ来てくれる。
自分の都合がよい観察を述べれば、向こうも、客専用のオンスイートで、のんびりして、ニュージーランドのチョーのんびりを楽しんで帰ることを好むもののよーです。

でも、なまけないで、ちゃんと世界を見に行かなければ、とモニと言い合う。
この目で世界を見て、世界に手で触れて、世界と一緒に笑ったり泣いたりするために生まれてきたのだもの。

小さいひとびとと一緒に。



世界の痛みを感じる、ということ

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いまは馴れてしまったが、むかしは空港に用事があるたびに、出かけて、到着ロビーで繰り広げられる光景に、思わずみとれてしまうことが多かった。

いつまでも抱き合っている恋人同士、不安そうな顔が、「花が開くように」笑顔になって、カートを押して、年長のカップルに向かって歩いてゆく若い女の人、
爆発しそうな喜びを抑えつけるように、むかしからの友人なのでしょう、お互いの目をみつめあって、永遠のように長い握手をしているふたりの老人。

見飽きることがなくて、人を迎えに行くのに、わざと1時間も早く出て、出口の前のベンチに腰掛けて、手にもったカップのコーヒーをすすりながら、ぼんやり「幸福」の姿を眺めていたものだった。

社会には人間を幸福にする力はないが、不幸を強制する力はある。
70年代くらいまでは、いったんダメな社会に生まれついてしまえば、もう悪戦苦闘の一生を送る以外には途がなかったが、いまは「住む社会を変える」という選択肢があることは前にも述べた。

日本に滞在していたときは、英語社会に移住するには英語ができないと無理なのではないかと思っていたが、英語社会にもどってきて、観察していると、21世紀の英語社会では、英語がひとことも話せなくても、諸事万端、支障もなく、幸福に暮らせるのだと判ってきた。

中国の人達は、賢くて、とにかくどんどん移住していって、おおきなコミュニティを作ってしまう。そうして、そのコミュニティを本国と連絡することによって市場を飛び地のように形成する。
感覚的には1割くらいの初代移民夫婦は、子供達に、時には家庭内で中国語で話す事を禁じさえして、英語社会に同化させてゆく。

インド人たちは、すでに独自の英語文化を持っているので、ちょうど連合王国人の移民のようにして、さっさと社会に溶け込んでいく。
このグループは中国の人達ともまた異なって移住というよりも移動で、日本でいえば東京から京都に引っ越す人の煩雑や戸惑いはあっても、それ以上の違和はないように見えます。

人間の移動が広範囲に及ぶようになって本質的によいことのひとつは、以前なら観念にしか過ぎなかった、例えば「シリアのひとびとと痛みを分かち合う」というお題目が、否応無い現実として眼前に立ち現れるようになったことで、次から次にやってくる難民の人々を前に、欧州人は、いまは苦闘しているが、大陸欧州で暮らしている友人たちと話し込んでみると、本人たちは「もうダメだ」ばかり言っているが、聞いている方は、どうやら欧州は自分を変革してアップグレードすることによって、この大変化を呑み込んでいきそうだ、と感じる。
いまの歪な、ムスリムへの嫌悪についても、よく観ているとイランを西洋世界から切り離した、宗教指導者たちのインチキな約束に見事に騙されたイラン人自身と、疑心暗鬼に駆られた西洋世界、特にアメリカの失敗から来ているので、
シリアよりもイラクよりも、まず「イスラムよりもペルシャ」であるイランを受けいれて、移民も大量にいれて、ふたつの文明世界の、いわば調停者としてペルシャを受容するのが最も近道に見えます。

外からは見えにくいが、彼らによると、「ほんのちょっと言語に興味があれば、トルコ語とアラブ語とイラン語はお互いに通じ合えて、そーだなあー、きみらの言葉で言えばイタリア語とスペイン語くらいの違いしかないよ」だそーで、それがそのまま真実なのかどうかは、なにしろこちらがアラブ語がパーなので、判定のしようがないが、少なくとも「そう言ってみてもよい」というくらいの背景はあるのでしょう。

アメリカは、ようやっと中東を安定させようとおもえば、イランの非宗教勢力と手を結んでいくしかないのだと気が付いたところで、一方ではイランの宗教者たちも、これ以上イスラム的抑圧を加えつづければ、若い世代から、社会内での叛乱が起きるのを避けられないと理解しはじめたもののようで、いまのイスラムと西欧との文明的軋轢は、最後には、ペルシャによる文化的な調停という、考えてみれば歴史的な帰結に向かっていくもののように見えます。

ペルシャ人は昔からアラブ人をバカにしていて、スンニとシーアの対立というお題目的な宗教対立以前に、アラブは野蛮という抜き難い偏見を捨てていないが、なにしろ付き合いが長いのと言語が似通っているのとで、お互いに、付き合い方がよく判っていて、やることなすことヘマだらけで、挙げ句のはてはシリアを「人間が住めない国」にしてしまったアメリカの直接介入よりは、イラン人にお願いした方が、よほど気が利いている。

真打ち、では質の悪い冗談になってしまうが、こういう「痛みの世界化」で近未来に予測される最大のものは、ナイジェリアを初めとするアフリカ大陸のいくつかの国からの人口流出で、特に世界一の人口爆発を起こしている一方で、政府がまったくの無能で統治能力をもっていないナイジェリアの問題は、深刻どころではなくて、欧州の息の根を止めるだけのちからを持っている。

ちょうど先週、難民船が沈没して両親を失ったナイジェリア人兄弟が抱き合って号泣している画像がviralになっていたが、そのくらいが嚆矢で、あとで振り返って、ああ、あの頃がナイジェリア人が世界のなかへ浸透していく初めだったのだなあーと思い出す事になりそうです。

ニュージーランドのように遠く故国から離れた土地にも、ナイジェリアの人は増えて、例えば、このあいだuberのドライバと客として会ったナイジェリアの人は、
大学で日本語を専攻して、日本に移住しようとしたが、人種偏見が強すぎてダメで、韓国人は受けいれてくれたので、そこに長く住んで、子供の教育のために英語圏に住まなければと考えてニュージーランドに来た、と述べていたが、
「いまはナイジェリアは、教育さえあれば外国へ住むという段階だが、もう数年すると、教育がない人間でも、たとえ徒歩で北上しても、欧州をめざすことになるだろう」と述べていた。
なんだかケミストリが良い人で、クルマを駐めて、カフェで話してみると、ナイジェリアはマスメディアを通じて知っているつもりの状況よりも遙かに深刻で、一国の社会だけで解決できるものではなくて、移民/難民という形で、「痛み」を共有するしかないように聞こえました。

日本が最も近しいと感じているアメリカは、この二十年間でGDPがだいたい1.3倍になっていて、日本はほぼ二十年間変わらぬGDPであるのは、日本以外の国ではどう受け止められているかというと「国のまわりの壁を高くすると、ああなる」という典型と受け止められている。
どんな社会にも、通常は老人を中心に「新しいもの、自分と異なるものは受け付けない」心性のひとびとがいて、そういう人間のゼノフォビアが連合王国ではbrexitという、本来はもっとまともな議論が交わされるべきだった自分の身体をふたつに割くような決断を感情的なポピュリズムの洪水によって決めてしまって、自分でも茫然とする世にも愚かな結論をくだしてしまったり、醜悪な憎悪を燃え立たせることで人気を博して、ヒラリークリントンを苦戦に追い込み、「もしかするとアメリカ最後の大統領選挙になるんじゃない?」と他の英語国人からは揶揄されている、少なくとも半数に近いアメリカ人は、いまでもKKKの予備軍で、口に出していわないだけでラティノ人もアフリカ系人も中国人も日本人も、みんなまとめて合衆国からたたきだして、自分たちだけの、郷愁の「白い夢」のなかでまどろみたい夢想に浸っていることがばれてしまったが、仮に両者が孤立の政策をとると、文明などはまるごと欧州大陸に引っ越してしまうだけで、世界は縮んで、その直接の結果、世界の至る所で貧困と飢餓が生まれる。

なぜそうなるのかといえば、背景にある最も大きな絵柄は、地球のおおきさは一定であるのに、人口が爆発的に増えて、むかしから科学者を中心に「これは拙いんじゃない?」と述べていたことの、初めの顕れが巨大な難民/移民の移動なのだと考えることが出来る。
失政や戦争は、案外、端緒であったり結果であったりするだけで、根本にある圧力は「地球が全員が住む部屋としては狭くなったのだ」ということになりそうです。

ではドアを閉ざしてしまえばよいではないか、という一見もっともらしい施策を実行するとどうなるか、というギニアピッグじみた実験の結果が日本社会で、換気口をすべて閉じて、窓に移る景色もメディアが加工した人為の景色に変えて、つくりものの「外の世界」を見せて、一億を越える人口を世界から切り離して閉じ込めれば、そこには狂気が猖獗するだけであることを日本の社会は教えている。

そうして常識を失ってしまった社会は、細部でいえば、例えば家電王国であったのが、「日本の職人技でつくったよい製品だから」とセールスマンが品質と機能において韓国製に劣る冷蔵庫を2倍以上の価格で売りつけようとする鈍感さで、いまでは家電店から日本の会社の名前がついた製品は、ほぼ一掃されてしまった。
社会の閉鎖性は、市場の変化に鈍感な体質を作り上げて、なんだかピントがずれたマーケティングにも顕れて、65インチの高画質を謳いあげるテレビにHDMIの端子がふたつしか付いていなくて、これでは買いようがない、とつぶやくことになる。
新しいことには何によらず逡巡して、韓国のたとえばサムソンに、つねに1年遅れる後追いマーケティングと、売れないことからくるバカ高い価格と、それを「日本製品は優秀だから」という傲岸な怠惰でjustifyしようとして、販売店の購買段階で相手にされなくなってゆく。
そうこうしているうちに、いまはどのくらいの段階かというと、もう新しい技術に投資しようと思っても、それが出来ないくらい会社が落ちぶれた段階に来てしまった。

一事が万事で、国の柴戸を閉じて、庵にこもって、老人じみた静寂にひたろうとすれば、世界経済の原理が働いて、社会は否応なく貧困に陥っていくことを日本は社会実験として実証しつつある。

オークランドの空港に、「葉山」というなつかしい名前の鮨屋が出来て、空港にでかける用事があるときには、早めに出て、鮨はよほどタイミングがよくないとおいしくないが、サーモンとマグロが載った「海鮮丼」は、日本の3倍ほども新鮮な刺身が載っていて、ご飯が酢飯だったり普通のご飯だったりするのが、いかにもニュージーランドで可笑しいが、不味くはなくて、毎度のように「紅ショウガ、もう一袋つけてね」「有料になるんですけど」「ケチケチしてはいけません」という問答でせしめる無料追加紅ショウガの味で日本での滞在を思い出して、懐古の感情にふける。

ロビーには、今日も、抱き合うひとびと、感情の洪水に負けて泣き出してしまうひとびと、見るからに希望に輝く表情の、一見して新着の移民と判る家族、いろいろな人が「明日」を信じてやってきている。

その、ニュージーランドでは珍しい、人いきれのする場所に腰掛けて、「世界が生きていかれなければ、我々も死ぬしかなくなるのだ」と述べた、反アジア人運動のさなかに人種差別を政治的フットボールの手段に使う政治家に対して、激しい怒りを隠そうともせずに述べた、痩せた、ちっこい、目ばかりがおおきな女のひとのレポーターを思い出す。
あるいは、W.H.Audenが
We must love one another or die.
という有名な詩句を、
We must love one another and die.
に書き換えてしまったことを。


Diary1

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内緒の話をしよう。
あなたはモニさんが現れるまでの、わしの最大の(てゆーのはヘンだけど)ガールフレンドで、あなたがわしと結婚することに真剣であったのとおなじくらい、わしもあなたと結婚することを真剣に考えた。
あなたは、ぼくの真剣さを信じなかったろうけれど。

あの頃、ぼくは、簡単に言えばロクデナシで、ラスベガスで完膚ないまでにすって、赤い砂漠の岩の上に寝転がって、もうどうとでもなれと思ったり、メキシコの、プラヤデルカルメンへの国道で、一文無しで行き倒れて、大西洋を越えてやってきた妹に救われたりしていた。

でもあなたはオカネモチの娘に独特な純良さで、わしの魂を救おうとしてくれた。
おぼえていますか?
ロンドンの、あなたが必要ですらないパートタイムの店員をやっていた美術骨董時計店で、時計を掃除する手を休めて、
「ガメ! あなたに会えるとは、なんと素晴らしいことでしょう!
ずっとニューヨークに行ってらしたのでしょう。
『新世界』はどうでしたか?」と述べたときのことを

懐かしい声。
懐かしいアクセント。
あなたは、わし世界のひとなのだった。

セブンダイアルズを歩いて、チーズ屋でチーズを買って、ミドルイースタンカフェで、コーヒーを飲んだ。
あなたとぼくのアクセントを聞いて振り返るひとたち。
ジュラシックパークの恐竜に出会ったとでも言うような。

ぼくはあなたに飽きていたのではなくて、自分が生きてきた世界に飽きていたのだと思います。

なんだか、泣きたくなってしまう。

小さなベンチに腰掛けてSeydou Keitaの写真を何枚も見た。
あなたのやさしい唇にふれて、これは、なんというやさしい時間だろうと述べた。
あなたは19世紀的な女びとであって、「ガメ、あなたはきっと、わたしと結婚するのでしょうね?」と述べた。

柔らかなシルクのサマードレス。
滑らかな太腿。
無防備な太陽。

金色の産毛が輝いている、アールヌーボーのライトのなかで、あなたの腕が伸びていて、ぼくはぼくの社会のおとなが振る舞うべく振る舞っている。

でも、ぼくは女神に似たあなたの呼ぶ声に答えなかった。
ぼくは出て行った。
世界の外へ。

ブライトンのパーティで会ったでしょう?
あなたは病院が八つとふたつのホテルチェーンの持ち主で、ホステスの席で、艶然と微笑んでいて、ぼくの名が紹介されると、少しだけ顔が強ばった。
あなたは、ベッドの暗闇のなかで、ぼくがどうしてそんなことをするのかと怒ったことを思い出していたのに違いない。
男と女ということになると、人間は、どこまでも生物的なのであると思います。

人前で、涙を見せたりするのは、わしらの習慣ではない。
激しい感情を見せるのは、明らかにわしらの習慣から外れている。
でもね。
モニもきっとわかってくれるに違いない。
あなたは、いまでも、わしの真の友なのである

日本に行くのだ、と述べたら、あなただけが「あら、ガメは世界の外に行くのね」と杉の木の扇の軽さで述べた。
あなたは、いつも、ぼくのことを知りすぎていて、どうしてぼくが日本語や日本に執着しているのかさえ精確に知っていた。
「ガメは、この世界でないところならどこへでも行くのよ」と歌うように述べた。

ガメは自分でいることに耐えられないのよ。
あの子のタイトルを見てごらん。
あの子が、自分のタイトルを呼ばれるたびに、とびあがるみたいにする様子を見てご覧。

あなたは、わしの女神のように振る舞った。
あなたもぼくも、恐竜的な世界に住んでいて、
そこでは「時」は止まっていて、
性や虚栄が澱んでいて、テーブルライトに照らされた金色の産毛が輝いていて、
われわれの魂を現代から引き離していた。

この世界でないところならどこへでも行くのよ、というが、
この世界、とはなにか。
きみとぼくとは、どんな文明に生きていたのか。
その文明は1915年には死んだ文明ではないのか。

I was in pain.

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そうして、ぼくは、「新世界」の通りをほっつき歩いていて、まるで捨て犬を拾うように、やさしい腕をのべて、抱きしめて、助けてくれたモニさんと結婚することになったが、それは愚かな人間への世界からの不意な救済だった。
どちらかというと宝くじにあたったような突然の救済であって、順々としたプロセスも納得できる必然性も、なにもなくて、マリア様の奇跡に似た、唐突の解決だった。

こんなこと、日本語で書いても意味がないのか。
でも、わし友を考えると、日本語で書いておくことに意味があるのです。
なんで?
と言われても判らないけど。
ぼくの、思い込みに過ぎないのかも知れないのだけど


2050年への覚書

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いまの世界に潜在している最もおおきな問題は言うまでもなくナイジェリアに象徴されるアフリカの人口爆発で、もしこの問題になんらかのブレイクスルーが起きずに、いま見えている地平上でナイジェリアの人口だけで4億になる2050年までの人口急増に対処しなければならないとすると、それは、まっすぐに人類の破滅を意味する。

16億6000万人のインド、14億の中国、4億ずつのアメリカ合衆国とナイジェリア、3億6千万人のインドネシア、3億5千万のパキスタンと並んでゆくことになるが、インドや中国には、国家として、なんとか国内を統治していけるだけの機能が備わっている。
問題は、というか、性格が新しい人口爆発は、ナイジェリアとパキスタンで、特にナイジェリアは政府がほとんど機能していないので、だいたい一億人超の人口流出が見込まれる。
簡単に言えば、シリア難民と同じ現象が桁が違う規模で起きるだろう、とナイジェリア人たち自身が述べている。

目下は「高等教育を受けていさえすれば外国に移住する状態」だとナイジェリア人友たちは言うが、一方で「教育を受けていないナイジェリア人たちが、いたたまれずに移動しはじめるのも時間の問題だ」と述べている。

では、どういう手立てがあるかというと、大問題が起きてから考えるという他はなにも手立ての見込みは立っていない。

シリア難民の、たった、あの程度の数の難民の移動で、すでに欧州は混乱している。
排外主義が勃興し、連合王国に至っては愚かにも、まるで、離脱しさえすればブリテン島ごと大西洋を渡って移動できるのだと言わんばかりの態度でEUを離脱して、ただでさえ危うい未来を、更に危うくしてしまった。

今度はどうするか。
どうするあても立っていなくて、「問題が起きてから心配しよう」ということになっているが、ほんとうは問題が起きてからでは遅いのは皆が知っていて、内心は、
おれの任期中は話題にするのをやめてくれ、と考えているだけです。
解決がない問題を、おれの机のうえに積み上げないでくれよ。

東アジアが中国圏に帰するのは、ほぼ自明で、「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」の頃から、ずっと何回も述べてきたように、ゆっくりと、歴史の自然の流れのなかで目に付かないように配慮しながらアメリカは勢力圏を1940年当時に戻して、縮退させている。
この戦略にとって障害になっているのは中国が南沙諸島に軍事拠点をつくろうとしていることで、囲碁が得意な人なら感覚的に判りそうだというか、なんというか、
要するに、そう簡単にオーストラリア=フィリピン=グアム=ハワイのアメリカ版「絶対国防圏」を作らせるわけにはいかない、ということで、日本や韓国の合衆国との同盟国との頭越しに自分と直截あたらしい関係を構築しろ、ということだろう。

これも考えてみると、2050年を節目と睨んでの動きで、どうやら世界じゅうの政府は2050年という年を里程標と考えて、いろいろに動いている。

ベトナムやフィリピンが初めに極めて強硬な態度に出てみせて、中国の「やる気」を観察してから、そういう感じか、と見定めて、ほぼ、昔、野田首相がなぜかとち狂って国有化すると言い出すまでの、日本が尖閣諸島に対してとったのと同じ棚上げの状態に持っていこうとしているのも、やはり2050年を睨んで、この辺で動きをゆっくりさせていかなければ、急展開では困る、と思っているからでしょう。

NZの小国間条約に過ぎなかったTPPを取り上げて対中国包囲網の道具に使おうとしていたアメリカが、なぜTPPを必要としなくなったか、ということの意味を日本の人は、もう少し真剣に考えてみたほうが良い。

初めはインドネシアにとっては苦笑するしかないような「対インドネシア対策」が名目だったダーウィンの軍事拠点化も、2050年の平衡を念頭においている。
ダーウィンの拠点化と並行して、ブリスベンの強化、ニュージーランドとの軍事同盟の復活と関係強化と、アメリカは、ここ数年、打つべき手を打ってきていて、日本の南洋捕鯨に反対する、誰にも異議を唱えられない錦の御旗で、いわば復古的な同盟を復活させてきたのは、なんども書いたが、ケビン・ラッドが国際司法裁判所に訴えてでるという、冒険的な手段に出て、しかも賭けに勝利して、あとはアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの思惑どおり、利権を諦めるということが出来ない体質の日本が、国際司法裁判所の判決をシカトする形で捕鯨を続行することによってヒラリー・クリントンの奇妙な提案は、完結して、将来に向かって日本を太平洋同盟から締め出す準備が完了した。

このあとは、どうなるかといえば、ちょうどキッシンジャーがニクソン大統領時代に、日本の頭越しに、日本には教えないで直截に友好条約を結ぶために動いたのと同じことを、頃合いを観て、打ってでて、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド英語三国の同盟側と中国とで太平洋の新しいパワーのバランスを作る事になる。

日本から最も見えにくいことで、このブログで再三のべて、情報公開法で公開された文書などを使って説明してきたことは、1945年以降、アメリカが日本を国家として信用したことは一度もないという現実で、何度も政府の高官によって明瞭に言明されているとおり、日本人を守る為だと表面は説明されている巨大な日本駐留軍の本来の目的は日本が再び軍事暴走することを抑圧するためで、日本に独立を許してきたのは、直截占領のコストの高さから、ゆるやかな傀儡政権体制を岸信介の当時から確立してきたのも、そのためだった。

ところが中国の強大化に伴って、日本の役割が変わって、なにしろGDPという、地政学的にみれば戦争エネルギーの目安で、中国の3分の1に転落したので、アメリカは、今度は自国の利益のためには日本を従属的な片務同盟国から、一歩すすんで衛星国化しなければならなくなって、一朝ことあれば5万程度の兵力を拠出できるようになってもらわねば困るわけで、安倍政権は、そういう目でみればアメリカ衛星国としての日本の第一期政権なのだと見られなくはない。

いったんパワーバランスの上で独立に、伝統の国家的な好戦性を発揮して侵略を始める心配がなくなったとなると、日本はいかにも便利な国で、アメリカにとっては自分で血を流さずに戦争という外交手段に訴えるチャンスさえ出てくることになる。

東アジアの新しい枠組みが見えてきたので、アメリカの心配と関心は、ほぼロシアに向けられている。ブッシュ時代のコンドリーザ・ライスで判るように、アメリカの伝統的な外交エキスパートは、もともとこの分野に集中しているので、外交の焦点が、落ち着きがよいところに落ち着いたのだとも言えます。
ロシアは自意識としては防衛的であるのに現実の政治・軍事行動としては常に侵略的・領土拡張的である面白い国で、国際政治を志す人間にとっての醍醐味に満ちた国だが、プーチンは、印象に相違して、例えば対日姿勢において弱腰と非難されるくらい、比較的に落ち着いた指導者で、極東についてはアメリカは「プーチン後」に思考を集中しているらしく見える。
日本からすると、プーチンの後継者と目されるひとびとは軒並みに対日強硬論者で、なんだか見ていておっかないが、当の日本の人は、のんびりしたもので、なんとも思っていないらしくて、返ってロシアの事情に通じた英語人が訝るていどの反応で、どうなってるんだろう、と思うが、そこはきっと日本の人間でないと判らない機微があるのでしょう。

2025年から2050年にかけて、世界は、いままで人類が見たことがない「資源が絶対的に足りない世界」を渉ってゆくことになる。
技術的ブレイクスルーは、そのうちには出来るのかも知れないが、どうやら、最も楽観的な予測ほどには、完全に間に合うということはなさそうです。
弱っている国、老いた国、社会が病んでいる国に住む人間には、この資源の不足は堪えて、容赦なく襲いかかってくるだろうが、これも何度も述べているように、いまは21世紀で、国境の敷居は途方もなく低いので、あちこちの国が動いてゆく様子を見定めて、では自分はあの国の国民として生きてゆくのが最もよいだろうと判断して生きていけばいいだけなのは、20世紀でいえば、ちょうど企業への就職と似ている。

巨大企業にあたる中国やアメリカに移民することが、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドのような小企業に移民するよりも必ずしも賢明な選択にならないことも、とても20世紀のキャリア形成と似ていると思います。

だから仮に自分が生まれて育った国が、誤判断を繰り返して、どんどんボロくなっていっても心配することはないが、個人としてでなく全体の側からしか世界を見られない人たち、簡単に自分が生まれた国と同化して、自分が出身国の分身であるように思うタイプの人達にとっては、いっそ、訳が判らない世界と感じられてゆくに違いない。

政治が世界を変革できる時代は終わって、左翼でも右翼でも、どうでもよくて、本質的に、というか論理上の源泉が暴力である近代政治の世界支配論理が寿命を終えて、テクノロジーが政治に変わって世界を変革する力になった世界のとばぐちに、いまの世界の人間は生きている。
そのテクノロジーの波の初めのものがインターネットで、多分、第二波は、いまとりあえずブロックチェーンと呼んでいる思想に立脚した技術革命になる。
ブロックチェーンがもたらす最もおおきな変化は、仮想世界のほうが現実世界よりも堅牢になることで、脆弱な現実に代わって、ブロックチェーンの数学理論に支えられた堅牢性が高い仮想世界が世界の運営原理になって、ちょうどこれまで現実世界からのアナロジーで構想され、現実世界の要請で仮想世界が構築されてきたように、ちょうど立場が逆になって、仮想世界の要請で現実世界が変更され、構築されるようになるのは誰の目にも見える近未来の現実になっている。

現実世界は、株式相場ひとつとっても、背骨となる数学理論をもたず、いわば心理的な要素がおおきい情緒的であぶなっかしいブラウン運動市場に過ぎなかったのが、ようやっと理論の裏打ちを持てるところまで進化しようとしている。

いま見えている地平では資源の絶対的不足と人口爆発というような問題に解決策が存在しないが、比較的楽観していられるのは、理論のないテキトーな世界から、理論を持つ可視化された世界へ、世界が移行しつつあって、いったん可視的な手順が判ると、そのあとには急速な解決が準備されるはずだからです。

世界じゅうで、夢中になっていた数学の手を休めて、ま、なんとかなる、とつぶやいているひとびとのタメイキが聞こえてきそうだが、人間はこれまでも綱渡りに綱渡りを重ねて、なんとか生き延びてきたので、いろいろ心配はあっても、なんとかなるかなあー、と、ぼくも思っているところです。


世界を見にいく

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モニもぼくも、小さいひとびと用にデザインされた生活から、ふつうの生活にもどってゆく。
サンクスギビングにアメリカへ買い物に行くのくらいから始まって、だんだんもとの生活に帰る予定です。
ふたりで、生活の変更をあれこれデザインするのは楽しいことで、南半球を中心にしたいというモニの意見をいれて、というよりも、夫とは言ってもモニさんのファンのようなものなので、議論の余地はなくて、そんな必要はないと思うというモニさんの意見を尻目に、シドニーにも生活の拠点を作った。
メルボルンとオークランドだけでは、心許ないからで、シドニーが、思いもかけず、でっかい田舎町から大都市になりはじめたのに目をつけて、わざわざニューヨークやロンドン、おパリまで出張らなくても都会の週末が送れるようにしよう、ということです。

シドニーの最大の魅力は、オペラの水準の高さで、モダンダンスやバレーは、それぞれ大陸欧州とニューヨークのほうが好みだが、オペラはシドニーのほうが安定している。もうひとつは、シドニーのほうが、演目にもよるが、観光客が多すぎるニューヨークよりも観客の質が高いので、演じるほうもリラックスしていて、楽しそうです。

クライストチャーチは、ぼくにとっては半分故郷のようなものなので、もちろん、引き払いはしない。
夏に常住する、というわけにはいかなくなったので、キャンパーバンで、南島をうろうろする策動の中心地として利用することにした。
ニュージーランドは、少なくともぼくが見聞きした範囲では、キャンパーバンで右往左往するには、世界じゅうでも最適の国で、まずキャンピングサイトが文句なく世界一である。
広いスペースの、たいていは芝の上にキャンパーバンを駐めて、電源につないで、オーニングと呼ぶ、日よけをクルマから繰り出して、テーブルを広げると、そこにはいきなり一家4人の天国が出現する。

一方で、キャンピングサイトのプールや遊具のあるスペースは、小さなひとびとの社交場でもあって、世界にはいろいろな同世代の仲間がいて、肩を並べて絵本に見入ったり、ハグしあって♡になったり、あるいはケンカをして泣き狂ったりする、良い一生のスタート地点でもある。
クライストチャーチは、日本で言えば、ぼくが大好きな名古屋みたいな地位ではないかと思うが、名古屋よりも自然がぐっと近くて、デニーデン、フィヨルドランドと分け入っていくと、あたりの景色が、地球的なものから、第三惑星系的な、宇宙的な人間の情緒を拒絶するような森林の光景に変わってゆく。
1910年代に、沿岸を航行していた英国海軍の士官や水兵たちが、絶滅したはずの巨鳥モアを目撃したと報告したのも、この辺りで、愛好家が毎年新種を発見するので有名な、バードウォッチングの聖地でもあります。

クイーンズタウンは、開けすぎて、ニュージーランドは観光開発が比較的上手な国なので、土産物屋を林立させて観覧車をぶったててしまうようなバカなことはしないが、妙に高級欧州リゾート風になってしまって、現実にも冬になると、大陸欧州やアメリカのオオガネモチたちが集う場所になって、子供の頃の、あの素朴な風情はなくなってしまった。

湖岸をセグウエイが走りまわり、夜にはひとり2万円というようなお勘定のレストランに人が犇めいて、ハリウッドや欧州のパパラッチたちもうろついて、経済のためにはよくても、あんまりぞっとしない町になったので、隣のアロータウンに別荘を買うべとおもって出かけてみると、むかし3000万円で売りに出ていた、ワインやピザのデリバリーサービス付きの、ちょうど同じ家が2億円になっていたりしていた。

バブルバブルビーなので、なんというか、やりきれない。

ニュージーランドの欠点は、いまもむかしも、何処へ行くにも遠いことで、隣国ということになっているオーストラリアがすでに2400キロというような水平線の遠くで、3時間はかかって、これがたとえばアメリカに行くとなると、ロサンジェルスですら12時間で、欧州に至っては24時間ほども滞空しないと着きはしない。

一回の旅行が長くなるのは、主に、この長時間のフライトがめんどくさいせいで、ニュージーランド人に多いパターンは、だからホテルに1ヶ月滞在する→ホテルではキッチンがなくて不便なのでアパートになる→快適なアパートは一泊あたりはホテルよりも高いので面倒くさくなって不動産として購入する、というのが最も多い。
言い訳をすると、逆に、北半球の冬からオーストラリアやニュージーンランドの夏に移動する味をしめたひとびとも同じで、生前はみな大騒ぎされて来なくなってしまうと幻滅なので黙ってシイィィーということにしていたが、デイビッド・ボウイはシドニーに家を持っていた。
ばれちった人で挙げるとシャナイア・トゥエインやブルネイの王子、サウディアラビアの王族、いろいろな人が、オーストラリアやニュージーランドに家を買って、いっぺん来てしまうと帰るのがめんどくさいので2,3ヶ月ひまをこいて帰ってゆくもののよーです。

アメリカは買い出しに行くにはもってこいの国で、なにしろ世界でいちばん物価が安いのと、どこに買い出しに行けば判りやすい、というのは、例えばフランスやイタリアで買い物に向いているのは、なんといってもランナーや、燭台、ブローチにネックレス、スカーフというような工芸品だが、欧州は相変わらず意地悪な欧州で、最も腕の良い職人の品物は、相変わらずアパートの一室で売っている。
店のサインもなにもない、例の、ただの部屋のような場所で、寸法をとり、好みを訊いて、では、3ヶ月後までに作っておきます、というような商売なので、知らなければわかりにくくて、買い物のしようがないが、アメリカは、そういう所は開明的でよく出来ていて、誰でもわかる目抜き通りに、ティファニーならティファニーの看板を掲げて公明正大に商売する。

その代わり値段が張るものだからといって、ちょっと地球を半周してオークランドまで出張販売に来てくれないか、というわけにはいかないが、どうしたって、アメリカ人の商売のやりかたのほうが現代的であると思います。

以前はオンラインで買っていたが、どういう理由によるのか、どんどんサイトが閉鎖されて、残ったところはインチキな違法商品を売るようになって、例えばUS版のiTunesカードはアメリカ領までいかないと買いにくくなってしまった。
だんだんめんどくさい成り行きになってきたので、今年から、またUSAのクレジットカードを復活させようと思っているが、それにしても、最近はまたテリトリーのマーケティングが厳しくなってきたので、アメリカマーケット向けの商品は、アメリカに出かけて買うのにしくはなし、と考えている。

いちばん近いのはハワイで、ハワイなら9時間もあれば着くが、ホノルルという町は頭で考えているときはいいが、到着すると意外にがっかりな町で、なんでもかんでも安っぽいうえに異様なくらい高い。
オアフの町がそんなに嫌ならせめてマウイ島に行けばいいわけだが、マウイの、たとえばホエーラーズビレッジにいると、買い物は出来なくて、いったいなにをしに来たのだろう、と中途半端な、もやもやした気持になってくる。

来年は2ヶ月ほどもマレーシアに行くことにして、日本語ツイッタで知り合った、ペナン島に住むLANAさんやCCさんに意見を求めたりして、アパートも航空券も予約してある。
何をしにいくのかというと、むかしはシンガポールだったので、シンガポールは物価も安くて、町のひとたちはマジメで、屋台の食べ物がおいしい、最新テクノロジーが充満した良い町だったが、最近は景気が良いのが続きすぎて、なにもかもオーストラリアやニュージーランドなみに、ぶわっかたかくなって、大戸屋の鰺の開きでビールを飲めば2000円を越えて、おまけに嘘までついて手を抜く国民性になってきたので、シンガポール人の友達たちに相談すると、まったくだ、シンガポール人はいまダメなのよ、マレーシアがいいとおもう、というわけで、初見の国に行ってみようといういうことになった。

テーブルの上に世界地図を広げて、ワインを飲みながら、あーでもないこーでもないとモニさんと計画する夜は楽しい。
ニュースを観れば世界は修羅のなかにあって、オートマチックライフルが火をふき、子供は爆撃で傷付き、黒板に砲弾が貫通した大穴が開いた、壁も屋根も吹き飛んでしまった教室で子供たちは勉強している。
奴隷市場で売られ、命からがら逃げ出した少女たちが、声をふりしぼるようにして、自分たちが耐えなければならなかった暴力と性的暴力について述べている。

最近、特に欧州系人だけが並ぶ集まりにいると、オーストラリア人もニュージーランド人も、北半球から離れていることを感謝すると同時に、中東人、アジア人、アフリカ人を警戒する孤立主義に近い感情が強くなっているのを感じる。
またぞろ、人種について言わずに外国人への嫌悪を述べる方便である「外国人の英語は聞きたくない」と口にだして言う人が増えた。

正直に言えば、自分の心のどこかにも、オーストラリアとニュージーランドだけにいて、平穏な繁栄を楽しむだけでええんちゃう?という気持がないとはいえない。
出だしの頃とは異なって、いまは、顔と顔をあわせる用事が出袋すれば、たいていは向こうのほうからこちらへ来てくれる。
自分の都合がよい観察を述べれば、向こうも、客専用のオンスイートで、のんびりして、ニュージーランドのチョーのんびりを楽しんで帰ることを好むもののよーです。

でも、なまけないで、ちゃんと世界を見に行かなければ、とモニと言い合う。
この目で世界を見て、世界に手で触れて、世界と一緒に笑ったり泣いたりするために生まれてきたのだもの。

小さいひとびとと一緒に。


猫の思想

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わし家ではずっと猫のフォスタリングをやっていた。
日本語ではなんというのか知らない。
里親、なのだろうか。
主に病気の猫を引き取って3週間〜4週間、引き取り手が来るケージに入るまで病気や怪我を治しながら面倒を看るボランティアで、モニさんと相談して、小さいひとたちに生命というものがいかにボロイものか教えるのに丁度よいだろうということになって始めたボランティアだった。

初めの猫は、家に来ると、まる1日、トイレシートの後ろに隠れて出てこなかった。
とても怯えていて、頭を排水パイプと壁のあいだに突っ込んで、お尻は丸出しだが、人間とおなじで、自分のほうから他人が見えないと、なんとなく他人の悪意が届かないような気がして、安心するのでしょう。
猫セットというか、暖かい毛布を敷きつめた、狭い箱に似た家と、スクラッチタワーと、それよりは高い所にある広々とした別棟という、猫ちゃんだけの部屋を用意して優遇しても、なかなか御機嫌が晴れるというふうではなかった。

日本語の本を読むと、よく猫族犬族という言葉がでてきて澁澤龍彦は猫派だがナントカは犬派でだからナントカは信用できないというような見るからに乱暴な感じのする文学論まであったが、ピンと来ないというか、
わしはもとから犬も猫も馬もヤギも羊も飼っていて、もっと書くと孔雀に鶏に鹿も牛も飼って、後年は病が膏肓にはいって、ラマやエミューやハイランドキャトルまで飼っていた。
ご幼少のみぎりは犬にまたがって鬼退治、じゃねーや、トロル退治にでかけていたそーであるし、後年は、馬に乗って尾根の背を越えて、山向こうの友達のところに酒を飲みにいってデースイして帰ってきた、というより馬さんに連れて帰ってもらったりしていた。

動物であれば見境なく好きだったので、犬が好きとか猫が好きだとかの区別というものに実感がわかない。

ニュージーランドを例にとれば、犬を飼いたいと考えた夫婦や、猫が欲しいと考えた独身男が出かけるのはSPCAという動物愛護協会で、オークランドで言えば、600人くらいのボランティアが働いていて、敷地のなかに動物救急病院があって、救急車が3台ほど常駐している。
犬と猫だけというわけではなくて、馬もいて、敷地のなかに厩舎があります。
ボランティアをしたい人は登録して、だいたいひとつの仕事あたり2時間の講習を受けて、ダメな日やダメな時間を事務局に教えておくと、手が空いていて、のんびりしている午後やなんかに電話がかかってきて、「こういう仕事があるが、やってみますか?」と言う。
たいてい初心者から熟練者まで、ボランティアの技量にあわせて、うまく仕事が分配されていて、信じがたいほどよくできたマネジメントだが、動物が大好きなひとは観察が細かくて鋭いという特徴があるので、マネジメントがものすごくよく出来ているのはそのせいであると思われる。

対面室に入ると、大きい部屋はやはり犬と猫のふたつだが、猫なら猫がずらっとアパート式の部屋に並んでいて、ひとつひとつには猫ちゃんの履歴が書かれたカードがついていて、仔猫や成人猫や、雄や雌や、好みに従って、書類を書いて、面接を受けて引き取りの希望を出す。

いちど、日本語ツイッタで、「そういうあなたは犬のほうが人間よりも大事だと思っている人間としか思えませんね」と言われて驚いたことがあったが、なぜ驚愕したかと言えば連合王国人にとっては犬さんのほうが人間よりもマシだ、というのは常識だからで、犬権は人権に勝るなどは当たり前である。
まさか日本では人間のほうが上だということになっているとは思わなかったのでぶっくらこいてしまったのだった。
歴史的にも児童福祉法よりも動物愛護法のほうが成立が先で、人間なんてたいしたことはないのだ、という連合王国人の信念がよく理解されるが、そんなふうに歴史をひっくり返してみなくても、自分というものをよく省みれば、犬さんのほうが人間よりもマシなのは、ほぼ自明である。

タコはノイローゼになるのが、よく知られている。
昭和期のマンガによく笑い話として出てくる「タコが自分の足を食べる」のは事実で、しかし、笑いごとではなくて、水槽に閉じ込められると、タコは容易に統合失調症を起こして自傷行為に走る。

あるいはカラスは、どう見ても大庭亀夫よりは賢くて、電線の上からじっと木の実を見ていて、食べようとして殻が固いと、しばらく頭を傾げて考えているが、車道へコロコロところがして行ったりする。
大庭亀夫が、「わし妹はおにーちゃんはカラスの半分しか知能がないと言っていたが、見てみい、わしよか、やっぱバカだわ」とカラスの無意味な行動を嘲笑っていると、自動車が走行してきて木の実の殻をブチ割ってゆく。
庭のテーブルに座って、スパゲティを食べかけたまま、おもわず衝撃でフォークを取り落とした大庭亀夫のほうに、チラとケーベツの視線を送ると、木の実を悠々と食べ始める。

ま、何事にも得意不得意ということはある、わしは木の実を食べるのは得意でないし、と自分を慰めながら、という表現を自慰しながら、と書くとたいへんなことになるが、そうではなくて自分に慰藉を与えながら、ベッドにもぐりこんで、翌朝、今度は駐車場に並んだクルマのタイヤの前に、群れをなしてドングリを置いている組織化されたカラスの大群を観て、愕然とする。

そおーんなバカなとおもって、おおむかしに書かれた動物学の啓蒙書を読むと、ソロモンのアンクレットとかなんとか、指輪だったかもしれないが、カラスはあまりに知能が高いので本能が退化していて、空を飛ぶことさえ親がレッスン1から始めてコガラスを教育するのだと書いてあって、闇雲にとびたって地面にたたきつけられるような一生を送る人間がたくさんいることを考えて、カラスのほうが頭いいじゃん、と悟って慄然とする。

知能の伝統定義は間違っているのではないか?というのは、動物に親しんで暮らしてきた人間が均しくおもうことで、前にも書いた気がするが、夏の海をカヤックでのおんびりと横切っていると、鰺が一匹カヤックの舳先を飛び越してゆく、
あり?と思っていると、今度は二匹が、前よりも高い弧をを描いて飛び越して行く。
えええ?と思っていると、今度は4匹、5匹というような数で、宙高くジャンプして、あろうことか頭上を越えて行きます。

遊んでいる、というほかに理由は考えられなくて鰺などは発達した脳を持っておらず、日本語では端脳というのだったか、その程度の発達しかしていないので、「遊ぶ」などという高級な知的活動をするわけはないのに、どこからどうみても遊んで楽しんでいる。

このブログのどこかには、猫が、シャワーケースに閉じ込められたもう一匹の猫を救うために、夜中に寝室にあがってきて、ドアを激しくノックして階下のシャワー室に案内したときの話も出てくるが、犬も猫も馬も、みなそれぞれに「知能のありよう」が違うだけで、高知能、低知能というように高低の程度をつけるのは、もしかして、人間の世界認識の根本的な誤解に基づいているのではないか、とおもうことがある。

いつか、暫くクライストチャーチの農場に暫く足を運ばないでいて、ひさしぶりに訪ねていったら、遠い、遙か彼方の地平線から全速力で駈けてくるふたつの小動物の影がある。
あっというまに足下に来ると、喉を、こんなに大きな音が出るのかと驚くような音で鳴らして、盛んにほっぺをジーンズにこすりつけている。
なんだか涙が出て来てしまって、口にだしてはいわないが、ごめんね、ごめんね、と何度も謝ることになってしまった。

すっかり忘れていたんだよ。
人間はバカで冷淡だから、前を向いていると、視野が狭くなって、過去においてきてしまったものや、自分を暖かく取り巻いていてくれていたものを忘れてしまう。
人間の知能の実体は攻撃兵器に特化した装置なのではないか。
ベクトルをもって思考を加速させるのには向いているが、世界を正しく把握するためには向いていないのではないだろうか。

そのときに考えたことが、いわば猫の思想が、いまでも自分を生物としての凋落から救っているのかもしれません。


未来鮨

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AucklandとOaklandの発音はどう違うのか、と聞かれて、困ったことがある。
Oaklandをニュージーランド人が発音したのがAucklandの音だと述べたら、困惑したような、納得しがたいような、曖昧な顔をしていた。

と、ここまで書いただけで、鬼の首を取ったように、というのは表現で、実際は鬼の首をとったらどんな様子になるのか知らないが、ともあれ、大得意で、
ええええー、やっぱりニセガイジン!いま英和辞典をひいたけど、発音記号からもう異なるではないか、そんなことも知らないのに英語人であるわけないじゃん!!
と、いいとしこいて、欣喜雀躍する、いつものおっさんたちの顔が思い浮かぶようだが、同じ音をニュージーランド人が発音しているのとアメリカ人が発音しているのを、聴き取って、発音記号にすると、ああなる、というだけで、その証拠に、
去年はOaklandに行くつもりでAucklandに来てしまったんだけど、どうしましょう、と出頭したアメリカ人の青年が存在した。
(あれは、いったいどうやってセキュリティやパスポートコントロールやゲートの改札を通り抜けることになったのだろう?)

もっと判りやすい例で述べると、Melbourneはメルボルン人と他の英語人では発音が異なって、カタカナで書くとメルボンに近い地元発音に較べて、最も遠い所にある発音であるアメリカ人は、メルボーンと書いてみたくなるような発音で、よく笑い話になる。
もっとも、そういうことで他所様の人間を笑うのは悪趣味なので、マンハッタンの
Houston Streetは、ハウストンでヒューストンではないが、「ヒューストン通りには、どう行けばいいですか?」と聞かれて、ラガーディア空港への道を教えるような意地悪なことをしてはいけない、と釈尊は教えている。

閑話休題。

East Side Sushi
http://www.imdb.com/title/tt2340650/
という二年前に公開された映画を観ていたら、あまりに良い映画なので感動してしまった。
モニとふたりで感動して、感動のドライブがかかった加速的なちからで、立て続けに二回目を観るくらい面白かった。
メキシコ系アメリカ人の若い女の人が、寿司シェフになろうと思い立って、寿司屋という男世界の壁、ガイジンお断りの職業的なゼノフォビアの壁にぶつかりながら、なんとかしてカウンターに立つスシ・シェフの立場に立ちたいと願う。

映画の結末を言うと怒る人がいるので言わないが、アメリカ社会を縁の下で支えているのに存在しないことになっているラティノの社会的地位や、父親と娘がそれぞれダブルジョブで朝4時前から夜遅くまで、フルーツスタンドやスポーツジムの清掃、スーパーマーケットの店員、手洗い洗車、とくたくたになるまで働いても、やっと食べられるかどうかの、文字通りのhand to mouthの生活が語られてゆく。

無名の女優、Diana Elizabeth Torresが演じる、7歳くらいの娘をもつ20代前半のシングルマザー、フアナ(Juana)が、仕事の帰りに通りかかったスシバーのウインドウから、覗き見て、カリフォルニアロール、レーダーロール、色彩豊かな寿司に「ここではないどこか」の世界を見るシーンは、美しくて、映画のなかの寿司の描写では、最も美しいものではないだろうか。

求人の張り紙をみて、店内に入ってゆくと、そこにはユタカ・タケウチが演じる花板のアキが立っていて、
寿司屋の例の挨拶、「へい、らっしゃい!」と述べる。
このアキとフアナの交感の素晴らしさは、世界では悪評が定着した若い日本の男の人の美質と、風変わりだが真情にあふれた日本人の真心をうまく表現している。
これ以上物語の内容を暴露してしまうわけにはいかないだろうが、
この映画の寿司職人アキは、ここ数年の映画で描かれた日本人像のなかでは、現実感もあって、最も素晴らしい日本人像であると思われる。
少なくとも、英語人にとって、「ああ、日本人て、こんなふうに素晴らしいのだな」と理解しやすい人物像になっている。
しかもユタカ・タケウチはクリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」でもそうだったが、好演で、演技力がある巧みな役者で、映画全体がこのひとによってしっかりとまとまったものになっている。
ついでに、もうひとつ余計なことを述べると途中で日系のマネージャーが「vinegared rice」と述べたのを英語が母語である主人公が「very good rice」と受け取ってしまって、周りの英語が母語の日系や中国系人たちが大笑いして、結果として主人公がマネージャーに恥をかかせてしまうところが出てくるが、「何をはっきり言わないと伝わらないか」という日本の人が失念しやすい英語習得上の問題がよく出ていて、細部ながら、面白いと感じた。

ちょうど、East Side Sushiのことをツイッタに書いて、「みんな観るべ」と述べていたら、タイミングがいいというか悪いというか、大阪のある鮨店で韓国人や中国人、外国人と見るとワサビをてんこ盛りにしたりして嫌がらせをするという鮨屋が、バズって、おおきく話題になっていた。

東京にいるあいだ、決まった鮨屋にしか行かなかったのは、ひとつには鮨屋の「ガイジン嫌い大将」にまつわるホラーストーリーが外国人のあいだでは、もっともらしく、たくさん語られていたからで、銀座の一流鮨店のようなところは、経験上、鮨好きオカネモチ外国人の客としての質の高さが知れ渡っているので、もう偏見はなかったが、新潟や富山のようなところでは、外国人と見ると意地悪をする鮨屋の話をよく聞いたものだった。
韓国や中国からの観光客に対しては明かな侮蔑に基づいた意地悪で、聴いていると、次元が異なるものだったが、欧州系人に対しても依怙地な人は依怙地で、
「ガイジンに鮨なんて、わかるわけねーよ」とあけすけに常連客と立板や椀方と話す大将は、ぼくも遭遇したことがある。

映画のなかでも、興味深げに、オーナーには内緒で立ち場に立って鮨をにぎるフアナを眺めていた初老の白人の客が、遅れてやってきたオーナーに「新しいスシシェフには驚いた」と嫌味を述べるところがある。
「新しいスシシェフ?」と訝るオーナーに、
「若い女のシェフのことさ」と告げて、「この店のauthenticityがみんな好きなのだからね」と言う。

「鮨屋の職人は日本人でなければ」は、日本の人だけが持つ偏見ではなくて、白人客も黒人客も持っている。
フアナがアキを説得しようとして、「メキシコ料理屋に入って、見渡すかぎりぜええーんぶアジア人のシェフと店の人だったら、わたしだって考えてしまうけど」
と述べるシーンがある。
「でも、みーんなメキシコ人で、たったひとりだけアジア人だったら、まあ入ってもいいか、とわたしならおもうわ」という。

この鮨店のメニューは土台が伝統的なにぎりや巻物で出来ているが、黒板には、ハラペーニョで巻いた寿司や、さまざまなコンテンポラリー寿司が並んでいて、特に説明されなくても、寿司が土地土地になじんで、ゆっくり、でも確実に日本のものから世界の料理に変わってゆく様子が判る。

ラーメンが寿司とは異なってauthenticityの問題なしに、すんなり世界中で流行したのは、多分、長い伝統がない料理だからで、ラーメン屋で日本人が職人でないから嫌だと駄々をこねる人は少ないような気がする。
オークランドのノースショアに新しく出来た麺屋はおいしいんだぜ、と中国系の友達がいうので、でかけてみたら、たしかにおいしかったが、西安・四川系とおぼしき麺がずらっと並ぶメニューは全部、なんとかラーメンとしるされていて、坦々麺まで坦々ラーメンで、おー、中国の人のあいだでもラーメン流行っているんだなーと考えたが、自然に興味の中心はauthenticityより供される麺とスープそのものにあった。

それが同じ麺でも、蕎麦になると、やや微妙で、少し鮨に似た複雑を帯びてくる。

そうやって鮨と国際化のことを考えていると、なんだか鮨は日本文明そのものに似ていて、排他性や過剰な厳格さ、暗黙のうちに了解されているコードに満ちた世界で、文明の普遍化といっても、その過程で個性を失ってしまうものもあれば、うまく個性を生き延びさせて、海苔がハラペーニョに変わり、トロの代わりにアボカドが巻かれる、というふうにうまく本質を保ちながら普遍化して受容されるものもあって、失敗しつつあるほうの例を挙げれば、アニメが代表になるだろう。

バルセロナのタイ料理店は、たいていフィリピン人たちの職場で、日本のインド料理店のシェフは圧倒的にネパール人が多い。
アジア人の観光客が多いピカデリーサーカスあたりの伝統的で格式のあるパブは、だいたいニュージーランド人かオーストラリア人がマネージャーで、制服を着て恭しくテーブルに銀のトレイを運んでくるのはチェコやポーランドのひとびとです。

ニューヨークやロスアンジェルスのauthenticityが売り物の鮨屋でも、椀方や煮方以下は韓国や中国の人が立っていて、見た目は伝統的だが、中身はどんどん国際化している。

そうこうして、偏見と呼んでもいいし、店と客の双方の偏狭さと言ってもかまわないが、なんだか姑息な外見だけのつじつまあわせをしているうちに、
「でも、たくさんのメキシコ人のうち、たったひとりだけアジア人なら、メキシコ人のわたしでも食べてもいいかな、と考える」というようなことをとばぐちにして、いろいろな肌の色の、さまざまなバックグラウンドをもつ「板さん」たちが、カウンター越しに、英語やスペイン語で冗談を述べて笑い合いながら楽しい夕食のときを過ごす、「黄金の未来」がやってくるのでしょう。

そのとき、目の前の鮨板には、伝統的な握りと並んで、どんなコンテンポラリー鮨が並んでいるだろう、と考える。

ハラペーニョ、照り焼きチキン、ビーフ、オクラやインド風に調理したナスもおいしそうです。

一足飛びに、誰か、「未来鮨」やらないかな。
そしたら、どんなに遠くでも、飛行機に乗って行くんだけど

へい、らっしゃい!


二重国籍と日本の未来

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蓮舫議員に続いて小野田紀美議員が「二重国籍じゃないか!」で話題になっている。
もっとも日本のニュースは、最近は、インターネットで、しかも、ちらっと観るくらいしか観なくなってしまったので、ほんとうは話題になっていないのかも知れないが、ニュースサイトとツイッタで話題になっているのを目撃した。
日本にいたとき、両親のどちらかが日本人の友達たちがよく話題にしていたのを思い出して、このブログでも日本の単国籍主義は何年も前から書いている。
日本の社会という観点に立つと最大の問題は例えば日本語と英語を母語にしている、日本にとっては最も必要とされている人間が22歳になると日本国籍を捨てなければならなくなることで、日本語ツイッタを眺めていると、「言わなければバレないからいいのでは」という在外日本人がたくさんいて、その、不正でも見咎められなければ良いじゃんがいかにも日本人らしくて笑ってしまったが、日本に生まれて二重国籍になった若い人は、遙かにマジメで、というのはつまり西洋的な考えかたで、ダメなものはダメと考えて、父親の国籍を採るか母親の国籍を採るかで懸命に考えて、ぼくのまわりの例では全員が日本国籍を捨てることになった。

観ていて、なにも社会の立場に立って考える事はないが、日本社会の立場に立てば、なんというもったいないことをするのだろう、と思う。
個人の視点からは、日本国籍はあってもなくても同じか、いまの戦争好きな社会の形勢を考えれば返って日本国籍をrenounceしたほうが良いくらいだと思われるが、日本にとっては致命的といいたいくらいの損失であるとおもう。

言うと失礼だから言わないできたが、日本の人の英語能力は飛び抜けて低い。
例えば配偶者が英語人で、20年以上アメリカで暮らしているというような人でも、話してみると、単語を拾ってつなぎ合わせているだけで、意味と感情の背骨が通った文章として話したり聞いたりしているわけではない。
「意味が判っている」だけであるらしい。
内輪では「日本人は、他人の話を聞かない」とよく言うが、あれは英語人が信じているように傲慢と自我肥大で他人の話に耳を傾けないのではなくて、言語的に話がちゃんと頭に入っていっていないのではないかと、最近はおもっている。

まして、日本の学校でいくら英語教育が改革されて「国民の英語力の平均が12ポイント向上しました」ということになっても、個々の日本人はそれでハッピーだが、日本社会にとっては「平均より上の英語力」などは何の役にも立たない。
日本社会の国際社会での孤立ぶりは年々ひどくなっているが、それも英語のエキスパートが育たないからで、外交官ですら「なんじゃ、こりゃ」な英語で、しかも、その英語スキルの乏しさを隠すためだと推測するが、態度が傲岸で、観ていて、こちらがそわそわした気持になる人が多い。

日本の社会に最も必要な存在のひとつが、この母語並に英語が出来る人で、通常の言語世界には、少数の言語的天才と国際結婚の両親から生まれた二重母語人と子供のときに他国で育って両親から日本語を受け継いだ日系イギリス人というような組み合わせが、他言語へのインターフェースとして存在するが、日本社会は、この部分が完全に欠落している。

二重国籍を許可しないことは、他所の国の人間から観れば、バカバカしいだけのことで、やっぱり日本はヘンな国だね、という冗談のタネにしかならないが、当の日本の立場に立つと、ぞっとするような損失であるとおもう。

小野田紀美議員のケースは、記事をためつすがめつ読んでみると、現実にはアメリカ政府の側からしか問題が感じられなくて、アメリカ合衆国にはアメリカの国籍を持っている人間に対しては世界のどこに住んでいても課税する権利を留保するという、世界に稀な、ほとんどデッタラメな法律があって、小野田紀美議員は議員である以上収入があるはずで、その収入にみあった所得税を払ってきたのだろうか、という問題があるが、それをわざわざ日本の側で暴いてみせるところが日本という国のナイーブさでなくもない。
アメリカ側から見れば、一国の立法者が堂々とアメリカの法律を踏み倒して税金の支払いを無視していることは、たいへんな問題であるはずで、このひとは自民党の議員なので、見て見ぬふりをしてすませてしまうだろうが、本来ならば見せしめに追徴金も含めて課税したいところだろう。

蓮舫議員に続いて、小野田議員、どこからどう観ても日系アメリカ人にしかすぎないアメリカのノーベル賞受賞者を日本人の受賞だと言い張るいかにも日本らしい騒ぎを通じて、しかし、二重国籍が話題になることはよいことであると思う。
いままで、たとえばAFWJというような組織は、署名を集めて、何度も陳情を繰り返してきたが、そのたびににべもない返事で、社会の側も冷淡だった。
日本の社会特有の、おかしいことでも自分の利害に直截関係しないかぎり「おかしいのではないか」と抗議の声をあげない通癖のあらわれで、日本の社会について知識があれば特に驚くほどのことではないが、現実には日本社会の孤立化という形で、外国人の両親たちの涙に冷淡で来たことが個々の日本人の利益を失わせる結果にもなっている。

いつか、「鏡よ、鏡」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/mirrorx2/
というブログ記事を書いたときに挙げた日本のベストセラーの題名を肴に、連合王国から遙々訪ねてきた友達と冗談をのべあって大笑いしたことがあったが、日本は、自惚れ鏡に見入ることによって、現実の国際社会からは退場してしまっている。
残っているのは企業だけで、よく観ると、日本から企業を差し引くと何も残らない。
トヨタのやりかたは感心しないが、会社としては国際水準の強さで、目を凝らして見ると、ハイブリッドという過渡的な技術に力を割きすぎて、やや小手先の技術の洗練に注力しすぎるのが不満だが、タカタエアバッグへの対応をみても、ケイレツ主義の不健全な経営に反して見事なくらいの健全さも残している。
自動車会社という業界は、どこの国でも汚いことばかりの感心できない業界なので、比較のうえでは、十分、日本が潰れてもやっていけそうに見える。
ニュージーランドやオーストラリアでいえば、日本のビール会社がオーストラリアやニュージーランドのビール会社の系列化を進めていて、そのせいでスーパーマーケットの棚に、日本にいたときに好きだったヱビスビールやサッポロが並ぶようになって、しめしめと思っている。
経営がぐらぐらしていたビンヤードは中国の会社がほぼ買い占めて、ビールは日本で、他人のカネで飲むワインやビールほどおいしいものはない。

むかしの日本企業は、本社からやってきた駐在社員が威張っていて、閉じた日本社会を形成して、マンハッタン、ミッドタウンの日本風に「うまみ」がある麻婆豆腐のレストランに行くと、駐在妻集団とおぼしき人々がたくさんいて、ボス妻らしい人が笑うと、一瞬、一秒の半分くらい「これは冷笑か単純な笑いか」と顔色をうかがう「間(ま)」があって、それからいっせいに取り巻き妻たちが笑い出すという光景が毎日のように繰り広げられていて、たいして食べたくもない麻婆豆腐を、その光景が見たさに何度か通ったことがあった。

いまは、伝え聞くところでは、かなり現地主義になって、トヨタのAurionはオーストラリアトヨタのデザインで生産もオーストラリアから始まった。
あるいはコンピュータ店でクルマの話をしていたら、タイ系のニュージーランド人の店員が「Camryって、あるでしょう?あれは、ぼくの父親の命名で、My carのアナグラムなんです」と言うので、みなで、おおおおー、と盛り上がったことがある。

だが日本の社会のなかに日本語を伝って入っていくと、びっくりするような閉鎖性で、まるで鎧戸を閉じきったイタリアの田舎の農家のなかのように、薄暗いのを通り越して、真っ暗です。

風通しが悪い、空気が淀んだ部屋には、暗がりのなかでひょろひょろと丈だけが伸びたモヤシのような屁理屈が立ち並んでいて、およそ現実に対して実効性のない議論が声高に語られている。
憲法なんて、あったってインチキなんだから無視すればいいじゃん、と首相が述べれば、放射能は安全だ、危険かもしれないなんていうやつは素人だと傲岸に述べている「玄人」の学者がいて、専門をみると、ぜんぜん放射線まわりとはおかど違いの領域の研究者であったりする。

自分がいかに英語が達者であるか日本語で誇り続けるマンガ的なひとびともたくさんいて、ああいうことは、たいしたことでなくて本人のバカッぷりを余す所なく見せ付けているだけだとも言えるが、いまの日本社会の閉鎖性、その閉鎖された社会で起きていることのくだらなさを象徴しているようで、観ているほうが恥ずかしいような気持になってくる。

そうこうしているうちに、日本で起きていることがだんだん他国にも知れ渡って、こういう「他国で起きていること」が世界の人間の常識に組み込まれていくのには、だいたい20年くらいかかるというが、それよりも少し早く伝播して、観ているとここ2,3年で急速に日本社会が平和主義から好戦的な伝統に帰ったこと、ハイテク社会が終わりを告げて完全にITから取り残されたこと、豊かだった社会が貧困の奈落に堕ちていきつつあること、国全体がまるごと人種差別的な国と化して韓国人と中国人が特に標的とされていること、が「常識」として共有されだしている。
特にアジアの若い人のなかには、日本全体を憎悪と軽蔑の気持で観るひとが増えてきているように感じられる。

こういう言わば文化のインフラとでも呼びたくなるようなことは、ゆっくりだが確実に一国の足下を掘り崩して、それが表面化する頃になると、その国にとって取り返しがつかないダメージになることには、たいした想像力はいらない。
戦前の日本が良い例で、日露戦争後、おかしなことをやり続けて、30年代になると日本語人が述べることを信用する人間は世界に誰もいなかった。
そのころも、いまとおなじで、第一、外交官が英語もフランス語もろくに話せないので、日米交渉にあたった人のメモワールやインタビューには「日本人の英語の不快さ」について触れたものが多くあって、アメリカ上流階級のアクセントで話した蒋介石夫人の宋美齢の、アメリカ人をほとんどうっとりさせた日本弾劾の演説の見事さと並べてみると、なんだか戦争を始める前に日本の破滅が予定されていた事情が納得される。

日本語インターネット友達のオダキンに呆れられてしまったが、例のニセガイジン騒動の頃、日本のおっちゃんたちの集団を組んでの個人攻撃と中傷の規模の大きさと執拗さを目撃した頃から、とっくの昔に日本の将来はダメだな、こりゃ、と思っていて、その頃から日本社会を批判するようなことは、めんどくさいからやめてしまった。
それでも、うっかりほんとうのことを述べて、いっぱいヘンな人が来ることはいまでもあるが、日本語に興味はあっても日本の社会には興味がないので、
また来たのか、よく飽きないね、くらいにしか感じられない。
そんな冷たい、というかもしれないが、あの後、危惧されたとおり(と言っても、ぼくはもんじゅのほうが爆発すると思っていたが)福島事故が起きて、放射能が俄に安全なことになり、アベノミクスなんてダメに決まってる、新しい産業を興さないで金融政策だけで経済がよくなるなんてタワゴトにしか過ぎないと述べて、また「経済の専門家」と言うひとびとに冷笑され、と延々と続いたので、日本社会で付和雷同以外の意見を述べることの不毛を学習しただけだと思われる。
オダキンたちが希望を持つのはあきらかに良い事だが、問題が山積されているのに、まず問題が存在することを認めるところで社会の全力を使い果たしてしまうような、いまの日本社会では、奈落へのヘルタースケルターを滑り落ちてゆくほかに未来があるとは思わない。
ものの考え方が軍隊なみで、途方もなく反知性的なのだから、手の施しようがない。

最近は日本の政府が発表する諸統計に疑義があがっている。
昨日も防衛大臣が「白紙領収書には何ら問題はない」と言い切っていて、最近の「権力がある人間が言ったことが事実になる」日本の腐敗を端的に表していたが、
首相が成功だと言っているのだからアベノミクスが成功であったり、日本は経済が回復して豊かになったと政府が言っているから日本の経済はすでに(十分ではないが)恢復したのだという「事実」をいくらつみかさねても、言葉だけで出来たケーキを食べるわけにはいかないだろう。

若い友達たちで、(もう数は少ないが)日本にまだ残っているひとびとに日本に生まれたことの解決策をよく訊かれて、その都度、日本に残るばあいと日本を離れるばあいに分けて考えたことを述べてきたが、日本に残る選択肢は消滅したと考えた方が良い。
国である以上、いつかは恢復する(多分)はずだが、それはどんなに早くても、いまの、国をくいつぶすためだけに存在しているような年長世代が退場してから20年はかかるはずで早くても2050年くらいまで日本の低迷は続くことになる。
以前に述べたように2050年は世界全体にとって、生き延びるか否かの、ふざけて言えば「勝負の年」で、政府が機能するのが難しいアフリカ諸国の人口爆発から弾けて世界に飛び散る巨大な流浪の人口を、養っていけるかどうか、人類の全知全能が試される年であるはずです。

タイミングが悪すぎるが、日本という国は妙に運がいいところがあるので、いまの時点では見えない核戦争なりなんなりのブラックスワンで、また意外な役を割り当てられるのかも知れない。

そうであっても、日本が恢復する頃には、とっくの昔に老人で、国と社会のせいですりつぶされるような一生を送りたくなければ、年々門戸がせばまっている移住のドアから滑り込んで、後々、自分自身といういちばんの友達に泣いてわびなくてすむように、乾坤一擲、ここで跳ばなければならないのは、ほぼ自明になっているとおもいます。



日本の凋落_1_貧しい繁栄

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日本人から見て、20世紀の世界と21世紀の最もおおきな本質的な違いは、21世紀が「日本が要らない世界」になったことではないだろうか。
国際共産主義とドミノ理論にパラノイアを起こしたアメリカ合衆国が戦後、防壁たる日本に過剰投資を行ったことと、その過剰投資を、アメリカの意向どおりにばらまかずに、重点をおく業界に傾斜させたネオ国家社会主義経済政策で、造船、炭鉱、から自動車・VTRへと資本を集中させたMITIの政策があたって、日本は短期間に巨大な経済を築いた。
いまでいえばシンガポールが大国規模で出現したようなもので、日本のような自由主義の看板を掲げた全体主義社会におおきな顔をされては困ると思ったものの、これに衰退されると世界中大混乱に陥るので、オカネの環の一角には加わっておいてもらうが、国際社会には存在していないことにする、という曲芸のようなことをやって自由世界は日本の存在に適応してきた。

その、「どうしようもなく強い日本」がコケ始めたのが1990年代で、それから4分の1世紀のあいだ単調に衰退して、いまでは、まだ中国の3分の1超のGDPはあるものの、ゆっくりとなら経済的に破綻しても、なんとか世界として日本の破綻を消化できるところまで来た。
経済指導者たちからすると、ひと安心、なのであると思います。

日本が衰退しはじめた根本の原因は、繁栄しても少しも個々の人間の生活がよくならなかったからで、異様な物語である「三丁目の夕日」を観て判るのは、日本人がなつかしんでいるのは日々成長するビンボ時代であった50年代から70年代で、そのあとに現実に達成された経済的な繁栄は索漠としたものと感じられている。

80年代後半の日本を眺めると、一般の、たとえば東京に住む日本人にとっては、家と呼ぶのがためらわれるような一戸建ての家を買うのに30年というローンを組まねばならず、家賃は上昇し、労働時間は長くなっていった。
地上げを拒んでいることで噂になっていた近所の長屋には、やくざがクレーン車でつっこんで物理的に破壊したという記事が朝刊に載っている。
大企業に勤めている人間には、マスメディアには載らない情報として、何千億円というオカネが簿外で銀行から暴力団に無担保融資されていることを同僚から耳打ちされる。

それまでは暴力団のほうから人目を避けて首相に会いに行っていたのが、立場が逆転して首相のほうから腰を低くして暴力団の組長のほうに会いに行くようになったと初めに証言された中曽根首相の在職は1982年から1987年です。
この頃から政府の行政指導は滅茶苦茶になっていって、使い途がない通信施設を強制的に公社に納入を迫ったり、当時公務員だったひとびとの話を聞くと、リクルート事件などは小さく見えてしまうような腐敗ぶりで、つまりは、チャンスさえあれば利権を手に入れて札束を自分のポケットにねじこむ人々が雲霞のようにあらわれて、それぞれに表沙汰には出来ない財産を築いていった。

飼い慣らされて忠実な犬然としたマスメディアの蓋で、うまく覆い隠されていた日本国内と異なって、海外からは、かえって、こういう日本の事情はよく見えていたので、例えばオーストラリアのゴールドコーストには日本においておくと持ち主の手首に手錠がかかるか税務署によって莫大な追徴金が掛けられる運命のオカネが大量に流入して、日本の後ろ暗いオカネがどんどんリゾートマンションを一棟買いしていったことが、いまだに話のタネになっている。
オーストラリアの隣の小国ニュージーランドでも、いまだによく話題になって、当時は租税条約が結ばれていなかった日本から、明らかに賄賂や脱税と判る巨額の資金が流入しつづけていた。
クライストチャーチにはフェンダルトンという高級住宅地があるが、当時の日本人の豪邸を買い漁るーーいまの日本で流行している言い方をまねればーー「爆買い」ぶりは、ただでもひがみやすい地元人の神経をさかなでして、特に日本人が集中して住んでいたエーボンヘッドを、おとなたちがジャポンヘッドというカタカナでは伝わりにくい憎悪と軽蔑がこもった言葉で呼んでいたのを、いまだにおぼえている。
通常は日本に住んでいる買い主が、息子や娘を留学させて、好奇心に駆られたひとびとが「おとうさんやおかあさんは、どんな職業の人なの?」と聞いてみると「公務員」と答えられたりして、フェンダルトン人は日本では公務員は医師を遙かに上廻る高給なのだと長い間誤解していたという笑い話まである。

そうやって、全体主義的な傾斜投資によって生まれた巨大な冨は、本来は賃金の上昇という形で分配されなければならなかったが、日本の経営者は、会社の社員のモラルや忠誠心の問題と上手にすりかえていって、文化の強制力で労働賃金を安く抑えることに成功してゆく。
当時の雑誌や新聞を読むと面白いのは、そのやりかたの「絶妙」と呼びたくなる巧妙さで、たとえば、その頃はいまと異なって圧倒的な人気があったらしい野球に絡めて、優勝チーム監督の選手管理の巧さを、なぜかビジネス誌が取り上げている。
広岡達郎というような名前があがって、個性的な田淵のような選手はダメだ、江夏は個人主義的にふるまいすぎた阪神ではダメな投手だったが、西武に入って全体に貢献するということを理解してから本物の野球選手になった、と言わせたりして、社会全体が全体主義を維持するためのメタファーのなかに、どっぷり漬け込まれてゆく。

あるいは渡辺美智雄の、伝え聞いたアフリカンアメリカンを激怒させた
「日本人は破産というと夜逃げとか一家心中とか、重大と考えるがクレジットカードが盛んなむこうの連中は黒人だとかいっぱいいて、『うちはもう破産だ。明日から何も払わなくていい』それだけなんだ。ケロケロケロ、アッケラカーのカーだよ」
発言が典型だが、人種的優越意識をからめて、日本の全体主義的な社会維持こそが正しいのだ、と強調することをおこたらなかった。

日本指導層の冨を賃金労働者にまわさず、その結果、労働コストを低く抑えて、しかも会社への帰属心をテコに労働時間を際限なく延長させていって、競争力を増大させるという方針は巧くいった。
なにしろ「自分の個人としての人生はなくてもいい」と決心しているかのように、長大な時間を労働して有給休暇すら取らない、祖国愛に燃えた忠実な兵士のような労働力を大量にもっていたので、日本経済は恐れるものをなにももたなかった。
フランス首相のÉdith Cressonなどは、労働者も自分の幸福を夢見る一個の人間であるという当然の認識をもたない日本社会にいらだって
「日本人は兎小屋のようなアパートに住み、2時間もかけて通勤し高い物価に耐える蟻のような生活をしている」「日本人はfourmis jaunesだ」
と公式の場(!)で散々発言して、日本語マスメディアで伝え聞いた日本人たちが憤激して東京のフランス大使館に押し寄せたりしたが、フランス人らしく口汚く罵る性癖のあるÉdith Cressonが目立っただけのことで、アメリカ人も、イギリス人も、オーストラリア人も、ニュージーランド人も、口にしないだけで、内心では日本人支配層の不公正さを呪い、日本人企業戦士たちのナイーブな愚かさを呪詛していたのは想像しなくてもすぐに判る。

目先数年、という範囲では小気味良いほど巧くいくが、数十年というスパンで見直して考えてみると本質的なダメージを社会に与える方策をおもいつくことに長けているのは、もしかすると日本文明の本質なのかもしれない。

一見、うまくいった支配層の方針は、個々の国民が子供をつくりたがらなくなる、という予想外の結果を社会にもたらした。
税金の徴収についても国民をうまく騙して、日本に住む外国人たちが「ステルス税」と呼んで笑っていた、税金と名前のつかない税金たち、年金の積立金、高速料金、…しかも、手をかけてわざわざ複雑な体系にして、目を凝らすと、税理士を雇う支配層ならば、たくさんの租税回避の抜け穴のある膨大な金額の(広義の)税金を納めて、可処分所得が途方もなく小さい上に、GDPの成長にまったく見合わない低賃金で、生活の質そのものは中進国のレベルにピンで貼り付けられていた賃金労働者たちは、子供をつくることを拒否しはじめただけでなく、やる気そのものを失っていった。

さらにおおきな問題は、やはり企業にとって労働コストを低く抑えるために、社会全体として無賃金残業を際限なく増やしていったが、それを支えるためには専業主婦の奴隷に似た、というよりも愛情という糖衣を省いてしまえば奴隷そのものの家庭内での献身に全面的に依存して、男の配偶者が家事を何もしない文化を社会を挙げて育てていたので、女の日本人たちが社会そのものに対して不信を起こすという異様な事態にまで発展していった。

ニュージーランドは、ながいあいだビンボな国で、自他ともに認める「世界いちビンボな英語国」で、そのことに倒錯した誇りをもってさえいた。
どのくらいビンボだったかというと、オタゴあたりに行くと、特に貧困家庭出身ではないのに、「子供のときは家にオカネがなかったので、段ボールで靴をつくって学校へ通っていた」と屈託なく笑う70代の人がいくらでもいる。
ちょっとビンボなほうになると、英語では食事をteaとも呼ぶことを前にも書いたおぼえがあるが、文字通りで、一杯の紅茶とビスケットだけの食事も普通だった。

ところが、21世紀になる頃から風向きが変わって、社会にオカネが流入してくる。
繁栄に向かう社会の一例としてあげようとしているわけだが、そうすると、どんなことが起きるかというと、「目に見えて社会がどんどんよくなる」のが普通の国で起こることで、ニュージーランドも例外でなくて、図書館の本棚には目立って新しい本が増え、1日$1で借りられるDVDには最新作が並ぶようになり、コンサートホールが建設されると、欧州やアメリカ、インド、オーストラリアからモダンダンスカンパニーやオペラ、シェークスピアのカンパニーが呼ばれて、町が綺麗になりはじめ、通りを歩くひとびとの身なりがあっというまに良くなっていく。
食材に広がりが出来て、外食する食べ物すらどんどんおいしくなってゆく。
特にニュージーランドに限らず、本来は、賃金の上昇を柱に、税率がさがり、個々人の生活が豊かなものになってゆくはずで、日本の衰退の最大の原因は、それがなぜか起こらずに、「社会は繁栄しているのに個々の人間の生活は良くなるどころか相対的に貧しい労働時間の長い生活になっていった」ことにあるように見えます。
日本文化からムダは多かったが闊達なところがあった「無責任男」に象徴されるような文化が失われ、初めは「常勝監督川上哲治の巨人軍流管理術」のようなものから始まったようにみえる「管理」をキーワードにした支配層の締め付けで、それがやがて極端化して社会全体の軍隊化を引き起こして、組織が軍隊化すれば必ず症状として表れる組織の硬直化、いじめ、頑として新しいものを拒む社会が現出する。
その結果は、やはり社会全体が完全に軍隊化していた1930年代から1945年に至る日本社会とおなじことで、世にも無能な純粋培養秀才の将校=幹部が、自分では優秀だと思い込んでいる愚かな教科書訓詁的な頭脳から現実と事情があわない観念的な施策を垂れ続けて、それを、さらにもう一段愚かなイアーゴーたちが岡っ引きよろしく虎威を借りてしらみつぶしに個人のプライドを奪って社会を解体に導いてゆく。

日本の経済的な失敗と暗い未来への予測は、具体的には、例の傾斜投資方式がコンピュータ時代への転換期にあたってはミニコンすら許容しない大型電算機1本にしぼって、パーソナルコンピュータを役にも立たないオモチャと冷笑した当時の研究者と政府の役人に原因が帰せられるが、考えてみるとそれは表層の契機にしかすぎなくて、やはり全体主義社会の発展は構成員個人の幸福を達成できないというその一点において、最期には崩壊の運命にあるという物語の、もうひとつの例証であるだけのことかもしれません。
理屈のうえでは、そうやって、歴史のなかで何度も繰り返されてきた全体主義の宿命的な帰結であっても、いま現にこの世界を生きている日本人ひとりひとりにとっては、なんとしてでも、おおいそぎで全体の側から個人の側へ視点をとりもどして、「自分を幸福にしないことはやらないほうがいいのではないか」という所から考え直していかないと、25年続いた衰退が、もう25年続き、50年続いて、結局は逃げ遅れた乗客をのせた老朽船のように歴史の海底へ藻屑となる運命にあるのかもしれません。


シン・ゴジラ

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映画「硫黄島からの手紙」はメルボルンで観た。
ちょうど封切りの時期にメルボルンにいたからで、たしかサウスランドのWestfieldのなかのシネマで観たのだったと思う。
いくつかの映画館の集まりでもいちばん小さなシアターが割り当てられていて、
80席くらいの館内に、30人程度の観客で、あとでアカデミー賞を取ったとおりで、試写の段階から評判が高い映画の封切り日なのに、たったこれだけしか観客がいないのか、と驚いた。

映画が始まって、暫くすると、30分も経たないうちに若いカップルが席を立って帰ってしまった。
しばらく時間が経つと、またカップルが席を立っていって、映画はどうみても良い出来なのに、なぜなのか理由が判らなくてこまった。

シン・ゴジラは英語圏のシネマで日本語映画を観る二回目で、初め大々的に打ち上げてロードショーをするという触れ込みだったのが、試写の反応とレビューが予想外に悪かったので公開中止で、観たい人はDVD買ってみてね、ということになって、それが三日間だけ公開に二転して、小さな特別映写場で何日か公開することに三転した。
外国映画、特にアジア系の映画ではよくあることで、「風立ちぬ」は、宣伝は大々的だったのが、「訳のわからない失敗作」というレビューが立て続けに出たあと、
ニュージーランドでは公開中止になって終わった。
オーストラリアでは、やったのかどうか、訊いてみないので知らない。

やむをえないので日本からブルーレイを取り寄せて観たが、とても面白くて、結論は映画批評家たちには1945年に終わった日本との戦争に知識がなくて、零戦といっても名前を聞いたことがあって、ニュージーランド人ならば、ああ、博物館に実機がおいてあったな、と考えるくらいのことで、背景知識がゼロなので、「訳がわからない」というレビューになったのだろうと想像しました。

日本の人がシン・ゴジラを観に行った感想を観ていると、皆が皆「名作だ!」と感動していて、期待ができそうにおもえた。

シネマに着けばやることはいつも同じで、席を指定して、券を買うと、シネマのなかのバーに行ってワインとチーズを注文する。
お腹が空いていればピザを食べたりもするが、たいていは、ワイン、たいていはピノノアールを選んで、バーのカウチにモニとふたりで肩を並べて座って、ワインを飲んでミニ・おデートをする。

だいたいいつも15分プロモーションがあるのは判っているので、15分経ってから館内に入ればよさそうなものだが、案外と新作のトレーラーは観ていて面白いので、モニとわしはたいてい定刻に席につきます。
テーブルがあってウエイトレスが指定した時間に食べ物や飲み物のお代わりを持ってきてくれるプレミアムシートのときもあるが、仰々しいので、ふつうのシートに座ることもある。
シン・ゴジラは、シネマコンプレックスのなかでも、「こんなに小さなシアターもあったのか」と、ぶっくらこくような小さな部屋で、50席程度で、いちばん後ろの席でもスクリーンが近すぎてくたびれる。

半分くらい埋まった席に座っているのは、あきらかなゴジラファンで、日本人らしい人はいなかった。
ひとりだけ欧州系の男の人と一緒に来ているアジア系の女の人がいたが、中国の人であるようでした。

映画は、ゴジラ映画ではなかったのが、最もがっかりした点でした。
ちょうど、1998年版のハリウッドゴジラとおなじで、わしのような筋金入りのゴジラファンがなじんだフランチャイズムービーとしての「ゴジラ」の文脈はいっさい無視されていて、画面にゴジラが出てくるだけのことで、庵野監督という人が日本に向かって言いたいことが詰め込まれた映画に見えました。
早口でまくし立てられる、なんだか高校生がつくった映画みたいな科白まわしは、英語の字幕では大幅に内容が削られていて、日本語が理解できなければ、ふつうに感じられるが、なまじ日本語が判る人にとっては、それだけで興ざめになる体のものだった。

ゴジラファンは、よく「ゴジラに対する敬意を欠いたゴジラ映画」という言葉を使う。
北村龍平のゴジラFINAL WARSがその典型で、ゴジラはいかにも自分が撮りたい映画を撮るためのダシで、撮っている人がゴジラという存在にたいした興味をもっていないのが手に取るようにわかってしまう。

そこまで酷くはないが庵野秀明という人は、自己主張が強い人なのでしょう、ゴジラは別にゴジラと呼ばれなくてもよい、この人が独自に創造した存在で、1954年以来、延々と9割の駄作とひとにぎりの傑作で、ファンを楽しませてきたゴジラは何の関係もないキャラクタにしか見えなかった。

観ていて、かなり初めのうちから感じられたのは、そもそも庵野監督が日本国内だけを対象に映画をつくったらしいことで、日本の人にしか理解できないリアリティの表現や再現、長谷の鎌倉近代美術館の交差点から、斜向かいのいわし割烹店を見上げたアングルの楽しさまで、いかにも日本人限定で、英語人が観る前提に立っていないのがあきらかだった。

それが決定的に表明されるのが三世代目の日系アメリカ人ということになっている石原さとみが登場する場面で、口を開いて英語を発音し始めた途端、場内には(悪意ではない)笑い声が起きていた。
もんのすごい日本語訛り英語だったからで、これは庵野監督の「英語人たちよ、いいかね、これは日本人がつくった日本人向けの、日本人以外には判らない映画なのだからね」というメッセージだったのではなかろーか。

いくつかの英語の映画評論家による映画評は、この映画をゴジラをネタにしたジョーク映画だとして扱っていて、日本の人の至極真剣な「名画だ」という受け止め方と平仄があわないので、???と思っていたが、その謎は、石原さとみの登場によって解けてしまった。
わし自身も、あえて石原さとみに配役したことには庵野監督の「日本人以外には判らなくてもいい」という決心があったのだと思っています。

最後まで観ないで、席を立つ人が何人かいて、斜め前のおっちゃんは、途中から鼾をかいて眠って奥さんらしい人にどつかれていた。
退屈な映画が上映されているときの、いつもの光景で、モニとふたりでクスクス笑いながら、おっちゃんの寝顔を観たりして、それでも後半には見所がいくつかあった。

ごくわずかしかないゴジラの破壊シーンの美しさは、シリーズでも一二を争う出来で、特に赤坂見附に立って銀座の服部時計店を薙ぎ倒す前後の破壊のすさまじさと美は、庵野秀明の底の深い才能を感じさせた。

印象に残った、もうひとつのシーンは、無能だと自他共に認めているらしいピンチヒッターの韜晦首相が、ひとしきり報告を聞いて、ことなかれ主義的な指図を出したあとに、ラーメンを見つめて、「あーあ、のびちゃったよ。首相って、たいへんな仕事なんだなあー」と自分自身に対しておとぼけをかませるシーンで、このシーンの可笑しさと文化表現の深さは、英語人観客にも、とても、うけていた。
映画らしいシーンで、とても好感がもてました。
それから、もちろん伊福部昭!

日本語友人達が絶賛する庵野監督の「日本的問題解決能力」描写は小松左京から由来しているもののように見えた。
無能なリーダーを戴く、名前や人物が置き換わっても気が付かないような個性に依存しない日本的組織の効能を小松左京という人は、死ぬまで、とても信頼していた。
実際、いま調べてみると松尾諭という人なのではないかと思うが、政調副会長の口から述べられる政府の思惑やなんかは、小松左京直系の口吻で、少なくとも庵野秀明が信じている「日本の力」が小松左京的なものであることが見てとれる。

総じていって、印象は「巧みだが何かが欠けている」映画で、おもしろいことに、この感じは英語人一般が、自分ではまだ観ていないエヴァンゲリオンやアニメ全体に言う事とおなじで、もしかすると、良い悪いということではなくて、日本語世界と他の言語世界では、現実や真実に対する感じ方自体が、分水嶺からわかれて、おおきく異なってきてしまっているのかもしれない。
いまこうやって考えていても、うまく言えなくてもどかしいが、どういえばいいか、人間の魂の深いところに届かない頭のなかの観念操作だけで出来た世界というものが成立しうるのかもしれないと思わせる。

モニはシネマを出るなり、いっそサバサバした表情で「退屈な映画だったな、ガメ」と述べていた。
頷く、わし。
だけど、嫌な気持ちがしているわけではなくて、なんとなくニコニコしながら、あんまり面白くなかったね、と述べあいながら駐車場を横切ってクルマのドアを開けます。

考えてみると面白いことで荒唐無稽だと多くの人に笑われながら、どこかしら、魂の奥底に訴えかけるところがある、世にも稀な、着ぐるみ人形のシリアス映画破壊王ゴジラの伝統は、日本のゴジラではなくハリウッドに受け継がれて、日本の大部分の人に「こんなにひどいゴジラ映画は観たことがない」と言われた2014年版は「帰ってきたゴジラ」として英語人ゴジラファンを熱狂させた。
あっというまに第三作目まで出資者が決まってしまった。
あの「虫」はなんだ、と、なんだか愛情が隠せない様子で大笑いするゴジラファンたちの姿は、きっとかつて東宝が延々と駄作ゴジラ映画を作り続けていた頃のおとなのゴジラファンたちと瓜二つでしょう。

ひとつだけ心配なのは、庵野ゴジラが日本国内で成功したことによって、伝統のゴジラ世界の系譜が断たれて存在しなくなることだが、こちらも英語ゴジラでは2020年の公開がすでに発表されている三作目が「ゴジラ対キングコング」であることを考えれば、案外、生き延びてゆくのではないだろうか。

あの夜空を炎で焦がして、暗闇に向かって咆哮する、もともと核の暗喩である破壊の王は、どうしても核実験反対の映画の企画を通してもらえなかった日本の映画人たちの苦肉の策だったというが、まったく辻褄の合わない、合理性を欠いた怪獣王が、いまでも英語人たちの心に奇妙に深刻なトーンを伴って訴え続けているのは、ゴジラという生き物が、ほんとうは現実に存在してしかるべきなのに現実には存在しないという現実よりも真実性に満ちた宇宙への架け橋の役割をはたしているからに違いない。
不破大輔が述べたように映画のなかではゴジラだけが現実で、細部まで忠実に再現された現実の日本が虚構にしか見えないのは、日本文明の現実そのものが少しづつ、着実に虚構化してきているからなのかもしれません。
現実を失ってゆく日本。影が失ったピーターパンのような文明

ギャオオオオーーン!


日本語の娯しみ2

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あまり訊かれもしないので、訊かれなければ当たり前だが、答えもしなくて、わしが日本にいたことがあるのを知っている人は、ごく少ない。
まして日本語が理解できることを知っている人は少ないというよりも、驚きであるらしくて、かかりつけの医者である女医さんなどは眼をまるくして日本語と本人のイメージがあわないという。
おおきなお世話だが、ふだん日本語では触れないことにしている、もうひとつ別に準母語と自慢してみたくなくもない言語があって、その言語との印象もあわないのだという。

なんで?
と言われるが、なんでと言われても困るので、理由などはなくて、理由がないので、日本語が理解できるのが露見して、釈明を迫られるたびに、子供のときに住んでいたことがあるから、とか、バスク語よりも難しいから、とか、甚だしきにいたっては世の中にあれほど学んで良いことが何もない言語はないから、とか、その都度、テキトーに答えている。
わしがやることにいちいち理由があると考えるような人に、ちゃんと考えて答えても仕方がない、という気分にもよっている。

言語がある程度できるようになると、母語で見知ったのとは別の人格が生じる。
誰でもすぐに気が付くように大庭亀夫という名前は、オオバカめな夫という意味に加えて、game overを和名化しただけの名前だが、この日本語人には独立した人格があって、「こんな下手な小説もどきのものを書きやがって」とコメントがいくつか来たので、やめてしまったが、自分が好きな日本語の時代である1910年代から1960年代頃の語彙を使ってつくった大庭亀夫という別人格は、英語人である自分とは、だいぶん違うように思われたので、日本語が出来上がり始めた頃、この人に勝手にしゃべらせてみたこともある。

勇者大庭亀夫はかく語りき
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/29/cameo/

日本語が判るようになって、いちばん嫌だったことは、日本の人の心性の卑しさ、他人を攻撃することが大好きで、根も葉もないウソを捏造までして他人を貶めて、勝ち鬨をあげたがるバカみたいな国民性で、たとえばわしブログを読んで来た人や日本語ツイッタに付き合って来た人ならば誰でも知っている、この6年間変名アカウントをつくってまで絶え間なくしつこく誹謗中傷を続ける能川元一という人や、そのお友達の、はてなというチョー日本的な世界に群がる自称リベラルのごろつきおじさんたちがこれにあたる。

良い方は、歴然としていて、ここに名前をぞろぞろと全部挙げるとスピーチが下手なオスカー受賞者の挨拶みたいなことになってしまうので、挙げないが、たくさん日本語の友達が出来て、日本語自体が何ヶ月かでも日本の社会に住むことに興味がなくなってしまったせいで、インターネットでだけ使う風変わりな言語になっている。

正直に気持ちを述べてしまえば、ごく早い段階から日本の社会は、まるごと軍隊のようで、社会としての最低の機能もはたしていないのが見てとれたので、あんまり興味を持っていなかった。
日本の人はよく混同してしまうが、別に社会が好きでなくても、ひとつの言語族を好きになることは、よくあることで、国なんてないほうが誰にとってもずっと幸福なほどひどい社会だったソビエトロシアの時代でも、ロシア語とロシア文化が好きな人は、たくさんいた。

日本語には良いところがたくさんあって、いますぐに世界からなくなっても誰も少しも困らないマイナー言語であるのに、これほど豊穣な文学をもつ言語は他にありはしない。
谷崎潤一郎、北村透谷くらいから始まって、夏目漱石、内田百閒、岡本綺堂、無限に近いほど優れた表現がつまった日本語の本が存在して、日本語は読む本に困るということがない点で奇跡に近い。

もともとは英語で記述されたラフカディオ・ハーンの「怪談」と「奇談」は、極めて高い知性と志操の持ち主であったらしい奥さんのセツさんの日本語を反映して、英語だけの独力では難しい「静かな言語」としての英語を、強い日本語の影響力の下で構築している。

オダキンという「二次元趣味」のせいで、英語国ならとっくの昔に失職していそうな、仲のよい年長の友達に書いた自分の文章があるので、そのまま引用する。

……..

きみは、いま松江にいるそうで、正直に「うらやましいなあ」と思う。
ぼくは京都の日本海側から松江あたりまでの日本海側にあこがれがあって、柳田国男が生まれた町や、志賀直哉の短編で描かれた町、浜坂という小さな美しい浜辺のある村や、そういう場所をうろうろしてみたことがある。
松江にも行きたかったが、そのときは神戸でひとと待ち合わせをしていたので行けなかった。

ラフカディオ・ハーンという、変わり者で片眼、小男のギリシャ系イギリス人は、たいそうラッキーな奴で、その人生の後半に小泉セツという素晴らしい女びととめぐりあう。
小泉セツが英語をおぼえようとして使った手書きの英単語帳がいまでも残っているが、「アエアンナタハングレ」(I am not hungry)というような言葉を見ると、そのまま、その場を動きたくなくなるような気持ちになってしまう。
英語を話さない小泉セツと自分で発明したような風変わりな日本語しか話さなかったラフカディオ・ハーンは、しかし、「ヘルンさん言葉」とふたりで呼んで笑ったという、ふたりのあいだだけの日本語で会話を重ねながら、幸福な結婚生活を送る。

「破られた約束」のようなラフカディオ・ハーンの傑作は、今昔物語や雨月物語からの再話ではなくて、どれも小泉セツが「ヘルンさん語」でラフカディオ・ハーンに語ってきかせた松江の物語だった。
西洋人がいまでも持っている「美しい、神秘の日本」というイメージはハーンがこしらえたもので、そのもとは松江の風景のなかで生きて死んだひとびとの物語だった。

ある日、「自分にもっと学があれば、あなたの書き物の助けになったのに」とセツが述べると、ハーンはセツの手をとって自分の著作が並ぶ本棚の前に行き、
「だれのおかげで生まれましたの本ですか?」と「ヘルンさん語」で語りかけた。
一緒についてきたふたりの息子一雄に向かって、「この本、皆あなたの良きママさんのおかげで生まれましたの本です。なんぼう良きママさん。世界でいちばん良きママさんです」と言った。

ハーンが好きなものは、「西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱」であったという。

「(明治)三十七年九月十九日の午後三時頃」、セツに「あなたお悪いのですか」と尋ねられたハーンは「私、新しい病気を得ました」と答える。
「新しい病、どんなですか」
「心の病です」
心の病、とは心臓病という意味です。

死の数日前、ハーンはセツに
「昨夜大層珍しい夢を見ました」
「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」
「西洋でもない、日本でもない、珍しい所でした」という。

ハーンはそうして、五十四歳で死んでしまうが、きっと死の時にも松江の美しい風景を思い浮かべていたに違いない。

ぼくは松江の小さな家で、セツと肩を並べて、セツが「ヘルンさん語」で語りかける「破られた約束」の物語を、「ママさんの話は、とてもこわい」と述べながら、悪い視力のせいで丈の高い机に顔をくっつけるようにして原稿を書いていったハーンを思い浮かべる。
セツとハーンのまわりを出雲に集まった帰り途の八百万の神さまたちがぐるりと囲んで、小さな外国人と、ぴんと背筋をのばして座る武家の娘が、ふたりで紡ぎ出してゆく美しい物語を、人間には聞こえない声で称賛の嘆息をもらしながら、どきどきしながら聞き入っていただろう。

松江。
うらやましいなあ。
放射脳のぼくは、もう行けなくなっちゃったよ。
あれよりうまそうな出雲蕎麦の写真を送りつけた場合は、夜中の寝床で我が式神の祟りをうけるものと知るべし。

では、また

…..

松江という町は、いちど行ってみたかったのに、行かないで終わってしまった日本の町のひとつで、東京に偏った日本滞在のせいで行かなかった、内田百閒の生まれ故郷の岡山や、四国まるごととあわせて、2005年から2010年の5年間に11回も日本に出かけて、長いときは1年の半分以上も滞在したのに、出かけなくて、とても残念な気がする。
自分にはどうやら、バルセロナ、東京、ニューヨーク、シンガポールと、同じところに何回も出かけて、数ヶ月滞在するというような癖があって、それと引き換えに、いかないで終わらせてしまった町も多くて、韓国のソウルなどは、あとで、うへえ、と考えた代表ではないだろうか。

おおげさにいうと、自分の日本語の芯が、もともとは、英語の姿を借りて、松江からやってきたのを知っているからで、神様がいなくて、複雑な内容を表現できる言語ならばたいていは持っている絶対性を欠いていて、その代わりに、山川草木、1本の木や、はては竈にいたるまで精霊が宿っていることを認めて、宇宙への畏怖のなかで呼吸してきた言語の故郷が、自分にとっては松江で、行かないで終わってしまったのは、返す返すも残念な気がする。

多分、生活との接点をまったく持っていない言語であるせいで、日本語は自分にとっては、英語とは異なる情緒と感情とに入浴して変わった体験をするような、VR的な経験の時間をもたらす言語になっている。
日本語のスイッチがうまく入って、日本語というヘッドセットのなかに仮想的な現実世界が広がりはじめると、しめたもので、一度しかない一生を二度生きているような、不思議な時間にひたりはじめる。

日本語の世界には、自他の境界が明瞭でなくて、ぼんやりして、物事の基準すらゆらめいていて、意識が明瞭であるのに容易に混濁するような、不思議な特性がある。
ぼく、おれ、わし、私、余、と一人称がたくさん存在して、それによって文章で言いあらわしうる事柄の範囲と視点が限定されるという言語としては決定的に重大な特質も、そこから来ている。
言語であるのに現実だけをありのままに述べる、ということが出来なくて、社会のなかでの、その現実や、その現実に対する自分の感情的な反応が自動的に入り込んでしまう。

現代日本語の語彙の寿命の短さを手がかりに考えてみればすぐに判る理由で、20世紀までの静的な世界の処理には向いているところがあっても、現代の動的な世界にはまったく適応できない言語で、日本の社会の現在のスランプも多くはそこから来ているが、いわば趣味で身につける人間にとっては、言語全体が動的な時代に適応できなくなった死語の体系であることが返って魅力になっている。

日本語を身につけて、日本語で考えることが出来ることによって、ブログやSNSを道具につかって、タイムマシンみたいというか、どこでもドアなんじゃない?と述べるべきか、現実ではない世界に数時間という長さに至るまで、しかも、なじみはあるが自分とは異なる人格として滞在できるわけで、日本語は役にたたない、
と職業や金銭得失の面から述べたが、そういう人間の一生のアホな面をのぞけば、
西洋語の体系とはまったく異なる日本語くらい自分の一生を助けているものはないと感じる。

四時ゼロゼロ分きっかり。4秒前、3秒前、
ち、ち、ぶ、と開く秩父宮ラグビー場の門
というような、英語では表現できるわけがない日本語が点滅する日本頭に灯をともして、回文やダジャレで遊んで、日本語に分け入ると、あっというまに淫して、何時間も過ごしてしまう。

日本語は、なんだか魔法のようで、召喚された魔神のような生き物を、見上げるような気持ちになることがあるのです。


ドナルド・トランプの世界

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ニューヨークに住んでいて、いかにもパチモンなマンハッタンのハイソサイエティと交流がある人ならば、ドナルド・トランプの名前を聞いて思い浮かべる断片がたくさんあるだろう。
もっとも、そういうパーティのなかでもドナルド・トランプが姿をみせるパーティは、なぜか白い人ばかりのパーティで、おおきなコミュニティのパーティ、例えばプラザホテルのロシアンコミュニティのそれですら、記憶をたどっても、ひとりのアフリカンアメリカン、アジア系人の姿も、記憶のベールの向こうにある会場に見つけることはできない。

入り口を入ると、右側に小さな小さな老女たちが立っていて、強制的に握手をすることが求められる。
このひとたちは誰であるかというとロマノフの最後の王女たちということになっていて、なっていて、と言った途端に「そんなことが現実なわけはない!」と怒り出すひとの顔が目に見えるようだが、アメリカの「ハイソサエティ」のリアリティの感覚は、そういうもので、日本で言えば万世一系皇統伝説のようなもので、皆が本当でないと知っているが真実なのではあって、人間の都合は、神様では理解できないほど複雑である、ということなのでもある。

ともあれ、ふたりの上品に見えなくもない王女たちと握手して、ひざまづいて手の甲にキスじゃなくてもいいのか、簡便であるなとおもいながらホールをちょっと進むと、男のダッチワイフ人形がトウモロコシの毛を頭から生やしているような趣のおっちゃんが立っていて、あれ、誰?と聞くと、ああ、あれがドナルド・トランプですよ、ほら、トランプタワーの、破産が趣味の男、とフランス人のおばちゃんが述べて、くっくっと可笑しそうに笑っている。

テーブルにつくと、身なりのいいフランス人のカップルとロシア人のカップルと、若い、聡明な瞳をしたロシア人の若い女の人が同席で、なかなか楽しいテーブルだった。
「あなたはニューヨークに住んでいるの?」と聞くので、いや、ぼくはまだ大学生で、大西洋を越えてやってきたんです。
両親の名代というか、偵察隊というか、と述べると、若いわしよりも遙かに賢そうな女の人は、目を輝かせて、
「わたしと同じだわ!」という。
聞いてみると、毎週木曜日にニューヨークを経ってモスクワに帰って、日曜日の夜に戻ってくるスケジュールが続いているのだという。
十年以上前の話なので、わしがいくらのんびりでも、この人がロシアマフィアボスの娘であることは想像がついて、まあ、ゴッドファーザーみたいだわ、となんとなく浮き浮きしてしまう。
一瞬、どうしてマフィアボスの娘というのは美しい人が多いのだろう、と考える。

ダンスフロアに誘うと、思いの外、緊張していて、「わたし、あんまりダンスパーティに誘ってもらえないのと」と寂しそうに述べていた。
あまつさえ、ぶっくらこいたことには、心がこもった調子で「ほんとうに、ありがとう」と言う。
ダンスに手をとって誘って、相手の女の人に「お礼」を述べられたのは、前世のハプスブルク朝のワルツ夜会が最後ではなかろーか。

こちらも、たいそう美しい人である50代くらいの女の人は、やはり話が面白い愉快な人で、旅行の話をしていたら、わたしは若いときにはベトナムにいたことがあるの、という。
それは良いが、中東にいたことがあって、アフガニスタンにいたこともあるので、だんだん聞いていて、いつもの悪い癖が出て、ふざけて、「まるでKGBのスパイみたいですね」と茶化すと、
隣に座っていたロシア版杉良太郎みたいなおっちゃんが「ああ、この人はKGBの幹部だったんですよ」というので、椅子からずるこけそうになってしまった。

それがいまはしがない国連職員なのだから、嫌になる、と呟いているおばちゃんに聞いてみると、ソ連崩壊のあと、アメリカにやってきたそうで、モスクワ大学を首席で卒業したというので、あんまりオベンキョーの話はしないほうが身のためである、とふだんはのんびりの頭で素早く計算したりしていた。

演壇にはいつのまにか、ドナルド・トランプが立っていて、大統領みたいというか、ハリウッドの大根役者が演じそうなチャラい大統領みたいなことを述べている。
あとで、おやじパリス・ヒルトンと命名することにしたが、パリス・ヒルトンとそっくりな性格で、自分のことしか興味がなくて、
パリス・ヒルトンが、あるときストレッチリムジンを降りて、途端に
「あら、あたしの3万ドルの指輪が、いま側溝に落ちてしまった!!」と叫んで、大騒ぎになって、みなで慰めて、たいへんなパーティの始まりになってしまったのは有名だが、そのときの指輪が実は40ドルのものだったことが使用人の証言でばれて、トランプという人も似たようなことをする人だった。
注目を集めるためなら、なんでもする種族は、おなじ種類のパーティに集まってくるが、このふたりが姿をあらわすパーティは重なりはしないが、おなじ匂いがある。

多文化社会の興味から言えば、トランプという人をひと言でいえば
「黒人テナントを拒否してthe Justice Departmentから訴追された不動産会社の持ち主」で、実際、この人の人種観は奇妙なくらい北欧系ロシア人たちに似ていて、自明であると言いたげな白人優越主義で、アジア系人やアフリカ系人は、差別しているというよりも人間として眼中になくて、まったく興味をもっていない。
ジョージ・W・ブッシュの母親であるバーバラ・ブッシュに代表される南部エスタブリッシュメントとも、異なって、decencyになどはかけらも興味をもっておらず、まっしろな花嫁をもらって、幸福に新婚時代を過ごして、ある日、子供が出来てみたら、アフリカ系人の特徴をもっていたということを最大の悪夢と考えるような人たちで、日本語人が、日本語の世界とは感性的に最も遠い、彼らがどういう世界に住んでいるかを理解するためには、ウイリアム・フォークナーの物語群、取り分け「アブサロム、アブサロム!」を読むのがいちばん良いような気がする。

ヘンリー・サトペンにとっては近親相姦よりも、遠い祖先に一滴でもアフリカ系人の血が混ざっていることのほうが遙かに罪深いことであって、サトペンの最期の生き残りは重度知的障害者の「黒人の血で濁った」ジムだけになる宿命にある。

トランプがバラク・オバマの出生証明がニセモノであると決めつけたことは、だから、発想そのものが自分達を「正統なアメリカ人」と考える支持者たちの好尚に訴えていた。

気休めにもならないというか、ドナルド・トランプが選挙戦術として、数々の呆気にとられるような、他人種への侮辱的な発言を繰り返したのだと主張する人々がたくさん現れているが、本人と話したことがあったり、日頃の言動を知っている人にとっては、一連の発言こそがトランプの本質で、ミシシッピあたりの田舎に行けば、たっぷり堪能できる、その背景になっている白人至上主義文化を日本語で日本にいて理解したければ、繰り返すと、ひと夏フォークナーを読み耽るのがよいと思われる。

共和党では、すでに内部対立が深刻になりはじめて、もとから顕在化している伝統的な共和党勢力と新興のティーパーティ由来の共和党勢力との対立に加えて、ティーパーティ派内部での対立が外部に漏れ聞こえてくるようになってきた。
面白いのは、マイク・ペンスが、大統領になる野望を持ち始めたらしいことで、
ニューヨークのロシア・フランス系コミュニティと極めて近いドナルド・トランプと異なって、ペンスは有名なロシア人嫌いで、トランプとは、そういうことを軸に感情的対立が始まっているようでもある。

マケインとペンスも意外や情緒的に比較的に近くて、トランプは取りあえずは共和党保守派の顔色をうかがって温和しくせざるをえないだろうが、なにしろ飽きっぽい人で、大統領の椅子を獲るまでは夢中になって暮らせても、いざ椅子に座ってしまうと、めんどくさくなるのではなかろーか。

なににしろ、アフリカ系中東系、アジア系で言えば、なぜかそれほど嫌でないらしいインド系をやや別にすれば、中国系韓国系日系のアメリカ人にとっては、地獄の門が開いたに等しくて、ツイッタやなんかで何度か述べた、フレンズあたりから始まって、Pan Amが企画され、Mad Menがバカ受けして、Downton Abbeyまでがアメリカで人気出るに及んで、世の中の「空気の変化」を察知した英国俳優組合やアメリカのアフリカ系俳優たち、プロデューサーたちまでが「ドラマ・映画のホワイト化」に対して強い警告を述べたのが、ついにフォークナー的なアメリカ社会の呪いを呼びさましてしまった。

4年間は最低でも続くことが保証された悪夢が、まだ正式には始まってもいないことを考えると、なんだか気が遠くなるような気がしてきます。


病としての人種、という思想

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夕方、カウチに寝転んでいるうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。
窓をたたく激しい雨の音で目をさますと、時計の針が9時を指している。

映画 5 Flights Upはブルックリンに住む、アフリカンアメリカンの夫とコーカシアンの妻の物語で、ピザを食べながら、自堕落に、モニさんの膝に頭をのせて観ていたのだった。
コーカシアンの夫とアジア系の妻という組み合わせ以外は、まだ少なかった異人種間の結婚が少なかった70年代に、モーガンフリーマンが演じる画家の夫とダイアンキートンが演じている教師の妻は結婚する。
結婚数年で買ったブルックリンの五階にあるアパートにはリフトがなくて、歳をとって体力が落ちる老後を考えてアパートを売ってリフトがあるアパートに移ろうと考える。

物語の筋書きとしては、ただそれだけの映画だが、ドナルドトランプのせいでタイムリーというか、モニさんが見つけてきた映画を、ふたりでいろいろと考えさせられながら最後まで観ることになった。

途中、自分にも共通した英語文化を自嘲したくなる箇所がいくつもある。
妻が母親に、なぜ自分が結婚の相手を見つけたことをもっと喜んでくれないのだ、と怒ると、母親は「喜ぶように努力する」と述べる。
横から姉だか妹だかが「だって社会にはまだまだたくさん偏見が残っているのよ」という。

ニューヨークでも90年代初頭まではアフリカンアメリカンの夫とコーカシアンの妻では、街角でも、やや緊張して立っていたものなあ、70年代では映画のなかでは詳しく述べられなくてもたいへんだったろう、と考える。
考えてから、ああ、世界は、またこの頃の社会に戻ってしまうのかもしれないのだったな、と苦い気持ちで思い出す。
まるで自分が過去に向かって暮らしているような妙な気持ちと言えばいいのか。

ティーパーティ派のミナレットの上の人であるGlenn Beckが、トランプがSteve Bannonを首席補佐官に任命してしまったことは、たいへんなことだ、これではアメリカは巨大KKKになってしまう、とパニック気味に述べている。

CNNを観ていると、さすがのAnderson Cooperも、この新右翼運動の大立て者、THE BLAZEのオーナーである人物が、自分に向かって「あなたがたが私を信用しないのは判っているが、どうか判ってくれ。オルタナ右翼の道を開いた私は、Steve Bannonのような人間に道を開くことになるとは思っていなかった」とまくしたてるのに、呆れて、というよりも軽いショックを受けて、どう問いかけていけばよいか判らない体裁のインタビューだった。

「ドナルドトランプ自体はレイシストじゃないんだが、Steve Bannonを引き入れては話全体が、まったく趣を変えてしまう。これは大変に危険なことだ」と繰り返し言う。

観ていて、当たり前ではないか、おまえはいまさら何を言ってるんだ、と顔を歪めて笑いながら考えたアメリカ人も多かったのに違いないが、アメリカにはたくさんの「アメリカ」があって、言葉にすると冗談じみているが例えば人種差別にも、たくさんの種類の人種差別がある。

人種差別みたいに話題として不快なものを、いちいちタイプ別に挙げるようなことは、つまらないのでやらないが、簡単に言えば、無自覚な人種差別主義者であるGlenn Beckは、自覚的で、極めて攻撃的で、英語の正しい意味におけるリンチくらいは何ともおもわない、前回に「ミシシッピ型」と言って述べた最も暴力的な白人至上主義にトランプがたいした考えもなくドアを開けてしまったことに衝撃を受けている。

アメリカの人種差別のおおきな特徴は優生学的で「血」の問題をおおきく焦点に持つことです。
え?だって、欧州のナチもおなじじゃない、と思う人がいるだろうが、それはそうではなくて、ナチの反ユダヤ、アーリア人至上主義自体がアメリカの優性思想を拝借して出来たもので、いわばメイドインUSAなのだという歴史的な背景を持っている。

たとえば1920年代から30年代にかけて、週末の楽しみとして高校生たちは「The Black Stork」
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Black_Stork
の上映会に集団で出かける、というようなことがあった。

優生学外科医のHarry J.Haiseldenその人が自分で出演している、このベラボーに人気があった映画は、1917年に作られてから、都市部ではさすがに内容がなまなましすぎると問題になりはじめたので上映が男女別になったり、Are You Fit to Marry? と題名を変えたりしながら、サイレント映画そのものが人気を失う1942年まで、アメリカの田舎では人気を保ち続けた。
さまざまな遺伝病を持った人間は結婚を諦めなければならない、というような良く知られた内容の啓蒙映画だったが、ここで日本の人として注意して欲しいのは、このさまざまな遺伝的な病気のなかに、黒人であること、アジア人であること、も含まれていることで、人類にとって有色人の遺伝子を持っていることは世代交代の過程で排除されていくべき形質であると普通に信じられていた。

実際、この有色人であることを一種の遺伝病障害であるとみなす思想が、初めに法制化されるのは、実は日本移民に対しての法律である1924年の、Immigration Act of 1924が嚆矢で、アメリカで初めての人種隔離法の対象はアフリカンアメリカンではなくて、日本人だった。

もしかすると、これも一種の遺伝病なんじゃないの?と思う事があるが、生まれついて皮肉な考えかたが頭にこびりついている連合王国人たちは、アメリカ合衆国に堂々たる差別を復活させつつあるドナルド・トランプの妻が東欧人であるのを観て、なんとなくニヤニヤしていたりする。
トランプが初めの盟友と考えているらしいNigel FarageのUKIPは東欧人への差別愛好者の集いでもあるからで、Farage自身、オーストラリアやインドからの移民のほうが東欧移民なんかより遙かにマシであると述べていたりして、普段の言動から到底メラニア・トランプに人間的な敬意を持つタイプの人間とはおもわれなくて、イギリスでは根強いメラニアはコールガールだったという英国人らしく意地の悪い噂にひっかけて、ファラージュのやつ早速お祝いにかこつけてニューヨークに行って内緒でイッパツやりたいだけなんじゃないか、と当のUKIP党員が述べていたりして、なんというか、おぞましい。

ゼノフォビア的な要素が強い連合王国の人種差別に比して、遺伝学的な要素が強いアメリカの優生学的な「科学」によって形成された人種差別は、トランプ自身にも潜在意識形成的に影響していて、無意識のうちにこの人の頭のなかで形成された「人種差別思想」が「血」で定義されているために、かつてヒットラーを大喜びさせて「是非、その思想をドイツに輸入しよう」と叫ばせた優生学的人種差差別思想をアメリカに甦らせてしまった。
「白人同士、しっかりヨソ者に軒を貸して母屋をとられないようにやっていこうぜ」とパーティのドアを開けたら、どやどやと入ってきたのは、過去の大西洋を越えてナチのユダヤ人虐殺を生みだした亡霊どもだった。
自分自身が人種差別体質のGlenn Beckは、だからこそ、Steve Bannonたちの自分たちとの本質的な体質の差異を敏感に嗅ぎ分けていたのに違いない。

Brexitへの運動が、もともとは大陸的な官僚主義への反発と憂慮から起こったのに、途中でパーなひちびとのせいで異民族排斥運動に姿も性質も変えていったのと似ていると言えなくもない、トランプ現象も、当初言われたプアホワイトの怒りの表明というようなものではなくなって、本質は、白人至上主義運動に姿を変えている。

日本から観ていて、なにも嫌いだというだけで、暴力をふるったり、殺そうとしたり、国外に追放しなくたっていいだろうに、と考えるのは、もっともではあるが、白人至上主義者のGlenn Beckを心底から怯えさせているものを見落としている。
アメリカの、この種類の人種差別運動は歴史的にも強制収容所やリンチ、国外追放へ直結しやすい危険なものである。

5 Flights Upの老夫婦は、結局、アパートを売るのをやめてしまう。
自分達が、異人種の壁も越えて、世間の無理解との軋轢も克服して、お互いを庇い合うようにして生きてきた価値の大切さを噛みしめる。

2013年には、まだ、アメリカ人はあんなふうに考えることが出来たんだ、と思わずにはいられなくて、思いもかけず、そう考えた瞬間、なんとも言えない疲労感と寂寥、いったい自分たちは何をやっているんだ、という気持ちに囚われた。

こんな筈では、なかったのに


明日

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ロサンジェルスに行くしたくをしなければならないが、なんとなく面倒くさい。
ずっとブログやツイッタで付き合ってくれたひとびとは知っているが、わしとわし友達が、なあんとなくトランプが勝つだろうと思っていたのは、やはりBrexit投票のせいである。
途中、どの発言だったか忘れたが終盤でいちどだけ、「あっ、これならヒラリー・クリントンが勝てる」とおもう一瞬があったが、JFKの昔から民主党大統領にとっては鬼門のFBI長官のせいで、ほぼ投票の前に惨敗が決まってしまった。

文句おやじのマイケル・ムーアが、主に出身地のフリント(←GMのお膝元の企業城下町)での観察に基づいて「信じたくないだろうがドナルド・トランプが勝つ」と述べていたが、結局は、その通りになってしまった。

http://michaelmoore.com/trumpwillwin/

やはり、このブログ記事にも書いたが、2年前、中西部の町であるラスベガスで、いわゆる「とてもいい人」のタクシーの運転手さんと話した。
ニューヨークにいた人で、手堅かった職も捨てて、中西部のある町に越したが、仕事がみつからなくてラスベガスに出て来た。
ラスベガスの南に新しく出来たショッピングセンターから、ラスベガスの北まで乗る短いあいだに話をしたが、
いつもの軽口で「ニューヨークは楽しい町ではないですか」と述べると、意外や深刻な調子で、「異なる人たち」と一緒に暮らすのに疲れたんです、という多分生まれたのはジョージアどこかだろうと思わせる口調で答えてくれた。
異なる人たちって?と聞き返すと、うーん、you know、と述べて言葉を濁している。
きみも、きみの隣に座っている奥さんも、白人なのだから判るだろう、という口調です。
でも、言葉にして言うのは、嫌なのであるらしい。

わしはモニがちょっとびっくりした顔をするくらいチップを渡してタクシーを降りたが、それはもちろん、その運転手のおっちゃんの意見に賛同したからではなかった。

ヒラリー・クリントンはプア・ホワイトに負けたのだ、と言うが、数字はどうあれ、実感としては、そう思うのは難しい。
このブログに何度も出てくるように、テキサスにはたくさんの友達がいるが、話してみると、トランプに投票した友達が多いようでした。
「めちゃくちゃじゃん」と、言うと、トランプは良い人間ではないし、4年間、アメリカ人は苦労するだろう、という。
じゃあ、なんでトランプなんかに投票したんだい?とひとりを除いては年長者である友達たちに聴くと、「ヒラリー・クリントンのアメリカで暮らしたいとおもうアメリカ人はいない」という。

ウォール街の連中を見ろ。
彼らが例えばCDOを使ってやったことを見ろ。
毎日、夫婦共働きで、精一杯働いて、幸福を夢見て働いたアメリカ人たちに対して、あの銀行の豚共がやったことを、見ろ!
という。

汗水たらして働いて、ローンを組んで、必死の思いで暮らしていた人間たちから、あいつらはカネを吸い上げて、その上、そのカネをトランプのカードの上にカードを乗せて組み上げたタワーが崩れると、なにくわぬ顔で、税金でベイルアウトして、失敗したのに市場から退場すらしない。
負けたものが破滅するのは資本主義の最低限のルールじゃないのか?
投機的どころではない、ほとんど架空な、無責任な博奕を打って、勝てば自分たちのもの、負ければアメリカ人全部に自分の負けを払わせるのか?
それがアメリカか?
ガメ、きみは欧州人だから判らないかもしれないが、アメリカは、アメリカという理念で出来ている国なんだよ。
高く掲げられた公正と自由の松明に惹きつけられて世界じゅうからやってきた人間がつくった国なのさ。
それを、あのウォール街の豚どもは、なにもかもぶち壊しにしてしまった。

ガメ、きみのことだから、どうせ、ヒラリー・クリントンが女だから、きみたちは色々な理屈をつけて指がかかった大統領の椅子からヒラリーをひきずり落とそうとしているだけだろう、と皮肉に述べるに違いないが、
断じて違う!
おれたちはアメリカを取り戻そうとしているだけなんだ。

公正を期すために述べると、なんだか電話の向こうでちからが入りすぎて、怒鳴りまくるような調子になって「ウォール街が資本主義を殺したのだ」と叫んでいる人は、テキサス大学を出て、たしかウォートンかどこかのビジネススクールに行った人です。
アホな人ではなくて、ロッキードの顧問みたいなことをしていたはずである。
銀髪のアイルランド系4代目の移民で鷹のような目をしている。
たいへんな善人で、わしは、この人が人に知られず、自分がたたきあげからつくった財産の半分以上をアフリカ人の貧しい子供たちが教育を受けられるように寄附をしているのを、まったくの不思議な偶然から知っている。

「アメリカ的価値」に敏感な人で、前にブログに書いた、パブで、わしがウエイターにいつものつもりで何の考えもなしに多めのチップを渡したら、わし手を引いてウエイターのところまでわざわざ歩いていって
「ガメ、この男が、あんなチップに値するほどちゃんと仕事をしていると思うか。
こんなナマケモノの男に、こんなにたくさんチップを渡しては、アメリカ社会にとって迷惑だ。甘やかしてはダメだ」
と言うなり、チップの大半を気の毒なウエイターの手からもぎとって返させたのは、この人です。

あるいは産業構造の話をしていて、話が教育に及んで、わしが軽い気持ちで、
でも、ほら、あのXXさんも、いまの若いアメリカ人にとっては銀行で出世して、金融でオカネを稼ぐのは良いことだと述べていたじゃない、と述べると、
「でもXXはアジア人ではないか」というので、モニとわしに人種差別だよ、それは、と言ってさんざんからかわれた。

このブログを一緒に読んできてくれている人たちは、皆がよく知っているように、わしはチョー鈍感なので、この数年、いろいろな人、特に中西部人と話して、おおきな潮流が動いていて、たくさんのひとびとが「こんな国はアメリカではない」と訴えていたのに、気が付かなかった。
ある人々にとっては、アメリカを腐ったカネ世界に変質した金融人に繁栄を謳歌させるくらいなら、トランプを選んで、社会を滅茶苦茶にして、その破壊の渾沌からもういちどやり直すべきだ、という考えのほうが、ヒラリー・クリントンの「異なるひとびとのアメリカ」よりもマシだと感じられたもののよーでした。

「ヒラリー・クリントンが勝ったとき用」のスケジュール表に較べると、「トランプが勝った場合」のスケジュール表は、チョー過密で、なんだか二週間くらい、毎日人と会って、しょもないオカネの話をすることになりそーな気がする。
サウスコーストプラザに出来たデンタイフォンに行きたかったのに、そのくらいのヒマもあるかどうか。
仮にトランプが保護貿易主義的な主張を変えないとなると、アメリカ経済の凋落は目もあてられないものになるはずで、ネオ・レーガノミクスというか、
アベノミクスとも、似ていて、毎日の生活において「おー、アメリカがまたグレートじゃん」と嬉しくなる一般のアメリカ人の「儲かっちゃって、案外よかった」感の裏では、利率があがってアメリカドルの価値が上昇して、国家財政の赤字は、ものも言えないほど増えてゆく。
「国民には経済は判っても財政は判らない」というが、そのとおりで、雪だるま式に膨らんでいく国家財政の赤字のなかで、一般アメリカ人は、下手をすると二期目もトランプを選びそうなくらい「繁栄」を謳歌することになるかもしれない。
でも、その借金を肩に担がされるのは例えば日本人たちで、レーガンの頃は日本人が喘ぎながらアメリカ人の生活を支えたが、いまの疲弊して旧式な産業構造の日本に、そのちからが残っているかどうか。

また戻ってきて日本語でトランプ大統領下の経済の話を書くに違いない。
わしは毎朝母語である英語でモーニングジャーナルを書く習慣を持っているが、日本の人だけが読める、「誰にも読めない言葉」で、自分の考えを整理したいと思うことがあるからです。

いまの考えではトランプが大統領のアメリカが支配的な役割をはたす世界は、
「原理主義的なレーガノミクス」とでも言うべき世界だとおもうが、アメリカにとって上手くいくにしろ、いかないにしろ、想像を絶するお下品な経済世界で、
最近やる気をだしていたところだけど、またコンサーバティブな投資へ投資をふるかなあーと思ったり、ゲーマーな凍死家としては、悩みがつきない日々になりそうなのではあります。


見知らぬ国の跫音

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cava

Thanksgivingは、日本でいえばお盆みたいなものだと言えばいいか、行事の性格は全然異なっていても、実家に帰るひとびとの大渋滞や、ひとびとの気分はだいぶん似ている。
アメリカに住んでいる人は、ええええーと述べるのは判っているし、日本に住んでいる人は「お盆に七面鳥食べないし、安売りの買い物に行列したりしないぞ」という人がいそうだが、それはそれで文明そのものが異なるのだから、社会の現象の表層に留まらずに本質まで似たら、そっちのほうが不思議であると思ってもらわねば困るような気がする。

ひさしぶり、多分、2年ぶりのカリフォルニアは、ずいぶんいろいろなことが変わっていて、たくさん流通はしていないが2ドル札という変なものが出来ていたりする。
このカラフルな紙幣は前からあったのかも知れないが、初めて見た。

今回は他人の、というのはつまり友人たちのセットアップが多くて、毎日が酒池肉林で、贅沢三昧で、結果としてはカリフォルニアそのものから隔離されているようなものなので、モニと自分だけの時間があると、ふたりで普通な通りへでかける。
Trader Joe’sへ出かけたり、チェーンのタコス店のなかではチョーおいしいと思っているPepe’s Taco
http://www.pepesmexicanfood.com/index-2.html
へ出かけて、carnitasのタコスを食べたりしている。

ツイッタでは、ほとんどアジア人を見ないのは、どーゆーわけだ、と書いたが、つまりは場所と会う人々の問題で、そんなはずはないと考えて、たしか西南へ向かえばアジアの人がたくさんいたはずだと考えて高級店モールのSouth Coast Plazaに行ったら、どわああああと中国の人だか日本の人だかがいて、安心した。
安心した、はヘンだけれども、モールいっぱいにアジアの人の顔ばかりが溢れていて、白い人の数はポツポツとしかなくて、その風景こそが自分にとってはカリフォルニアなので、なんとなく得心がいって、落ち着く。
考えようによっては、この出かける場所出かける場所、白い人の顔ばかりで、まるでカリフォルニアが白人主義に戻ったかのような光景は、秘密結社のようで、もしかして、わしてお友達の選択が悪いんちゃうと思って、口に出して冗談に言ってみると、みな、曖昧な顔をして笑っている。
どうも、言うに言われない白いアメリカ人の感懐とでもいうような微妙な気持ちがあるものであるらしい。

スケジュールが詰まっていることを心配する友達たちに無理なことを言ってCabazonに出かけた。
Owlという町があって、その向こうにカバゾーンがあって、ははは、動物園みてえ、と思うが、日本語が判らない人に言っても通じない冗談なので、ちょっとつまらない。
Cabazonはオレンジカウンティから、さらに東へ、というのはパームスプリングがある方向へ、だいたい100キロくらいのところにある町で、チョーでかいアウトレットがあって、様子をどうしても見たかった。
わしはアウトレットというものが昔から好きで、旅先ではスーパーマーケットやファーマーズマーケットに次いで好きです。
景気や土地のひとたちの様子がよく判って、特にリゾート地へ向かう途中にあるCabazonアウトレットのような場所では、ホリデーな気持ちがのびのびしているからでしょう。
どの人もチョーおしゃべりで、普段の生活が借金との格闘で見た目よりもものすごくたいへんであること、妹は、ここの店員だが、Thanksgivingは夜の10時から朝の6時までというシフトで、身体を壊さねばいいが、とか、さまざまな生活上の話をしてくれて、皮肉な冗談かと考える人もいるかもしれないが、そういうことではなくてスペイン語の練習にもなる。

それに第一、名うてのジャンクフード好きなので、こういう町から離れたアウトレットにはマクドでもなんでも軒を並べて揃っていて、大好物、AuntieAnne’s
http://www.auntieannes.com/
のプレッツェルやKosher (←ユダヤ式食べ物)ホットドッグを頬張る楽しみがあって、アウトレット通いはやめられない。

アメリカ人がやることに倣って、他のアメリカ人が行く所に行くと、おのずから、そんなものが実在するかどうかは別にして、「平均的カリフォルニア人」の生活の細部が感知されて、たとえばアウトレットに行くのにストレッチリムジンというわけにはいかないので、アメリカ式にダブダブに図体がおおきいSUVで出かけたが、エンジンは6リッターで、駐車場で観察していると流行りであるらしいが、後部ドアがリモコンで自動開閉になっていて、ゆうううっくり、ういいいいいーんと開閉するのが、バカっぽくて、…いや、そういうことを言ってはいけないよね、のおんびりしていてカリフォルニアぽくて、なんとなく微笑いを誘われる。

こういうアウトレットに来ると、どんなに頑張ってサボっても10000歩は歩くことになるので、健康にもいい、という言い訳も成り立つ。
なによりも、銭湯とはこういうものではないだろうか、という感じの、ざっかけない雰囲気がよい。
庶民的、という古典的な表現を思い出す。

オークランドにいるときにコカコーラをおおぴらに飲んだりすると、モニさんに半日口を利いてもらえない可能性が存在するが、聡明な人なので、アウトレットのソーダスタンドで、ぶっちぎりに砂糖が入ったコカコーラを飲んで、ホットドッグを頬張りながらデヘヘヘヘをしていても、何も言われません。
歩き回るだけでは判らないので、ふたりで紙袋の塊が移動しているような姿になるまで買い物をしまくっても、楽しくて、クルマとアウトレットを往復しながら、なんだか楽しいね、と何度もうなずきあっている。
パカップル、という言葉があるが、そのもので、あんまりものを考えないということは何という幸福なことだろうという古典的な心理に思いあたります。

支払いに長い行列をしても平気なのは、アメリカ人たちの不思議なところで、イギリス人やニュージーランドなら、ちょっと顔を顰めて行列を離れて帰ってしまうが、アメリカの人は、いつまでもお行儀良く、相手が友達でも知らない人でも世間話をしたりしながら、のんびり自分の番が来るのを待っている。

わしの前に並んでいた、わしの腰くらいの背丈しかないような、無暗にちっこい中国人の、しわくちゃのばーちゃんが、前に立っている大男の白いおっちゃんにしきりに話しかけている。
物怖じしない人なのでしょう、中国語です。

へえ、と思ったのは、この白いおっちゃんは明らかに自分に話しかけているのに、知らない顔で前を向いている。
ときどき視線が行く先を見ると、身なりの良い、やはりコーカシアンのおばちゃんが立っていて、どうやら奥さんであるらしい。

多分、中国からの観光客で団体バスでやってきたらしいばーちゃんは、完全にシカトされているのに一生懸命前の大男に話しかけているので、
「この女の人は、あなたに話しかけているよーですぞ」と述べる、わし、
「え?おお。そうですか?」と白々しく驚いたふりをする大男。
口を開いてみると、訛りから察してドイツの人です。

今度は、ばーちゃんの言う事を聴く努力をするふりをするが、なんというか「ふり」だけで、もともと耳を貸す気はないのでしょう、わしのほうを見て「さっぱり、わからない」というふうにクビを振っている。
苦笑い付き。

モニが、「多分、あなたが手に持っている、そのズボンはどこで見つけたのか、と聞いている」と言うと、棚の方向を指さして、一挙にケリをつけたいとでも言うような大声で、「このズボン、あの棚!」とデカイ声で叫んでいる。
ばーちゃんは列を離れて、指さされた方角へ歩いていく。

大男は返品のためにカウンタに来たようで、長談義のあとで、書類を書いて、満足したようにチェックアウトカウンタを後にしている。
奥さんが、自分の自慢の飼い犬を見るような眼で、戻ってきた夫に、よくやった、と述べているよーだ。

自分の尻をつついている人がいるので、ぎょっとして、曖昧な笑い顔をつくって振り返ると、さっきの中国人ばーちゃんが立っていて、手にもったズボン、さっきの大男が返品していたズボンをかざして、「謝謝、謝謝」と述べている、モニさんのほうにも向き直って「謝謝」と繰り返します。
論理的にはヘンだと思われるが、「謝謝」と返答するモニとわしに向かって、深々とお辞儀をする中国ばーちゃん。

それだけですか?って、それだけですよ。
部屋にもどって考えてみると、100キロの道を行って、戻って来て、結局最も印象に残ったのはちっこい中国ばーちゃんと失礼で横柄なドイツ人おとこだった。

帰りのフリーウェイは、パームスプリングに向かう反対方向は、6車線か7車線かの道路いっぱいのクルマの洪水で、動いてさえいなくて、アメリカだなあああーと思う。
あとでテレビのニュースを観ていたら30マイルの渋滞だったと言っていたが、記憶のなかでは60マイルくらいの渋滞で、なんだかお盆の後先の軽井沢・東京間の信越道みたいだった。

カリフォルニアにやってくると必ず寄ることにしているので、明日からまたヒマはつくれないな、と考えて、Fry’sに寄ると、Thanksgivingの前晩だというのに在庫がまるで的外れで、しかも棚の表示と実際に棚に並んでいるものが全然マッチしていなくて、そのうえ、ぶっくらこいたことにはDVDの棚の半分が「Adult」になっていた。

つぶれるのではなかろーか、と失礼なことを考えながら、もう今年でFry’sにくるのも最期かなあーと考えて外に出ると、万引きの通報でやってきたパトカーが2台駐まっていて、コーカシアンのにーちゃんがお巡りさんたちに腕をつかまれている。

モニが「びっくりしたね」と言う。
ほんとだね、世界はどんどん変わっていくのね。

折角、用意してもらった御馳走は、食べる気がしなかったので、モニとふたりでおいしいのを憶えていた、小さなモールのなかの小さなBBQ屋でスペアリブを買ってきて食べた。
モニとふたりでほっぺについたBBQソースを笑いあいます。

「ガメ、フリーウェイでナチヘルメットの骸骨のステッカー、気が付いたか?」とモニさんが述べて、わしが頷いている。
そう、3台見た。
わたしは4台、と、どんなときでもわしよりも注意力があるモニさんが述べている。

ニュースのなかではドナルド・トランプが予想を上回る実行力で、とんでもない閣僚候補と話し合いを重ねている。

ここには大勢いるメキシコの人達の笑い顔や、あいつらは行列も守れないからね、と不機嫌な顔で述べる白い人達の顔を思い出している。

それがどんな世界かはまだ判らないが、なにかいままでに見たことがないアメリカ合衆国とでもいうような、得体の知れないものの跫音が、太陽の光が降り注ぐ、のおんびりのカリフォルニアにさえ響いている。

来年、早々にまたアメリカ合衆国に来なければ。
今度は、中西部に。



チップっぷ

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ニュージーランドではタブレットの画面にサインする機会は殆どない。
振り返って考えてみると、ここ1年で、画面にタッチペンでサインをしたのは家のセキュリティシステムをチェックしに来たおっちゃんが「はい、終わりました」と述べて「内容を確認して、よかったらサインしてください」というのがあっただけだった。

カリフォルニアにやってくると、買い物の支払いから何から、なんでんかんでんタブレットへのサインなので、アメリカに戻ってきたなあーと思う。
もともとヘロヘロなサインがツルツルする画面のせいでますますヘロヘロになって、なんだかミミズが手術台の上で悶死しているような惨状を呈するが、観ているとどのひとも同じようなもので、いっそ将来アメリカに越してきた場合はヘノヘノモヘジのような特徴が明瞭なサインのほうが良いのではなかろーか。

アメリカが昔から、サイン方式を採用していて、UKやNZのピン方式と対照をなしているのは、つまりはチップ社会だからです。
ピン方式でも、チップを入力するようになっていて、観光客などはうっかり騙されてチップを払ってしまうらしいが、わしなどは筋金入りのドケチUK/NZ人なので
「なあーにを夢みておる。ぶわっかたれめが」と呟きながらゼロと入力するが、日頃チップを払わないと食事が永遠に喉につかえる気持ちになるらしいアメリカ人友達たちなどは、理性の判断に反してチップを払ってしまう。

で、やってみれば簡単に判って、やってみなければいくら説明しても判りにくいが、チップが習慣の国では、手でサラサラと書いて、はい、と渡すほうがリズムとしても合っている。

自分では、特に決めているわけではないが、だいたい2割を目安にチップを渡しているもののようである。
支払いが$32.6であるとすると、$39.12なので合計$40.00手渡す。
まるめれば、支払いが坊主になって解脱に近付く、というような宗教的信念があるからではなくて、ただの習慣です。

1980年代にガキンチョとして大西洋を越えてから、アメリカに行くたびに、おもうのは、アメリカ人たちが段々チップを払うことをめんどくさがるようになっているはっきりした傾向で、例えばEmbassy Suitesの勃興は窓外の風景がデッタラメ(←わしがいちばん初めに泊まったEmbassy Suitesは、カーテンを開けると外は油田だった)な代わりに、広々として、安くて、あんたは象ですかと訝られるほど大量の朝食を摂るわしとしてはキャキャキャなことに朝食は食べ放題で無料であって、アメリカ人がつくるパンケーキは美味いので、いっぺんに10枚食べて、妹に「観てて恥ずかしいから同じテーブルに座るな」と言われたりしていた、「おおらかな感じ」に理由が求められるだろうが、しかし、もうひとつ要因が考えられて、到着してから出立するまで、チップを払う機会が殆ど存在しない。
クルマで玄関につくとドアマンが出て来て「手伝いますか?」と聞くが、「自分でやるからいいです−」と応えると、全部自分でやらせてくれます。
荷物運搬のワゴンを自分で持ってきて、クルマのテールドアを開けて、えっこらせとスーツケースを移して、チェックインして、それがこのホテルチェーンの特徴の、でっかくてジャングルぽくしてあるコートヤードを望観しながら、チョー遅いガラス張りエスカレータで、ゆるゆるゆる、ゆるゆるゆる、と自分の部屋にのぼってゆく。

朝ご飯のときにオムレツや目玉焼きをつくってくれるシェフの人に、当時は1ドル、いまは2ドル渡す。
夕方のカクテルが無料の時間に下におりていってポップコーンを食べながらMLBの試合を観て、グリーンモンスターをひさしぶりに眺めながら、また一杯あたり2ドル渡す。

あとは部屋の清掃の人に毎朝ピローマネーを置いておくだけのことで、楽ちんなので、流行っているのではないだろーかと睨んでいる、睨んでいるが、わしが睨むとたいてい外れなので、やぶにらみで、安心して信じていいのか、どうなのか。

マンハッタンのカナルストリートを、どんどん南下というかいま地図を見ると南東向きだが相変わらず地理音痴のわしの頭のなかではどう思い出してみても南下で、南下すると、中華街にたどりつく。
中華街なので中華料理屋がいっぱいあります。

座って、ひとりさびしくワンタンスープを食べている。
やることがないので他人を観察する。
少し離れた席に、こちらに背中を向けて座っている観光客らしいおっちゃんのはげ頭をみながら、はげの形が南極大陸みたい、とぼんやり考える。
そういえば、このあいだはアイルランドみたいな形に禿げているアイルランド人を観ておかしかった。
満月のようなハゲ、という表現が日本語にはあったかしら。

チェック、プリーズの声がするほうを観ると、支払ってテーブルを立つ客がいるが、なあんとなく、そそくさしている。

中華街ではチップをはずまないのは言外の常識と化している、というべきで、サービスが悪いから、ということになっているが、カテゴリー化していて、アジア料理店ではチップが少なくてもよいことになっているもののよーである。
いまはもう無くなってしまったが、中華街から離れたBoweryに昔はよく出かけた中華料理店があって、余計なことを書くと、近くに音楽スタジオがあるせいで、店内をふと見渡すとデイビッド・ボウイがなんだかニコニコして座っていたり、まだデビューしたてだったアデルがウエイトレスに冗談をぶっこいて大声で笑っていたりする店だった。
おなじ中華料理店でも、この店では観ていて判るくらいみなが盛大にチップを払っていたので、店の雰囲気が、満月が地球の潮の干満に影響を及ぼすがごとくチップの多寡に影響するものであることが観てとれる。

カリフォルニアに至っては、チップを渡す機会が大幅に省略されている、というか、ファーストフードでなくてもマクドナルド式のカウンタで注文して呼ばれるとトレイをもって自分でテーブルに向かう式の店が多い、というか、そういうスタイルの店の食べ物の質が高いので、考えてみると普通に暮らしていればチップを渡す機会は殆どなさそうです。
マンハッタンなどに較べてチップレス社会になっていきつつあるらしい。

わしは酔っ払いなので、よいことがあると$50くらいの食事に$100ドルのチップを渡して、アメリカ人友達の顰蹙を買うことがある。
ガメ、そんなにチップ渡したらダメじゃないか、とよく言われる。
ウエイターでなくても、バーで、中年のピアノ弾きのおっちゃんが、さんざんビートルズやバリー・マニローやフランク・シナトラのナンバーをリクエストされたあとに、途切れて、突然ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲を弾き出したことがあって、それがとんでもなく上手で、おもわず歩いていって$100札を渡したこともあった。

イギリス人には、上流人でもなければチップを払う習慣はない。
日本語なので、いや、そんなことはない、ロンドンではチップを払う!と怒る人がいそうだが、あれはどちらかというと「心付け」で、連合王国がチップ社会ならば、日本も立派にそうだということになる。
わし義理叔父はわしと同じでケチンボだが、料亭やなんかで、「いや、どうも今日はおかげで楽しかった」と述べながら1万円札を渡しているのを観たことがある。
タクシーに一緒に乗ると、「お釣りはいりません」の人で、けっけっけっ見栄っ張りめ、と思っていたが、雑誌や新聞もキオスクよりも、少し歩いて舗道に布を拡げて、多分拾ってきたものなのでしょう、丁寧にしわをのばした新聞をおっちゃんたちから買っているのを観て、そーゆー思想なのね、と納得した。

ニュージーランド人は、チップがいらない社会であることを誇りにしているので、最近はやりのチップの入力をうながすEFTPOS端末を観て、店の持ち主に、こういう下らない機械を採用してはダメではないかと怒っている人がいる。

チップはアメリカ人にとっては「人間性への信頼」の証しで、良いサービスを受けて多めのチップを弾むと、少し気持ちがすっとするらしい。
東京に行って、いちばん嫌だったのは、一流ホテルであるのに、小さな小さな女の人が、自分の重たいスーツケースを抱えて、よたよたしながら部屋に案内してくれて、しかもチップを渡そうとしたら断られたことで、あんなに申し訳なくて、自分が吝嗇な悪党に思えたことはなかった、とテキサス人が述べていた。

カリフォルニアにやってきて、思いだしたのは、アメリカ人たちがもともと博愛とごく自然な善意に満ちたひとびとであることで、マジメだが気難しいニュージーランド人たちとは、ほんとに同じ英語人だろうか、と思うくらい異なる。
おもしろいのは、こういう金銭を媒介にした博愛の思想は、もともとはいまアメリカで憎悪・攻撃の対象になっているイスラム人のものであることで、イスラムの社会では「持てるものが持たざるものに冨を与える」のは当たり前のことで、貧しい者にオカネを差し出さないオカネモチは、ニンピニンであるということになっている。

客をにらみつけるような顔で注文を訊く、倶利伽羅紋紋で、カイゼル髭を生やしたごっついおっちゃんのバーテンダーが、マティニと引き換えに渡した現金の額を観て、天使のよう、と言えばいいのか、やさしい小さな子供の笑顔になって、「ありがとう!」と述べるのをみると、アメリカはやっぱりいまでも良い国だなあ、と思う。
チップにこめられた善意が、国中を流通している国で、少し廃れ気味に見える、この不思議で、当のアメリカ人にとってさえ複雑な習慣が、いつまでも続くといいなあ、と酔った頭で考えました


冬のカリフォルニア

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予定を変更して慌てて帰ってきたので、風邪をひいてしまった。
もう慌てて帰ってきた用事は終わったので寝ていればいいわけだが、カリフォルニアで買ったおもちゃがいろいろありすぎて、ごそごそとベッドから出ては遊んでいてモニさんに怒られている。

むかしはニューヨークやロサンジェルスに行くことには、もっと楽しみがおおきかった。
マンハッタンに着くと、まっすぐに、たしか46th Street and Fifth Avenue
にあったHMVに出かけた。
このHMVの地下にスペイン語音楽のおおきなコーナーがあって、ミゲル・ボセやバチャータの初めてのCDは、たしか、ここで買ったのだった。
新しいもの、見たことのないものの宝庫で、1990年代までは、アメリカに行かなければ異文化のものはなかなか手に入らなかったし、連合王国やニュージーランドの生活は、真っ白で、英語のアクセントひとつとってもお決まりのアクセントで、ずいぶん退屈な生活だった。
あるいはオレンジカウンティに着くと、まっすぐにFry’sへ行く。
秋葉原にもないような、面白いマザーボードや、ヘンテコな外付け周辺機器(例:100連装CDチェンジャー)があったからで、むかしからPCオタクのわしにとってはパラダイスな店だった。

いまは例えばSpotifyがある。Spotifyがあって、例えばスペイン語人の友達に頼めば、自分の店で使っている音楽のプレイリストを、そのままごそっと送ってくれます。
あるいはフォローしている友達が毎日作り変えているプレイリストをなぞって聴いていゆくことも出来る。

ゲームならばsteamがある。
本はkindleがあって、テレビさえhuluやなんかがあって、アメリカの銀行が発行したクレジットカードがあれば、アメリカの「地上波」ネットワークがそのまま観られる。
Huluで言えば、わざとTVコマーシャル付きの格安プランにしておけば、アメリカの企業のTVコマーシャルも付いてきて「おお。シチズンのiOS対応腕時計がMacy’sで30%引きではないか。ずええったいにシドニーとかで買ってやんない」とつぶやく。

Bed Bath & Beyondのような店もニュージーランドにもシドニーにもあって、佐久平の駅前と那覇の新開地の駅前と照応しているというか、英語町は、どこに行っても似通ってきて、だんだんマンハッタンのような町の魅力が薄まってゆくようでもある。

それでも価格の面ではおおきな差があって、なにしろアメリカという国は、なんでもかんでも安い国なので、Thanksgivingに出かけて毎日買い物をしくるって「いえーい」をするが、有名ブランド安物が大好きなわしとは異なって、モニさんなどは、ほんとうは既製服などはあんまり好きでないので、一緒に買い物を楽しんではくれるが、特にコーフンしているわけではないのは、夫をやっていればすぐに判る。

でも、旅行って楽しいんだよね、と、やはり思う。
理由は、「いつもと違う毎日」だからでしょう。
今回はInfiniti QX80
http://www.infinitiusa.com/suv/qx80
というクルマが面白かった。
アメリカ市場向けっぽい、ぶっかぶかなクルマで、5.6リッターの400馬力V8エンジンで、のおんびり走る。
日産の例の技術で、駐車するときは直上から見下ろしたビデオを観ながら駐車できるのでチョー便利。
ドアは自動で、ういーんういーんと開きます。
モニさんとふたりでシドニーのほうで、このクルマを買って、まんなかのシートボックスに冷蔵庫つけちゃうといいな、と話した。
いま見るとカタログには出ていないが、ランドクルーザーにもオプションであったので、やっぱり、あるのではないかしら。

部屋も、どの部屋の電気スタンドにも2000mAのUSBx2と充電アダプタがつけられるパワーポイントがついていて、なんちゅう良い考え、と感心する。
こっちは家でも工事して壁の高い所につけてあるが、パワーポイントが床の近くから高さ1mくらいの所に引っ越しているのも合理的であると思われる。

そして、ひと!
銀行でも、レストランでも、モールの店でも、マンハッタン人やダラス人も相当にひとなつこいが、南カリフォルニア人は桁外れで、ウエルスファーゴのような銀行で、テラーの人々が集まってきてニュージーランドのことを聞き始めたのには笑ってしまった。
良い国の人はどこでもそうだが、都会でも、善意がむきだしで、まるで田舎のおっちゃんやおばちゃんたちのようです。

どうだろう。
例えばイギリス人やニュージーランド人やオーストラリア人も、もちろん親切だが、外国から来た人や異文化の人には特に親切なところがやはりあって、近所や職場や、自分達だけの世界になると、例えばニュージーランド人ならば、意地悪があって、鞘当てがある。
マジメだが底意地が悪いところがある、というような評は、外国人が何年住んでも見えないところにあって、同族意識というか、そういう狭い連帯のなかで初めて姿をあらわすネガティブな面かも知れないと思うことがあるが、カリフォルニアでもおなじではなかろーか。

旅行者には、そんなことは見えないので、ただただ楽しい毎日で、そーゆーことが、多分、旅行ちゅうの毎日を愉快なものに変えているのではないか。

少しは、なにかあるかなあー、と思ったトランプとトランプと共にあらわれた白人優越主義や有色人への嫌がらせは、かけらも目撃しなかった。
「そりゃ、あんたが白いからでしょう」と言う人がいそうだが、そういうことではなくて、においがしないというか、カリフォルニアは相変わらずカリフォルニアで、ラティノの人もアジアの人も、自分がやりたいように暮らしていて、お互いに接点があまりないというか、説明するのが難しいが、そういうところが混ぜこぜ型のオークランドのような町とも少し異なって、それぞれの文化の人が、セグメントをつくって、モザイク状に勝手に暮らしている感じでした。
カリフォルニアは、もともとはたいへん保守的な州で、そこにたどりついた日本からの移民は、とても苦労した。
激しい敵意のなかで、努力してつみあげた小さな資本で開いたスモールビジネスを、まるごと取り上げられ、収容所に放り込まれて、戦争が終わってやっと解放されて辿り着いた我が家は、窓を石で割られ、壁にはおおきく「国に帰れ。ここはジャップのいる所じゃない」とペンキで大書されたりにしていたのは、多く、画像が残っている。

太平洋に面している、というのはたいしたことで、だんだんアジア人とラティノ人を中心とした多文化の州に変わって、それにつれて、州の風土自体がリベラルになっていった。
トランプみたいなものは、多分、見かけることがないだろうと予断をもって出かけたのは、カリフォルニアがそういうわけで、リベラルが多いblue stateだという理由もあります。

今回は、新しい発見は、「メキシコ料理がめちゃめちゃおいしくなっている」ことだった。
個人の口座で、ひさしぶりにクレジットカードを復活させるために立ち寄った銀行の行員が、たまたまメキシコ系の人で、本人が生まれたのはカリフォルニアだったが、やはり墨飯は墨屋、「祖母は、1ヶ月に二回はメキシコに行くのよ」と笑っていたその人は、オレンジ郡のメキシコ料理屋に詳しくて、josicoはんも述べていたロードサイドのカートはもちろん、フィッシュタコのレストランやカルニタスのタコスやトスターダ、メキシカン・フィッシュスープ、おいしい店の長大なリストをつくってくれて、おなじチェーンの支店間の違いまで懇切に教えてくれる。

泊まっていたホテルのレストランで朝食を食べながら、「昨日は、どこに行きました?」と言うウエイトレスの人に、その話をしたら、あ、わたしも自分が好きなレストランを教えたい、と言い出して、シェフも、終いにはマネージャーまで動員して、みなでレストランやテキーラバーのリストをつくってくれる。
バー、って、カリフォルニアはゼロトラレンスじゃなかったっけ?と訊くと、ふっふっふ、一杯まで、とにやりとして見せて、まわりの皆も、ふっふっふの輪をつくっている。

カリフォルニア人側が今回もストレッチリムジンやヘリコプターを用意してくれたが、あんまり世話にならなくてよかったなあーと思う。
自分で運転して、通りで降りて、歩いて、行列にならんで、地元の人達と、みんなできゃあきゃあ良いながら一日を過ごすのでなければ、旅行の楽しみなんてなくなってしまう。

大時代な言葉でいうと、世界には暗雲が立ちこめている。
日本のようなヘリッコの国にいると見えにくいが、今回、眼前に迫っているのは、神様に「1930年代のことをおぼえているかい?」と聞いてみたくなるような、やばいx10な暗雲です。
わしは、そのことを、主にいちばん奥行き深く理解できるはずのUK人たちとのやりとりを通して知っている。
ガメ、帰ってこないか?という。
事態が深刻だからでしょう。

ロンドンに戻って、HQから世界を見渡すという方法ももちろんあるが、わしは、mobileであるほうが今回は良いと思っている。
意外なことに父親も真っ先に同意している。

世界は正念場を迎えつつあるのだなあーと思うと緊張するが、緊張していても仕方がないので、
「アレクサ、ジャズが聴きたいんだけど」と述べて、ワインを飲みながら、R2D2とホールで競走している小さな人々を眺めている。

こうやって「誰にも見えない言葉」で日本語のお友達とヒソヒソ話しをしながら、作戦を立てていくのが、最もよいのでわ、と考えています。

ほんでわ。
(またね)


ミナへの手紙

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祖父の代の小学校の教科書には「世界のひとびと」という章があって、世界にはいろいろな人々が住んでいます、アフリカ人は乱暴でなまけもの、中東人は攻撃的で喧嘩ばかりしている、と続いたあとで日本・中国・韓国のところになると
「マネは器用にやってみせるが、良いことをする意志がなくて、ずるくて、ウソばかりつくので気をつけなければいけません」と書いてある。

だいたい、いまの世界を覆いつつある白人優越主義のおおもとが、どんなところにあるのか、読んでいると判るような気がします。

ミナがやってきたメルボルンは、オーストラリアで最も早くから多文化社会をめざした町で、戦争直後、大集団で移住してきたイタリアやギリシャからの移民が、そのもとをなしている。
ミナのことだから、何度か店をやってみて自信がついたら、まずメルボルンに越そうと思っているのかもしれないが、もしそうなったら、クルマを運転して、メルボルンから北西へ100kmと少しくらい行ったとこにある、デールズフット(Daylesford )という町にでかけてみるといい。
湖がある、週末をのんびり過ごすのに良い町です。
そのまた十数キロ北に、Hepburn Springsという町があって、ここにはイタリア村の跡があります。
イタリア語圏スイスと北イタリアの人たちが、むかし、大量に移住してきたからで、硬水で、発泡性のミネラルウォーターまであるこの町が、あの人達はたいへん気に入ったようでした。

タウンシップを歩いていると、イタリア語が並んでいて、
Savoia HotelやカフェのLucini’sの看板を眺めて、なんとなく楽しくなってしまう。マカロニ工場だった建物(たしか、いまはレストラン)もあって、どこからどう見てもイタリアの建築だし、町から少し離れた公園には、壁いっぱいにイタリア式の彫刻があるパスタ工場がある。

そして、もちろん、ミナがメルボルンに住むことになったら、絶対に訪問するに決まっている町バララットは、Daylesfordから南西へ40分ほどクルマを運転していくところにある。

バララットはオーストラリア人の自由主義と勇気の象徴で、ミナがよく知っているとおり、1854年の自由主義者と政府軍の戦い Battle of the Eureka Stockadeによってオーストラリア人の自由主義の気風は確立されたのだと言って良いと思う。

ぼくは、この町に50歳年長という、とんでもなく歳が上の友達がいて、バララットの大学で教員を長くやって、そのまま町に定住していたので、よく遊びに出かけたの。

Ballaratの面白いところは、町全体が豊かな金鉱の上に建っているところで、博物館にいくと犬をつれて散歩していた子供が見つけた、でっかい金塊(nugget)があったりして、いまでも地表に露出した金塊を求めて、うろうろ森のなかを歩いているおっちゃんがいる。

ミナが滞在しているPrahranは、むかし(80年代)は日本の人がたくさんいた町です。
ブログ記事によく出てくるとおり、北へ向かって歩いていくと、ぼくの大好きなヤラ川が流れていて、夏の夕暮れ、ちょうどいまくらいになると、川岸に並んでいる艇庫から学生たちが艇をだして、オレンジ色の長い陽のなかを、川上に川下に、滑るようにボートが流れてゆく。
川の南側にカフェが並んでいるでしょう?
あんまり、おいしそうに見えないが、案外「いける」店が多くて、グレコという、ぼくが子供のときからご贔屓のカフェ、なにしろニュージーランドにいるときには、信じがたいことに、ちゃんとしたカラマリフライが食べたくなると、家からいちばん近い店が2500km離れたこの店だったので、よくつれてきてもらった店が、VIPクラブにいろいろ怨みがあるCrownカジノの入っているビルの一階に、いまでもあるはずです。

セントキルダ通りのRegent Theatreのほうへ歩いていったほうにある二階のイタリアレストランも、これもまた全然おいしいものを出すように見えないが、リゾットがちゃんとアルデンテで、お米が噛みしめたくなるようにおいしくて、Regent Theatreで面白そうなオペラがあるときには、よく行きます。

Prahranのよいところのひとつは、多分、それで昔日本の人に人気があったのではないかと思うが、日本の総武線にそっくりな雰囲気の電車で都心に出られるところで、夜ふけ、駅のホームに立っていると、飲み過ぎてげーげー吐いている酔っ払いにいたるまで、なんだか新宿にそっくりで、モニとふたりで顔を見合わせて笑ってしまうことがよくある。
夜になると、お巡りさんたちが立っていて、当たりを睥睨しているところが日本の駅とはちょっと異なるけど、平和なもので、安全で、いままで危なそうな光景をいちども見たことがなくて、例えばサンフランシスコの、やはり安全だということになっているBARTの、十倍くらい安全に見えます。

南隣りのセントキルダも、こじんまりして、ミナは好きなのではないかしら。
もしかしたら、もう行ったかも知れないが、ここにはLuna Parkという、メルボルンに住んでいる子供なら誰でも行ったことがある遊園地があって、あるいは娘さんが喜ぶかもしれない。

セントキルダは、地元に長く住んでいる人でも知らない(知らないふりをしている)人がいるが、実は、もともとは有名な売春街で、あの古い商店街の店舗がどこも二階建てなのは、あの二階が全部、売春宿だった。
イギリス式に看板を出さないbrothelがたくさんあった。
いまでは、そういう後ろ暗い過去は隅々まで雑巾掛けしたように拭き取られて、まるでなかったことのようになっているが、ぼくなどはひとが悪いので、道の反対側から商店街を眺めて、往時を想像して、オーストラリアらしい、とにんまりしてしまう。

ほんとうはレンタカーでも借りて、M11をSorrentoくらいまで行ってみるといいんだけど、今度は、そんなヒマはなさそうね。

Sorrentoには、イルカドライブだったかなんだったか、日本語みたいなヘンテコリンな名前の通りに、カッコイイ家があって、悪いくせで、おお、買っちゃおうと思ったことがあったが、不動産屋を呼んで話を訊いてみると、2億円だとかで、このくらいなら1億円以下だろうとあたりをつけていたぼくは、たちまち興味をなくしてしまった。
不動産屋のおばちゃんも、買う気が失せたぼくの様子を見てとって、世間話モードに会話を転換して、メルボルンの駅のすぐ近くにアパートを持っていて、ときどき遊びに行くのよ、というおばちゃんと、メルボルン生活の話をした。

おばちゃんが推奨するライフスタイルは、ソレントあたりに家をもってメルボルンに遊びに行くライフスタイルで、なんのことはないロンドンあたりの人間とおなじ考えです。
「メルボルンあたりだと特に、tatooパーラーが盛り場にある町をさけて家を買うといい」と述べていた。

おばちゃんには言わなかったが、ぼくの家はToorakというところにある。
いまは人に貸しているけど。
かーちゃんがもともと持っている家が通りふたつほど向こうにあって、土地鑑があったので、Toorakにした。
もう気が付いているだろうけど、ミナのいるPrahranのすぐ隣なのね。

むかし、夏になるとメルボルンにクライストチャーチから毎週末のように出かけていた頃は、ときどき、長くいることに決めたときは、一家でToorakの家に着くと、次の日にはクルマで、東京で言えば高尾山だろーか、Dandenong Rangesに出かけたりしていた。
メルボルンは、ぼくにとっては子供の頃の楽しい思い出がいっぱい詰まっている町で、いまはバブル都市になってしまったけれど、むかしはちょうど、でっかいクライストチャーチみたいな町で、南半球の良さがいっぱいつまっていた。

前にも言ったけど、ミナ自身、まだ気が付いていないようだが帽子デザイナー(milliner)はイギリス系社会では特別な地位を持つ職業で、考えてみると、日本に生まれた人が英語圏の上流社会と付き合ってすごすことになる可能性が最も高い職業のひとつかもしれない。
ミナは、ああいう奴だから、「ハイソサエティ」みたいなけったいなものとは一生関わりになりたくないと思っているに違いないが、ジュラシックパークみたいなものだと思えばいいというか、アメリカを見ていても絶対に判らない英語社会のそもそもの成り立ちが、露骨な形で出ている社会を死ぬまでに見ておくのも、いいことかもよ。

これで、ミナがオーストラリアなり連合王国なりに定住すると、ぼくの昔からの日本語友達は、ほとんど日本の外に住むことになります。
日本でのゲームデザイナーの高給を捨てて、無謀にも会ったこともなかったヘンな人(←ぼくのことね)のアドバイスを信じて、見知らぬブライトンの町で英語を学習して、何度も「知らない国でのプー生活」という、夢の生活に陥る危機に遭いながら、いまはオレンジカウンティに住んで、お大尽アマゾングループでデザイナーをやっているjosicoはんや、なんだか、どっからそんな勇気がわいてくるんだかわかんない勇気をふりしぼって、帽子デザイナーという不思議な職業をおもいついて、軌道に乗ったとおもったら、もう英語世界を目指しているミナのような友達がもてたことに、強い誇りを感じている。

子供のときは、勇気と人間性の保持は関係がないんじゃないかなあーと漠然と考えていたが、josicoはんやミナを見ていて、なるほど人間が人間でいるためには勇気が、うんとこさ必要なのだと理解できるようになった。

そのことにも、改めてお礼を言います。
蓋を開けてみれば、誰でも、「あ。なるほどー」と思う理由で、ぼくが日本語を書くこととネットで知り合った友達と現実に顔をあわせることは両立しない。
日本の社会については、サンクストゥーおっさんトロルたちで、愛想がつきたが、日本語と日本語友達には、まだ愛着があるので、すぐに顔があうかどうか判らないが、先にいけば先にいったで、どうも話し言葉としては日本語は嫌いであるようなので、自分にとっては母語である英語で楽ちんをさせてもらうとして、ミナやjosicoはんも、このペースで行けば、あっというまに準母語になっているのではなかろーか。

虫がいいことばっかり言っているけど、友達同士などというものは、そういうものなので、我慢してもらわなければ。

クリスマスが終わってしばらくしたら、用事があるので、ぼくも最低でもそのときと、定例の用事がある3月にはメルボルンに行きます。
その頃もメルボルンにいたら、テニスの会場か、Embassy Taxi Café で会えるかも知れない。
それとも、マーケットの店へこっそり覗きに行ったりするだろうか。
その場合はモニさんに言い含めてひとりで行かないと、組み合わせとして、ガメバレ(←ユニバレの派生語)してしまう。

友達がいるって、楽しいね。
ミナと会えて、とても良かったと思っています。

でわ


サバイバル講座1

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個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。

漠然としすぎているかい?

例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。
医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。
わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。
医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、
あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。

絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか?
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう?
でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。
商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか?
ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。
でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。

そういうとき、きみなら、どうするだろう?

ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。
足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。

むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。

奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。
食事を抜いても、読みたい本を買った。

ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。

あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。

この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。

東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。
日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。

英語国でも、割とマッチョな業界だけど。

ああ、そうなんですか?
要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね?
と述べて、舌をだして笑っている。

わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。
日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。
受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。
おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか?
日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。
文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。

わたしなんか、それで、英文学ですから!
もう最悪で。
ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう?

教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。
旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。
だから。
ケーキをつくるのが上手なひとで、あのケーキにつられて、結局、二年間ばっちり通ってしまったけど。

ともかく、英文学科の学生が英語が頭のなかでどんどん日本語に変わっていってしまうんだからサイテーですよ。

でも、英語、ふつーに話してるやん。

ああ、ここのインドの人達を見ていて!
わたしたちと同じというか、大学を出てるマネージャーたちは英語で苦労しているのに、高校だけで、こっちへ来てしまったひとは英語をたいして習得する努力もしないで身に付けてしまうのをみて、考えたんです。
もうひとつ、日本で知らなかった表現は、発音からもうちゃんとした英語になってるのに気が付いて、少し、へへ、コツがつかめました。

これから、どうするか決めてないし、方針も立ってないけど、この頃ね、朝、起きると、さあ、いっちょうやるかっ!
と、思えるようになったんです。
世界は、面白い!
と思う。

もしかしたら、ガメさん、びっくりするかもしれないけど、日本にいるときは、どうしても、そう思えなかったんですよね。

世界が自分にチャンスをくれる気があるとは、どうしても思えなかった。

それに、わたしは25歳なんですけど、日本では年齢がとてもおおきなものなんです、おおきなもの、というか、はっきり言って人間の人生の邪魔なんですよね。
もう結婚しなきゃいけないんじゃないかとか、会社にいて昇進がのぞめるだろうかとか、そんなことばかり考えていた。
毎日毎日、自分が否定されているような気がして、なんとか世界に認めてほしくて、つらかった。

わたし、へへへ、こんなこと言うの恥ずかしいんだけど、ある朝、電車に乗れなくなってしまったんです。
いつもとおなじように電車に乗るための列に並んで、いつもと同じように電車がホームに滑り込んできて…ところが他の人はみんな、例の体当たりするような勢いで身体をねじこんで乗っていったのに、気が付くと、わたしだけがホームに残って立っていた。
自分でも何が起きたのか判らなくて、しばらく、ぼおーとしていて、やっと、ああ、自分はこの社会に負けたんだなあ、と気が付いた。
わたしは敗北者になってしまったんだ、と発見した。

家に帰ったら、驚いた顔の母がドアを開けてくれて、その顔を見たら「わっ」と泣き出してしまったんだけど、そしたら、おかあさんが、「もう会社、やめちゃえばいいじゃない」と言ってくれたんです。
遊びにいってらっしゃい。
中国でもアメリカでもいいじゃない。
あなたは小学校のときから頑張って頑張って、勉強を一生懸命やって、他人がうらやましがる大学に入って、ううううーんと頑張ってきたんだから、少し遊ぶくらいなんでもないじゃないの、と言われた。

おかあさん、おとうさんには内緒だけど、案外、不良だったのよ。
鳥居坂にある学校からね、店の主人と示し合わせて、制服で入っても怒られない店にいって、そこで着替えてみんなで渋谷に行ったりしていたの。
あなたは、おとうさん似で、マジメにやりすぎるのよ。

それで、そこで、母親はびっくりするようなことを言ったんです。
「マジメにやる、ということは、案外、世の中がこうしなさいと決めた決まりに従っているというだけのことで、その世間自体がくだらないことになっているときには、知らずに、ずいぶんくだらない人生を歩いているということもあるのよ」

会社をやめるときに、「やっぱり女はダメだな」と言われました。

バイトをして、オカネを足して、60万円で世界一周切符を買ったら、残りは20万円しかなかったけど、わたしはラッキーで、おかあさんが「オカネがなくなって困ったら、おとうさんには内緒で私が送ってあげるから」というので、たいして心配しないで出かけてこられた。

出てみると、日本て、刑務所みたいな国なんですよね。
決まりがいっぱいあって、やりたくないことを山ほどやらされて
少しでもふてくされると、つまはじきで独房入りですから…なんちゃって。

ガメさんに「差別だぞ、それは」と言われそうだけど、わたしはやっぱり日本人と結婚したいんです。
おなじ日本語のほうが判りあえるとおもうし、…それに… ガメさんたち、毛深くて、なんだかおおきくて、…あっ…ウソウソウソッ!いまのはウソ! 取り消しです。

ガメさんて、目の前にいると、なんだかあったかい壁に向かって話しているみたいで、なんでも話しやすいんですよね。
いろいろなことを言ってみたくなる。

(わしは、塗り壁ちゃうぞ)

この人の場合は、「世界」という一冊の高価な本を、いまでも読んでいるさいちゅうなわけだけど、そういう大規模な読書に踏み出す前に、文庫をポケットにねじ込んで、公園のベンチで、木洩れ日がさしてくるページを繰りながら、プルターク英雄伝を読む、というようなことを積み重ねるのでもいいと思う。

旅行と読書じゃ、ぜんぜん別じゃん、と
きみは思うかもしれないけど、英語の世界では、むかしから、あんまり変わらないものという位置づけで、つまりは「自分が知らない考えに出会いなさい」ということなのでしょう。

良い本や、良い旅は。「え?」と思うことに出会わせてくれる。
なぜ、そんなことが可能なのだろう。
世の中には、そんなことを考える人がいるのか。
なるほど、そんなふうに考えても、ちゃんとやっていけるものなのか。
ヨーロッパの若い知識人たちは、むかしから、イタリアへ北アフリカへ、あるいは遠く東アジアにまでも足を延ばして、見知らぬ文明にぶっくらこいたり、思わず理解してしまったりして、自分の考えをいったん解体しては、再構築することを繰り返してきた。

インターネットは従来のマスメディアよりも遙かにすぐれたメディアだがメディアである以上、マスメディアにもあった欠点を受け継いでいて、平たくいうと「低きにつく」という重大な欠点を持っている。

ページビュー、というでしょう?
あるいはtwitterみたいなSNSではフォロワーという。
100万を越えるフォロワーを持つアカウントよりも、500くらいのフォロワーのアカウントのほうが、遙かに深い思索を述べていることは、よくあること、というよりも、常識であると思う。
テレビの視聴率と似ていて、人間の知性の平均は、びっくりするほど低いところにあって、その「平均」に近いところに受け身で言葉を扱うひとたちは蝟集する。

近い将来、仮想現実が現実より優位に立つのは疑いようがないし、仮想現実の都合にあわせて現実がデザインを変えてゆくことになるだろうし、また、そうならなければ、この世界が世界として生き延びていける可能性はゼロだが、いまは過渡期も初期で、TOTOの研究所では新しいデザインのトイレがうまく汚れを流し去るかどうか味噌を使って研究するのだと聞いて大笑いしてしまったが、ミソもクソも一緒で、まだ原始的な段階を出ていない。

だからコンピュータのスクリーンの前に座っていても、新しい考えはなかなかやってきてくれないのですよ。
向こうから来てくれないものは、仕方がないので、きみのほうから出かけてゆくしかない。

本を開いて、ストリーミングのプレイボタンを押して、あるいは空港のセキュリティゲートをくぐって、自分のほうから世界を見にいくしかないでしょう?

そのためのさまざまな方策を、これから、きみとぼくと、一緒に考えてゆこうというのです。


嫌い

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英語を話す国に生まれて育った子供なら誰でも知っている歌がある。

Nobody likes me, everybody hates me,
Guess I’ll go eat worms.
Long, thin, slimy ones; Short, fat, juicy ones,
Itsy, bitsy, fuzzy wuzzy worms.
Down goes the first one, down goes the second one,
Oh how they wiggle and squirm.
Up comes the first one, up comes the second one,
Oh how they wiggle and squirm.
I’ll cut their heads off
suck their guts out
and throw their skins away
Surprising how us girls can eat
worms three times a day
That’s how we get our wiggles.

夏のキャンプファイアや、学校のバスのなかで、よく歌われる歌です。

ぼくを好きな人間なんていないんだ
みんなが、ぼくをすごく嫌ってるんだよ。

で、始まるこの歌は、最後まで日本語でいうヤケクソの極みで、いじめられっ子でひとりぼっちの子供の気持ちが、冗談めかして、うまく表現されている。
もっとも、しんみり歌う歌のわけは、もちろんなくて、みんなで笑いながら合唱する歌であることは、言うまでもない。

ぼくが日本語を勉強して暫くたったとき、親日、反日、という言葉がアンダーグラウンドのネット世界だけでなくて、普通のおとなが、日常の会話に使っているのを見て面白いと考えた。
最後に日本にいた頃、2010年には、書店の店頭に、表紙に親日反日という文字が躍る本がたくさん平積みされていたりした。

あるいは日本の戦争中の桁外れの蛮行について誰かが書くと、必ず、確かに日本兵がやったことは酷かったかもしれないが、アメリカやイギリスだってやってきたことじゃないか、と言う人がひとりやふたりではなく現れて、話をうやむやにして、議論が始まる前に消滅していくのに気が付いた。

では自分では、自分が生まれて育った国をどう思っているのだろう?
と考えてみたが、わざわざ意識しないと、いったい自分が自分の国を気に入っているのか、あんまり好感を持てないでいるのか、あらためて考えてみないと判らないくらいで、ふだんは意識されないことだが、いろいろなことを考えあわせてみると、イギリス人にとっては、自分の国を好きな外国人に遭遇したときのほうが違和感があるというか、へ?、なのだと感じる。
きっと世界中に出かけて冨を収奪してきた、という、勉強好きな国民性の日本の人なら、きっと口にしそうな歴史的背景のせいかもしれないが、ふつうのイギリス人には、そういう意識はなくて、「だいたい、どこの国の人もイギリス人が嫌いなんじゃないかなあー。理由は判らないけど、態度がでかいからじゃない?」くらいのことでありそうです。

サッカーというスポーツは、猛虎会のお下品バージョンというか、危ないおっちゃんのファンがたくさんいるスポーツで、また、そのアナーキーな雰囲気を好きでサッカースタジアムに座っている人が多い。
社会の下層の、やけのやんぱちみたいな人の祝祭として機能している。
英語ではサッカーの歴史の本が、日本語で言えば、全部ひらがなで書かれているような本から、衒学的で、あんた漢文でこれ書いたの?と言いたくなるような学術書もどきまで無数にあるが、暇つぶしに、ビールをちびちびなめながら読んでいると、スコットランドが勝ったのに激昂したイングランド人サポーターたちが、グラウンドになだれこんで、スコットランドのゴールキーパーを、ぶち殺して、首をちょん切って、その首を蹴ってサッカーをやって遊んだりしている。

もともと、そういうスポーツで、そういうファンなのね。

東京でサッカーのワールドカップが行われることになって、
日本にとっては前代未聞というか、本国でも札付きの柄の悪いイギリス人が大挙してやってきた。

ゴジラがやってきたようなもので、ははは、服部時計店とかなくなるんちゃうかしら、と思ってみていた。
メーサー砲が出動しなければならなくなるのではないか。

ところが、いつもはチン〇ンまるだしで夜更けの町を走りまわったり、酔い覚ましの運動の代わりにパブの椅子をバッキバキに折ったりするのが習慣のおっちゃんたちが、おとなしくて、イギリス人の暴走ぶりに眉を顰めて、「話には聞いていたが、やっぱりイギリス人て乱暴なだけのバカなんですね」と語る日本人の談話を伝えようと手ぐすねひいていた特派員たちをしらけさせた。
そのかわりに見出しとしてでかでかとテレグラフ紙の、スポーツページのトップを飾ったのは
「もしかして、わしら好かれてるの?」
という傷ましくもマヌケなフーリガンの言葉でした。

ひょっとして日本人はイギリス人が好きなのではないか。
イギリスを好きな国が存在するなんて、そんなバカなことが現実にあるのかしら。

あまりのことにショックを受けたフーリガンたちは、暴れもせで、色も隠して、なんだか幽霊をみてしまった猫のおとなしさで、ぼーぜんとしたまま故国に帰っていったもののよーでした。

そういう例を思い出しても、やはり平均的なイギリス人の自国評判への印象は、「よく知らんけど、外国人はわしらのこと嫌いなんじゃない? そういうものなんちゃうの?」であると思います。

で、本題に入るまでに前置きが長かったので、前置きだけで、ごまかしてやめちゃおうかと思ったんだけど、今日は大晦日で、2016年という始まりから終わりまで、みっちりサイテーな出来事がおせち料理の重箱のように詰まった、世にもくだらない年の最後の日なので本題を書くと、
「嫌われることを恐れてはいけない」ということを書こうと思っていました。

James F. 、自称大庭亀夫の、日本の四海に数多跋扈する、おっさんトロルたちのあいだでは、日本語が上手すぎるのでニセガイジンなのではないかという根強い噂があるらしいヘンな人が、

と述べている。
このもともと能力が著しく筋肉の機能に偏ったにーちゃんが自分の頭で考えて、まともなことを言うわけはないので、いずれ、なんとはなしに英語人の世界では、あったりまえのことを、日本語の表現を思いついたので書いてみたら、なんだかやたらたくさんの人が、あろうことかなかろうことか、意外なことを言うね、と反応して、いっぱいリトゥイートされて、ごくごく平凡な英語人にとっての生活の基本的態度を書いてみたら、なんだかうけてしまった。
なんでだ?
程度のことだと想像される。

だから逆の立場からは、留学生も、オフィスの同僚も、あるいはビジネスの相手も、果ては遙々やってきた首相ですら「日本人はYesしか言わない」ので知られていて、けしからん人々に至っては、日本の女の子のそばにすりよって、「イッパツやらせてくれない」と聞いてみて、「No。向こうへ行け、シッシ」と言われて、逆上して、「日本人だからYesに決まってんだろ。このスベタめが、こうしてくれるわ」と待ち伏せしていたパブの隣の空き地で絞め殺してしまった(←じつは実話)りしている。

日本人はYesなひとびとで、不思議がられている。

日本文化のなかで育った人が極端に人に好かれようとする傾向があるのは、同根で、嫌われることを異常なくらい避けると、ぼくには思える。
めんどくさいことに、またぞろ「えええー。人に好かれたいのは、どこの国民だっておなじなんじゃないですかあ?」の人がやってくるに決まっているが、これは別のブログ記事が書く予定なので、ここではシカトする。

こういうことがあった。
ぼくの家を買いたいという人がやってきたんだよ。
初めはデベロッパーと不動産会社の人がふたり連れでやってきた。
市場の価格の二倍で結構ですから。

中国って行ったことないんですけど、やっぱり小籠包とかおいしいんですか?
へえええ。14歳で、初めての家を買ったんですか?
中国の人のあいだでは普通のことなのだろうか。
それからドミニオンストリートの酸辣湯がおいしい店や、むちゃくちゃ辛い担々麺の店を話をして40分くらいも笑い声に満ちた楽しい世間話をした。
開発というものを嫌う人もいるけど、ぼくは基本的には町にとって良いことだと思います。
プタカワの木が、どんどん切り倒されてしまうのは嫌だけど、バブル経済の開発のせいで町並がどんどんよくなってゆくのも事実であるとおもう。

さて、では我々はこの辺でおいとまします。
売っていただけるということでいいですね。

NOと言ったので、デベロッパーのおっちゃんの顔が凍り付いたようになった。
ヘビー級ボクサーJames F.のボディブローをもろに受けて、息ができなくなって踏鞴を踏む人の表情になった。

隣に腰掛けていた不動産会社役員のおばちゃんは、なんだか憤然として、こっちを睨んでいます。

デベロッパーおっちゃんのほうは、金髪碧眼そのままの明眸皓歯の、右耳からのぞくと左耳から反対側の景色が見えそうなバブリー美人なおばちゃんと異なって、少しは知性があるようで、文字通り真っ青になりながら、懸命に感情を踏み止めて、
理由を訊いてから、「なるほど、それなら、私でもノーというかも知れません」と驚いた顔で横顔を見つめるおばちゃんを尻目に答えた。

CCDカメラで見ていると、そのまま、なんだかよろよろしながらドライブウエイを歩いて、帰って行きました。

気の毒に、と英語人も思う。
日本人だけではないのね。

ある日、自分にはもっと違う人生があるはずだと思いつめて、決心して、34歳の女の人が、
「別れようと思う」と告げる。
びっくりして言葉を探す夫。
だって理由がないじゃないか。

理由の見当もつかないあなただから、そして、そういうところがあなたのかわいいところだけれど、別れる決心をしたんじゃないの、と当然奥さんは思うが、イギリス人やニュージーランド人は、あんまりそういうことを言い募ることを好みません。
「もう決めました」とだけ、言う。
夫のほうも、まるきりのバカではないので、鉄の仮面のように冷たい表情の妻の内心には激しく哭く声が反響していることくらいは判っている。

あるいは働き者で常連客の評判もとてもいい若いアルバイトの女の子に、週末の忙しいときに休まれると困るので、考え直してくれないか、と店主が頼んでいる。
女の子は、にっこり笑って「ノオ」と言う。
特に理由を説明もしないし、店主も説明を求めはしません。
意味がないから訊きもしないし、説明もしない。
NoはNoで、本来、Noである理由を他人に説明する必要が、あるはずがない。

ところが日本の社会では、社会の悪い癖で、突然、店主が詰り始める。
いままで、あれほど待遇を考えてやったのに、どうしてそんなことが出来るのかな、おれには判らないよ。
酷い人になると、きみは世の中を甘くみすぎているのではないか、というようなマヌケな説教を始める人までいる。

仲が良いバイト仲間の女の人に、あることもないことも、あることとないことの比がが1:7くらいの悪口を吹き込み始める。
更衣室のドアをパッと開けただけで、自分にたいして敵意がピュンピュンとんでくるのが肌でわかる。

ぼくの観察によると、日本は、宥和を破る人間を殺人犯や幼児強姦魔なみに憎悪する点で世界にも珍しい国なので、めんどくさいが、平たく述べて「嫌われる」ことになるよーです。

でもね。
それは日本の社会の側の問題で、きみの問題ではないのですよ。
日本語の壁がどんなに高くても、インターネットが神経系ネットワークのように世界を覆う21世紀の社会なので、だんだん人間は自由なのだということがユニバレしてきて、隠せなくなって、天然全体主義の日本の社会でも、ひとり、またひとりと個人主義の人間が誕生してゆく。
その嚆矢としての時期に生きているので、自然、軋轢が生じるが、それはあくまで情緒による全体主義的な社会を維持することによって、たいしたマネジメント努力なしに日本語人をこきつかおうという要請に血迷っている社会の側の、しかも古臭くて、ないものねだりの性向が引き起こす問題で、不快ではあるが、きみのほうに問題があるわけではない。

だから、日本の社会で人間として生きようとして、周囲に嫌われることを恐れてはいけないんだと思うのね。

え?
本題、たったそれだけなの?
と、つぶやいたきみ。

ほんとは、そもそも邪なものに嫌われないということはダメなことなのだとか、なんとか、かんとか、書きついで論旨を拡大しようと思っていたのだけど、
シャンパン飲みたいんだよー。
本題に触れただけでもラッキーだったと感謝するよーに。
寛容が大事ですぞ。

明日は、みなが静かでやさしいもの思いにひたる、お正月なんだし。
ふふふ。


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