なぜ、あなたがそこに立っているのだろう、とおもうことがある。
人間が出会うことほど不思議なことはなくて、あなたと会って、結婚という社会制度に名を借りて、ふたりだけで暮らそうと決めたことの不思議をどんなふうに説明すればいいのか判らない。
いい考えだとおもう、という、あなたの答えを信じたふりをしたが、ほんとうはあなたが別段日本に限らず、アジア全体に(偏見というのではなくて)まったく興味を持っていないのを知っていた。
わがままなぼくは、信じたふりをして、まだもうちょっと付き合ってみたいと思っていた日本語が成り立たせる社会を、あなたと一緒に訪問したのでした。
東京も鎌倉も気に入らなかったけれど、あなたは軽井沢は気に入ったようだった。
「長野県の人は冗談が判らなくて、真に受けて、ニュージーランドの人たちみたいだ」と述べたら、あなたは、なんだかムキになって、軽井沢の人は善い人ばかりではないか、と怒っていたが、ほんとうは、それを聞いて、とても安堵していた。
自分の都合で、あなたの一生のうちの何分の一かを浪費したくはなかったから。
1回目の滞在の終わりだったか、あのミキモト真珠店の、白髪の老店員が、あなたが身に付けていたネックレスを指して「お嬢さんのような立派な家のかたにお売りできるような真珠を、お恥ずかしいことですが、もう私どもは持っていないのです。
海水の温度があがって、いまの真珠は、あなたがたのようなひとびとが身に付ける真珠に較べれば、二流以下のものしかないのですよ。
どうか、お嬢さんがお持ちの真珠を大切になさってください」と述べて、びっくりして、あなたは日本文化を少しずつ好きになっていった。
一瞥するだけで、社会でも個人でも、すっと本質を見抜いてしまうあなたは日本の社会が天然全体主義とでも呼ぶべきもので、そのせいで個人は深く深く病んでいて、個人から全体を見ずに全体から個人を見る、奇妙な視点を持っていることに辟易して、まったく興味をもたなくて、日本の社会で暮らしているはずなのに、すべて欧州かアメリカに住んでいるかのようにふるまって、友達も皆欧州人で、もちろん日本の人と接触すれば、途方もなく親切だったけれども、社会は嫌いで、それなのに日本という不思議な(日本の人が聞けば地団駄を踏んで怒るだろうが)途方もなく遅れた社会に興味を持つようになっていった。
軽井沢の家が、森の奥にある趣であるのも良かった。
あなたは、都会っ子で、フランス系のアメリカ人として、あのマンハッタンの、なんだかバカバカしいほどおおきなアパートメントで過ごしてきて、実家は、あの通りの日本語で言えば荘園だが、田舎で過ごしたことはなくて、そのせいで、軽井沢の家がとても気に入ったようでした。
オカネをかけて念入りに舗装された県道?の脇にクルマを駐めて、ガメ、ここでピクニックにしよう、景色が素敵、と言い出したときには、ぶっくらこいてしまった。
あなたは舗装道のまんなかに敷物を敷いて、のんびり、ランチボクスを拡げて、コーヒーを飲み出して、恬淡としている。
「クルマが来たら、どうするの?」と聞くと、
ガメは、観察力がないなあ、この道路に最後にクルマが通ったのは、さあ、一年以上前だと思う、と述べて、澄ましている。
ずっと後になって、道路が続いていく先の、何のために架けたのかよくは判らない橋が閉鎖になっていて、クルマが来る心配をしなくてもいいのが納得されたけど、
そのときは、大胆さで、モニだなあ、とマヌケな感想を持っただけだった。
きみは笑うだろうけど、ぼくは、自分がきみだったらなあ、とよく思うんだよ。
こういう感情も嫉妬と呼んでもいいかも知れません。
いつか夜のミッションベイに行ったら、バーでふたりでワインを1本飲み終わったところで、ガメ、波打ち際に行こうぜ、と述べて、途中で靴を脱ぎすてて、波打ち際に素足をひたして立った。
聴こえる?
といって、微笑う。
ほら、音楽みたいでしょう?
ニュージーランドのハウラキガルフは、潜ってみると、70年代の日本漁船の乱獲に怒ったマオリ人たちが日本漁船に立ち入らせないようにしてから、帆立貝たちにとっては天国で、カーペットのように帆立貝が生息していて、死ぬと、
亡骸の貝殻は割れて、波に運ばれて、浜辺に運ばれてくる。
その小さな小さな帆立貝の破片が、波でお互いにぶつかりあって、
なんだか超自然的な旋律を奏でる。
そのことを、なぜか、先験的と言いたくなるようなやりかたで知っていて、
現実にはどんなチューンなのかを知りたくてやってみたのだと、後で、きみはこともなげに言うのだけど。
その精細な目で、興味を持ち始めた日本を見て、カメラを持って、日本を撮りはじめた。
その最後の日を書いたブログを、いまでも懐かしく読む。
Hurdy Gurdy man
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/
きみやぼくにとって、日本て、いったい何だったんだろう。
西洋の「日本」は明らかに基礎を小泉八雲に拠っていて、人柄もよくて、親切で、日本に対して巨大な理解をもった、この弱視のアイルランド人に出会ったことは、日本の人にとっては、文字通り世界史的にラッキーなことだった。
そのことは大学で後任の夏目漱石に対しておおげさに言えば叛乱を起こした学生たちの失望の言葉を読めば判ります。
内部では北村透谷という偉大な詩人、といっても詩の形では滑稽な詩しか書けなくて、散文を書くと詩になってしまうという不思議な詩人だったが、が島村藤村という意識的に内なる詩人を殺して、散文家として徹底した詩人の魂を通じて、日本という(嫌な言葉だけど)情念を育てていった。
日本語は輝いていって、大江健三郎が生涯目標にして、手が届かなかった岩田宏や、その岩田宏を好きだと大江健三郎が述べたのを聞いて、おまえは若いのにどうしてそう詩が判らないのかと殴り合いの喧嘩になった田村隆一の頃に頂点を極めていた。
もちろん同じ時代に、西脇順三郎という人が、むかしのヴァイニルでいえばB面の佳曲をつくるように、不思議に美しい日本語を奏でていった。
その燠火が消える頃に、モニ、きみとぼくは日本にやってきて、ふたりで、
なんだか欧州人からみれば「ここではないどこか」に見えなくもない、不思議な社会を眺めていたのだった。
ぼくの日本語を読む人は、よく福島第一事故と、そのあとの政府の出鱈目に呆れて日本を去ったのだと誤解する人がいるが、現実はそうではなくて、2010年に、ぼくは日本語社会に「飽きて」、それまでは居心地がよいようにと願って買ってもっていた、鎌倉、広尾、軽井沢の家を売り払って立ち去ることにしたのだった。
ぼくの悪い癖で、興味がなくなって、そうなると戻って仕度をする気もしないので、人任せで、オークランドに着いた引越の荷物を見たら、ゴミが入ったままのゴミ箱まで、そのまま綺麗に梱包されていて、なにがなし、日本の人の丁寧さを思い出して、なつかしい気持ちに浸ったりしていた。
そうして、「日本」はどんどん遠くなっていった。
ぼくは、ほんとうのことを認めてしまえば、中途半端なことが嫌いで、中途半端が嫌いだという人間がおしなべて嫌いなので、ややこしいことだが、
言語なら母語人よりも上手でないと嫌なのだと思う。
気が狂った人のように日本語ばかり読んでいた時期があって、気が付いてみると筑摩書房の近代日本文学全集や岩波の古典文学大系をはじめとして、主立った日本文学全集をあらかた読んでしまっていた。
学校で教わったフランス語や、映画やテレビ番組が中心だったイタリア語やスペイン語に較べて効率が悪かったが、ぼくは良かったと思っている。
日本語は、実は、沈黙のために生まれた言語ではなかったか。
去年、欧州の帰り道に寄った二日間を除いて、もう、まるまる6年間も日本に戻っていないんだなあーと思う。
ぼくにはぼくと日本語を話す周りの人や友達を持たないので、もう6年間、ほとんど日本語を使ってないことにも驚いてしまう。
日本語ネットで、入れ替わり立ち替わり現れる日本人の大半は、意地悪で、悪意と憎悪をたぎらせていて、ありとあらゆる手をつくして相手を傷つけようとする人ばかりで酷いが、日本にいたときの現実世界の日本人を憶えているので、特にそれで日本人自体を嫌いになるということもないみたい。
きみとぼくが日本に数ヶ月でも住むことは、もうないだろうけど、ほら、おぼえてる?
湿気がすごい軽井沢の真夏に、家の庭の森にテーブルを出して、ふたりでシャンパンを飲んでいたら、突然、豪雨が降り出して、気持ちがよくて、ずぶ濡れになりながら、ふたりで躍り上がって喜んだ。
あるいは、ニュージーランドに行く前の日に、忘れ物を取りに軽井沢の家に行ったら、出立する朝には森全体が凍って、この世のものとは思えないくらい美しかった。
日本は最近の歴史が醜い仮面と悪趣味な服を着せてしまったが、もともと美しい国なのだ、とぼくは思っている。
日本の人の心も、同じなのかも知れません。
