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Channel: ガメ・オベールの日本語練習帳_大庭亀夫の休日ver.5
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川へ飛び込む

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新竹へは一度行ったことがある。
子供のときのことで、ぼんやりとしか憶えていないけどね。
両親と、コンピュータ会社の役員をしているドイツ人のおっちゃんと一緒にデスクトップPCのケースを作っている会社を訪問していったのだと思う。
「台湾のシリコンバレーなのです」と誰かが述べたのをおぼえている。
案内してくれた台湾の人の運転が荒っぽくて、怖い思いをした。
もう、そのくらいしか憶えていない。

同じ年だと思うけど、薄暗い、台北の小路に、ほんとうはそんなに暗かったはずはないが、記憶のなかでは暗い店が並んでいて、ちょうど鳥のための止まり木のような形をした台の上に鎖につながれたオランウータンが、どの店にもいるんだよ。
そうして蛇を地面に叩きつけて殺している人たち。
何層にもこびりついた蛇の血で赤いアスファルト。
ずっと後で、なにかの本で、あれは店の繁栄を願って台湾のひとびとが飼うオランウータンなのだ、と書いてあったが、そのときは、ただただ怖くて、オランウータンたちが気の毒で、いっぺんに台湾が嫌いになってしまった。

あとになって何回か台北へでかけたときに、茶店でお茶を御馳走になったり、さまざまなお茶の違いについて説明をうけて、台湾を見直したというか、台北人の典雅に触れて、なるほどこの人達の文明度は高いのだと実感した。
ブラシ、書道の筆の店でもおなじで、奈良の人は「中国の筆は作りが粗くてダメなのだ」と述べていたが、そんな違いは判らないから、端的にいって、ぼくの毛筆の知識は、2時間くらいも説明してくれた、そのときの、英語に堪能な女の店員に教わったことがすべてです。

きみが新竹の研究所へ出張しているのをツイッタで見て、あの台湾の暗い町を思い出してしまった。
招待されて出かけた住宅地への途中の町並も、台湾名物なのだという「エビ釣り」に連れていってもらった町も、記憶のなかでは途方もなく暗くて、日本の町も冷たい白い光のなかで暗くて寒々としているが、それよりもさらに暗くて、台湾というと、その「暗い町並」を思い出す。

ladaさん(@spicelada)とccさん(@_cc_bangkok)という夫婦がいて、この人達のツイートは面白い。
初めて見かけたときは、たしかマラッカに住んでいて、そこからランカウイやペナンと移り住んでいた。
しばらくベトナムにも住んでいたりして、見ていると、サイト制作の仕事をしながら、アジアの国のあちこちに会社をつくって、旅行の趣味と仕事を兼ねているものであるらしい。
食べ物の写真がいっぱい載っていて、それがどれもおいしそうで、連続したツイートを眺めていると、いつもマレーシア料理屋にでかけたくなってしまう。

昨日はマレーシア料理のディムサム(点心)という不思議な昼食を夫婦で載せていて、夫婦で載せているのだから、なんとなくお互いに素知らぬふりをしているので遠慮していたが、もう夫婦であることをばらしてしまってもいいのだろうと考えて書いているのだけど、中国料理のディムサムとはまるで食べ物が違っていて、写真を眺めているだけで飽きなかった。

ディムサムの体裁をとっているのだからマレーシア料理ではなくてニョニャだと思うが、それにしてもおいしそうで、第一、オークランドでは見たことがない料理で、たくさんマレーシア料理屋やニョニャのレストランがあると言っても、やっぱりマレーシアに出かけてみないと判らないのだな、と考えた。
他の片言(へんげん)にも面白い所があって、「中国の点心とは異なってチリソースで食べるのだ」と書いていたが、オークランドではどこの中国料理屋も点心はチリオイルと醤油がふたつに仕切られた小皿に入ったものが基本で、残りは店員にお願いして、チリソース、黒酢、紅酢、ウスターソース、タイ風の甘味があるチリソースのなかから自分の好みのものを持ってきてもらう。

「中国の点心とは異なってチリソースで」ということは、中国の町では点心をチリソースで食べないのか、と思って、読んだ後、暫く煩悶してしまった。
「孤独のグルメ」という日本のテレビドラマを観ていたら、白胡椒と米酢で餃子を食べていて、そんなことが出来るのか、と実験してみたら、白胡椒はあんまりおいしくなかったが黒胡椒と米酢は意外なくらいおいしくて、びっくりしたが、では点心は、そもそも何が本来のソースなのか、それとも本来のソースなどはなくて、中国の人らしく、個人に依っててんでんバラバラなのか、しばらくインターネットで調べてみたが、結局は要領を得ないで終わってしまった。

きみの新竹でのお昼ご飯は、大皿に点心が盛られてでてきたところで写真を撮って
「うまそう」と書いていたが、見た目がもうおいしそうでなくて、これは期待できないよね、と思ってタイムラインを眺めていたら、案の定、「それほど、おいしくなかった」と食後の感想が書いてあったので、きみらしいと思って笑ってしまった。
新しく遭遇したものを先ず信頼して、ポジティブにとらえて、そのあとの反応が率直で飾らないのは、自分では知らないかもしれないが、きみの特徴です。
受験秀才の頭の悪さとはかけ離れた知性が感じられて、なんだかいつも暖かい気持になる。

いまは秋で、雨ばかり降っている。
雨ばかり降っている、というと一日中、降り込んで暗い午後を想像するが、オークランドの天気は変わりやすい点でブリテン島と良い勝負で、秋などは、どんなに雨が降っても一度は太陽が顔をだすヘンテコな天気で、馴れない人は発狂しそうになるという。

ぼくは相変わらずで、怠けてばかりいて、月曜日に実行するはずだった用事が火曜日になり水曜日になり、今度はパーティだのなんだので、ミュージカルのEvitaが来るので観に行かねばならないとか、シドニーのモダンダンスのカンパニーがアオテアセンターで興行をぶつのでガメとわたしの切符を買ったとモニが述べたり、
あれやこれやと遊んでいるうちに、次の月曜日になったりしていて、われながら生産性がない。

きみも、もううんざりして、「お手上げ」な気持になっているらしく見えるが、岡目八目、ありゃ、そんなことやったらエライことになってしまうではないか、とハラハラしながら眺めていた日本社会は、すっかりとんでもないことになっていて、もう、一世代というような時間では回復できないところまで一見平穏な表面の皮膚だけを残して、内部の腐敗は、手の施しようがないところまで、すすんでしまったように見えます。
ここまで病状が進行してしまえば、議論というようなことはする気になれないので、ときどき若い友達や女のひとびとに向かって、可逆的にものごとをすすめられる地点をいま過ぎた、とか、なにしろきみの国の政府は、他国の首脳に向かって、彼らの耳には聴いた途端にオオウソであると判ることが自明な事柄を、報道されたニュースを通じてしか事態が判らない自国の国民を欺く目的だけで堂々と発言してみせるというくらい不誠実な政府なので、念のためにいうと、あれはもちろんウソで、英語の記事はこんなふうになっている、ということはあっても、それを起点に議論するということは、やってももうムダなのでやりたくない。

日本は、骨の髄までしみ込んだ、ほぼ情緒と一体化してしまっている天然全体主義が祟って、リベラルからライトウインガーまで、目的語をいれかえれば両者の主張や修辞がそっくりそのまま同じになってしまうくらい、ひどい状態になってしまっているように見えます。
全体のほうからではなく、個人の内部から事象を観ることが出来るのは、世代的に言えば20代の人々まで遡らねばならないので、そこまで社会が保つかどうか。
あるいは、社会のなかで力を与えられていない彼らが、あと20年、歴史の地中深く根を生やしたような、文明全体で人間を作り変えてしまう日本固有の全体主義文化によって潰されないですむものかどうか。
日本の歴史上、初めて現れた若い自由人たちが、全体主義の此岸から暗い、流れの速い川に飛び込んで、自由社会の彼岸に無事泳ぎ着けるかどうか。

無理かもな、と考えることがあるけど、きみが「ゆとり教育と言って、きみたちをバカにするおとなたちは、日本で初めてまともな教育制度を受けたきみたちに嫉妬しているだけだから気にするな」と述べていたりするのを観ると、おとなたちのなかには、まともにものを考えられる人間がいて、それを率直に表明するだけの勇気があることが判って、自由な彼岸から差し出された知性の手が、案外、マサキ(@6yue_e)や無栖川(@nashisugawa)たち、いま20代前半の世代の溺れかけた手をがっちりつかまえて、自由社会へ引きあげる日が来るのかも知れない、とも思う。

目下の展望では、アジアで初めて自由人の大群が集って真の自由社会を生み出すのは圧力鍋みたいなゴチゴチの全体主義で生まれついて自由人の国民を圧している中国だが、日本も案外とそれに続いて自由人の国になる日がくるのではないだろうか。

その日を楽しみにしている。
そして、そのときは必ずきみに会いに行くよ。

では



笑う兵隊

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スティーブン・スピルバーグやトム・ハンクスたちが制作した太平洋戦争を舞台にしたセミ・ドキュメンタリ「The Pacific」を観ていると、終盤の沖縄戦で「オキナワ人」と沖縄県人を呼んで、日本人と区別して考えていたのがわかる。
他の本や記録も同様で、沖縄人と日本人をふたつの別別の民族だとして扱っている。

兵士達はブリィーフィングや情報将校が作製した資料によって両者を区別して考えるにいたったのかといえば、そうではなくて、洞窟からアメリカ軍側に走って逃げようとする沖縄人を後ろから機関銃で射殺し、あるいは胴体に爆薬を巻き付けさせて、避難民の群れに混ぜ、沖縄人たちもろともに米兵を爆殺する、あるいは夜闇に乗じて沖縄人の家庭を襲って、妻や娘を強姦し、食糧を強奪して一家皆殺しにして去る、日本軍の明らかに沖縄人に対する、外国人、しかも敵性の外国人としての扱いを観て、自然と「沖縄人と日本人は別」と印象したもののようです。

日本語の記録だけを読むと、まるで沖縄人と日本人が共に圧倒的な軍事力のアメリカ軍と非望の英雄的な戦いを戦ったように書いてあるが、英語側の記録には、沖縄に上陸した途端、老婆に抱きつかれて「助けてください。日本軍が、食糧をすべて持っていってしまった」と慟哭して訴えられる様子や、両親と兄を日本軍に殺されて泣き叫ぶ女の子の姿が頻繁に記されている。

どんなやりかたで日本軍兵士が沖縄人を殺戮したかについては、死体の山の下に隠れて奇蹟的に生き延びた沖縄人の子供たちが戦後何十年も経ってからアメリカのテレビ局のインタビューに応えて残した証言がいくつもある。

殆どの場合、夜に山の洞窟を出て集落へ跫音を忍ばせて降り、分隊規模で数家族を急襲して、まず成人した男を殺す。
食糧を庭にあらいざらい持ってこさせて、掠奪が完了すると、妻や娘を強姦する。
最後は庭に整列させて手榴弾で殺戮する。
息の根が残っている者がいると、銃で射殺してまで念入りに殺してから立ち去ったのは、中国大陸での日本兵とやり口がおなじで、つまりは、どこかに訴えでられて証言されると面倒なことになるからです。

海軍陸戦隊指揮官だった大田実の
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
という、たしか海軍次官への電報は
有名だが、帝国陸海軍は、いざ民間人が相手のこととなると軍紀が弛緩して上官に従わない兵士が多いのが特徴的な軍隊だったので、もしかすると本人は配下の兵が何をやっていたのか知らなかったのかも知れないが、いい気なもので、やってることは桁外れに非人間的な行為であるのに、いつのまにか悲壮な美談にすり替えられて、いま日本語ウィキペディアを見たら「十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった」
という戦後のベストセラー戦記作家吉田俊雄の文章からの引用があるが、なにしろ、若い特攻隊員の純心に感動して特攻機に同乗して死んだ慰安婦や、「国のために喜んで死んだ」沖縄県民の話が大好きな日本人趣味そのままで、なんだか読んでいてげんなりしてしまう。

ふつうのアメリカ人から観ると、太平洋戦争はどのように見えているか?ということを示そうとおもって、
「ふたつの太平洋戦争」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/
という記事を書いたら、案の定「筆者は、カミカゼのせいで原爆を落とすことになったのだと主張しているが」とあちこちで書かれて「やっぱり」と笑ってしまったが、
口角泡を飛ばして自分の主張を述べ立てるのに忙しくて、そもそも他人の話を聴く習慣がないのか、わざと曲解してみせているのか判らないが、落ち着いて読めば「筆者の主張」などは最後の
「もういちど、なぜ、あの太平洋戦争がふたつの異なった戦争として歴史に存在するのか、考えてみることにも、少しは意味があるのではないかと思います」

以外はなにもなくて、ただ、種を明かせば、数冊の歴史の本といくつかの著名なドキュメンタリーにネット上でのアメリカ人との議論を土台に、今日、アメリカ人が持っている「太平洋戦争」のイメージに最も近いものの姿を書いてみようとおもってだけのことだった。

日本の「愛国者」が信じたくない事実を書いたときの反応の定番というか、
「他の国だってやってることじゃないか」「日本人は白人の人種差別に対してアジアを開放するために戦っただけだ」ほか6つくらいある常套の詭弁を別にして、
日本語で書かれた太平洋戦争についての記事は日本が加害者であったことをうやむやにして、なあああーんなく被害者のような表情をつくって、必死に抵抗したが勇戦むなしく負けてしまいました、というような話が多くて呆れてしまう。

強姦しようと思ったら相手に股間を蹴られて気絶した犯人が女に襲われた、おれのほうこそ被害者だとマジメな顔をして述べているようなもので、橋下徹や石原慎太郎の広報活動が功を奏して、この「日本話法」はいまでは英語世界にも知れ渡るようになってきている。

戦争は、その当事国の文明の形を尖鋭な形で教えてくれる。
「零戦をあまりに愛しているので、零戦が好きだという人間が全部嫌いなのだ」と述べた宮崎駿は日本の文明のたおやかさへの愛情と、その裏側にある好戦性に代表される日本文明の攻撃性への嫌悪を述べている。

兵器の形ひとつとっても海軍でいえば金剛の改装に典型的に観られるような「一艦完結主義」、あるいは重巡洋艦に特徴的なすさまじいトップヘビーの重武装、運用費や維持費のことは忘れていました、と言わんばかりの、ただパナマ運河を念頭においた机上の観念を鉄で具現化してしまったというほかない、動かすだけで国家財政が傾いてしまいそうな大和と武蔵の建造。
もっと細かいほうに目を移せば1000馬力級の延長上で改造を重ねて2000馬力級エンジンをつくろうとして失敗するところや、そんな兵器をつくったら兵士が弾薬を浪費するという理由で突撃機関銃の採用を見送ったり、いまの日本社会の種々の問題と同じ影の形を持った日本の病根が判りやすい形をなして顕れている。

アメリカを長い不景気から救いだした真珠湾攻撃に始まった対日戦争は、アメリカ人にとって未だに語り継がれる「The Good War」で、その後のベトナム戦争や湾岸戦争で良心が割れて砕けそうになるたびに、自分たちの歴史にも完全に邪悪な相手を打ち倒すために戦った歴史があるのだ、という戦争を正当化するときの良心の源泉になっている。
一方では、降伏を肯んじない狂気の軍隊を相手にして、女であるとみれば強姦して、中国人、韓国人、オランダ人、あるいは赤十字の看護婦として各所にいたオーストラリア人イギリス人やアメリカ人まで見境無しに集団強姦を繰り返して、そのうえ、捕虜に対して残虐な虐待を繰り返した日本兵への記憶は、戦争の色彩を、欧州戦線とは異なる薄汚いものに変えて、太平洋戦争を題材にとるのは長い間、商業上のタブーで、「思い出したくない戦争」として人々の歴史的な記憶の底で澱んでいる。
「太平洋戦争ものはヒットしない」が英語世界の娯楽産業では常識なのは、そういう事情によっています。

日本の人には安倍政権をみつめる英語人の気持が判りにくいのは、考えてみると、まるで正反対と言ってもいいような第二次世界大戦観を日本語を「絆」にして日本語人が共有しているからで、おなじ戦争だと言っても、観ているものが異なれば、異なる戦争を観ていることにしかならない。

日本にとっては不幸なことに、アメリカが冷戦に気を取られているあいだに、日本では少年雑誌、青年雑誌、単行本、映画をほとんど総動員して、「歴史の常識」を構築してしまったが、その直截の結果が安倍政権の再選とアメリカ政府を失望させて、その結果太平洋戦略を「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」のほうへ加速的にシフトさせた靖国参拝で、眺めているほうは、虚構化された歴史認識が具体的にはどんなふうにひとつの社会の身体に毒としてまわって、どんなふうに殺していくのか、目の当たりにして息をのむことになった。

ときどき、日本語は、こわい言葉だな、と考えることがあります。
日本語を共有しながら人間性を保つことは可能なのだろうか?

日本語こそが「天然全体主義」と呼んできたものの正体なのではないか。
日本人の全体主義性と攻撃性は言語そのものに内在しているのではないだろうか。

そう考えて、慌てて、ツイッタのタイムラインに行けばあえるはずの、日本語友達たちの、やさしい、あるいは愉快な笑いに満ちた日本語を聞きにいくことがあるのです。


ピークへ

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レストランOでモッツアレラチーズを練り込んでカリカリに焼いたパンチェッタがまぶしてあるビーフミートボールを肴にワインを飲んでキューバストリートをおりてゆくと、冬の「クリスピー」(←適切な日本語が思いつかない)な乾いた空気が頬にあたってモニとぼくの頬を薔薇色に変える。

「キューバストリート」にはフィデル、レボルーション、キューバにちなんだ名前の店やカフェ、レストラン、バーがたくさんあるが、この「キューバ」て、むかしウェリントンに寄港したことがある、ただの船の名前なんだけど。

日本の人は「言霊」が、とすぐおおげさに言いたがるが、それはチョーかっこわるいことで、そんなことはどの言語世界にもあって、このキューバストリートもそのひとつで、この通りを歩いているとウェリントンという町がハバナと特別な関係にあるような、ゲバラやフィデルがここで生まれて育ったとでもいうような特別にキューバに近い雰囲気を感じてしまう。

ウェリントンは「バー・クローリング」(←バーからバーへ、渡り歩くこと)が出来るニュージーランドではただひとつの町で、ダウンタウン「テ・アロ」での正しい週末の過ごし方は、たくさんあるカッコイイ、由緒も正しい欧州系のレストランのひとつで若い外交官たちや、多国籍企業の役員たちと、めいめいボトル1本のワインを開けたら、礼儀正しく別れの言葉を述べて、あとは、500mくらい歩いたら一杯ずつワインを飲んで移動するのがよい。

きみが好きなバーやパブのウエイターやウエイトレスたちは、たいてい、近所のバックパッカー用ホテルに泊まってる北欧や大陸欧州の若いひとびとで、客なんかそっちのけで、話し込んで、マネージャーが注文したトレイをもってくる始末。
彼らとの話は楽しくて、
「きみの国に行こうとふたりで話していたのだけど、冬がいちばんほんとうのスウェーデンが判っていいって、ほんとかい」と訊くと、目が覚めるような金髪で背が低い女の子が低い鼻を蠢かしながら言うのさ。
「おお。頼むから冬には来ないで! 冬に来た方が『ほんとうの』スウェーデンが判るのは真実だけど、誰も「ほんとうのスウェーデン」なんて知りたくないと思う。
夏のほうが、たくさんの人が外に出てくるし、気持が明るい人が多い。
お願いだから夏に来てほしい」

Lalehを知ってるかい?
イラン系スウェーデン人で、イラン人の友達にその話をしたら友達の友達だった。
お父さんは研究者で、イランでは有名な人なんだって。
「もちろんですとも!Lalehはわたしも大好き。
Lalehが嫌いな若いスウェーデン人なんていない。
彼女は天才だもの」

東京に行くのかい?
モニとぼくは東京にいたことがある。
ヒロオヤマという所。
渋谷にとても近い住宅地。
ぼくは子供のときに東京に住んでいたこともあるんだよ。
1990年代のことさ。
まだ日本人たちが繁栄していた頃。
妹と、両親と一緒にね。

「どうして日本は、あんなにダメになってしまったの?」
「アニメやマンガという文化があるのに、全体主義がはびこっているのはなぜなのか?」
「なぜ日本人は自由が嫌いなのか」
「その『おやじトロル』って、なによ(笑)」

(シェフが、また、「料理が出来た」合図のベルを叩いている)
(マネージャーのフランス人が鼻を鳴らして、モニとぼくのための料理を取りに行っている)

オークランドに来たら、遊びにおいでよ。
アクアビットも、あるど。

…..

それからモニとぼくは馴染みのギャラリーに行く。
画家たちやギャラリーの噂話をする。
アートショーが方針を変えたのは、なぜだろう?
彼らは、そもそも美術が好きでないのではないだろーか。

人口とは関係がないさ。
もちろん、いつでもウエリントンのほうが都会で、オークランドは図体がでかい町にすぎないけど。

ニュージーランドは、とても居心地がいい国になった。
メルボルンの例の家は売るかもしれない。
メルボルンは変わってしまった。
もう昔のメルボルンじゃないんだ。
夕暮れのヤラ川は、まだ素晴らしいんだけど。

世界のあちこちの町にも流行り廃りがあって、いまは南半球の時代である。
わしが生まれた国は浅薄を極めるようになって、若い国のほうに文化的なチャンスが生まれている。
北半球と南半球の英語国を若い世代の人間が、ちょうど血流のように、思想や美的感覚を循環させている。

日本語人に実感できるかどうか。
英語人や北欧人、ドイツ人、フランス人は、普遍性のある、同じ感覚器を持ちつつある。
同じ地平のある「常識」を培いつつある。

ちょうど中世初期にラテン語を媒介にして、文化の平準器が生まれたように、今度は英語を媒介に、巨大な文明マシンが生まれようとしている。

それを実感するとき、「世界はなんて素晴らしい場所だろう」と思うのです。
スウェーデン人も連合王国人もフランス人も、それがまるで普通のことであるかのように、歴史を通じて、ずっと当たり前のことであったかのように、同じ「常識」の上に立って議論している。
同じ情緒に立って、シリア難民のために涙している。
映画やテレビ番組のことを話して笑っている。

歴史の頂点に向かって登りつめているこの感覚は、いままでの歴史にどんな段階にもなかったことで、なんだか不思議というか、こんな素晴らしい時代に生まれ合わせるなんて、なんて運がいいのだろう、と思う事があるのです。

Touch wood!


どうでもいい日乗

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韓国式フライドチキンというものをいちど食べてみたいと念願していた。

ドキュメンタリがあるくらいで、韓国では、会社をクビになる人の多さを背景に、人口あたりのフライドチキン店の数が世界でいちばん多いのだという。

ニュージーランドはもともと韓国系移民のプレゼンスがおおきい国で、韓国社会でのフライドチキン店ブームを反映して、オークランドにもいくつか「韓国式フライドチキン」の店が出来ている。

オークランドに住んでいる人のために述べると、例えば、ニューマーケットの駅前のバス停の前に一軒新しい店が出来ています。

チャンスが来た。

オペラを観にやってきたAotea Centreのフードモールに韓国式フライドチキン店があったからです。

おいしそーかなーとテーブルに座ってマンゴーラシを飲みながらチラ見する、わし。モニが、「ガメ、勇気をだして一個買ってくればいいではないか」と激励しておる。

ところが!

厨房でフライドチキンをトレイから一個落っことしたおばちゃんが床から拾いあげたフライドチキンをトレイに戻した!

がびーん。

がびーんがびーんがびーん。

おばちゃん、わし、注文できひんやん。

床からもどしちゃ、ダメじゃん。

内田百閒のエッセイに東京駅精養軒の「ボイ」が、注文したリンゴを床に落っことして、そのまま皿にもどして百鬼園先生のテーブルに持ってきたのを見て激怒するところがある。

日本文学のベスト50に入る名場面です。

先生は「せめて、いったん厨房にもどって皿にもどすくらいのレストランとしての誠意を見せろ」と文中、激怒している。

それがウエイタの職業的誠意というものではないのか。

なにくわぬ顔でトレイに戻したフライドチキンを陳列する韓国おばちゃんの顔をみながら、わしは、百閒先生のことを思い出していた。

なんという懐かしい感じがする人だろう。

最近ツイッタを介して少しずつ顔見知りになってきた「いまなかだいすけ」が、「辞表だして御堂筋を歩いたとき、嬉しさがこみあげてきた」と書いている。

https://twitter.com/cienowa_otto/status/726251061363625985

ツイッタでは、もっと控えめに反応したが、あれはunderstatementで、現実のわしは、このツイートを読んで涙が止まらなかった。

どんな社会にもいる「自分がボロボロになるまで踏み止まって頑張り続けるひと」の真情が伝わってきたからです。

どこでもドアを開けて、いまなかだいすけがいる大阪に行って、手をとって、

「がんばったね、がんばったね」と言いたかった。

もとより、わしは「頑張ってはいけない」と言い続けていて、社会をよくするためには絶対に頑張ったりするべきでないし、頑張ってしまっては例の「自分という親友」を裏切ることにしかならないが、それと「頑張ってしまう人」への抑えがたいシンパシーとは別である。

自分でも、うまく説明できないが、わしは「頑張ってしまう」人がいつも好きである。

なぜか?

それが説明できれば、こんなふうに日本語を書いていない気がする。理由がわからないが、理由がわからなくてもいいことにしてあることのひとつ。

自分の、最もやわらかいところにある、なにか。

 

 

日本の社会の個人への残酷さを許してはいけない、とおもう。

日本人は偏差値が高い大学を出た人間が当然のように「目下」の人間をみくだすような幼稚な社会習慣をこれ以上もちこしてはならない。

それは人間性に対する冒涜だからですよ。

わしのところにもツイッタを通して@buveryという飛びきりのマヌケおやじトロルがやってきたことがあるが、なぜ日本の社会が、あんなオトナになりそこなったくだらないトロルを許容しているのか理解できない。

きみとぼくは同じ地面の上に立っていて、対等に話ができて、お互いの失敗を紹介して笑いあったり、苦しかったことを述べあって一緒に泣くのでなければならない。

人間が社会をなしている意味があるとすれば、それは個人が生きやすくすることで、それ以外には意味があるはずがない。

個人を幸福にしない社会なんて社会じゃないんだよ。

20世紀の為政者は「社会の繁栄を優先しろ」と言いたがったが、それは20世紀的な迷妄にしか過ぎなかった。

そんなことは社会が繁栄を享受するためにも不必要なことだった。

 

日本の社会が20世紀を出て21世紀の社会に移動するのは、いつのことだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 


Rising Sun

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コーデル・ハルのノートを眺めていると、戦争に至る人物群のなかで、ひと際、日本人全体への嫌悪に満ちていたのが判る。
この「国連の父」という祝辞のなかで死んだ人がグルーの報告や来栖・東郷の述べる事をまったく信用しなかったことは日本の真珠湾攻撃に直截むすびついた。
ハルの念頭にある日本人は「嘘つきで攻撃性が強い倫理がゼロの民族」で、その日本人全体への印象は終戦後も変わらなかったが、見ていて印象に残るのは、ハルの日本人観は、例えばキッシンジャーに受け継がれて、いまのアメリカの、外交上の「基本民族観」のようなものになっていることです。

朴槿恵の対日強硬方針は日本の人にショックを与えたが、そこで訝しんでいた人は朴槿恵が日本の陸軍士官学校の卒業生だった朴正煕の娘であることを忘れているので、問わず語らず、韓国の人にとっては「朴槿恵は日本贔屓なのではないか?」という疑いはつきまとって離れない疑問だった。
日本の苛酷な支配の下で、娘を軍隊付きの売春婦にするために連れ去られ、路傍で「態度が悪い」という理由にもならない理由によって殴られ続けた韓国の人にとって「公式の場で日本に対して宥和的な態度を示すこと」はタブーであって、光復節、日本の圧政からの解放を国家のアイデンティティとする韓国にとっては「公式には日本になれなれしくしないこと」が国是であるのは当然のことです。
「日本贔屓なのではないか」という国民の疑いは、だから、朴槿恵にとっては、常に政治家としてのアキレス腱だった。

あるいはアメリカ駐日大使として太平洋戦争前に戦争を回避するための様々な建言を行ったジョセフ・グルーへの英語世界での現在における評価は「口の巧い日本人に言いくるめられたおひとよし」にしかすぎない。グルーが誰の目にも「日本贔屓」であったことは、皮肉なことに、やはり日本贔屓の傾向があったフランクリン・ルーズベルト大統領を対日強硬策へ押しやることになった。

二日間、日本語を離れて、クライストチャーチへ出かけた。
友達と会って久闊を叙して、やっと始まった市街の復興で、いくつも出来た、旧来よりも遙かに審美的にも味覚的にも新しい、コンテンポラリーヨーロピアン料理を中心としたレストランで、ランチとディナーと、一緒に食事をして、楽しい時を過ごした。
未来の焦点であるナイジェリアの人々は、どう過ごしているか、今度、broodsが帰国公演をやるみたい、コロンボストリートにオーストレイジアでいっちゃんおおきいウィスキーショップが出来たから行ってご覧よ。
最もおおきな契約を担っているのはイタリアの会社で、そのせいで、街にはイタリア人がたくさん溢れている。
おかげでイタリア料理の質が向上してるんだ。

クライストチャーチは、地震から6年、ようやく復興のピッチが早くなって、CBDの半分はまだ廃墟で瓦礫の山のままだが、それでもあちこちに将来を見越したチェーンホテルが開業したりして、もう5年もすると、「新しいクライストチャーチ」が完成しそうだった。
フラストレーションで、それまではついぞ聞いたことがないクラクションの音をよく聞いたりして、苛立ちが隠せなかったひとびとも、穏やかな顔つきになって、チョーのんびりで有名なカンタベリー人に回帰しつつある。

町の南を縁取るポートヒルに登ると、満天の星空で、やっぱりオークランドよりも星の数が多いよね、とバカなことを考える。
そういえばリトルトンに住む友達にも長いこと会っていないが、今回は無理だな、次のときに訪問しよう。

モニとふたりで、叢に仰向けに寝転がって、星を見る。
シューティングスターが空を横切って、こんなに町に近い場所なのに流れ星が見えるなんてクライストチャーチはやっぱり田舎だと述べて、ふたりで笑い合う。

口にはださないことにしたが、こんなに楽しい生活をデザインしてくれて、ありがとうモニさん、と考える。
ところが、モニさんのほうは、急に上体を起こして、
「ガメ、ほんとうにありがとう」と言うので、すっかり驚いてしまった。

Uberで空港に行こうとしたら、「呼べるクルマが一台もありません」という表示が出てびっくりする。
タクシーを呼んで、uberが来ないのはどういうことなんだろう、と聞くと、朗らかな女の運転手の人が、「ああ、uberが町にやってきてから2ヶ月しか経ってないんですよ。わたしはuberもタクシーも使わなくて、普段はバスしか使わないからどんな様子か知らなかったけど」と言う。
「自分のクルマも運転しないんですか?」と驚いて訊く。
「運転は仕事だけ」と答えて笑っている。
最近はクライストチャーチでさえ、公共交通機関を使う人が増えた。
時代が変われば社会も変わる、と歌うように述べている。

メモリアルアベニューはオーバーブリッジを架けるための大工事ちゅうで、空港のアイコンであるスタンドの上のスピットファイアーが工事の音をうるさがっているように見える。

オークランドに着いて、uberでナイジェリア人の運転手と大笑いしながら帰ると、すっかり楽しくなって、日本語の世界を覗いてみようと考える。

初めに目にはいったのが

で、相変わらずというか、日本語世界で2日や3日インターネットから離れていると、いつも、例外なしに「言い訳ができなくなって逃亡中」ということにされている。
日本語は、こうやって眺めていると、小心で吝嗇な都知事や、首相や、リベラルや右翼や、ありとあらゆる事象を対象に悪罵がとびかい、中傷が蔓延し、誹謗を固定ツイートにしている人間のクズを絵に描いたような人までいる。
ひとに訊くと、このぼくへの中傷を固定ツイートにしている人は「民進党の顧問グループの委員も務めるリベラルの代表」だそうで、お里が知れる、というか、日本のリベラルなどは、その程度なのだろう、と推測がつく。

阿鼻叫喚、という言葉を思い出す。
生き地獄、ともいうのではなかろーか。

ドイツ人はナチの時代、思想の熱に狂ったが、日本人のあれは民族性だよ、その証拠にまたぞろ国家主義者の内閣を支持して靖国神社に参拝するということまでしているでしょう?
彼らは民族として他者を攻撃することしか考えていない、と述べた人がいる。
オーストラリアの内閣にいたことがある老人です。
政治家という非人間性に陥りやすい職業を持った人のなかでは尊敬している人なので、この人の、その言葉を日本について考えるたびに思い出す。
「日本人が変わるなどということは考えられない。見ていてごらん、彼らは必ずまたやるから」

最近はぼくも、諦めが先に立つようになって、悪い言葉で言えば「どうでもいいや」と考えるようになってきた。

Don’t let them get under your skin.
と英語なら言う。
表現として日本語には訳せないのではないだろうか。
ともかく、そういうことで、この6年間、ニセガイジンだの反日ガイジンだのと、「右」からも「左」からも盛大に誹謗中傷を浴び続けてきたが、考えてみると、いまの日本の人たちの、到底受けいれられない攻撃性だけで出来上がっているような文明から笑顔とともに受けいれられていたとしたら、そちらのほうがよほど問題で、自分の人格を疑わなければならなくなってしまう。

わしは知らん、と呟きながら、またコーデル・ハルの、日本人への嫌悪に滲んだ発言の記録へと戻るのでした。

ため息が出るけど


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ひさしぶりに三島由紀夫の「春の雪」を読んだ。
谷崎と三島とは日本文学のふたつの華で、このふたりの絢爛たる日本語を読んでいるときくらい「日本語をやってよかったなー」とおもうことはない。

言語表現としては西脇順三郎や田村隆一を読んでいるときのほうが、より高みのある、恍惚とした観念の塔にのぼることが出来るが、詩の欠点は、言葉にひたりきる時間が短いことで、日本語の馥郁とした香気に浸るには、どうしても散文でなければならない。

言葉は意識という時間のたゆたいをつくっている。
言葉がなければ時間も存在しない。
人間は自分を理解するに足るだけの言語を構築することによって自分自身を理解しはじめるのであって、そのとき初めて自分という存在が生じる。

人間として存在し始めるのは、そこからで、それまでは人間といえども、人間化が可能な動物、とでもいうべきものなのであるに違いない。
言葉が稀薄な人間は存在として稀薄である。
言葉が粗悪な人間をみると、名状しがたい、「人間になろうとしてもがいているなにか」に見える。
人間を人間たらしめているのは言葉で、他のものではない。
感情などは、観察すればわかる、犬のほうがよほど純粋に豊穣に持っている。

いつか、炭水化物は身体によくないような気がして、しばらく食べるのをやめていたが、炭水化物にも依存性があるのか、ときどき無性に食べたくなるので、トーストを焼いて、バターとベジマイトを塗って食べた。
きみはもともと連合王国人なのだから、マーマイトであるべきだ、という人がいるかも知れないが、いかなる因果にやありけむ、ぼくはベジマイトのほうが好きである。

そうしてベジマイトの醍醐味はパンと一緒にやってくる。

きゅうりのサンドイッチとベジマイトを塗ったトーストは、自分の一生そのものみたいな食べ物なので、毒でもなんでも、やめてしまうことはないだろう。
この炭水化物も人間にとっての「言葉」のようなものなのだ、とヘンなことを考える。

人間を人間たらしめているなにか。
人間が存在を依存しているなにごとか。
人間が人間たる所以。

人間にはたくさんの秘密があるのではなかろうか。

日本語は自己愛にひたるのに向いている言葉である。
谷崎的な世界。
谷崎は男語の世界をまったく信用していなかった。
言い方を変えると、日本語においては女の言葉だけが真実を語りうるのだと知っていた。
言われてみれば、日本語はもともと翻訳語として以外は、女が生みだした言葉なので当然のことなのだが、そんな簡単なことも谷崎潤一郎が現れるまでは隠蔽された事実として存在した。

日本の男達の野蛮性は、少なくとも部分的には、言語の欠落に由来している。
妙にしゃっちょこばった、現実から乖離した観念的な思考しか出来なくて、なにをどう考えても「机上の空論」に戻ってしまうのは、もともとスムースに機能する言語をもたないからだろう。
日本語人の男が話すのを聴いていると、年老いた、駄々をこねる子供のような、不思議で歪(いびつ)な印象を受ける。
論理がまるでデタラメで、懸命に「イヤイヤ」をしている人のようである。
「イヤイヤ」をする人の顔を見ると、老人で、そのかけたがえたような印象が、「日本人の印象」になっている。
老いた子供。
(彼にとっての)悪戯としての性的興味に満ちた、スケベニンゲン。

それは畢竟「愛」ということがよく判らずに成長してしまった人間の姿であって、母親に愛されるばかりで、誰かを男として愛する、という立場を持たなかった人間の姿である。
「無限に許す女」というイメージが19世紀のロシア人や20世紀の日本人は好きだが、公平に述べて、それは甘やかされた人間の妄想であるとおもう。
英語人なら「Grow up!」と述べるだろう。
人間はおとなになれば、子供っぽい、口に指をくわえた幻想から出て、女も人間なのに違いないという現実になじまなければならない。

女は「おかあさん」ではない。
女のひとは、きみの前に、きみと変わらないひとりの人間として立っている。

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Christine and The Queens

は、目撃した人たちに、「こんなことがありうるのだろうか?」という衝撃を与え続けてきたが、最近、あれは結局、あくまでも自分独自であろうとする欧州人の伝統の延長にあるのだ、と考えるようになってきた。

こういうと日本語人は非難の嵐で、「いったいなんという傲慢か」と述べるだろうが、やはり、「文明」と名付けうるものは欧州にしか存在しないのではないか。

欧州人が述べていることはただひとつで「私は私で、それだけが私にとっての価値なのだ」と述べている。
そして文明の力とは、それをまっすぐに信じられることである。

社会なんて、おれの知ったことかよ。

きみは言うだろう。
「だが、欧州を蒸留したような国であるアルゼンチンで起きたことをみるがいい」

OK。
でも社会が破滅したからと言ってアルゼンチン人たちは破滅したりはしなかった。
人間であることに対して社会がはたしうる役割は小さい。
きみにそれが「ピンとこない」のは、きみが何だかよく判らないうちに、自然に全体主義的思考を身につけてしまっているからではないか。

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自然に帰る、のだとおもう。
モニさんの提案で、ミッションベイの砂浜で、波打ち際の水に足をひたして巨大な解放を感じるぼくは、部分的に「自然に帰る」死を受けいれているので、いわば死ぬ準備をしている。
人間の素晴らしさは人間がいつか必ず死ぬことに起因している。

神などは、どれほどのものだろう


平和憲法という魔法の杖を捨てる

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朝鮮戦争が始まったとき、日本政府に対してアメリカが強硬に平和憲法を捨てて朝鮮半島への派兵を迫ったのは、比較的単純な理由に依っていて、「土地鑑」があるのが日本人だけだったからだった。
実際、朝鮮戦争の最大の激戦地のひとつ「長津貯水池の戦い」では、米韓連合軍側にあるのは、日本帝国陸軍が作成した地図だけで、背に腹は代えられない、日本の口にくわえさせた猿ぐつわを外し、手錠を取り去り、足枷も取り除いて、朝鮮半島を熟知する2万人程度の日本軍をまたぞろ朝鮮半島に送り込む以外には選択の余地はないように思われた。

吉田茂という人は、前にも書いたが
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/27/shigeru_yoshida/
アメリカ側から見ると腹立たしいほど狡猾な政治家で、どれほど恫喝しても、押してみても、引いてみても、日本人を戦地に送り込もうという目論見が成功したことはなかった。
このときもアメリカの要請によって日本の若者の生命をさしださざるをえない絶体絶命におもわれた窮地を、政敵政党である社会党と密かに話しあって、憲法九条を盾に自分自身の政権に対して強硬に抗議させるという離れ業で脱出してみせる。
結果は、「長津貯水池の戦い」ひとつでもアメリカ連合軍側は10000人を上廻る死傷者をだしたが、もちろん、憲法九条という外交的な魔法の杖がなければ、この戦場で傷付き死んでいったのは日本人であるはずだった。

戦争放棄を謳っている憲法は日本憲法だけではないことは「憲法第九条の終わりに」という記事
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/14/wherepeaceends/
にも書いた。
欧州ならば、日本の憲法第九条よりも、イタリアの憲法第11条のほうが有名だろう。
だが日本人にとっては「アメリカに押しつけられた」憲法第九条こそが命の恩人で、この現実的ですらない教条にみえる条文ひとつで、いったい何万人の日本人の若者の命が救われたか判らない。
上の記事にも書いたように、韓国兵にとっては真に地獄の戦場だったビンディン省で人間不信に陥り、少しずつ発狂して、ついに悪鬼のようにベトナム市民を殺戮し強姦して歩いた若者たちは、本来は日本人であるはずだったが、第九条という越えがたい壁によって、不幸な役割は韓国の若者たちに割り当てられたのであるにすぎない。

ある理由によって、ああ、日本人は到頭平和憲法を捨てることになるな、と考えて書いた「憲法第九条の終わりに」の記事の日付をみると2014年の4月14日で、いまの憲法改正にはアメリカ軍(←政府ではないことに注意)の意向が強く働いているが、やがてバラクオバマが退任すれば、日本への憲法破棄の圧力は、さらに強いものになるだろう。
日本の右翼政治家たちは、アメリカ側の意向を好機として、自立憲法を、と主張しているが、それは国力を錯覚しているからにしかすぎなくて、いざ平和憲法を捨ててしまえば、皮肉にも今度こそは国民の真の合意を得てつくった自前の好戦憲法によってアメリカの傭兵国家と化するのは、そんなに想像力がなくても理解できる。
戦後ずっと、声高に叫ばなくてもよいときに日本の「リベラル」が叫び続けてきた「日本というアメリカの飼い犬国家」に、ほんとうになりさがる日がやってきたことになる。

世界で初めて「戦争放棄」という不思議な理念を盛り込んだ憲法を持ったのは、正しく記憶していれば18世紀のフランス人たちだった。
フランス人たちが、その後、二度の大戦に巻き込まれたのを見ても判るように、平和憲法だけでは戦争に巻き込まれるのを防ぐのは難しい。
日本が平和憲法を、70年にわたって、あたかも軍事力であるかのように外交上使いこなしえたのは、
1 アメリカが巨大な駐留軍をおいて日本の再軍国化を防ごうと固く決心していたこと、
2 冷戦構造のなかで、しかも海を挟んで、アメリカが脅迫観念として恐れ続けた共産主義国と対峙していたこと、
3 1,2のような好都合な地政学的状況下で、アメリカの日本に対する過剰投資を利用して急速な経済発達を達成して、あっというまに経済大国をつくりえたこと、
という、特殊な状況、あるいは好運な偶然に依っている。

情報公開法によって、衆人の目にさらされる形で、アメリカが「日本を守るため」という名目で駐留させている巨大な軍隊の真の目的は、アメリカ側高官たち自身の口で語られている

たとえば、TOP SECRET/SENSITIVE/EXCLUSIVELY EYES ONLY
とアンダーライン付きで記されている、キッシンジャーが「あの軍隊は日本を抑え込むためだ。日本はアジアでは最も危険な国だ」と述べている有名な文書は、PDFの形でオンライン上でも読めるようになっている。
http://nsarchive.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB145/09.pdf

オキナワと言えば海兵隊員たちにとっては巨大なキャバレーのような印象の基地で、アジア方面に動員された海兵員たちにとっては、ゆいいつの行楽と性の捌け口で、それが琉球人たちがいまに至るまで被害に遭い続ける根底の理由で、アメリカ軍も沖縄県も共になんとか再発を防ごうとしても未だに出来ていない、基地を撤廃する以外には根治不可能におもえる所以だが、この長い間西太平洋方面の兵站の中心だった島も、重要度はおおきく低下している。

まず第一に中国が富んで、他国領土獲得の興味に駆られて紛争を起こす確率が低くなっている。
石原慎太郎の挑発によって始まった尖閣諸島をめぐる紛争は、従来の人民解放軍と政府の関係ならば、当然、小紛争に発展していいはずだったが、中国が平和裡に解決しようとしているのを見て意外に思った専門家が多かった。
中国の興味は、現在起きているアメリカの防衛戦略の東への縮退によって軍事空白になりつつある南沙諸島周辺にあるようで、囲碁を打っているようなものだが、長期的には、中国人民解放軍としてはこの海域を抑えてしまえば、日本などは放っておいても自分の手中にはいる、ということだろう。

日本は、兵站の中心から、「おおきな戦争が起きれば日本列島を前線として敵を食い止める」位置にはっきり戦略上の位置が変化していて、そういう戦略の変化には、日本の経済の止まりそうもない弱体化も寄与している。

現下のアメリカ合衆国にとっては、やがては国力が自己を上廻るのが判っている大国としての中国と、かつての日本を思わせる好戦国家ロシアがふたつの関心の対象だが、関心の軍事への翻訳として地図をみると南に偏りすぎている沖縄はすでに現実の軍事上の必要よりもアメリカが「自由航行権の確保」と呼んでいる太平洋支配の象徴としての意味しか持っていない。
同様に元来島嶼上陸作戦用に編成が出来ている海兵隊自身も、実は、すでに「象徴軍」と化している。
最近の作戦内容を見ても、オスプレイで敵地の領内深くに浸透して拠点を破壊して数日で引き揚げる作戦が殆どで、いわば陸地での島嶼拠点急襲作戦の体だが、やがては曽ての騎兵同様、現実にあわせて編成もおおきく異なっていくはずです。

1945年、日本側が作成して持ってきた憲法草案を見て、戦争に負けたことを全く理解していない傲慢さに辟易したアメリカ占領軍将校たちは、アメリカ側で新憲法のアイデアをつくる。
そのアイデアづくりに参加した若い中尉は「あんなお嬢ちゃん憲法が二年ももつとは思っていなかった」と証言している。
ところが、その「お嬢ちゃん憲法」は、吉田茂と「吉田学校」の生徒たちのしたたかな外交手腕によって日本の平和を守る「魔法の杖」として70年にわたって、日本を何度も傭兵供給国化しようとしたアメリカ自身を苦しめ、うんざりさせて、戦犯を収容した巣鴨刑務所内での取引によってアメリカの利益の代表者として日本の政治世界に放った岸信介が広汎な大衆運動によって失脚した1960年を境に、「お手上げ状態」になって、これ以降は駐留資金の日本側の負担を増加させることに方針を移していきます。

アメリが側にとっても意外な展開で、日本が自ら進んで平和憲法を捨てよう、ということになったので、一石二鳥、もっかアメリカは笑いを噛み殺しながら憲法改正に向かって行進しだした日本人たちを眺めているに違いない。
日本が「アジア最大の脅威」でなくなったいまの状況では、オーストラリア、ニュージーランドにとっても日本人が自国人の代わりに戦場で死んでくれることは「良いこと」なので、反対する理由がない。
その背景にはアフガニスタンやイラク、シリアの様相をみれば判るとおり、自分達の平和に脅威を与えるものが「政府」であるよりも原理主義的な集団であることが増えてきた、という安全保障上の変化がある。

たとえ今回憲法が改正されなくても、何度もごり押しして憲法を変えようとする日本人の「努力」は中国の強大化によって日本が以前ほど危険な戦争国家たりえなくなったいまの世界では、日本の傭兵国家化こそが世界の利益で、外交的にも、日本が平和憲法を無視し撤廃の方向に向かえば向かうほど、取り分けアジア諸国の日本への立場は強くなってゆく。

世界中の誰にとっても日本の憲法改正は歓迎なので、乏しいオカネをなぜか自分から世界中にばらまいてくれて嬉しい予想外の喜びに浸ったアベノミクスとおなじことで、なんでそんな自殺行為に似たことをするのかは理解できないが、ともかく歓迎する、というところでしょう。

なんだか狐につままれたような話だけど。


クラウンストリートで

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「この頃、ジーンズの人が少ないね」
「ジーンズ、おっちゃんばっかだのい」
モニさんとわしはクラウンストリートのカフェに座って通りを行き交う人を眺めている。
クラウンストリート、と言っても、ニュージーランドや連合王国、オーストラリアはクラウンストリートやチャーチロード、ビクトリアストリートだらけなので、町の名を述べなければどこにいるか判らなくて、モニとわしはシドニーのクラウンストリートにいたのでした。

モニは、もともとジーンズをあんまり穿かない人で、知り合ってからずっとサイズと体型が変わらない便利を利して、ときどき昔から持っているジーンズを穿いて庭で遊ぶくらいだが、主に半ズボンでも、冬は穴あきジーンズばっかしのわしとしては、最新型わしについて考究しなければならなくなってしまった。

生まれてからずっと、労働するということに縁がなくてプーなので、Tシャツ+ショーツかタキシードという選択で、まんなかのスーツは、一応は持っているが2回くらいしか着用に及んだことがない。
ジャケットはいっぱいあるが、スーツは、なんだか嫌だなあーと考える。
理由は考えてみたことがない。

クラウンストリートは、よい通りで、通りのサリーヒルズ側には良いカフェやレストランがたくさんある。
シドニーは人間が多すぎてくたびれるが、モニの希望にそって南半球に生活の本拠をおいたままで暮らすとすると、将来を考えれば、シドニーにも生活拠点を持たないわけにはいかない。
チョー重い「御神輿」をあげて、昔はあれほど毛嫌いしていたシドニーにやってくることにした。

やってくることにした、と言っても、やっぱりモダンギャラリーの特別展示で長蛇の行列が出来るようなシドニーに住むとくたびれるので、まずアパートを買って、ときどき飛来して、ああぶちくたびれた家に帰るべ、になってオークランドに戻って、それを2ヶ月に1回から1ヶ月に1回、フォートナイトリー、一週間に一回、
一年の半分、というふうにライフスタイルを変えていこう、という計画を立てた。

欧州にもどって暫く暮らす、という、もっとも安楽な生活の夢はBrexitの顛末が象徴する生活という面での欧州の大スランプ時代の始まりで、以前から南半球とアメリカ西海岸の生活圏を主張するモニさんの議論の完勝が証明されて、またしてもわし不明が証明された形になってしまった。
モニは、どうして、あれほど明然と未来が視えるのだろう。

日本人で言えば、昨日死んだ大橋巨泉というひとは生活の設計が上手な人で、税金対策をかねていたのでしょう、OKギフトショップという日本人観光客を対象にしたお土産店をあちこちにつくって、たしかカナダとオーストラリアとニュージーランドの永住権を持っていたはずである。
オークランドの、多分、セントヘリオスという、日本でいえば葉山だろうか、海辺の町に家を買って、北半球の冬にやってきて、過ごしていたようでした。
英語圏に家作がたくさんあったようで、なにしろ、人気タレントとして家作を買い漁ったあとで英語圏は全体が巨大なバブル経済に入っていったので、さぞかし含み資産がおおきくなったのではないか。
義理叔父から話を聞いて、へえ、(アラブ人と並んで投資がドヘタなので有名な)日本の人にも、投資が上手な人がいるのだなあ、と考えたのをおぼえている。
生活するのが余程上手な人であったに違いない。

オーストラリアは今年で26年目になる猛烈な土地バブルの最中で、バブルはどうせいつかは破裂するのだから、いま不動産を買うのは投資効率として最低だが、個人の生活と経済景気の循環の関係は、いつもそういうもので、人間のほうは容赦なく歳をとって、20歳でやりたいこと、30歳でやりたいこと、40歳でやりたいこと、と標識が立っていて、クルマでオープンロードを走って「あちゃ行きすぎちゃったかっら引き返さねば」というのとは違って、いちど過ぎた年齢に戻れない不便さなので、適宜、無駄金を投下しないと、おもったように生きられない。

怠けてばかりいるわりには、わし財産は増え続けて、なんというか、色々な点でニュージーランドに本拠をおいておくのは無理が多くなってしまった。
せめてオーストラリアに本拠の国を変えないと、不自由である、と感じることが増えた。

もともとクライストチャーチと対にしてオペラやスタンダップコメディ、ギリシャやイタリア料理というような用事に滞在していたのはメルボルンで、ここにはかーちゃんととーちゃんの投資をマネッコして買った家もあるが、去年いちど出かけたらバブル症状がひどくなって、客達が聞こえよがしに自分のワイン知識を披露して、1本3万ドルのワインを、そのワインにはどうしても必要なデカンティングもなしで飲むバカぶりで、終いにはチップを要求されたので、どうももうこの町も嫌だな、と考えていかなくなってしまった。
高級イタリアンレストランなどはマンハッタンのそれと似てきて、「ドアのこっちはイタリアだよー。シェフもイタリア、ウエイターもイタリア、イタリー、イタリー」と連呼しているようなレストランのスタイルなのに、全体がディズニーランドみたいな「イタリア」で、欧州と聞けばなんにでも過剰にオカネを払う、英語人たちの田舎者ぶりにつけこんでいるに過ぎない。

もうこうなったら仕方がないと、わし友ルーク @soloenglishjp などが述べていたことも参考にして、大嫌いなシドニーに出かけてみると、メルボルンに較べて、ずっと都会になっていて、むかしは大坂と京都みたいな関係だったのが、メルボルンがちょっと田舎染みてみえるほど、都会に成長している。
気取った、見栄を張りたがる人間が少なくて、全体にアジア的な町で、活気がある。

特に、Sergei Prokofievのオペラ、The Love for Three Orangesの上演は、駄作だと判っているオペラをわざと取り上げて、演出と歌手たちの腕前で、返って滅茶苦茶面白いオペラを作ろうという、マンハッタンでもなかなか見られない都会的な試みで、しかも、うまくいっていた。
なんだか驚いてしまった。
演目が演目なので、観衆もオペラ漬けの人間が多くて、観客席側もよい雰囲気で、いつも観光客が多すぎるマンハッタンのリンカーンセンターよりも遙かに良質な「オペラ空間」になっていて、わしは「シドニーちゃん、ずっと嫌っててごみん」と考えたりした。

フランス料理屋にいったらポークのパテがちょー旨かったとか、どういう理由によるのか、オークランドよりもワインの質が高かったとか、相も変わらぬいやしんぼの理由もあって、案外シドニーに馴染むの速いかも、といまは考える。

盛り場のサイズが拡張して、盛り場と盛り場のはしっこが連絡されて、むかしはシドニーの特徴だった、盛り場と盛り場のあいだの犯罪多発ポケットがなくなっていたことも新しい発見で、もともと「歩く町」だったメルボルンに負けないほど歩けるようにもなっていた。

ここまで読んで、「なんだ、あんたのシドニーて都心だけじゃん」と思った人がいるだろうが、Balmainの一軒屋に住むと、要するに生活はRemueraと同じで、広い庭でころころして、uberならuberで例えばオペラを観に行くことになるが、それではオークランドに住むのと同じことで、同じ生活をするのなら、ずっと人が少なくて、行列というものが存在しない上に、CBDのどこにでも10分以内に着くRemueraの暮らしのほうが楽ちんな点ですぐれている。

経済生活を離れて個人の、いわば享楽の生活について考えると、アパートを出て、隣においしいフランス料理屋があって、そこからぶらぶらと歩いて、クールなカフェやバーがある、やりたければモニとふたりでバークロールをする、というような生活とRemueraみたい生活の両方を楽しみたいわけで、そう考えてゆくと、わざわざ高いオカネを払って同種の2つの生活を手に入れるのは、バブルで40%以上実質価値よりも払わねばならないド腐れ不動産市場であるオーストラリアやニュージーランドでは愚かなオカネの使い方になってしまう。

つまりはロンドンやマンハッタンが候補であったタイプの生活がシドニーで出来るようになったのを発見して嬉しかった、と言い直してもよい。
オペラとモダンダンスの質はもともと高いシドニーだが、ジャズもバレーもクラシックのコンサートも質があがって、いちどバブルが続いて世界中からオカネが流れ込むと都会はこれほど生活の質が向上するのか、と眼を瞠る感じがする。
この地上に、またひとつ、新しい「都会」が生まれている。

考えてみれば南半球では初めての「都会」で、というとブエノスアイレスはどーなるんだ、サンパウロは、リオデジャネイロは、という人がいるはずだが、なにしろ行ったことがなくて、「行くのどうおもう?」というと笑われて「ガメのスペイン語じゃ、まだやめたほうがいいんじゃない?」とスペイン人たちに笑われる始末で、ポルトガル語はなおさら判らなくて、なんとなく昔は都会だったところと、これから都会になるところというか、偏見が頭から去らなくて、どうしても視界から外れてしまう。
英語人のビョーキかもしれないとおもうが、わしはむかしの東京は都会だったと感じていて、言語は必ずしも都会の要件だと意識されていないようなので、ほんとうの理由は、やはりただの無知なのかもしれない。

ともかく、では精確を期して述べると南半球に出来た英語圏のゆいいつの都会で、シドニーがここまで都会に急速に成長したことには、英語人が南半球のオーストラリアとニュージーランドという「英語飛び地」に移動しはじめた、という背景があるように感じられる。

その円滑剤になっているのが中国に堆積されて、いまやたいへんな勢いでオーストラリアとニュージーランドになだれこんでいるアメリカドルで、アメリカドルが敷きつめられたヘルタースケルターを英語人たちがどんどん滑り降りてくる。
欧州や北米人はそこまでバカでないので口にはしないが、やはり北半球の渾沌というおおきな理由があるようです。
口にはしないが、と書いたが、それは欧州や北米での話で、オーストラレージアに着いてしまうと、口がつい軽くなって、「この地域の最も良い点は争乱や社会の混乱から物理的に距離が遠いことだよ」と言う。

Brexitに乗じたアホ連合王国人の「有色人も東欧人もまとめて出てけ」の人種差別騒ぎや、おおよそ半数のアメリカ人は立派にバカでレーシストであることを世界にあまねく知らしめたドナルドトランプ旋風が共通語である英語を伝わって、じくじくと伝染してしまうだろうか、と観察していたが、いまのところは逆の効果で、他人がやっていると人種差別やゼノフォビアが、どれほどアホっぽく見えるかに気が付いて、返って、もともとはレーシストの素質十分なカナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人は、しゃんとしてしまって、多文化社会を堅持しようと決心したように見える。

むかしロンドン人が見た夢がシドニーで実現しているようなもので、なんだかアホらしいというか、連合王国人はどうしていつも自分で発明したことを、途中で他人に譲って、自分たちの手のなかではダメにしてばかりいるのか、とタメイキがでる。
なんのことを述べているのか判りにくい人は、ゴルフ、テニス、ラグビーを発明した連合王国人が、これらのスポーツでいかに長い不振を極めたかの顛末を考えてみると良いのではなかろーか。

「ガメとわたしの将来はどんなふうになっていくだろう」
二杯目のピノノワールを、ストリッパーふうのハンサムなにーちゃんが持ってきたところで、モニが述べているが、それは不安をこめた調子ではなくて、面白かった第1幕の休憩時間ちゅうに第2幕への期待をこめて新作舞台について述べている人の調子です。
「もちろん、もっと楽しいのさ」と、わしは答えないわけにはいかない。
現代世界の灼熱の太陽のしたで、手に手をとって、深い水に飛び込んで、水底を蹴って、水の上に顔をだす、あの冒険がまた始まった。

今度は、ちいさいひとびとと一緒に。



Diary1

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内緒の話をしよう。
あなたはモニさんが現れるまでの、わしの最大の(てゆーのはヘンだけど)ガールフレンドで、あなたがわしと結婚することに真剣であったのとおなじくらい、わしもあなたと結婚することを真剣に考えた。
あなたは、ぼくの真剣さを信じなかったろうけれど。

あの頃、ぼくは、簡単に言えばロクデナシで、ラスベガスで完膚ないまでにすって、赤い砂漠の岩の上に寝転がって、もうどうとでもなれと思ったり、メキシコの、プラヤデルカルメンへの国道で、一文無しで行き倒れて、大西洋を越えてやってきた妹に救われたりしていた。

でもあなたはオカネモチの娘に独特な純良さで、わしの魂を救おうとしてくれた。
おぼえていますか?
ロンドンの、あなたが必要ですらないパートタイムの店員をやっていた美術骨董時計店で、時計を掃除する手を休めて、
「ガメ! あなたに会えるとは、なんと素晴らしいことでしょう!
ずっとニューヨークに行ってらしたのでしょう。
『新世界』はどうでしたか?」と述べたときのことを

懐かしい声。
懐かしいアクセント。
あなたは、わし世界のひとなのだった。

セブンダイアルズを歩いて、チーズ屋でチーズを買って、ミドルイースタンカフェで、コーヒーを飲んだ。
あなたとぼくのアクセントを聞いて振り返るひとたち。
ジュラシックパークの恐竜に出会ったとでも言うような。

ぼくはあなたに飽きていたのではなくて、自分が生きてきた世界に飽きていたのだと思います。

なんだか、泣きたくなってしまう。

小さなベンチに腰掛けてSeydou Keitaの写真を何枚も見た。
あなたのやさしい唇にふれて、これは、なんというやさしい時間だろうと述べた。
あなたは19世紀的な女びとであって、「ガメ、あなたはきっと、わたしと結婚するのでしょうね?」と述べた。

柔らかなシルクのサマードレス。
滑らかな太腿。
無防備な太陽。

金色の産毛が輝いている、アールヌーボーのライトのなかで、あなたの腕が伸びていて、ぼくはぼくの社会のおとなが振る舞うべく振る舞っている。

でも、ぼくは女神に似たあなたの呼ぶ声に答えなかった。
ぼくは出て行った。
世界の外へ。

ブライトンのパーティで会ったでしょう?
あなたは病院が八つとふたつのホテルチェーンの持ち主で、ホステスの席で、艶然と微笑んでいて、ぼくの名が紹介されると、少しだけ顔が強ばった。
あなたは、ベッドの暗闇のなかで、ぼくがどうしてそんなことをするのかと怒ったことを思い出していたのに違いない。
男と女ということになると、人間は、どこまでも生物的なのであると思います。

人前で、涙を見せたりするのは、わしらの習慣ではない。
激しい感情を見せるのは、明らかにわしらの習慣から外れている。
でもね。
モニもきっとわかってくれるに違いない。
あなたは、いまでも、わしの真の友なのである

日本に行くのだ、と述べたら、あなただけが「あら、ガメは世界の外に行くのね」と杉の木の扇の軽さで述べた。
あなたは、いつも、ぼくのことを知りすぎていて、どうしてぼくが日本語や日本に執着しているのかさえ精確に知っていた。
「ガメは、この世界でないところならどこへでも行くのよ」と歌うように述べた。

ガメは自分でいることに耐えられないのよ。
あの子のタイトルを見てごらん。
あの子が、自分のタイトルを呼ばれるたびに、とびあがるみたいにする様子を見てご覧。

あなたは、わしの女神のように振る舞った。
あなたもぼくも、恐竜的な世界に住んでいて、
そこでは「時」は止まっていて、
性や虚栄が澱んでいて、テーブルライトに照らされた金色の産毛が輝いていて、
われわれの魂を現代から引き離していた。

この世界でないところならどこへでも行くのよ、というが、
この世界、とはなにか。
きみとぼくとは、どんな文明に生きていたのか。
その文明は1915年には死んだ文明ではないのか。

I was in pain.

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そうして、ぼくは、「新世界」の通りをほっつき歩いていて、まるで捨て犬を拾うように、やさしい腕をのべて、抱きしめて、助けてくれたモニさんと結婚することになったが、それは愚かな人間への世界からの不意な救済だった。
どちらかというと宝くじにあたったような突然の救済であって、順々としたプロセスも納得できる必然性も、なにもなくて、マリア様の奇跡に似た、唐突の解決だった。

こんなこと、日本語で書いても意味がないのか。
でも、わし友を考えると、日本語で書いておくことに意味があるのです。
なんで?
と言われても判らないけど。
ぼくの、思い込みに過ぎないのかも知れないのだけど


世界の痛みを感じる、ということ

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いまは馴れてしまったが、むかしは空港に用事があるたびに、出かけて、到着ロビーで繰り広げられる光景に、思わずみとれてしまうことが多かった。

いつまでも抱き合っている恋人同士、不安そうな顔が、「花が開くように」笑顔になって、カートを押して、年長のカップルに向かって歩いてゆく若い女の人、
爆発しそうな喜びを抑えつけるように、むかしからの友人なのでしょう、お互いの目をみつめあって、永遠のように長い握手をしているふたりの老人。

見飽きることがなくて、人を迎えに行くのに、わざと1時間も早く出て、出口の前のベンチに腰掛けて、手にもったカップのコーヒーをすすりながら、ぼんやり「幸福」の姿を眺めていたものだった。

社会には人間を幸福にする力はないが、不幸を強制する力はある。
70年代くらいまでは、いったんダメな社会に生まれついてしまえば、もう悪戦苦闘の一生を送る以外には途がなかったが、いまは「住む社会を変える」という選択肢があることは前にも述べた。

日本に滞在していたときは、英語社会に移住するには英語ができないと無理なのではないかと思っていたが、英語社会にもどってきて、観察していると、21世紀の英語社会では、英語がひとことも話せなくても、諸事万端、支障もなく、幸福に暮らせるのだと判ってきた。

中国の人達は、賢くて、とにかくどんどん移住していって、おおきなコミュニティを作ってしまう。そうして、そのコミュニティを本国と連絡することによって市場を飛び地のように形成する。
感覚的には1割くらいの初代移民夫婦は、子供達に、時には家庭内で中国語で話す事を禁じさえして、英語社会に同化させてゆく。

インド人たちは、すでに独自の英語文化を持っているので、ちょうど連合王国人の移民のようにして、さっさと社会に溶け込んでいく。
このグループは中国の人達ともまた異なって移住というよりも移動で、日本でいえば東京から京都に引っ越す人の煩雑や戸惑いはあっても、それ以上の違和はないように見えます。

人間の移動が広範囲に及ぶようになって本質的によいことのひとつは、以前なら観念にしか過ぎなかった、例えば「シリアのひとびとと痛みを分かち合う」というお題目が、否応無い現実として眼前に立ち現れるようになったことで、次から次にやってくる難民の人々を前に、欧州人は、いまは苦闘しているが、大陸欧州で暮らしている友人たちと話し込んでみると、本人たちは「もうダメだ」ばかり言っているが、聞いている方は、どうやら欧州は自分を変革してアップグレードすることによって、この大変化を呑み込んでいきそうだ、と感じる。
いまの歪な、ムスリムへの嫌悪についても、よく観ているとイランを西洋世界から切り離した、宗教指導者たちのインチキな約束に見事に騙されたイラン人自身と、疑心暗鬼に駆られた西洋世界、特にアメリカの失敗から来ているので、
シリアよりもイラクよりも、まず「イスラムよりもペルシャ」であるイランを受けいれて、移民も大量にいれて、ふたつの文明世界の、いわば調停者としてペルシャを受容するのが最も近道に見えます。

外からは見えにくいが、彼らによると、「ほんのちょっと言語に興味があれば、トルコ語とアラブ語とイラン語はお互いに通じ合えて、そーだなあー、きみらの言葉で言えばイタリア語とスペイン語くらいの違いしかないよ」だそーで、それがそのまま真実なのかどうかは、なにしろこちらがアラブ語がパーなので、判定のしようがないが、少なくとも「そう言ってみてもよい」というくらいの背景はあるのでしょう。

アメリカは、ようやっと中東を安定させようとおもえば、イランの非宗教勢力と手を結んでいくしかないのだと気が付いたところで、一方ではイランの宗教者たちも、これ以上イスラム的抑圧を加えつづければ、若い世代から、社会内での叛乱が起きるのを避けられないと理解しはじめたもののようで、いまのイスラムと西欧との文明的軋轢は、最後には、ペルシャによる文化的な調停という、考えてみれば歴史的な帰結に向かっていくもののように見えます。

ペルシャ人は昔からアラブ人をバカにしていて、スンニとシーアの対立というお題目的な宗教対立以前に、アラブは野蛮という抜き難い偏見を捨てていないが、なにしろ付き合いが長いのと言語が似通っているのとで、お互いに、付き合い方がよく判っていて、やることなすことヘマだらけで、挙げ句のはてはシリアを「人間が住めない国」にしてしまったアメリカの直接介入よりは、イラン人にお願いした方が、よほど気が利いている。

真打ち、では質の悪い冗談になってしまうが、こういう「痛みの世界化」で近未来に予測される最大のものは、ナイジェリアを初めとするアフリカ大陸のいくつかの国からの人口流出で、特に世界一の人口爆発を起こしている一方で、政府がまったくの無能で統治能力をもっていないナイジェリアの問題は、深刻どころではなくて、欧州の息の根を止めるだけのちからを持っている。

ちょうど先週、難民船が沈没して両親を失ったナイジェリア人兄弟が抱き合って号泣している画像がviralになっていたが、そのくらいが嚆矢で、あとで振り返って、ああ、あの頃がナイジェリア人が世界のなかへ浸透していく初めだったのだなあーと思い出す事になりそうです。

ニュージーランドのように遠く故国から離れた土地にも、ナイジェリアの人は増えて、例えば、このあいだuberのドライバと客として会ったナイジェリアの人は、
大学で日本語を専攻して、日本に移住しようとしたが、人種偏見が強すぎてダメで、韓国人は受けいれてくれたので、そこに長く住んで、子供の教育のために英語圏に住まなければと考えてニュージーランドに来た、と述べていたが、
「いまはナイジェリアは、教育さえあれば外国へ住むという段階だが、もう数年すると、教育がない人間でも、たとえ徒歩で北上しても、欧州をめざすことになるだろう」と述べていた。
なんだかケミストリが良い人で、クルマを駐めて、カフェで話してみると、ナイジェリアはマスメディアを通じて知っているつもりの状況よりも遙かに深刻で、一国の社会だけで解決できるものではなくて、移民/難民という形で、「痛み」を共有するしかないように聞こえました。

日本が最も近しいと感じているアメリカは、この二十年間でGDPがだいたい1.3倍になっていて、日本はほぼ二十年間変わらぬGDPであるのは、日本以外の国ではどう受け止められているかというと「国のまわりの壁を高くすると、ああなる」という典型と受け止められている。
どんな社会にも、通常は老人を中心に「新しいもの、自分と異なるものは受け付けない」心性のひとびとがいて、そういう人間のゼノフォビアが連合王国ではbrexitという、本来はもっとまともな議論が交わされるべきだった自分の身体をふたつに割くような決断を感情的なポピュリズムの洪水によって決めてしまって、自分でも茫然とする世にも愚かな結論をくだしてしまったり、醜悪な憎悪を燃え立たせることで人気を博して、ヒラリークリントンを苦戦に追い込み、「もしかするとアメリカ最後の大統領選挙になるんじゃない?」と他の英語国人からは揶揄されている、少なくとも半数に近いアメリカ人は、いまでもKKKの予備軍で、口に出していわないだけでラティノ人もアフリカ系人も中国人も日本人も、みんなまとめて合衆国からたたきだして、自分たちだけの、郷愁の「白い夢」のなかでまどろみたい夢想に浸っていることがばれてしまったが、仮に両者が孤立の政策をとると、文明などはまるごと欧州大陸に引っ越してしまうだけで、世界は縮んで、その直接の結果、世界の至る所で貧困と飢餓が生まれる。

なぜそうなるのかといえば、背景にある最も大きな絵柄は、地球のおおきさは一定であるのに、人口が爆発的に増えて、むかしから科学者を中心に「これは拙いんじゃない?」と述べていたことの、初めの顕れが巨大な難民/移民の移動なのだと考えることが出来る。
失政や戦争は、案外、端緒であったり結果であったりするだけで、根本にある圧力は「地球が全員が住む部屋としては狭くなったのだ」ということになりそうです。

ではドアを閉ざしてしまえばよいではないか、という一見もっともらしい施策を実行するとどうなるか、というギニアピッグじみた実験の結果が日本社会で、換気口をすべて閉じて、窓に移る景色もメディアが加工した人為の景色に変えて、つくりものの「外の世界」を見せて、一億を越える人口を世界から切り離して閉じ込めれば、そこには狂気が猖獗するだけであることを日本の社会は教えている。

そうして常識を失ってしまった社会は、細部でいえば、例えば家電王国であったのが、「日本の職人技でつくったよい製品だから」とセールスマンが品質と機能において韓国製に劣る冷蔵庫を2倍以上の価格で売りつけようとする鈍感さで、いまでは家電店から日本の会社の名前がついた製品は、ほぼ一掃されてしまった。
社会の閉鎖性は、市場の変化に鈍感な体質を作り上げて、なんだかピントがずれたマーケティングにも顕れて、65インチの高画質を謳いあげるテレビにHDMIの端子がふたつしか付いていなくて、これでは買いようがない、とつぶやくことになる。
新しいことには何によらず逡巡して、韓国のたとえばサムソンに、つねに1年遅れる後追いマーケティングと、売れないことからくるバカ高い価格と、それを「日本製品は優秀だから」という傲岸な怠惰でjustifyしようとして、販売店の購買段階で相手にされなくなってゆく。
そうこうしているうちに、いまはどのくらいの段階かというと、もう新しい技術に投資しようと思っても、それが出来ないくらい会社が落ちぶれた段階に来てしまった。

一事が万事で、国の柴戸を閉じて、庵にこもって、老人じみた静寂にひたろうとすれば、世界経済の原理が働いて、社会は否応なく貧困に陥っていくことを日本は社会実験として実証しつつある。

オークランドの空港に、「葉山」というなつかしい名前の鮨屋が出来て、空港にでかける用事があるときには、早めに出て、鮨はよほどタイミングがよくないとおいしくないが、サーモンとマグロが載った「海鮮丼」は、日本の3倍ほども新鮮な刺身が載っていて、ご飯が酢飯だったり普通のご飯だったりするのが、いかにもニュージーランドで可笑しいが、不味くはなくて、毎度のように「紅ショウガ、もう一袋つけてね」「有料になるんですけど」「ケチケチしてはいけません」という問答でせしめる無料追加紅ショウガの味で日本での滞在を思い出して、懐古の感情にふける。

ロビーには、今日も、抱き合うひとびと、感情の洪水に負けて泣き出してしまうひとびと、見るからに希望に輝く表情の、一見して新着の移民と判る家族、いろいろな人が「明日」を信じてやってきている。

その、ニュージーランドでは珍しい、人いきれのする場所に腰掛けて、「世界が生きていかれなければ、我々も死ぬしかなくなるのだ」と述べた、反アジア人運動のさなかに人種差別を政治的フットボールの手段に使う政治家に対して、激しい怒りを隠そうともせずに述べた、痩せた、ちっこい、目ばかりがおおきな女のひとのレポーターを思い出す。
あるいは、W.H.Audenが
We must love one another or die.
という有名な詩句を、
We must love one another and die.
に書き換えてしまったことを。


鎌倉・葉山

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その頃は、まだ、日本ではカヤックは珍しかった。
砂浜にカヤックを出して、ライフジャケットを着けていると、漁師の人たちが何人も集まってきて、これは何?から始まって、ええええー、前に進むのか、こりゃあ変わってるな、で、もうその頃には日本語が出来て大得意だったので、かーちゃんと漁師おっさんたちのあいだに立って、通訳したりしていた。
自転車みたいなものなんです。
楽しい乗り物なの。
乗ってみませんか?

重いのが欠点だったが、頑丈な船体で、面白がって沖の海面すれすれに顔を出している平らな岩礁に勢いをつけて乗り上げて、上陸して遊んだりして、よくかーちゃんに怒られたものだった。

沖合に出て、陸地を振り返ると、鎧擦(あぶずり)の山が見えて、夏の太陽の下で緑色に輝いていた。
背の低い葉山の丘はいつも誇らしげに立っていて、昼でも夜でも、沖合から眺めるのを、ずっと後になっても楽しみにしていた。

いま考えてみると、監視カメラが付いていたのに違いない。
ゆっくりゆっくり漕いでいるように見えて、ものすごいスピードで、かーちゃん艇が先に行ってしまったのをよいことに、以前から興味があった水路に入ってみようと考えた。
そこは皇室の別荘で、表は、いつ見てもヒマを持て余したような顔をした、それでも腰に拳銃をさした警官が立っているので、要塞じみて、家というよりは一枚の壁のような佇まいだったが、裏は、海に面していて、ゲートもない水路が敷地のなかに続いている。
艇を翻して、水路のなかに入っていきかけると、中から、誇張されているかもしれない記憶のなかでは何十人というスーツ姿の警護の人数が現れて、こっちに向かってなにごとか叫んでいる。
いつのまにか上空にはジェットヘリが飛んでいて、超低空で繰り返し威嚇飛行をする。

いま考えても、びっくりするくらい腕が良くて、しかも親切な操縦士で、殆ど海面と垂直になるくらいに機体を傾けて飛んでいたのは、そうしないとローターが起こす強風で、カヤックが横転してしまうという気遣いだったのでしょう。
目の端に、こちらへ戻ってくるかーちゃんカヤックが見えたので、仕方なく、警護のおっちゃんたちに手を振って、艇体を、くるりと向きを変えて、沖合へ向かった。

義理叔父は、「なんという、とんでもない。昔なら不敬罪で射殺である」という趣旨のことを述べたが、鎌倉ばーちゃんと、かーちゃん姉妹にはうけて、そのときも、ガメが考えることは面白いわね、と賞めてもらったが、いまでも、そのときのことを話しては笑い転げている。

日本にいたときのことを思い出すと、大半は東京で、鎌倉や葉山は、ときどき、学校休みや週末に出かけたのに過ぎないはずなのに、鎌倉も葉山も印象が強烈で、輪郭がぼんやりしている東京での記憶に較べて、鮮やかな形象をもっておぼえている。
なぜだろう、と時々不思議な気持で考えます。

葉山に行くときには楽しみがあって、スエヒロの食べ放題しゃぶしゃぶの店があった。江ノ島にも支店が存在して、行ったことがあるが、どういう理由によるのか葉山店のほうが好きで、しゃぶしゃぶにするかすき焼きにするか、店に向かうクルマのなかで毎度悩みくるったのをおぼえている。

だいたいは、「よりたくさん食べられる」という理由によって、しゃぶしゃぶのほうを好んだが、たまに選択すると、すき焼きの味は新鮮で、行くたびに煩悶は深くなって、あのコンジョナシのハムレットの心境は、こういうものだったのではないか、と考えたりした。

ほんとうは、当時から広島風お好み焼きのおいしい店や、海鮮食堂があったはずだが、外国人家庭の哀しさ、せっかく鎌倉ばーちゃんが教えてくれても、心の琴線が洋風にほどけてしまっているので、触れもせで、空振りに終わって、ケンタッキーフライドチキンや、その頃は小町通りにあった、アメリカ本土のチェーンより、ずっとおいしいエルポヨロコのようなところばかりに出かけていて、いま思い出すと「ガイジンはやっぱバカだなー」と考える。
目の前に面白いものがたくさん転がっているのに、見ているのに見えていない。
食べ物ですらそうなのだから、まして、他の日本の生活諸相においておや。

たいていはクルマだったが、列車で出かけることもあって、その頃はたしか北陸特急の旧車両を使っていたかなにかで、ずいぶん足下に余裕がある、背もたれもいっぱいに倒すと150度くらいにはなっていそうな、広々とした車内だった。
これはこれで楽しみで、東京駅でカツサンドを買って、一家で魔法瓶(←というのは死語だそうだが、こんなに良い言葉をみすみす殺してしまっては気の毒なので、わざと使っている)に入った紅茶を飲みながら、冗談を言い合って、気が向けばカードゲームで遊んだり、というか妹に遊ばれたりしているうちに、あっというまに着いてしまう。
その頃はまだ駅前にダリ美術館があって、宝飾がたくさん公開されていたはずだが、かーちゃんと妹は何度か行ったことがあっても、ぼくは興味がなかったので、ひとりで、あの町以外には、あんな変わった舗道は世界中にランブラくらいしか思いつかない段葛を歩いて、鶴ヶ丘八幡宮に出かけたり、もっと足を延ばして円応寺の閻魔さまに久闊を叙しに罷り越したりしたものだった。

いま考えてみると、夢のようで、まるで異なった社会だったその頃の日本では、ガイジンがまだ珍しくて、いちばん初めに日本を訪問した年には、まだティーカップをもったお盆の手が緊張して震えている給仕の人や、こちらを振り向いて、意味深げに笑っている高校生たちや、田舎にでかけると、こちらの顔を見るなり、ぶるぶるとクビを振って、手真似で、出て行けという店主までいたりしていたが、鎌倉という町だけは、どういうわけか、欧州系人が相手でも、日本の人が相手であるのとまったく変わらない物腰で応接して、居心地のよい町だった。
そういう点では東京のほうが、ずっと田舎で、鎌倉や葉山のほうが都会で、日本の町のなかで鎌倉と葉山を真っ先に好きになったのは、多分、そのせいではないだろうか。

それどころか、常磐の山道をあがって散歩していると、耕していたおばーさんが、そのなかを覗いてご覧、と言うので、コンクリートの枯れ井戸のなかを覗き込むと、マムシが凶悪な顔で、こちらを睨んでいたりして、なにがなし、人なつこい人が多くて、気さくで、日本の人の良いところに触れる機会が多かったような気がする。

ずっとあとになって、モニさんとふたりで日本に滞在した頃は、もう外国人も特別に疎外されるということは、少なくとも表面ではなくなっていたが、それでもモニさんは「鎌倉では自分が外国人という意識をもたなくてすむ」と述べていたので、やはりその頃ですら、空気が異なる町だったのでしょう。

2010年のある日、もうすぐニュージーランドへ向かって発つという冬の初め、なんだかとても鎌倉の町と葉山の海を見たくなってモニとふたりで出かけることにした。
その頃はもうグリーン車が飛行機のエコノミークラスよりも小さな座席に変わりはててしまっていて、シートを回転させて向き合って座らないと足が入らない車両になっていたので、列車では無理なので、クルマで出かけた。

子供の頃、少し込んでいると二時間半かかっていた鎌倉への道は、高速道路の数が増えて、1時間足らずで着いてしまう。
逗子でおりて、逗葉道路で、なつかしい100円玉ひとつを渡すと、にこにこしたおっちゃんが、「気を付けて」と述べるのに、さんきゅーとわざわざカタカナ発音で応えて、葉山の丘をのぼる。
急な傾斜の坂をのぼって着くホテルのコーヒー店のテラスからは、ちょうど西日をうけて、輝くばかりの相模湾が見渡せる。

他に誰も客がいない午後の、白を強調したテラスで、モニとふたりで立って、綺麗だねー、と言い合う。
吐く息が白くて、モニさんの頬はみるみるうちに薔薇色になって、ほんとうはアンドロイドなのではないかしら、といつも思わせる、 美しい横顔を見せている。

ガメ、ここに来るのは、これが最後かもしれないな、とモニが言う。
モニには珍しく感傷的なことを言う、もう長期滞在ということはないが、欧州とニュージーランドのあいだにある国だもの、またストップオーバーで何度も来るに決まってるやん、と述べると、
そうだな、とは呟くが、まだなにか言いたそうにして、でもそのまま口をつぐんでしまう。
マフラーを巻き直して、コサックみたいだ、とときどきからかう黒いふかふかした帽子を、ふざけて少し深めにかぶり直して、こんなに反射光が強い海なのに、サングラスを外して見つめている。
なんだか本当に最後だと思っているようなので、びっくりして見つめていると、突然、ぼくの手のひらをつかまえて、ぎゅっと握りしめる。
モニが、ガメ、ここにいて、わたしのそばにいて、永遠に離れないで、と瞬間に考えたときの癖です。

モニにしては、おおげさな感情で、不思議だった。

それから三ヶ月で福島の原発が爆発した。
あの、まるで安物の特撮みたいに見える、するすると伸びていく黒い水を、オークランドの家のラウンジで、ふたりで並んでカウチに腰掛けて、強張った顔でみつめていた午後を昨日のことのように憶えている。

そのあとは日本は記憶のなかだけに存在する国になった。
プロの写真家で十分通用するくらい写真を撮るのが上手なモニさんは、よくカメラを持って歩いて、モノクロームの写真をたくさん撮影するが、このときも手にカメラを持っていたのに、目の前の美しい海を撮ろうとはせずに、ただ一心に見つめていた。
まるで、死にゆく人を看取るように、愛情をこめて、でも二度と会えないことを知っている人の目で、葉山の海を見ていたモニを思い出す。

六年後、欧州からの帰り途、二泊だけの旅で日本を再訪したが、そのときの感想は不思議で、再訪自体はとても楽しかったのに、以前に住んだことがある国だとはどうしても感じられなかった。
観光で訪れた見知らぬ国のようで、自分が日本語を理解出来る事すら奇妙に感じられる旅だった。
日本は、もう知らない国になってしまっていた。
モニが見つめていた日本は、たしかにあの年を最後に、この地上から永遠に去ってしまった。

あの輝きを最後に残して。


ヒロシマ

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日本語で見聞きする太平洋戦争についての話が、あまりに奇妙で、いわば日本が主役の話に書き換えられて、常識と異なっているので、業を煮やして、
「ふたつの太平洋戦争」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/
という記事を書いたことがある。

毎年、今頃になると、こんなことばかり書いているような気がするが、日本の人の第二次世界大戦に対する認識のずれは、どこからどうみてもナチが主役の戦争であるのに、自分が脇役であることに我慢できずに、主役をふたりの筋立てに水増しして、ほぼ架空な戦争を作り上げてしまったことにある。

欧州にいれば簡単に実感できることは人類の理念をかけて戦われた第二次大戦は5月8日に終わったので、その後は、また別の戦争で、いまでいえばより大規模なISとの戦い、というようなもののほうに似ている。
外から見れば普遍性のない教条をかざして、貧弱な火器を武器に、自殺攻撃を繰り返すことで世界のがわに立った「外国人」たちを恐怖の底に追いやることで勝利を手にしようとした、テロを大規模にして戦争と呼ぶ事にした、とでも言うような奇妙な戦争で、軍事的に言えば、厄介な掃討戦とでもいうほかないひと続きの戦闘がVEデー後の第二次世界大戦の性格で、日本側からいえば、前年の6月15日から7月9日にわたって戦われたサイパン島の戦いが終了したときに軍事的には意味のある「太平洋戦争」は終わっていて、そのあとは、本音を言えば自分たちの軍隊という官僚組織が消滅することを恐れて、次から次に理由を捏造して、将校たちが兵卒の生命を大量に使いつぶして、自己の官僚としての延命を図ったのにしか過ぎない。

意味のある戦争が終わってしまっているのだから、当たり前のことだが、VEデー以降、連合国側の戦意は著しく低下した。
楽しみにしていた恋人からの手紙を開いてみれば、欧州戦線から帰還した故郷の町の「英雄」である兵士と付き合うことになったので、ここでお別れにしたい、という手紙であり、ラジオをつければ、故国は毎日毎晩がカーニバルのような大騒ぎで、遠く極東で海でも陸でも、信じがたいことに空からすら、自殺攻撃をひっきりなしにかけてくる、国民がまるごと狂気にとらわれているとしか思えない民族を相手に、発狂しそうになりながら、対空機関砲を撃ちまくり、日本刀をかざして、突撃、というよりは、よろよろと向かってくる何百という人間を機関銃で薙ぎ倒すだけの戦場で、そこいらじゅうに潜んでいる狙撃兵に殺され、時に擲弾筒から発射された小型の榴弾で手足を吹き飛ばされる。
そうして、陰湿な戦闘で殺された人間は、すべて犬死にでしかなく、無意味な死で、自殺攻撃という自分の人間としての価値をゼロとみなす敵兵のせいで、こちらの人間性がどんどん安物になってゆく、卑しさに満ちた非人間的な戦場で、終わるべきなのに終わらない戦争が1日延びるたびに、また数人が無意味な死を死ぬことになっていた。

マンハッタン計画に参加した科学者たちですら、自分達が何をつくってしまったか理解していたのは後年、カメラの前で泣きながら「I am become Death, the destroyer of worlds」と述べたオッペンハイマーを初め、ごく少数の人間だっただろう。
政治の世界で政策を決定し、当時ならば戦略決断をする立場だった人間たちにとっては原爆は「なんだかよく判らないが巨大な破壊力を持つ高性能爆弾」というぼんやりしたイメージがあるだけだった。
500機のB29を擁するテニアン基地で搭乗員相手にブリーフィングを行う将校達にしても、強烈な閃光がある、そのあとに急速にキノコ雲がわき上がる、平地の中心にうまく落とせば素晴らしい破壊力を発揮する、という程度の切れ切れの知識を持っているだけであったのは証言を読んでいてもよく判る。

原爆が実は通常爆弾とは次元が異なる兵器で、人間を文字通りの業火で焼き尽くし、いあわせたものは皮膚をボロ布のように身体からたらしながら苦しみのなかで彷徨し、あるいは肥田舜太郞医師が広島で初めて会った犠牲者のように、「まるで人間の形をした炭が歩いてくるようだった」という酷い火傷をおい、しかも爆発による破壊のあとでも、放射性物質によって被爆したひとびとを苦しめつづけ、喉の渇きから降ってくる雨を口で受け止めた者は次々と死んでゆく、というような到底人間の手に負える兵器でないことが判ったのは、広島市民をギニアピッグとして、データを集めてはじめて判ったことで、現実の広島の惨状を見たものは、日本の側かアメリカの側かを問わず、これが現実に起こりうることなのだろうか、と呻きに似た感想を記している。

原爆の標的は、もともとは軍都で、呉か小倉で、兵士を殺すためのものだと明言されていた。やむをえない場合は仕方がないが市民は極力巻き込まない、という説得のための「イメージ」は、現実の投下プランの段階で、軍人らしく、「一発の爆弾での破壊力を最大限に発揮させる」という殺人の効率化のほうへ収斂されていって、結局は原爆ドームの直上で爆弾を破裂させるという市民虐殺のほうへ本末が転倒されてゆく。
なぜそうなったかについては、投下作戦としては失敗に終わった長崎の例をみれば明かで、開発にかかった巨大な予算を正当化するためには、「瞬時ですべてを破壊し蒸発させる」、常識を越えた魔王的な結果が得られなければ、マンハッタン計画自体の成果が問われたからでしょう。

8月6日が近付けば、毎年のことで、昨日もヒロシマについてのドキュメンタリを観てあるいたが、エノラゲイの搭乗員たち、開発に携わった人たち、爆弾を現実に投下する決定を行った人達は、異口同音に、「もし原爆を落とさなければ、戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」と一様に述べている。

ノーザンプトン級重巡オーガスタの艦上で兵士達と昼食を摂りながら歓談していたハリートルーマンは広島核攻撃成功の電報を受け取ると、その場で立ち上がって
「諸君、われわれは、TNT二万トンぶんの破壊力を持つ、たった一発の爆弾で日本の都市広島を木っ端微塵に吹き飛ばした」と述べて居並ぶ将校や水兵たちと一緒に歓声をあげる。

将校から一水兵まで、直観的に、その強烈な新型爆弾の威力が、自分たちを日本本土上陸作戦での「犬死」から救ってくれたのだと判っていた、と、さまざまな人が書き残している。

そのときのハリー・トルーマンの即席スピーチが
「Come on boys. We’re going home!」で締めくくられたことは象徴的です。

都合が悪いので、日本ではあんまり伝えられていないが、その頃、
「なんとか、どこかで一勝をあげることは出来ないのか」が口癖になっていたらしい昭和天皇は、科学者らしく、広島に落ちた「新型爆弾」が、どうやら核爆弾らしいと判って、鈴木貫太郎を説きつけて、なんとか戦争を終わらせないとたいへんなことになる、と実感する。

It was to spare the Japanese people from utter destruction that the ultimatum of July 26th was issued at Potsdam. Their leaders promptly rejected that ultimatum.
If they do not now accept our terms, they may except a rain of war, from the air, the like of which has never been seen on this earth.

がハリー・トルーマン大統領の広島核攻撃についての公式声明で、つまり、日本政府が引き続きポツダム宣言をにべもなく拒否すれば、日本の諸都市にどんどん核攻撃を行って、国ごと廃墟にしてやる、という宣言だった。
そして、この「空からの圧倒的で一方的な攻撃」というアイデアは、息子が極東の戦場で死にさらされているアメリカの母親たちを喜ばせた。

日本語世界では、奇妙な事に「現実に戦争を終わらせたのは原爆ではなくソ連の参戦だ」ということになっている。
英語人たちの一般的な理解は、「理解不能な狂気によって最後のひとりまで自殺攻撃をする決意を固めていた日本の戦意を打ち砕いて降伏に持ち込んだのは広島と長崎に落とした二発の核爆弾だ」でしょう。

さきほどの「もし原爆を落とさなければ、戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」は、いまでも公式ロジックだが、これを読んで違和感をもたない人は、英語人であれ日本語人であれ、世界を理解するには少し難しい能力しかない人であるに違いない。

二発の、それぞれタイプの異なった核爆弾は、不幸なことに日本人に「われわれは戦争の被害者なのだ」という情緒を植え付けてしまった。
ドイツ人たちが自分達は加害者であって、非人間的な理念を信じて膨大な被害者をつくったために弾劾されているのだ、という明瞭な意識を持って戦後の再建設を始めたのに対して、日本人は、紛うことない加害者でありながら、理屈を避けて、世界でゆいいつ核攻撃を受けた国民であることの、犠牲者としての情緒を前面にだすことによって、表向きは謝りながら、内向きには「戦争の被害者」として振る舞ってきた。
どこからどうみても残忍で卑劣なアジアの加害者でしかないことを他のアジアの国々の人々に指摘されると、「じゃあ、おまえにはカネはやらない」と述べ、
加害者であるのに被害者であるふりをする論理の整合性のなさを言われると、苦し紛れに「われわれは欧米の白人に対する人種差別に対して立ち上がったのだ」と、兵士による集団強姦や集団処刑で殺された何万人、何十万人という数のアジア人の亡霊達が環視するなかで平然と言い放った。

一方で、自分の一個の肉体で閃光と熱風を受け止め、立ち上がれすらしない瀕死の身体で、線路を這って隣駅の実家にたどりつき、戦後になってみれば「ピカはうつる」と冷たく結婚の道を遮られた個々の人間、彼らだけが「原爆」の意味を知っている広島のひとたちは、疎まれ、存在自体がタブーになって、政治や文学のなかで観念化していく「原爆」を横目でみながら、自分たちの肉体と、自分達への同胞からの差別との戦いのなかで、生き延びなければならなかった。

すぐに気が付いた人も多いとおもうが
「もし原爆を落とさなければ、戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」
という言葉の奇妙さは、そこには「個人」の視点がどこにも存在しないことで、とってつけたような、ただただ原爆投下という行為を「全体」から見ようとしているのが、本来、全体など一顧だにしないはずの兵士の口から出た言葉だからで、つまりは、戦後に判明した核爆弾という兵器の非人間性を知ったあとでは普段どおり個人として原爆投下に携わったことを述べれば泣き崩れるしかなかったことが感じられるからでしょう。

広島で人類が初めて出会った「人間の言語の想像力の限界を超える力」は、人間社会全体の宿痾である効率への執着によって、やがて、核発電に姿を変え、今度はチェルノブイリと福島で、前者が起きたソビエトロシア社会は厄災の深刻さを認め、後者の社会は、まるでそれが通常の事故として処理が可能であるかのような「ふり」をすることにした、という違いはあっても、前者は財政的に破綻して国が消滅し、後者は「嘘」の一般的な力の法則にしたがって、言語自体が真実性を失って、社会が内側から膿み崩れて、社会ごと狂気にとらわれ、到底社会とは呼び得ないものに変わり果ててしまっている。

日本が福島第一事故で平然を装っていることの重大な副作用のひとつに、日本人たちの平静な無表情を見て、「なんだ、核なんてあの程度か」という、それまでは絶対の破壊の神としてすべての言語世界で君臨し恐れられていた核エネルギーの日常化とでもいうべき人類の思想上の変化がある。
核戦争と核発電事故は、ふたつの「絶対に起きてはならないこと」であったのが、
すぐに大量死が起きたりしないので、なんだ、たいしたことないじゃないか、と述べるオチョーシモノが、科学者のあいだにさえ現れ始めている。

その思想的な変容の恐ろしさは、破壊が、いわば時間を圧縮した形で起きたヒロシマをつぶさにみていけば判ります。
オッペンハイマーが涙をぬぐいながら述べた言葉の意味を、彼の恐怖を、世界の人間ひとりひとりが理解しはじめるのは、むしろ、これからのことなのでしょう。


日が暮れて

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オークランドのいまの家を買うとき、裏庭の一角にバナナの木が何本か植わっていた。
カベンディッシュバナナで、見ると、ちゃんと実がたわわについている。
熱川のバナナワニ園みたいとおもって、おもわずワニを探してあたりをみまわしたが、ワニはいなくて、木の根元に、ワニをミニチュアにしたようなヤモリが一匹いるだけです。

ニュージーランドの北島は奇妙な極相を示す森林が多いので有名で、亜熱帯の樹木と亜寒帯の樹木が、ひとつの森で冠林をなして、クライマックスを形成している。
ブラジルからもアメリカからも、日本からも、したがって、毎年研究者がやってきて、「なんじゃこりゃ」とつぶやきながら写真を撮りノートを取っている。

バナナの木などは、オークランドの変態気候からすると、お茶の子さいさいで、だから、バナナ特有のしどけないというか、はっきり言ってしまえば、チョーだらしがない感じの成木が、どう表現すればいいか、まとまりのない、ばらけて散らかった感じで、だらっと立っている。

バナナの木は見た目が嫌いなので契約のセトルメントがすんだ途端に伐採してしまったが、土が案外によくて、いまでもいろいろな果物やハーブを植えて遊ぶ。
バジル、コリアンダー、イタリアパセリ、ローズマリー、トマト、なす、各種レタス、レモン、ライム…面白がってたくさん植えすぎて植物園みたいになってしまっているが、ピザをつくって、庭のテーブルで食べているときなどは便利で、もう少しバジルが欲しい、と思えば立っていてバジルの葉を摘んでくればよい。
カクテルのミントも、メキシコビールのコロナに押し込むライムでさえ、おなじ手ですみます。

広尾山のアパートでは、むろん、プランターでハーブを育てることしか出来なかったし、軽井沢というところも、何を育てるのも手がかかるところで、しかも庭は蔓植物やコケが一面に覆っている美しい庭で、掘り返すわけにもいかないので、町営の、月貸の菜園を観に行ったが、そこで観た光景は恐ろしいもので、多分もとはプロのお百姓さんだったひとびとが、丹精をこめて、というよりは全力をふりしぼって、隣地の菜園と競い合って、世にも美々しい菜園が並んでいて、こんなところで野菜をつくったら、それだけで一生が終わってしまうと感じられたので、友人の親切な申し出を辞退して、日本では、野菜や果物、ハーブを育てる楽しみは断念していた。

Twitterで

と書いてから、思い立って、いま、webサイトをあれこれ見てみると、あの人が述べたことは、そのままほんとうというわけではなくて、自給率は80%とかなんとかだったが、スペイン人であれば誰もが持っている安心の源は「スペインは食糧を輸入する必要はないのだから、いざとなれば、それで食べればいいのさ」で、この安心立命の感覚には、スペインを旅行すれば直ぐに納得できる背景があって、あの国は17州のどこに行っても町と町のあいだには「なににも使っていない土地」が広大に広がっている。
フランスのように空き地さえあれば何かに使いたい国民性とは異なって、スペイン人はなにしろスペイン人なので、荒れ地でも岩地でもない土地が、なぜか何にも利用されずに延々と地平まで続いている。
潜在的食糧自給率、というのはヘンだが、実感として「ここにオリブを植えれば食えるよね」と思うのは、人間の自然の感情であると言わねばならない。

調べてみて、そーか、スペイン人はナマケモノというのではなくて、人間がもっと本質的な部分で、余裕をもってのんびりだが、あののんびりの理由はこれか、と思ったりする。

翻ってニュージーランドを考えると、自給率は、めんどくさいから調べるのは嫌だが、たしか500%だかなんだかで、しかもスペインよりももっと農耕可能地は余っているが、食べ物だらけで、最近はバブルで、スーツを着て稼ぐ方が忙しくて、まるで先進国のような顔をして暮らしているが、もともとは、わし母校の研究者が、ニュートンゆかりだからね、と凡庸な冗談を述べながら、二万キロを南下して、りんご園で、りんごを拾うバイトを兼ねて、母国の神の悪意を感じる冬を避けて、夏の、パラダイスをそのまま地上に移転させたようなカンタベリーで研究にやってきていたりしていた。
夜明けとともに起きて、机に向かって、昼間はりんごを拾って、夜は同じ大学の研究者同士でフォークとナイフを両手にもって、農園のおかみさんや厨房人がつくってくれたステーキとマッシュドポテトと温野菜の皿をつついて、隣のヴィンヤードのおごりのワインをたらふく飲みながら議論をする。

そういう生活をしていてマヌケな連合王国の大学人にも判ってくるのは、オカネがいらない生活の素晴らしさで、その頃の南島経済などは牛の挽肉は2キロ5ドル(300円)で、リンゴは、どうしても払いたければ木箱が10ドル550円で、木箱でいるほどジャムをつくったりするのでなければ、つまりはタダでもらえた。

つくってみた人は知っているとおもうが、そうして、ジャガイモなどはワインで酔っ払ったついでに、芽がでて古くなったやつをガレージの裏のそこここに埋めておけば、これでもかこれでもかというくらい勝手に増えるので、ニュージーランドはもともとはつくづくオカネがいらない国で、わしがニュージーランドに土地鑑があってよかったと思うのは、「なにをやっても全然ダメなら、ぬわあにニュージーランドへ行って、リンゴを拾って、ジャガイモをぶちまいて暮らせばいいのよ」で、自分の一生において、なにごとかを企んで、ものの見事に失敗するという起こりがちなことへの恐怖心がまったくなかった。

実家はオールドマネーというのは強いもので、両親に話を聴いても頭に入らないくらい豊かな様子だったが、子供の頃からロビンフッドだのホーンブロワーだのを読んでいて、裏切って実家のオカネで一生を送るわけにはいかないので、問題にならなくて、したがって「借金をしない」ということをゆいいつの経済方針として、
ダメならダメで、友達の農場でファームハンド、つまりは作男をするからいいや、と決めてあった。
南島の農場には、作男専用の住居があって、案外3寝室の立派な建物です。

両親が持っている「牧場の家」は英語でいうホビーファーム、「ライフスタイル」と呼ぶ牧場風の家(1〜5エーカー)と「リアルファーム」(200エーカー〜)のあいだに位置する農場で、子供のときから、ここで馬に乗ったり、牛さんとにらめっこしたり、四輪バギーで横転(←クビの骨を折るのでチョーあぶない)したりしていた。
そこで、農場の面倒をみてくれているJさんから、牛の乳のしぼりかた、羊の毛のかりかた、じゃがいもやリークの栽培、トラクターの運転、屠殺小屋に追い込んで殺す鹿の撃ち殺し方まで、さまざまなことを教わって、未来の作男生活に備えた。

社会の繁栄をGDPや、個人の収入で計るのに現代の人間はなれているが、
では経済がぜんぜんダメということになっていて、実際にも数字をみると、いかにもダメダメなスペインやイタリアを旅行すると、ひょっとして個々の人間にとっての「繁栄」の指標がアメリカやイギリスのような国とスペインやイタリアでは、ぜんぜん違うだけなんじゃない?と思う事がよくある。

コモ湖のLennoからTremezzoへ。郷土料理定食屋をめざして丘の上の道をぶらぶらと歩いていくと、やがて眼下に住宅地が広がり始めて、どの家も道からよく見渡せるが、イタリアの家はたとえば、芝の広がりを愛するイギリスの家と根本から庭というものの思想が異なっていて、あまり小さくもない庭全体が菜園になっている。
定番のトマトはもちろん、カボチャ、なす、さまざまなものが畝をつくっていて、あるいは棚からぶらさがっていて、このあたりのカフェにはいると、ピザなどは卵は鶏舎から、バジルやオレガノは庭から摘んで、足りないものは近所の人が箱にいれて朝もってくる。
大陸欧州では、消費税が高いこともあって、表面から見えるよりも物々交換経済が盛んだが、それも、もともと食べ物を自前ですます下地があるからであるように思えます。

欧州人の思想には、おいしい食べ物があって、そのうえで、これはこれでまたいつか別の記事にしようと思っているが子供の養育を第一子においては親と社会が半々に労力とコストを分け合って、助けあって、第三子ともなれば、社会のほうで手を挙げて、ああ、もうあとはわたしが面倒みますから、というふうになっていれば、自分が住む社会は、それで十分で、それ以上の役割は期待していません、という気持が濃厚に存在する。

夕飯の仕度にスーパーマーケットに出かけるのは、いまでは世界じゅうで見られる夕暮れ時の風俗だが、前史を別にして、Michael J. Cullenが初めて近代的なスーパーマーケットを開いたのは1930年のことで、60年代になるとアジアの街でもスーパーマーケットは個々の商店を淘汰していった。
レジでオカネと引き換えに食物を受け取る、「夕飯の買い物」のイメージは、だから、そんなに長い歴史をもつものではないが、このスタイルで食物を手にする習慣が確立されたことによって、食品は工業製品になった。
パックされて製品化されるまで、いっとき製品に「生命」が宿るだけのことで、鶏肉といえどプラスティックの皿やペーパータオル、トイレットペーパーのような製品と寸分違わぬマネジメントや親会社のローンによる一種の金融支配によって産業が成立していることは、無数のドキュメンタリに描かれています。
このブログにもいくつか記事がある

「プラスティックミート文明」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/05/26/food_1/
「あすこそ仏滅」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/11/07/butumetu/

日本の都会を含めて、都会に住む人間が根本から疎外されて、なんだか立っている地面がおぼつかないような、見るもの聞くもの腹が立つとでもいうような、いてもたってもいられない焦慮に似た虚しい怒りに駆られているのは、このオカネと食べ物が等価である生活のイメージに依っている。

欧州系人の社会ではファーマーズマーケットが昔から盛んで、時間があれば必ず出かける、というほど人気がある。
だいたい土曜日か日曜日に開かれるマーケットには、自家製のチーズやソーセージ、自分の農場でとれた野菜や果物が並んで、どのマーケットも盛況をみせている。

オーガニックブームというようなこともあるが、気持のどこかにスーパーマーケットはなにかが不自然だ、という気持があるからで、これは実際に、ここでは詳しくは述べないが、スーパーマーケットの棚に並んでいる食品には実に70%を越える品目に遺伝子工学製品のトウモロコシからとれたシロップが入っていることで、顧客の勘が正しいのだと判っている。
日頃、ふつうの人間が口にしているのは、食品の外形をもった工業製品である事実は現代の最もおおきな問題のひとつなのでもある。

バナナの木立ちを「見栄えがわるい」というケーハクな理由で、にべもなく切り倒してしまったことへの反省もあるのか、そのあとにはリンゴの木を植えることにした。一回失敗したので、いまは二度目に植えた木が育っているところです。
ヘッジの下にはきのこの原木を並べて、そのうちの数本は椎茸にしてみようかと考える。椎茸は7,8個入っている小さなパックが8ドル(600円)くらいもするので、買うたびに日本での値段を思い出してバカバカしくなるせいもあります。

予期しなかったことは、この裏庭の一角における食べ物の生産量が増えるにつれて、世の中がみるみるうちに違う姿に見えだしたことで、具体的にはオカネというものが必需品であるよりは余剰価値であるようにおもわれだした。
あるいは、単純にオカネを使わなくて、ケチになった。

もしかすると、いままでオカネを使っていたのは、多かれ少なかれ中毒の一種だったのかしら、という気がしてきた。

日本語で書いているのだから日本のことを述べねばならないが、たとえば新潟や長野で農家の人と話しをしていると、「あのね、日本では他人に頼んで代作できないの」と言われたりする。
もしかすると聴き取りそこなって、間違っているのかもしれないが、休耕地というか、要するに、むかしは農耕地だった荒れ地だが、それを誰かに貸したり売ったりしようとするのにおおきな制限があるらしい。

あるいはJAの人と話していると、「日本は食糧の自給率っていったって、あんなの石油しだいだから」という。
意味が判らないので聞き返すと、肥料やハウスにおおきく依存している日本の農業は原油が仮に暴騰すると即死だから、といって笑っている。

面白い事に「たとえば肥料を一定量、割り当てられただけ使わないと次の年に種子の割り当てがこなくなるんだけど、それを、ガメちゃん、SNSで書いてごらん、面白いことが起こるから」という人がいて、やってみたら「わたしは実際の農家ですが、そんなことは起こりえないのを知らないのか」という見知らぬ人からのリプライがたくさんくる。
「あれ、誰かが雇っているんですか?」と聞くと、曖昧な顔で、ふふっ、という。
農業って、闇が深いんですよ、と付け加える。

ときどき、日本のことを考えると、あの国では社会は何のためにあったんだろう?
と不思議な気持で思い出します。
育児を助けてくれない。個人が、具体的には家族4人でせめて200平方メートルは床面積がなければ通常の生活が送れないはずの住居を、せめて10年ローンで買うだけの手助けをしてくれない。
学校は無料ではなくて奨学金は存在しない。
ところがステルス税
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/20/stealth-tax/
を加えると、税金は北欧福祉国家よりも取っている!

子供をのんびり育てられず、食糧も工業製品といして流通している社会では、ストローラー(ベビーカー)を押して地下鉄に乗り込んでくる若い母親をにらみつけ、エスカレーターの右側に立って、ぼんやり天井を眺めている、日本社会の暗黙の了解を理解しないマヌケなガイジンの妙に長大な身体の後で聞こえよがしに舌打ちをしたくなるのは、当然の結果なのかもしれない。

ひとつの解決は、「オカネがいらない世界をめざす」ことで、具体的には、まず「都会に住まなくてもいいや」と思う事から始めるのがよさそうです。
廃村の廃屋を、自分で住めるようにして、自給の菜園をつくって、週に3日だけ町に仕事をしにいける生活をめざすのは良い考えかもしれない。
会社勤めをやめて、森のなかで、あるいは海辺で、自分では育てられないものを購う最小限の収入をうるためだけに世の中と関わろうと決意して、近代の理屈に背を向けて、半農の1日の終わりに、砂浜に椅子をだして、大好きな小説家の物語の第1ページを開くとき、同時に、きみは自分の新しい生活のページを開いているのかもしれません。

もう日本語の社会は日暮れなのだから、日本に住みたければ、夕暮れどきには夕暮れどきの過ごし方があるというだけのことなのでしょう。


Diary2

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世界の都市という都市の、高層ビルの、何百万何千万という窓のガラスがいっせいに割れて、無数のガラスのかけらが陽光のなかで輝きながら落ちて来る日を夢見ることがある。
ぼくは全身にガラスの破片が刺さっていくのを感じながら、血まみれの頬や腕をぬぐって、空をみあげるだろう。
無限に落ちてくるガラスの欠片をみつめながら、盲いる日を願うだろう。

それがなぜなのかを理解できない人と話しても仕方がない。
人間の根源的な欲望を知らない人と話しても仕方がない。

破壊と建設が対立する概念ではないことを知らない人と、なんの話ができるというのだろう?

昨日は、Halsey

ばかり聴いていた。
この初めの日本語のナレーションは原曲にはないのだけどね。

Halseyは新しいポップスの地平線に立って向こう側を見ている。
Badlandsは素晴らしいできばえのアルバムで、聴きだすと止まらなくなる。
ポップスなのだから、なるべく繰り返して聴いて、さっさと消費しようと考えるのに、それを許してくれない。

仕方がないから、(普段はZ-FMを聴いている)クルマのなかでも、ブルートゥースでつながったSpotifyのHalseyを聴いている。

聴いているうちに、モニもぼくも、すっかり高校生のような気持になって、
いつもなら制限以下になるように気をつけて飲むランチのワインを飲み過ぎて、
家の人に迎えに来てもらうことになる。
チョー酔っ払って、後部座席の窓から町をみている。
雨のなかを、びっしょり濡れながら歩くひとびと。
口論している夫婦。
警官とマオリの子供たち。
怒りで赤く染まった、険しい顔。
怯えた顔のマオリの子供たち

高級車に乗って得意そうな不動産セールスのCがすれ違う。
会釈する。
半年前には、なんだかおどおどした、クライストチャーチから出て来たばかりの青年で挨拶に来たのをおぼえている。
いまはトップセールスマンになって、先週はトップモデルとの交際がゴシップ雑誌に出ていた。

悲惨、という言葉をおもいだす。

Pan Amというドラマがあった。
Mad Menは人気ドラマだった。
Downton Abbyちゅうドラマも人気があるよね。

英語世界で人気のドラマには、でも、皮肉な立場に立つと、「白い人しか出ないドラマ」である。
日本人にはとても人気があるのだとUKで報じられていたホームズシリーズもそうである。
真っ白なドラマが画面を席捲していてアフリカ系人の俳優/女優たちが拳をふりあげて抗議している。

日本の人達は相変わらず、のほほんとした「準白人」のつもりなので、おーシャーロックホームズかっこいいでテレビを観ているが、あのスクリーンの裏側には言うに言われない葛藤がある。

肌の色が、また人間の世界を悲劇に引きずり込もうとしている。

すべてをぶん投げて、親族とも、UK全体とも絶縁してでも結婚したいと考えた濃いチョコレート色の肌をした、あの美しい人は、明るいヘイゼル色の目をしていた。
「先祖のどっかにガメの同族がいたのね」と笑っていたが、ぼくは、あの人が述べる言葉のひとことでも理解していただろうか。
アングロサクソンはアングロサクソンであること、それ自体によって世界を誤解しているのではないか。

こんなことを日本語で書くことには、何の意味もないのは判り切ったことだけど、
でも英語で書けるわけはないしね。

いまでは科学的には、はっきり否定されている「人種」という概念は、人間の思考にとっては呪いのようなものである。
まったく正当性を欠いているのに、言葉にしみついて、どこまでも追いかけてくる。

多分、北海文明の「仲間意識」に淵源があるこの文化はどこまでも続くのだろう。

聡明なモニの子供なので、小さなひとびとは人種や言語にとらわれずにパートナーを見つけて、この年々ややこしくなっていく世界を生きていくだろう。
生まれたとき偉いお坊さんたちがやってきて、「この子は、世界を救うだろう」と述べていたが、言葉のとおりゴールデンチャイルドなのだとしても、はずれでも、モニとぼくは単純に親として見ているだけなので、 あんまり関係がない。
生まれてからいままで、猫ちゃんや犬さんとあんまり変わらないというか、アホで、チョー可愛くて、それだけで、もしかしたらマジメなモニでなく、父親に似て無限にとんでもない人になっていくのかもしれないが、それで一向にかまわない。

世界の都市という都市の、高層ビルの、何百万何千万という窓のガラスがいっせいに割れて、無数のガラスのかけらが陽光のなかで輝きながら落ちて来る。

全身にガラスの破片が刺さっていくのを感じながら、血まみれの頬や腕をぬぐって、空をみあげる。
無限に落ちてくるガラスの欠片をみつめながら、盲いる日を願う。

もう神はぼくを愛さないだろうから


日が暮れて

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オークランドのいまの家を買うとき、裏庭の一角にバナナの木が何本か植わっていた。
カベンディッシュバナナで、見ると、ちゃんと実がたわわについている。
熱川のバナナワニ園みたいとおもって、おもわずワニを探してあたりをみまわしたが、ワニはいなくて、木の根元に、ワニをミニチュアにしたようなヤモリが一匹いるだけです。

ニュージーランドの北島は奇妙な極相を示す森林が多いので有名で、亜熱帯の樹木と亜寒帯の樹木が、ひとつの森で冠林をなして、クライマックスを形成している。
ブラジルからもアメリカからも、日本からも、したがって、毎年研究者がやってきて、「なんじゃこりゃ」とつぶやきながら写真を撮りノートを取っている。

バナナの木などは、オークランドの変態気候からすると、お茶の子さいさいで、だから、バナナ特有のしどけないというか、はっきり言ってしまえば、チョーだらしがない感じの成木が、どう表現すればいいか、まとまりのない、ばらけて散らかった感じで、だらっと立っている。

バナナの木は見た目が嫌いなので契約のセトルメントがすんだ途端に伐採してしまったが、土が案外によくて、いまでもいろいろな果物やハーブを植えて遊ぶ。
バジル、コリアンダー、イタリアパセリ、ローズマリー、トマト、なす、各種レタス、レモン、ライム…面白がってたくさん植えすぎて植物園みたいになってしまっているが、ピザをつくって、庭のテーブルで食べているときなどは便利で、もう少しバジルが欲しい、と思えば立っていてバジルの葉を摘んでくればよい。
カクテルのミントも、メキシコビールのコロナに押し込むライムでさえ、おなじ手ですみます。

広尾山のアパートでは、むろん、プランターでハーブを育てることしか出来なかったし、軽井沢というところも、何を育てるのも手がかかるところで、しかも庭は蔓植物やコケが一面に覆っている美しい庭で、掘り返すわけにもいかないので、町営の、月貸の菜園を観に行ったが、そこで観た光景は恐ろしいもので、多分もとはプロのお百姓さんだったひとびとが、丹精をこめて、というよりは全力をふりしぼって、隣地の菜園と競い合って、世にも美々しい菜園が並んでいて、こんなところで野菜をつくったら、それだけで一生が終わってしまうと感じられたので、友人の親切な申し出を辞退して、日本では、野菜や果物、ハーブを育てる楽しみは断念していた。

Twitterで

と書いてから、思い立って、いま、webサイトをあれこれ見てみると、あの人が述べたことは、そのままほんとうというわけではなくて、自給率は80%とかなんとかだったが、スペイン人であれば誰もが持っている安心の源は「スペインは食糧を輸入する必要はないのだから、いざとなれば、それで食べればいいのさ」で、この安心立命の感覚には、スペインを旅行すれば直ぐに納得できる背景があって、あの国は17州のどこに行っても町と町のあいだには「なににも使っていない土地」が広大に広がっている。
フランスのように空き地さえあれば何かに使いたい国民性とは異なって、スペイン人はなにしろスペイン人なので、荒れ地でも岩地でもない土地が、なぜか何にも利用されずに延々と地平まで続いている。
潜在的食糧自給率、というのはヘンだが、実感として「ここにオリブを植えれば食えるよね」と思うのは、人間の自然の感情であると言わねばならない。

調べてみて、そーか、スペイン人はナマケモノというのではなくて、人間がもっと本質的な部分で、余裕をもってのんびりだが、あののんびりの理由はこれか、と思ったりする。

翻ってニュージーランドを考えると、自給率は、めんどくさいから調べるのは嫌だが、たしか500%だかなんだかで、しかもスペインよりももっと農耕可能地は余っているが、食べ物だらけで、最近はバブルで、スーツを着て稼ぐ方が忙しくて、まるで先進国のような顔をして暮らしているが、もともとは、わし母校の研究者が、ニュートンゆかりだからね、と凡庸な冗談を述べながら、二万キロを南下して、りんご園で、りんごを拾うバイトを兼ねて、母国の神の悪意を感じる冬を避けて、夏の、パラダイスをそのまま地上に移転させたようなカンタベリーで研究にやってきていたりしていた。
夜明けとともに起きて、机に向かって、昼間はりんごを拾って、夜は同じ大学の研究者同士でフォークとナイフを両手にもって、農園のおかみさんや厨房人がつくってくれたステーキとマッシュドポテトと温野菜の皿をつついて、隣のヴィンヤードのおごりのワインをたらふく飲みながら議論をする。

そういう生活をしていてマヌケな連合王国の大学人にも判ってくるのは、オカネがいらない生活の素晴らしさで、その頃の南島経済などは牛の挽肉は2キロ5ドル(300円)で、リンゴは、どうしても払いたければ木箱が10ドル550円で、木箱でいるほどジャムをつくったりするのでなければ、つまりはタダでもらえた。

つくってみた人は知っているとおもうが、そうして、ジャガイモなどはワインで酔っ払ったついでに、芽がでて古くなったやつをガレージの裏のそこここに埋めておけば、これでもかこれでもかというくらい勝手に増えるので、ニュージーランドはもともとはつくづくオカネがいらない国で、わしがニュージーランドに土地鑑があってよかったと思うのは、「なにをやっても全然ダメなら、ぬわあにニュージーランドへ行って、リンゴを拾って、ジャガイモをぶちまいて暮らせばいいのよ」で、自分の一生において、なにごとかを企んで、ものの見事に失敗するという起こりがちなことへの恐怖心がまったくなかった。

実家はオールドマネーというのは強いもので、両親に話を聴いても頭に入らないくらい豊かな様子だったが、子供の頃からロビンフッドだのホーンブロワーだのを読んでいて、裏切って実家のオカネで一生を送るわけにはいかないので、問題にならなくて、したがって「借金をしない」ということをゆいいつの経済方針として、
ダメならダメで、友達の農場でファームハンド、つまりは作男をするからいいや、と決めてあった。
南島の農場には、作男専用の住居があって、案外3寝室の立派な建物です。

両親が持っている「牧場の家」は英語でいうホビーファーム、「ライフスタイル」と呼ぶ牧場風の家(1〜5エーカー)と「リアルファーム」(200エーカー〜)のあいだに位置する農場で、子供のときから、ここで馬に乗ったり、牛さんとにらめっこしたり、四輪バギーで横転(←クビの骨を折るのでチョーあぶない)したりしていた。
そこで、農場の面倒をみてくれているJさんから、牛の乳のしぼりかた、羊の毛のかりかた、じゃがいもやリークの栽培、トラクターの運転、屠殺小屋に追い込んで殺す鹿の撃ち殺し方まで、さまざまなことを教わって、未来の作男生活に備えた。

社会の繁栄をGDPや、個人の収入で計るのに現代の人間はなれているが、
では経済がぜんぜんダメということになっていて、実際にも数字をみると、いかにもダメダメなスペインやイタリアを旅行すると、ひょっとして個々の人間にとっての「繁栄」の指標がアメリカやイギリスのような国とスペインやイタリアでは、ぜんぜん違うだけなんじゃない?と思う事がよくある。

コモ湖のLennoからTremezzoへ。郷土料理定食屋をめざして丘の上の道をぶらぶらと歩いていくと、やがて眼下に住宅地が広がり始めて、どの家も道からよく見渡せるが、イタリアの家はたとえば、芝の広がりを愛するイギリスの家と根本から庭というものの思想が異なっていて、あまり小さくもない庭全体が菜園になっている。
定番のトマトはもちろん、カボチャ、なす、さまざまなものが畝をつくっていて、あるいは棚からぶらさがっていて、このあたりのカフェにはいると、ピザなどは卵は鶏舎から、バジルやオレガノは庭から摘んで、足りないものは近所の人が箱にいれて朝もってくる。
大陸欧州では、消費税が高いこともあって、表面から見えるよりも物々交換経済が盛んだが、それも、もともと食べ物を自前ですます下地があるからであるように思えます。

欧州人の思想には、おいしい食べ物があって、そのうえで、これはこれでまたいつか別の記事にしようと思っているが子供の養育を第一子においては親と社会が半々に労力とコストを分け合って、助けあって、第三子ともなれば、社会のほうで手を挙げて、ああ、もうあとはわたしが面倒みますから、というふうになっていれば、自分が住む社会は、それで十分で、それ以上の役割は期待していません、という気持が濃厚に存在する。

夕飯の仕度にスーパーマーケットに出かけるのは、いまでは世界じゅうで見られる夕暮れ時の風俗だが、前史を別にして、Michael J. Cullenが初めて近代的なスーパーマーケットを開いたのは1930年のことで、60年代になるとアジアの街でもスーパーマーケットは個々の商店を淘汰していった。
レジでオカネと引き換えに食物を受け取る、「夕飯の買い物」のイメージは、だから、そんなに長い歴史をもつものではないが、このスタイルで食物を手にする習慣が確立されたことによって、食品は工業製品になった。
パックされて製品化されるまで、いっとき製品に「生命」が宿るだけのことで、鶏肉といえどプラスティックの皿やペーパータオル、トイレットペーパーのような製品と寸分違わぬマネジメントや親会社のローンによる一種の金融支配によって産業が成立していることは、無数のドキュメンタリに描かれています。
このブログにもいくつか記事がある

「プラスティックミート文明」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/05/26/food_1/
「あすこそ仏滅」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/11/07/butumetu/

日本の都会を含めて、都会に住む人間が根本から疎外されて、なんだか立っている地面がおぼつかないような、見るもの聞くもの腹が立つとでもいうような、いてもたってもいられない焦慮に似た虚しい怒りに駆られているのは、このオカネと食べ物が等価である生活のイメージに依っている。

欧州系人の社会ではファーマーズマーケットが昔から盛んで、時間があれば必ず出かける、というほど人気がある。
だいたい土曜日か日曜日に開かれるマーケットには、自家製のチーズやソーセージ、自分の農場でとれた野菜や果物が並んで、どのマーケットも盛況をみせている。

オーガニックブームというようなこともあるが、気持のどこかにスーパーマーケットはなにかが不自然だ、という気持があるからで、これは実際に、ここでは詳しくは述べないが、スーパーマーケットの棚に並んでいる食品には実に70%を越える品目に遺伝子工学製品のトウモロコシからとれたシロップが入っていることで、顧客の勘が正しいのだと判っている。
日頃、ふつうの人間が口にしているのは、食品の外形をもった工業製品である事実は現代の最もおおきな問題のひとつなのでもある。

バナナの木立ちを「見栄えがわるい」というケーハクな理由で、にべもなく切り倒してしまったことへの反省もあるのか、そのあとにはリンゴの木を植えることにした。一回失敗したので、いまは二度目に植えた木が育っているところです。
ヘッジの下にはきのこの原木を並べて、そのうちの数本は椎茸にしてみようかと考える。椎茸は7,8個入っている小さなパックが8ドル(600円)くらいもするので、買うたびに日本での値段を思い出してバカバカしくなるせいもあります。

予期しなかったことは、この裏庭の一角における食べ物の生産量が増えるにつれて、世の中がみるみるうちに違う姿に見えだしたことで、具体的にはオカネというものが必需品であるよりは余剰価値であるようにおもわれだした。
あるいは、単純にオカネを使わなくて、ケチになった。

もしかすると、いままでオカネを使っていたのは、多かれ少なかれ中毒の一種だったのかしら、という気がしてきた。

日本語で書いているのだから日本のことを述べねばならないが、たとえば新潟や長野で農家の人と話しをしていると、「あのね、日本では他人に頼んで代作できないの」と言われたりする。
もしかすると聴き取りそこなって、間違っているのかもしれないが、休耕地というか、要するに、むかしは農耕地だった荒れ地だが、それを誰かに貸したり売ったりしようとするのにおおきな制限があるらしい。

あるいはJAの人と話していると、「日本は食糧の自給率っていったって、あんなの石油しだいだから」という。
意味が判らないので聞き返すと、肥料やハウスにおおきく依存している日本の農業は原油が仮に暴騰すると即死だから、といって笑っている。

面白い事に「たとえば肥料を一定量、割り当てられただけ使わないと次の年に種子の割り当てがこなくなるんだけど、それを、ガメちゃん、SNSで書いてごらん、面白いことが起こるから」という人がいて、やってみたら「わたしは実際の農家ですが、そんなことは起こりえないのを知らないのか」という見知らぬ人からのリプライがたくさんくる。
「あれ、誰かが雇っているんですか?」と聞くと、曖昧な顔で、ふふっ、という。
農業って、闇が深いんですよ、と付け加える。

ときどき、日本のことを考えると、あの国では社会は何のためにあったんだろう?
と不思議な気持で思い出します。
育児を助けてくれない。個人が、具体的には家族4人でせめて200平方メートルは床面積がなければ通常の生活が送れないはずの住居を、せめて10年ローンで買うだけの手助けをしてくれない。
学校は無料ではなくて奨学金は存在しない。
ところがステルス税
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/20/stealth-tax/
を加えると、税金は北欧福祉国家よりも取っている!

子供をのんびり育てられず、食糧も工業製品といして流通している社会では、ストローラー(ベビーカー)を押して地下鉄に乗り込んでくる若い母親をにらみつけ、エスカレーターの右側に立って、ぼんやり天井を眺めている、日本社会の暗黙の了解を理解しないマヌケなガイジンの妙に長大な身体の後で聞こえよがしに舌打ちをしたくなるのは、当然の結果なのかもしれない。

ひとつの解決は、「オカネがいらない世界をめざす」ことで、具体的には、まず「都会に住まなくてもいいや」と思う事から始めるのがよさそうです。
廃村の廃屋を、自分で住めるようにして、自給の菜園をつくって、週に3日だけ町に仕事をしにいける生活をめざすのは良い考えかもしれない。
会社勤めをやめて、森のなかで、あるいは海辺で、自分では育てられないものを購う最小限の収入をうるためだけに世の中と関わろうと決意して、近代の理屈に背を向けて、半農の1日の終わりに、砂浜に椅子をだして、大好きな小説家の物語の第1ページを開くとき、同時に、きみは自分の新しい生活のページを開いているのかもしれません。

もう日本語の社会は日暮れなのだから、日本に住みたければ、夕暮れどきには夕暮れどきの過ごし方があるというだけのことなのでしょう。



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Queenストリートを歩いていると、あちらからもこちらからも日本語が聞こえてきて驚いてしまう。
CBDでも、あの辺りは語学校がたくさんあるところなので、多分、英語留学で来ているひとびとなのでしょう。
若い女の人が多い。
アジアの人は小さくて、若くみえるので、男も女も中学生のようです。

「この5年」であるよりも、この1,2年で増えたので、福島事故後の顛末を見て不安になったのではなくて、ジャブジャブオカネを使って、本質的な効果はなにもない投機的な経済政策に使い果たして、なお恬淡として恥じない政府や年長世代の厚顔ぶりをみて、日本の経済的将来への不安から英語世界へ移住しようと考えたものであるらしい。

話してみたこともあって、それは2011年以前のことだったが、その人は
「日本の若い女は、機会さえあれば海外で暮らしたいとおもっている」と述べていた。
「日本の社会には、女にはチャンスがないんです。わたしは大学で建築を専攻しましたが、民間企業の性差別があまりに酷いので上級公務員試験を受けて最も性差別が少なそうな省を選んでも、今度は、役所には理系差別もあって、
性差別とダブル差別になってしまったので、仕方がないからアメリカに来ました」と言って笑っていた。

なにごとによらず鈍感なぼくは、そのときも、「そうですか。それは大変ですね」くらいのおざなりな返事で、横にいたベルギー人とポーランド人の映画監督と小津談義に熱中しはじめてしまって、あまつさえ、二年後に違う友達のパーティで、部屋の反対側からまっすぐに歩いて来た美しい女の人に「わたしをおぼえていますか?」と訊かれて、思い出せなかったので「おぼえていません」と正直に述べたら、「ひどい」と苦い顔をされてしまって、その女の人が、日本社会の性差別について話をしてくれた人だった。

日本の社会を見ていて不思議な事は、「労働人口が不足している」と、政府だけではなくて、企業も、マスメディアも、はては新橋の一杯飲み屋のサラリーマンたちですら口々に述べているのに、目の前の、日本の女の人々という世界でも有名なチョー優秀な集団で知られている自分達の社会のグループには、コーヒーをいれさせ、制服を着せて、あるいは安上がりな娼婦の役割を与えて、ついでに使い出がありそうなのを選んで、おかあさんの役割を家のなかで演じさせるだけで、社会のなかでのまともな役割を与えようとしない。

だが、ガメちゃんね、と、有楽町のガード下の焼き鳥屋で、女の人が二重差別でうんざりしたという当の省庁でキャリア組を管理する役のおっちゃんが述べている。
「ぼくには苦い経験があってね、これは優秀な人だな、と思う女の人を、みんなの反対を押し切って推薦して、わたしは絶対に寿退職なんてしません、と真剣な眼差しで言うので、思い切って昇進させてリーダーとして引き抜いたら一年後に結婚退職されちゃって」
と、眉を曇らせている。
いままでのキャリアで、あんなに参ったことはなかった。
おかげで「余計なことをする男」の評判がくっついちゃってさ。
と、上級公務員の安月給なのに、もう4杯目の生ビールの大ジョッキを飲み干していた。
もう、女はこりごりだよ。

職場にいる個々の男が女性差別をなくそうとしても、うまくいかないのは、性差別が社会全体の構造の問題であるからで、たとえばイタリア人の友達は単語にまで性別があって、目に入るものすべてが、どちらの性であるか絶えず無意識に判断しないといけない世界では、男女差別をなくすのは無理だわよ、と苦笑していた。
英語圏のほうが、同じくらいひどいとはいってもイタリア・フランス・スペインというような国よりも性差別が小さいのは、言語の問題もあるのではないか。
ハリウッドの、50年代の映画を観ていると、女らしい言い回しに溢れているが、現代の映画では殆ど男女の差はなくなっている。
言い回しがおなじで、表現がおなじになれば、単語に性別がない杜撰さが怪我の功名をなして、男女の区別を無くしていくのに役立っている。

いまの日本で、まさか「女らしくしなさい」と娘を教育する母親はいないだろうが、女言葉が猖獗していて、一人称さえ「おれ」「わし」「ぼく」が選べないのでは、そのあとに続くセンテンスで表現しうることも極く限られた事象になるだろう。

そのことを述べたら、ある日本人の女の人に「ガメ、女はね、考えるときには女の言葉では考えていないのよ。女言葉は、端的に言えば男を喜ばせるための表現で、あんな言葉でまともにものは考えられない」というので、おおげさでもなく、カンドーしてしまったことがある。
そーか、そーだったのか、と考えた。
一方で、普遍語で思考する上に、それを表現するときに女の言葉に翻訳しなくてはならないのでは、日本の女の人は余計な手間が多くてめんどくさくてやってられないのではないか。

おっさんが「おれは、そんなこと納得できねーよ」と言えるのに対して、
「わたしは、それでは、困ります」しか言えないのでは、頭のなかで「死ね、このクソオヤジ」と叫ぶことは出来ても、その内心の声が頭上にホログラフィで表示されるシステムでも完成しない限り、女びとの声は可視化されない。

アフリカンアメリカンのガールフレンドと付き合って、白い人の側からの微妙ですらない明瞭な差別意識にびっくりしたことがある。
初めは気のせいだろうと考えたが、南部にふたりで旅行すると、ガールフレンドに対して極めて礼儀正しいのに、深刻な話になるとぼくのほうだけを向いて話す人がたくさんいる。
オーストラリアにでかけたときは、もっと酷くて、のっけから存在しない人のように扱われることもあった。
ところがガールフレンドがひとりで街を歩くと、口笛を吹くひと、「美人だねー」と声をかけるひと、たくさんいて、まるでステージを横切るスターに対するようで、つまりは性的対象でしかない。

その頃学習したことは、直截には義理叔父から教わったことだったが「人種差別は差別する側の問題で、される側は、抗議する以外に出来ることはなにもない」ということだった。
日本の人には、「ハクジンにバカにされないように自分達もちゃんとしなければ」と言う人がいて、ぶっくらこいてしまったことがあったが、肌が白い人に感心してもらうために行いを正しくするのでは奴隷なみで、そんな惨めなことを考える必要はない。

人種差別は白い人の病気なので、病人である本人たちが、病気である自覚をもってなんとか治療法を発見して、病気を根絶する以外には方法はないだろう。

モーガン・フリーマンは「人種の話をしたがる人間は人種差別主義者である」と有名なインタビューで述べているが、人種の話とは異なって人種差別主義者の話は、いくら白い社会ではネガティブな話は殆どタブーだといっても、もっとしたほうがよい。
この先は日本語で書いても意味がないので書かないが、差別する側はどういう種類の差別にしろ自分が差別していることについてさえ鈍感なので、「そんなに数が多くなければ」有色な移民がやってきても社会の活性剤になるからよい、あのひとは夫がイギリス人だから安心して付き合える、というバカ言辞を聞き逃してはならない。
それは人種差別ですよ、と明瞭に、いちいち述べなければ不道徳であると考える。

HeForShe
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/

という記事を書いたときに、ツイッタで会ったニューヨークに住む日本人の通訳業の女の人に「男に性差別の話なんかされたくない。あれは女たちの問題だ」と言われて、そうだろうか?と、ときおり考えていたが、いまなら、その女の人はまったく誤っているのだと述べることが出来る。
逆で、人種差別とおなじく性差別もまったく男の側だけの問題で、「男のほうが身体がおおきくて力が強い」という、笑ってしまうような原始的な理由によって社会が成立の当初から歪められて、いまに至った。
女は子供を産んで育てるように身体の構造からして出来ているというような男の都合ででっちあげた妄説は、「アジア人は単調労働に耐えるように肉体全体がつくられている」「日本人は模倣は巧みだが創造ということが出来ない頭脳の構造であることは医学的に証明されている」という、つい最近まで欧州人が信じていた「科学的事実」と呼応している。

夜の六本木や渋谷では、日本の若い男のひとたちが体格に劣り、非力なことを良いことに毎週ごとに強姦が目的の「狩り」に出る欧州人やアメリカ人の噂を聞いた。
そのうちのひとりが、「戦果」を自慢するのを目の前で見たこともある。
日本の男は女みたいな身体のくせにプライドだけは無暗に高いので、絶対に警察に行ったりしないから安全な遊びだと述べていた。

ビデオで、相手に人間性を蹂躙されて悦ぶ女の人の虚像を繰り返し流して、文化化されて、あげくのはてに、アジア人、特にタイ人と日本人の女とみればsexually availableで、しかもどんなことをやっても悦ぶと考える白いバカ男は無限数に近く存在する。

女の人に立場に立ってみれば、この世界は初めから最後まで地獄のひとつらなりのようなもので、最も近しい立場に立ってもらいたい当のボーイフレンドや夫が、徹頭徹尾、自分への差別意識を吹き込まれて育っているのだから、これほど恐ろしいことはない。

人間の世界で最後まで残ってゆくのは多分性差別で、少しでもこの最後で最大の差別を解消していくには、笑ってはいかむ、たとえば週に一回は職場へ向かうのに膝上20センチのスカートを男が穿くことを強制するような後世の人間がふきだすようなことも含めて、なりふりかまわず性差をなくす努力をするしかない。

ベッドで隣に寝ている敵が、真の友に変わるまで、道のりは長いけれど


終戦記念日

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終戦記念日は「戦争が終わった日」という意味だろうが、戦争が終わった日ならば1944年7月9日のほうが相応しいはずである。

1945年8月15日は「せめて、あと一勝」と自分を神と崇める国を有利な講和に導こうと頓珍漢な努力を繰り返した昭和天皇が、二発の核爆弾に青ざめて戦争の続行をついに諦めた日であって、その日に起きたドタバタ喜劇じみた、日本らしい大騒ぎについては、二年前に

「日本のいちばん長い日」を観た
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/04/815/

という記事で書いた。

軍事にも常識というものが存在して、軍事上の常識に従えば日本軍が「絶対に陥落しない。万が一陥落したら、そのときは戦争の終わりだが、たとえ航空隊の掩護がゼロでもサイパンが落ちることはありえない」と昭和天皇に対しても国民に対しても繰り返し約束して、疑義をはさむ将校がいると、「おまえは素人か。サイパンの要塞構成をみて、少しでも軍事知識があれば、落ちるわけがないのがわからないのか」と怒鳴りつけるのを常としたサイパンが、あっけなく陥落した瞬間、ほんとうは戦争はもう終わっていて、そのあとは、ただ無暗に日本の外では補給線を破壊されて制空権を完全に奪われた兵士がひどい飢えのなかで屠殺され、日本の内では、日本側が焼夷弾と呼んだナパーム弾の渦巻き状の絨毯爆撃と最後にはとどめに二度の核攻撃で国民が意味もなく殺されただけのことで、戦争といえるようなものでは到底なかった。
国民の生命というものが幾許かでも価値をもつ普通の国ならば、とっくの昔に、手を挙げて戦争をやめていなければならなかったのに、この日本という、国という体制のために国民が存在する倒立した全体主義の不思議な価値観に立つ国では、国民が最後のひとりになるまで「憎い米英」と戦うと述べて、夜襲やカミカゼの大規模なテロルを続けたので1年と1ヶ月のあいだ、日本人は、男も女も、若い者も老いた者も、ただ意味もなく殺されつづけることになった。

太平洋最大の決戦だったサイパンの戦いについて、日本側では藤田嗣治を動員して戦意昂揚に使われた「バンザイクリフでの追い詰められた民間人投身の悲劇」以外は不思議なほど語られることがないのは、簡単にいえば、それが純軍事的にはあまりにもみっともない敗北で、生き残り将校の庇い合いによって提督の臆病な逃走を「謎の反転」と言い換え、沖縄人の食糧を奪い、家族ごと皆殺しにしておいて「沖縄県民かく戦えり」と述べて、美談で塗りたくって自分達がやったことを隠蔽する、いつもの巧妙さをもってしても、どうにも言い抜けが出来ないほどの惨めな敗北だったからです。

当時、日本海軍には「彩雲」という素晴らしい出来の高速偵察機が存在したが、ナウル島から飛び立った一機がマジュロ環礁に集結したアメリカ軍を二週間前に発見した。
そのお陰で他の島嶼上陸作戦のように不意をつかれる、ということはありませんでした。
アメリカ軍の動向を逐一把握していた。
日本側はアメリカ軍の予測よりも遙かにおおきい戦力をチャラン・カノア南北の海岸に集中して展開していて、アメリカ軍が、自分達が入念に作り上げた罠である海岸に計算通りやってくると、「もう勝ったも同然」と小躍りした。
最も戦力が集中した正面に敵が「注文通り」やってきたわけで、戦闘ではそんなことは滅多にありえないような理想的な展開でした。

案の定、せまい橋頭堡にひしめきあい、大規模な戦車隊まで潜ませていた日本軍の攻撃にあって重火器も戦車も揚陸する前の状態だったアメリカ軍は一時、大混乱に陥る。

しかし、翌日には壊滅させられる寸前であったはずのアメリカ軍は橋頭堡を拡大し、海岸全体に広がって、ほぼ勝利を手にしてしまう。

余った航空機エンジンを使ってつくったせいで戦車としては致命的なほど背高のっぽで、しかも戦車はディーゼルエンジンでつくるのが文法であるのに爆発しやすいガソリンエンジンで、欧州戦線ではドイツ軍の同級以上の戦車にはまったく歯が立たずtommy cooker とかRonsonと呼ばれるほどひどかったM4シャーマン戦車も、日本軍を相手にすると、無敵で、日本の標準対戦車砲や大日本帝国陸軍が世界最高と誇った97式中戦車では、まったく歯が立たなかった。

練度が低いどころか、戦闘経験がないアメリカ戦車兵は、へまばかりで、射撃が下手で、歴戦の日本戦車兵は、海岸を右往左往して、あるいは故障したように座り込むM4に的確に狙いを定めて猛射するが、あとでアメリカ兵たちの笑い話になるように、砲弾が非力すぎて、かすり傷を装甲に与えることもできなかった。
一方、M4の、ドイツ軍のタイガー重戦車に対しては装甲が薄い後ろからまわりこんで、しかも数メートルという至近距離から射撃して、やっと仕留めるという、「まるで棺桶に乗ってるみたいだ」とアメリカ戦車兵たちを嘆かせるほどだった75mm砲は日本の戦車に対しては有効で、97式中戦車の射程距離外から射撃しても一発で砲塔が吹っ飛び、車体ごと爆発するほどの打撃力をもっていた。

サイパン戦について「戦闘計画で完勝した日本軍は、不思議にも、現実の戦闘であっけなく完敗した」
と述べている英語で書かれた本があったが、そのとおりで、つまり、1944年夏の時点では、兵力をどれほど持っていても、兵器をどれだけ集積して待ち構えて、計画どおりの上陸地点に敵が来ても、まったく勝ち目がないことは日本の陸海の軍人の目には明かになっていた。
戦後、日本の帝国軍人たちが自分達の官僚主義と怯懦を隠すために繰り返した「敵の物資に負けたのだ」は言い訳にすぎず、そもそも開戦当初は、どの戦線でも連合軍よりも装備がよかった日本軍は、潜水艦という兵器を使いなれず、脆弱な兵器である潜水艦を、艦隊相手に使うという気が遠くなるような初歩的なミスを犯して、自分が艦隊決戦前段に潜水艦を使おうと考えるくらい潜水兵器に理解がないので、当然、潜水艦に対しては最大の防御である駆逐艦を日露戦争時なみの艦隊決戦前段においての大型魚雷艇代わりに使うという作戦計画を立てるほどの頭の悪さで、本来シープドッグのように群れの周りを周回しているべき駆逐艦群の護衛のない丸裸の補給艦隊が、日本の潜水艦より遙かに性能的には劣るが常識的正統的な潜水艦使用法に従って運用されるアメリカ側の潜水艦に、手もなく沈められ続けた結果、装備どころか食糧もとどけられなくなって、兵士はアメリカ軍よりも飢えと闘わなければならなかった。

日本の委任統治領で、当時の日本人にとっては「日本領の島」であったサイパン島には、当然のことながら、日本人たちの町があって、学校があり、日本語で生活していた。戦争が不利になってくると数多い日本のひとたちが逃げていったが、まだたいしたことはないだろう、とタカをくくってサイパンに残っていた日本人が
アメリカ軍の上陸当時で、まだ2万人程度住んでいた。

「永久要塞サイパン」の日本軍がたった三日間で壊滅したあと、日本政府の洗脳政策によって日本軍が負ければ死ぬものだと教わって信じ込んでいた日本の民間人は、1万人弱が、ほぼ全員自殺あるいは自殺的行動によって死ぬ。

あとでは極く一般的になる民間人が数人で、最も安価な兵器であるために民間人に自殺を強要するための兵器として日本軍が重宝して配布した手榴弾を囲んで自殺する日本人の姿が、初めに見られるようになったのもサイパン戦でした。

日本では、なにしろ「それでもよく戦った」ばかりで、ちゃんと書いてくれないので、なんだかいらいらして、つい長々と陸の戦いを書いてしまったが、海と空の戦場はもっとひどくて、アウトレンジ戦法と名前をつけた、いかにも日本の役人らしい、現実認識の欠片も存在しない「敵が届かない遠距離から一方的に敵をたたく」という、ひとりよがりな、バカみたいな戦闘計画を立てて、挙げ句の果てには、経験もない遠距離を侵攻させられた若いパイロットたちは、敵に遭遇してもぶざまに逃げ回るだけで、やはり新兵ばかりで戦闘技量もない若いアメリカパイロットたちからさえ、Great Marianas Tukey Shootと呼ばれるほど酷かった。

ところで、いま書いていて気が付いたのはマリアナ沖海戦についての日本語記事に「作戦構想はすぐれていたがパイロットの技量が未熟なせいで現実の戦闘では大敗した」というとんでもない記事がたくさんあることで、これではいくらなんでも、日本の若いパイロットたちが気の毒です。

坂井三郎やアドルフ・ガーランドのように第二次世界大戦以前からキャリアを積んで、大戦に入ると、長い戦歴で身についた技量を活かして大空を自在に飛び回った例外的な操縦士を除いて、空の戦闘に参加するのは、大半が「真っ直ぐ飛ぶのがやっと」のnovice pilotたちで、空の戦闘の作戦を立てるときには「大半のパイロットは未熟なのだ」ということが前提になっている。

自分で飛行機を飛ばして見れば判るが航法士が同乗しない一人乗りの飛行機では、地上のランドマークや地形を手がかりにして飛ぶ地紋航法ですら300キロというような長距離を飛ぶのは大変なことで、ましてただ茫洋と広がる海上を飛ぶときには、坂井三郎のようなベテランの飛行機に必死についていくか、はぐれてしまえば、空にあがれば必ず低下して、一桁の掛け算もおぼつかなくなる低下した脳の機能をふりしぼって、風の偏流を計算し、速度と時間を計算して、自分がどこにいるか把握しなければならない。

空戦ともなれば、初めの一退避で、いったい自分がどんな姿勢で、どこを飛んでいるかが判らないのが普通のことで、裏返しになっても気付かず、水平線をはさんで、どちらが海でどちらが空なのかも判らない状態になる。

だから新米パイロットを自分の判断で飛ばなくてすむように、防戦でなく攻撃に終始できるように、あるいは長距離を侵攻させないように作戦を組み立てるのが空軍作戦将校の腕というもので、そういう基本的な約束事をことごとく無視した机上の遊びにしかならないような作戦をつくっておいて、未熟なパイロットの腕のせいにするなどはバカげているとしか言いようがない。

現に遙々やってきた日本軍機を迎え撃って日本機を追いかけ回して一方的に撃墜する「七面鳥撃ち」を楽しんだアメリカ側パイロットたちも、日本側とたいして変わりがない新米パイロットたちだったのは、そんなに注意していなくても、気が付くことだとおもわれる。

日本側の戦史を読むと、言い訳につぐ言い訳で、戦争を生き残った将校達の自己弁護ばかりで気分が悪くなる。
有名な故事を例にあげればアメリカでは、多少でも太平洋戦争に興味があれば、子供でもテレビのドキュメンタリやなんかを通じて知っている「臆病提督栗田の遁走」という怯懦に駆られた軍人の、びっくりするような戦場放棄事件が、日本側の記録では、「戦後も黙して語らなかった寡黙で沈毅な提督」の
「謎の反転」と言い換えられる。
以前にも書いたが、図体がでかいばかりで、軍艦の運用には不可欠な勇気を欠いた将校達のせいで日本海軍の無能と臆病の象徴というイメージがある戦艦大和と武蔵を悲劇の巨艦のように描きなおす。
一事が万事で、1944年後半の日本軍は、すでに軍隊と呼びうるような組織ではなかった。

ほんとうは誰の目にも終わった戦争を、続行するために、昭和天皇と軍事官僚は、若い日本人の生命をカミカゼとして敵の鋼鉄に投げつけ続けるという日本の歴史どころか人類の歴史に永遠に汚点となって残るような非人間的なことをおもいつく。
「どうせ下手なんだから、おまえ爆弾ごと体当たりして、死んでこいや」と言わんばかりの作戦に若いひとびとが喜んで志願したことになっているからくりは英語ドキュメンタリでは種明かしされていて、志願をつのる用紙の選択肢が
1 熱烈に志願する 2 強く希望する 3 希望する
のみっつだったという、笑い話にもならない卑怯さで、なんだか、ここまで腐った国で生きながらえても仕方がない、と覚悟を決めて、酒や覚醒剤の力を借りて、せめて笑って潔く死のうと思い定めた若い人間の心が、こうやって書いていても眼前に立ち現れる明瞭さで判る。

年長世代の卑怯と無能の結果を自分の人生を破壊することで償わなければならなかった若いひとびとは、その当の年長世代と一緒に靖国神社に都合良く「神」にされて祀られて、どう思っているだろうか?と、東京にいたときには九段の坂を歩いて神保町におりながら、よく考えたものだった。
あの神社は、日本人の欺瞞と嘘の象徴なのではないか?

1945年8月15日を「終戦記念日」と呼ぶ事のバカバカしさは、誰が見ても日本側にはもう絶対に勝ち目がないと判ったサイパン島失陥のあと、1年1ヶ月にわたって、兵士や市民を無意味に殺し続けて、はてしのない無能のあとで、ついに殺して消費すべき若い生命も在庫がつきたので、おれが地位を失っても仕方がないと手をあげた年長世代の決断を記念していることで、指導層の無能のせいで、戦闘ですらなく飢えによって殺され、志願して喜んで体当たりしたことにされて、社会の無能を自分の肉体と生命で支払わされた若いひとびとのほうは、なんだかテキトーに美化されて、神様にして棚に飾っておけばいいだろう程度の好い加減さで忘れ去られてしまったことで、そのくらい社会がまるごと無反省で厚顔になれるものならば、どうせ、またもう一回おなじことをやるだろう、というのが観察者たちの意見になっている。

また、8月15日がやってくる。


寒い空

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注文したピザを受け取りに行ってみると、想像の3倍は優にある大きさで、一緒に歩いてきた友達と顔を見合わせてしまった。
3枚も頼んでしまった。

そういえば12インチペニスて、ポルノでも、でかいんだったな、と友達が不謹慎なことを呟いている。
14インチは、それよりでかいんだから、すごいわけだよな、ガメ。
気が付かなかったのか?

おおきさ、数字で書いてあったっけ?

雪がふってきた空を見上げながら、寒くなりそうだからワインでも飲む?
ガメのアパートは赤ワインしかないんだったでしょう?
ひさしぶりなんだし、お祝いにシャンパンで、いいんじゃない?

箱を抱えて、鼻の頭を真っ赤にしながら、毛糸の帽子にくっつきはじめた粉雪を楽しんでいる。
息が白くなって、低い空に覆われた、明るい灰色の背景のなかで広がってゆく。

ホームレスのおっちゃんがいるなあー、と、わし。
この頃、また増えたわよね、と友達。
ピザ、3枚は多すぎる、とわしが言うと、
友達も、すっかり楽しそうになって、ピザ3枚は多すぎる!
と歌うように繰り返している。
決まったね、と、わし、
うん、決まった決まった、と喜ぶ友達。

友達とわしはホームレスのおっちゃんの両側から挟み込むように階段に腰掛けて、
「ピザ、一緒に食べよう。買いすぎちゃったんだよ。ほら、あのコーナー曲がったところに新しくピザ店ができたでしょう?
初めて買ってみたら、チョーでかかった。
だから、ふたりでは食べきれないのさ」

おっちゃんは、きみたちはホームレスなれしてないから、お尻が冷えるだろう、と不可思議なことを述べて、段ボールを友達とぼくに分けてくれる。
おお、と言って、慌ててお尻の下に敷くと、まだまだ、と述べて新聞紙の束もくれます。
「これを敷いて座るといいよ。新聞紙って、意外と暖かいんだよ」と、おっちゃんが先輩風をふかしている。
出来たてで熱いピザを食べて、ジェッツの話や、バラク・オバマは合衆国で初めての黒人大統領になるだろうか、と、おっちゃんと3人で盛り上がっている。
コーラが欲しい。
ピザにはコーラだよなー、と駄々をこねはじめる、わし。

いい考えがある!
と言うなり、友達が雪が積もり始めた舗道を走っていきます。
ずいぶん、元気な人だね、とおっちゃんが笑っている。
ふと、おっちゃんには娘がいるのではないかと考える、わし。

戻ってきた友達の腕には3本のシャンパンが抱えられていて、ソーダガラスですらない、華奢な脚の、クリスタルのシャンパングラスを三つ買ってもってきてもいる。

「若いのに、クリスタルグラスなんて、豪勢じゃないか」と、おっちゃんが友達をからかっています。
パッと見て、必ず同じデザインでふたつ作るクリスタルグラスとソーダグラスの違いがわかるのは、おっちゃんには、富裕な時期があったからでしょう。

勢いよく栓を抜いて、シャンパンがあふれないように緊張しながら、みっつのグラスに注ぎ終えて乾杯していると、コートの衿をたてて、黒いボルサリーノをかぶった、近所に住んでいるらしい中年の身なりの良いおっさんが、「メリー・クリスマス!」と、にっこり笑って、つばに指をあてて敬礼して、挨拶してゆく。
クリスマスは、まだまだ先なんだけど。

おっちゃんは聡明な人で、話があまりに面白いので、立ち去りがたくて、
結局、ピザは3枚とも、そこで食べてしまった。
シャンパンも空になって、空き箱や空き瓶をまとめて脇に寄せたあとでも、まだ話し続けた。

おっちゃんは、友達とわしの父親のような気持になったのでしょう、子供のときにジョン・コルトレーンに会った話やアンディ・ウォホールのパーティに行った話をする。

まだ、ブルックリン橋のたもとのピザ屋にフランクシナトラが通っていたときの話も出たので、考えてみると、とても若く見える人だったのかもしれません。

いちどだけ、ため息をつくように、
「若いっていいなあ」と述べるので、
そうですか?
と訊きかえすと、だってまだ何回も失敗して、やり直す時間があるじゃないか。
おれの年齢でも成功はできるかもしれないが、もう失敗はできないよ。
そのことを考えると、なにをするのも怖くなってしまうんだ。
歳をとるということは失敗できなくなるということなのさ、という。

そのひとことが、相変わらずなにも考えない、わしのムードを変えてしまって、
おもいがけず、おっちゃんを抱きしめていた。
おっちゃんも、見れば、涙ぐんでいる。
友達も涙をぬぐっている。

「すまん」と、おっちゃん。
どおりゃ、アパートにもどってイッパツやるか!
と述べて立ち上がるわしに、「わたし、下品な男は嫌いなんだけど」と友達がいう。

友達は、おっちゃんの両頬にキスをする。
立ち上がろうとするおっちゃんの肩を押さえて握手するわし。

いい夜だったね、と友達は上機嫌です。
うん、チョーいい夜だった、と頷いている。

報道された「貧困女子高生」が贅沢だとかで、タイムラインに並んでいる言葉を見ていて、ビンボのことを考えて、あのホームレスのおっちゃんのことを思い出していた。
記事を読むと、多分、フィンランドのように教育がすべて無料なら、その気の毒な高校生は貧困を強く実感しないでもすみそうでした。
日本のいまの悩みは、税金は統計上判りにくくしてあるだけで世界の五指に入るほど高いのに、社会保障政策は下から数えたほうが全然早いほど手薄で、高税低福祉の不思議な国で、しかも、もともと産業のスタイルが時代遅れになったことが原因の経済の競争力の低下を、わざわざ再生に必要な崩壊を先に延ばしてしまうような、賃金の抑圧という最悪の手段で競争力をもたせようとする、個人の幸福を踏みつぶしながら断末魔の咆哮をあげて地団駄を踏む怪物のような暴れ方で、若い世代は、その社会ごと植物人間になっていこうとする延命装置の罠にからみとられた形で、惨めな生活を余儀なくされている。

ピザを買ってきたがわのわしが、おっちゃんに勝るのは、ただ運がよいというだけのことで、人間の一生などは、運次第で、いつでも立場が逆になるのは、よほど頭が悪い人でなければ誰でも知っている。
だから、お互いに、隙さえあれば親切にして、よい気持になって、楽しい時を過ごそうと考える。

そうやって考えると、貧困は、悪意のなかで研ぎ澄まされていくので、善意の社会では、貧困に起因する悲惨は、うまく育っていかないようです。

世界から善意が失われて、初めて、貧困は人間の魂を破壊しはじめる。

おっちゃんを見たのは、そのときが最後で、それから一度も見ることはなかった。
わざとそこを通るようにしていたが、いつまでも姿を見せないので、いつか座った階段に座って、ビールを飲みながら空をみあげようと立ち寄ってみると、足下の階段に
「楽しかった。ピザも、うまかった!
あのシャンパンは1本100ドルなのを知っている。
もう少し節約しないとホームレスになるぞ。
若い友達よ。

おれは、もう一回失敗してみることにしたよ
ありがとう!」と、フェルトペンで書いてある。

眼から涙があふれてきて、それがどんな感情によるのか判別はつかなかったが、胸がいっぱいで、わしはビールの瓶を空に向かって高く掲げて、祝いました。

多分、人間という儚い存在の尊さを祝ったのだと思います。

乾杯!


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いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。
ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない?
ね?ね? いいでしょう?
疲れないようにしてあげるから。

そこじゃない。
へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう!

おもいっきり、お尻をつねられたこともある。

十代で身につけるべき、料理や掃除、洗濯の仕方、数学、スポーツ、外国語ちゅうような、「やらなくたって別にかまやしないが、身につけておくと残りの一生がぐっと楽になる」諸事一般教養のなかには厳として房中術、が入っている。

あ、きみ。
そこの漢字に弱い、きみ
房中術というのは「セックスのやりかた」のことです。

十代の半ばくらいから後半にかけて、男も女も、身体のなかに、なんだかむくむくと欲望がこみあげてきて、入道雲のように肉体のなかに垂直に伸びてくる。
どう考えても自分のために造形されて、魂までテーラーメイドでできたみたいにぴったりで、机に向かって数学の問題を考えているときも、ガッコの帰りに友達たちとチーズバーガーを食べているときも、あるいは両親の差し回したクルマの後席から通りを眺めているときであってさえ、たったひとりの人の面差しが眼の前をちらついて、そのひとのことしか考えられなくなって、甚だしきに及んでは、朝起きてから夜寝るまで、一瞬の間もなしに、そのひとのことばかり考えて、息をするのも苦しくなってくる。

初めは言葉で「あのひとは、こういうところが素晴らしい」と考えていたものが、言葉は高熱によって熔解して、なんだかドロドロになってしまい。
頭を抱えて、ベッドに横たわって、ぐわあああああああああ、になる。

ぐわああああ語で考えても、中庸をもたらす哲学的な解決に辿り着くわけはないので、混乱に混乱を重ねて、瞑も鯀も、乾坤の区別も、いっさい判らなくなって七転八倒するが、経験がないというのは、そういうもので、この後に及んでも、さりげなく「今週の金曜の夜、映画観に行かない?」も言えない。

バカまるだし。

どこまでが恋で、どこからが性欲で、どこからどこまでが好奇心で、どこからどうなるとマジメな恋愛に至るのかも、まだ、なんにも判らなくて、ただ性欲と性欲がぶつかりあう週末の夜を彷徨ったり、危険な目にあったり、vulnerableなティーンエイジャーだと見るや、アルコールを買うためのIDの提供やドラグや、もっとサイテーなことには札束で充満した財布をちらつかせて、巧言令色をもって襲いかかるプレデターおっさんたちもいて、いま振り返って考えてみると、あんな果てしなく広がる地雷原みたいな時期を、よくもまあ運良く生き延びられたものだと考える。

空中戦を戦うパイロットの死傷率は、初めの空中戦が最も高くて、バトル・オブ・ブリテンでも、まだ、どういうときにどうすればいいか判らないnoviceなパイロットほど、そこで一生が終わりになった。

最も危険な第一段階を、やっと生き延びて、大学生の頃になると、ようやっと「性」と向き合えるようになります。

いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。
ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない?
ね?ね? いいでしょう?
疲れないようにしてあげるから。

そこじゃない。
へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう!

おとなの人間として、社会への進水式をあげたばかりの若い男と女は、知り合って、むやみやたらと森羅万象について話しあって、デイビッドボウイはいいよね、ジェスロタルも好きだな。
えー。そう?
わたしは、イアンアンダーソンは、もう古いとおもう。
なんだかイギリス臭すぎて好きになれない。
モンティパイソンも、おやじギャグが多すぎて、差別的で、ぜんぜん笑えない。
ガメは、なんでも古いものが好きなのね。

話して話して話して、話しまくって、田舎に行くと人工衛星が飛んで行くのが見えるけど、あのフラットで、つーとした飛び方は不思議な感じ、トーリーの時代はもう終わってしまったのに、経済だけを理由に、St James’s Streetのおっさんたちは、まだしがみついている。

そうやって無我夢中に話しているうちに、気が付いてみると、手がテーブルの上で相手の手と重なっていて、ふたりで同時に気が付いて、びっくりして、まるで自分たちとは独立した生き物が勝手なことをしているかのように、ふたりで、よっつの目で、自分たちの重なった手のひらを、じっと見つめている。

大好きな人ができて、言語のありとあらゆる伝達の仕組みやトリックやアクロバットまでを動員して、懸命に伝達の橋をかけようとすればするほど、もどかしくて、届かなくて、なにかが根源的に欠落しているような、核心にとどかないような気がしてくる。

おごそかに立ち上がって、述べてもよい。
諸君、われわれは言葉にうったえて出来ることは、すべて試みたと言わねばならない。
このままでは、なにも変わらない。
現状は膠着している。

この苦悩から、きみとぼくとが解放されるために、
いまこそ、われわれには革命が必要だ。

跳ぼう!
セックスへ!
(満場の拍手と喝采)

自分でやってみたときは、この辺をこう触って、それもうんとやさしく触って辛抱強くやっていると良い気持になってくるんだけど。

前、つきあってたボーイフレンドは、すぐ指をなめたがるんだけど、足の指をなめられたら気が遠くなりそうなくらい気持がよかった。

相手の言うことを聴いて、なんだか御用聞きみたいだなあーと思いながら、こうですか? こうすればいいの?
と教えてもらいながらお互いの肉体を使って遊んでいると、あっというまに朝になります。

身も蓋もないことをいうと、一般的に、男と女の組み合わせの場合は、男の側が考えるよりも、遙かに長い時間を女の側は必要として、男のがわでやさしくやっているつもりくらいでは、女のがわは、わたしはUPSの荷物じゃないんだから、と考えているもののようである。

ひとりひとりの考え方が違うように、ひとつひとつの肉体の感じ方もまた異なって、会話がうわべから深くもぐって、ほんとうにお互いの言葉が通じるようになるまでには、気が遠くなるほどのエネルギーと時間が必要なように、房中においても、また肉体が感応しあうようなるまでには、たいへんな労力の積み重ねがいる。

洋の東西を問わず、ポルノやAVのようなものは、単なるファンタジーで、世界平和の問題を考えるのにスーパーマンやバットマンを研究するくらい幼児的でバカバカしい絵空事にしかすぎない。

強姦という暴力がある。
暴力による性の否定であって、性が人間的であることへの軽蔑と否定の表明です。
男が女を自分の妄想のなかの「モノ」として完全支配するために行う強姦で明るみにでるのは全体の10%程度、男が男にくわえる強姦で露見するのは1〜2%だという。
ロンドンの警察医のおっちゃんは、「この頃はナマイキな男ガキをぶんなぐったあとに、オーラルセックスを強要して、相手の男の喉元までつっこんで苦しむ様子を写真に撮って喜ぶやつが多いんだよ」と述べてユーウツそうにしていたが、何を反映してか、性暴力、あるいは暴力の性化は実感として増えているそーでした。

日本の映画を観ていると、場面として通常の性場面の描写であるはずなのに、連合王国やニュージーランドの定義に照らすと強姦にしかなってない、ということは、よくある。
相手が「嫌だ」「やめてくれ」と述べているのに、身体の動きが止まらなければ、それは要するに強姦へずんずん向かっているわけで、女はそういうときは必ず「いや」というものだ、では、いままで文明という名前のもとで、いったい何をやっていたのか、と観ているほうは言いたくなる。

ノーマン・メイラーの時代には、盛んに議論されたように、性は個と結びついている。フランス哲学者たちは、相変わらずの観念オバケで、いろいろ異なる意見を書いたが、それはまた別のときに書くとして、
相手が自分と同じ人間であると理解する能力を欠いた人間が、たとえ行為ちゅうの一瞬であれ相手をモノとみなして興奮する、あるいはモノとみなさなければ興奮しないと感じるという事実は、意外な方角、犯罪学者たちによって病として記述されている。
サイコパスですら、いままで考えられていたよりも遙かに多い割合で、通常人に立ち交じって暮らしているのが判っていて、自分のやさしい夫が、夜の暗闇のなかでは、自己の性的興奮を得るために、眼の前で自分が組み敷いている妻である自分を、そのあいだだけモノとして眺めている、という、考えてみれば、これ以上恐ろしいことはないような事態も、毎晩、世界中のあちこちで起きていることを、われわれはもう知っている。

強姦は、相手の人間性を否定して、自分のほうだけが人間であると規定する一瞬によって引き起こされる。

短いスカートをはくのをやめて、若い女が夜中にひとりでウロウロするのをやめれば強姦が防げる、という文明が存在する世界の人間が聴いたら、少し顔をそむけて、冷たい苦笑をする以外に反応のしようがない意見を述べる「作家」がいて、あきれたことがあったが、強姦被害は踝まであるスカートをはいて、午後3時に「ふしだらな格好が性被害を生む」と妄執に取り憑かれた表情で書いている80歳の作家の上にも、ちゃんと発生するのは、80歳の女の人でも臆さず警察に被害届けをだすニュージーランドのような国では、たくさん記録が残っている。
警察に通報する可能性が少なく、自分に対して反撃みこみが小さい相手を、彼らは常に物色しているからです。

がんばれ、ガメ!
朝ご飯、今日はわたしのほうがつくってあげるから、食べたら、もういっかい、やろうね!
今度は、わたしが上でいいから!
さっきのは、けっこういい線だったぞ

と、その頃大好きだった人に励まされながら、シーツのあいだで、気息奄々、息が絶えそうになっている21歳の大庭亀夫は、しかし、もうすぐ、前よりは少しは賢くなって、
相手も人間で、自分とまったくおなじことで、でも感じ方や考え方は異なる個人で、どんなに大変でも理解しなければならなくて、その魂の内側には、繊細な装飾や、大好きな人の父親や母親が莫大な量の愛情を注いで育んだ、精緻な宇宙が広がっているのを観るだろう。
ひとりの人間の魂は、巨大な伽藍をなしていて、もし性暴力にでもあえば、その伽藍は一瞬で破壊されて、残るのは瓦礫で、あれほど巧緻で美しかった伽藍は跡形もなく崩れて、二度と再建できなくなることを、21歳の、ややマヌケな顔をした青年は学ぶに違いない。

いつか会ったひとは、自分の身におきたことを述べて、
「死にたい」と繰り返し口にした。
何度も何度も殺されるようなものだ、と述べていた。
そのことを思い出す たびに、吐いて、心臓がしめつけられるように苦しくなる、と言った。

ガメ、しかも相手は、まだ生きているのよ!
わたしは何度も何度も殺されるのに、あの男は、この同じ町で、いまでものおのおと生きているのよ!

では、ぼくはどうすればいいのか。
立っていって、その男をなぐり殺してくればいいのだろうか。

夜のもとで、
防御もなく、
ただ世界の冷たさに震えている

悲惨は、目を凝らして見ないと見えてはこないが、
落ち着いて、勇気をもって霧の向こうを見つめると、声を殺して、顔をおおって泣く、何千という女の仲間たちの姿が浮かび上がってくる。
きみに、あの人達を助けるなにごとか、出来ることがあるかどうかは疑わしいが、
あちこちからあがってくる幽かなうめき声は、きみにも聞こえるはずだけど。

せめて、眼の前にある悲惨を、ないふりをすることだけはやめて、悲惨を直視する訓練を自分に課すべきなのかもしれない。
なにも変わらないかも知れないが
そこから何かが始まるかも知れない。

さもなければ、きみは、たったひとりの死を死ぬしかないのだから。


2050年への覚書

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いまの世界に潜在している最もおおきな問題は言うまでもなくナイジェリアに象徴されるアフリカの人口爆発で、もしこの問題になんらかのブレイクスルーが起きずに、いま見えている地平上でナイジェリアの人口だけで4億になる2050年までの人口急増に対処しなければならないとすると、それは、まっすぐに人類の破滅を意味する。

16億6000万人のインド、14億の中国、4億ずつのアメリカ合衆国とナイジェリア、3億6千万人のインドネシア、3億5千万のパキスタンと並んでゆくことになるが、インドや中国には、国家として、なんとか国内を統治していけるだけの機能が備わっている。
問題は、というか、性格が新しい人口爆発は、ナイジェリアとパキスタンで、特にナイジェリアは政府がほとんど機能していないので、だいたい一億人超の人口流出が見込まれる。
簡単に言えば、シリア難民と同じ現象が桁が違う規模で起きるだろう、とナイジェリア人たち自身が述べている。

目下は「高等教育を受けていさえすれば外国に移住する状態」だとナイジェリア人友たちは言うが、一方で「教育を受けていないナイジェリア人たちが、いたたまれずに移動しはじめるのも時間の問題だ」と述べている。

では、どういう手立てがあるかというと、大問題が起きてから考えるという他はなにも手立ての見込みは立っていない。

シリア難民の、たった、あの程度の数の難民の移動で、すでに欧州は混乱している。
排外主義が勃興し、連合王国に至っては愚かにも、まるで、離脱しさえすればブリテン島ごと大西洋を渡って移動できるのだと言わんばかりの態度でEUを離脱して、ただでさえ危うい未来を、更に危うくしてしまった。

今度はどうするか。
どうするあても立っていなくて、「問題が起きてから心配しよう」ということになっているが、ほんとうは問題が起きてからでは遅いのは皆が知っていて、内心は、
おれの任期中は話題にするのをやめてくれ、と考えているだけです。
解決がない問題を、おれの机のうえに積み上げないでくれよ。

東アジアが中国圏に帰するのは、ほぼ自明で、「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」の頃から、ずっと何回も述べてきたように、ゆっくりと、歴史の自然の流れのなかで目に付かないように配慮しながらアメリカは勢力圏を1940年当時に戻して、縮退させている。
この戦略にとって障害になっているのは中国が南沙諸島に軍事拠点をつくろうとしていることで、囲碁が得意な人なら感覚的に判りそうだというか、なんというか、
要するに、そう簡単にオーストラリア=フィリピン=グアム=ハワイのアメリカ版「絶対国防圏」を作らせるわけにはいかない、ということで、日本や韓国の合衆国との同盟国との頭越しに自分と直截あたらしい関係を構築しろ、ということだろう。

これも考えてみると、2050年を節目と睨んでの動きで、どうやら世界じゅうの政府は2050年という年を里程標と考えて、いろいろに動いている。

ベトナムやフィリピンが初めに極めて強硬な態度に出てみせて、中国の「やる気」を観察してから、そういう感じか、と見定めて、ほぼ、昔、野田首相がなぜかとち狂って国有化すると言い出すまでの、日本が尖閣諸島に対してとったのと同じ棚上げの状態に持っていこうとしているのも、やはり2050年を睨んで、この辺で動きをゆっくりさせていかなければ、急展開では困る、と思っているからでしょう。

NZの小国間条約に過ぎなかったTPPを取り上げて対中国包囲網の道具に使おうとしていたアメリカが、なぜTPPを必要としなくなったか、ということの意味を日本の人は、もう少し真剣に考えてみたほうが良い。

初めはインドネシアにとっては苦笑するしかないような「対インドネシア対策」が名目だったダーウィンの軍事拠点化も、2050年の平衡を念頭においている。
ダーウィンの拠点化と並行して、ブリスベンの強化、ニュージーランドとの軍事同盟の復活と関係強化と、アメリカは、ここ数年、打つべき手を打ってきていて、日本の南洋捕鯨に反対する、誰にも異議を唱えられない錦の御旗で、いわば復古的な同盟を復活させてきたのは、なんども書いたが、ケビン・ラッドが国際司法裁判所に訴えてでるという、冒険的な手段に出て、しかも賭けに勝利して、あとはアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの思惑どおり、利権を諦めるということが出来ない体質の日本が、国際司法裁判所の判決をシカトする形で捕鯨を続行することによってヒラリー・クリントンの奇妙な提案は、完結して、将来に向かって日本を太平洋同盟から締め出す準備が完了した。

このあとは、どうなるかといえば、ちょうどキッシンジャーがニクソン大統領時代に、日本の頭越しに、日本には教えないで直截に友好条約を結ぶために動いたのと同じことを、頃合いを観て、打ってでて、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド英語三国の同盟側と中国とで太平洋の新しいパワーのバランスを作る事になる。

日本から最も見えにくいことで、このブログで再三のべて、情報公開法で公開された文書などを使って説明してきたことは、1945年以降、アメリカが日本を国家として信用したことは一度もないという現実で、何度も政府の高官によって明瞭に言明されているとおり、日本人を守る為だと表面は説明されている巨大な日本駐留軍の本来の目的は日本が再び軍事暴走することを抑圧するためで、日本に独立を許してきたのは、直截占領のコストの高さから、ゆるやかな傀儡政権体制を岸信介の当時から確立してきたのも、そのためだった。

ところが中国の強大化に伴って、日本の役割が変わって、なにしろGDPという、地政学的にみれば戦争エネルギーの目安で、中国の3分の1に転落したので、アメリカは、今度は自国の利益のためには日本を従属的な片務同盟国から、一歩すすんで衛星国化しなければならなくなって、一朝ことあれば5万程度の兵力を拠出できるようになってもらわねば困るわけで、安倍政権は、そういう目でみればアメリカ衛星国としての日本の第一期政権など見られなくはない。

いったんパワーバランスの上で独立に、伝統の国家的な好戦性を発揮して侵略を始める心配がなくなったとなると、日本はいかにも便利な国で、アメリカにとっては自分で血を流さずに戦争という外交手段に訴えるチャンスさえ出てくることになる。

東アジアの新しい枠組みが見えてきたので、アメリカの心配と関心は、ほぼロシアに向けられている。ブッシュ時代のコンドリーザ・ライスで判るように、アメリカの伝統的な外国エキスパートは、もともとこの分野に集中しているので、外交の焦点が、落ち着きがよいところに落ち着いたのだとも言えます。
ロシアは自意識としては防衛的であるのに現実の政治・軍事行動としては常に侵略的・領土拡張的である面白い国で、国際政治を志す人間にとっての醍醐味に満ちた国だが、プーチンは、印象に相違して、例えば対日姿勢において弱腰と非難されるくらい、比較的に落ち着いた指導者で、極東についてはアメリカは「プーチン後」に思考を集中しているらしく見える。
日本からすると、プーチンの後継者と目されるひとびとは軒並みに対日強硬論者で、なんだか見ていておっかないが、当の日本の人は、のんびりしたもので、なんとも思っていないらしくて、返ってロシアの事情に通じた英語人が訝るていどの反応で、どうなってるんだろう、と思うが、そこはきっと日本の人間でないと判らない機微があるのでしょう。

2025年から2050年にかけて、世界は、いままで人類が見たことがない「資源が絶対的に足りない世界」を渉ってゆくことになる。
技術的ブレイクスルーは、そのうちには出来るのかも知れないが、どうやら、最も楽観的な予測ほどには、完全に間に合うということはなさそうです。
弱っている国、老いた国、社会が病んでいる国に住む人間には、この資源の不足は堪えて、容赦なく襲いかかってくるだろうが、これも何度も述べているように、いまは21世紀で、国境の敷居は途方もなく低いので、あちこちの国が動いてゆく様子を見定めて、では自分はあの国の国民として生きてゆくのが最もよいだろうと判断して生きていけばいいだけなのは、20世紀でいえば、ちょうど企業への就職と似ている。

巨大企業にあたる中国やアメリカに移民することが、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドのような小企業に移民するよりも必ずしも賢明な選択にならないことも、とても20世紀のキャリア形成と似ていると思います。

だから仮に自分が生まれて育った国が、誤判断を繰り返して、どんどんボロくなっていっても心配することはないが、個人としてでなく全体の側からしか世界を見られない人たち、簡単に自分が生まれた国と同化して、自分が出身国の分身であるように思うタイプの人達にとっては、いっそ、訳が判らない世界と感じられてゆくに違いない。

政治が世界を変革できる時代は終わって、左翼でも右翼でも、どうでもよくて、本質的に、というか論理上の源泉が暴力である近代政治の世界支配論理が寿命を終えて、テクノロジーが政治に変わって世界を変革する力になった世界のとばぐちに、いまの世界の人間は生きている。
そのテクノロジーの波の初めのものがインターネットで、多分、第二波は、いまとちあえずブロックチェーンと呼んでいる思想に立脚した技術革命になる。
ブロックチェーンがもたらす最もおおきな変化は、仮想世界のほうが現実世界よりも堅牢になることで、脆弱な現実に代わって、ブロックチェーンの数学理論に支えられた堅牢性が高い仮想世界が世界の運営原理になって、ちょうどこれまで現実世界からのアナロジーで構想され、現実世界の要請で仮想世界が構築されてきたように、ちょうど立場が逆になって、仮想世界の要請で現実世界が変更され、構築されるようになるのは誰の目にも見える近未来の現実になっている。

現実世界は、株式相場ひとつとっても、背骨となる数学理論をもたず、いわば心理的な要素がおおきい情緒的であぶなっかしいブラウン運動市場に過ぎなかったのが、ようやっと理論の裏打ちを持てるところまで進化しようとしている。

いま見えている地平では資源の絶対的不足と人口爆発というような問題に解決策が存在しないが、比較的楽観していられるのは、理論のないテキトーな世界から、理論を持つ可視化された世界へ、世界が移行しつつあって、いったん可視的な手順が判ると、そのあとには急速な解決が準備されるはずだからです。

世界じゅうで、夢中になっていた数学の手を休めて、ま、なんとかなる、とつぶやいているひとびとのタメイキが聞こえてきそうだが、人間はこれまでも綱渡りに綱渡りを重ねて、なんとか生き延びてきたので、いろいろ心配はあっても、なんとかなるかなあー、と、ぼくも思っているところです。


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