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Channel: ガメ・オベールの日本語練習帳_大庭亀夫の休日ver.5
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Kia kaha my friends

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一層の円安政策に中央銀行・政府が阿吽の呼吸で協調して踏み出したのには、みんなびっくりしてしまったが、この段階で円安に向かって、どんと日本経済の政策の背中を押すのは、国民の財布に手を突っ込んで抜き取ったオカネを外国市場に向かって景気よくばらまく「受け狙い政策」なので外国投資家たちにとってはたいへんよいことだった。
日本にいる日本人でもドル建てに移行が終わっている人やアセットを株式に移してしまっているひとにとっては良いことで、いまごろは皆ニコニコしているのではないかと思われる。

このブログ記事をずっと読んできた人は、「あのガメに教授されて数億円を稼いだ『カネばかトーダイおじさん』たちは、早く売りすぎたのではないか」と思っている人がいると思うが、頼まれもせんのに解説すると、あれで良かったので、その後、予想どおり、というか、予想を超えて円安になっていったので、若い天才ゲーマー(←わしのことね)の指示どおり、オカネに本来興味がない人は金(ゴールド)に、老後の吝嗇ジジイ的な楽しみにひたりたいひとは、それぞれ海外不動産に投資したりして、株から足を洗って正解だった。
あの「濡れ手で粟相場」ないし「ビンボ人のオカネ全部いただき相場」で味を占めて、その後も株を続けたりしたらどうしよう、とちょっと心配だったが、もともと「カネばか」でオカネのことは、なあああーんにも判らなくて、1000万以上になると10億も30億も同じなんじゃないの?というくらいオカネレタラシーが低いひとびとなので、あれ以来株式相場に手を出していないようでめでたしめでたし。

ええええー、あれから、もっとどんどん株価あがったじゃん、ばっかじゃねーの、という人が多いであろうが、円の家にお籠もりさんをしていれば上がっている株価も、ドルに換算してみてみれば、高騰どころかやや下がりなので、もともとアメリカドルでアセットを測るのがルールのいまの世界では、これで良かったのだと思っておりまする。

オカネをほんとーは稼ぎたかったのに稼ぎ損ねた、ぐあああああ、と思っている人は、あのとき、大庭亀夫に向かって「おまえなんか経済の、け、の字も判ってない。通貨緩和の意味と効果とかも判ってないのではないか教科書から読み直せ」とか言ってきて、怒らせ、記事を希望者限定公開にさせた、あのひとびとをうらむよーに。
折角ゲームのプロが腕の冴えの一部を公開してあげたのに、
残念でしたのい。
けけけ。

(閑話休題)

正直に言って、ここで日本の支配層が緩和政策をもうひと押しで来たのには驚いた。
居直り、というか、決定者本人の立場に立てば、アベノミクスが失敗したからといって、あそこで緩和政策を止めても、そのまま「最後」まで押し進めても、非難の総量はおなじ、ということなのでしょうが、日本以外の世界のひとびとにとっては、思いもしないラッキーさでも、日本のここまでの財政安定に寄与してきた巨大な貯蓄を半分使われてしまった国民ひとりひとりは踏んだり蹴ったりのうえに、顔を土足で踏まれてオラオラされて、どんな気持ちだろう、とおもって、このあいだひさしぶりに日本語サイトをのぞいて歩いたら、意外や、みなが支持していて、なんだか狐につままれたような、トンビが油揚げをステーキソースをかけてナイフとフォークで食べている様子を眺めているような奇天烈な気持ちになった。

このブログを指して「安倍政権批判ブログ」というひとたちがいて、笑ってしまったが、このブログはもともとがゲームブログで、やっていることは実はいまでも同じで、ゲームのステージステージで、ここでこうするとこうなる、あるいは、こうなる確率が高い、と現実と定石を述べているにすぎない。
こういうことをいうと「不謹慎だ」と劣化、じゃなかった、烈火のごとく怒る人がいると思うが、福島第一原発がぶっとんだときも、「とにかくいったんなるべく遠くまで逃げるべ」と連呼したのは、脳裏には、ディアブロで、出会い頭に、どわあああああああとモンスターの大集団が現れた場合、とにかくまずとりあえずは逃げることから始めるわけで、訳がわからないこと、たとえば太陽のなかから圧倒的な数のグラマンが襲ってくるというような事態が起きたら、考えるのは、それからいくらでも出来る、とにかく一心に逃げろ、と日本の撃墜王坂井三郎先生もいっておられる。

アベノミクスは、政府や財界の思惑は知ったこっちゃねえよ、国民ひとりひとりのほうから見ると、500万円あった自分の貯金を二倍の1000万円にうすめて半分を政府が抜きとる、という政策で、かつて500万円あったきみの財布には、いまは250万円しかない。
政府の側は、アベノミクスによって円建て国債が実質的に償還され財政破綻を先延ばしに出来る。
またこっちは誰が考えてもヘンな話だが円安によって輸出が振興されるという主張もあったが、やっぱり、というか、輸出は円安要因によってはまったくと言ってもいいくらい伸びなかった。
個人から見て最も重大なのは、「全体の経済規模は成長しないのに社会の富の構造だけアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなみにバブル社会化してしまった」ことで、オカネモチはうんとこオカネモチになりビンボ人はものもいえないビンボ人になる社会の方向が定まった。
つまり英語圏から見て、社会の構造だけは判りやすいものになったわけで、
いままで「日本って、前世はソビエト連邦なんじゃないの?」という好奇と不審の目で見られていたのが、かっこよくアメリカナイズされて、流行の英語圏西洋ぽく「ビンボ人は死ね」社会に国際参加する方向で国是がさだまった。

グーグルもアップルもマイクロソフトもフェースブックもなくて、ドロップボックスやビットカサすらない日本が、なぜ貨幣流通を緩和するだけのことで長期成長につながる経済環境を獲得できると考えたのか謎だったが、最後のひと押しをみると、あらあー、ほんとうは財政プレッシャーとオカネモチいえーいの「アメリカ型社会構造」が欲しかっただけかしら、と思ったりする。
まさかね、とおもうけど。
まさか、そんな軽薄&酷薄な理由でアベノミクスみたいな個々の国民をなめきった経済政策とらないよね、とおもうけど、
しかし、見ているうちに、まさかね、が、ねまさかな、ほんとうはそうだったりして、という疑いの気持ちすら起きてしまう。

結果として、もうすぐ出来上がる社会は、アメリカさんという隣の家が高さ20メートルのビルを建てたのをみて、おお、かっこいい、わしもわしも、で、高さ5メートルの紙粘土のビルのおもちゃみたいなのを建ててしまった不思議な家族に似ている。
構造はそっくりだが、たとえばトイレの便器は直径10センチで腰のおろしようがなく、もっともなごめる一家団欒の中心だった炬燵のかわりに設置された暖炉は、薪がないのでビンボ人をくべて暖をとるしかない代物です。

見ていて、日本の政府は、見よう見まねでアメリカぽい政策をとっただけで、ほんとうは自分がやっていることが判っていないのではないかしら、とおもうことすらある。

たとえばコンピュータ/ITということでいえば、いまよりもさらに国家社会主義的だった当時の通産省がGEは東芝、IBMは日立というように相方を割り振りさえして、大型電算機に全資源を傾斜させ、ミニコンですら「おもちゃ」と笑いとばして、まして「PC」などと口走った当時の数人の研究者を冷笑し、「おもちゃに夢を託す愚か者」とまで面罵して、すべてを大型電算機に投機した結果、おおはずしで、日本がIT産業の土俵に乗ることは永遠に不可能になってしまった。

日本の社会がほとんどゆいいつ作り得たビジネスPCであるPC9801の歴史を読んでいたら、もともと大型電算機の販促用「おまけ」だったと書いてあって、ぬわあああ、と思ったが、そのへんでもうパラダイムシフトとしてのITなどは、夢のまた夢になる道を歩き始めていたのでしょう。
日本の最大の問題はいびつな人口比を矯正する移民制度がないことと、新世代産業が見当たらないことだが、気が遠くなりそうな話に思えるかも知れないが、希望へのドアはちょっとだけ開いていないわけではなくて、たとえばイメージングテクノロジーはやはり群を抜いている、現実製品群から一歩基礎側へさがったあたりの科学技術水準はまだ高い水準を保っている、というように前者はイメージング技術をもった会社の経営陣の頭の古さ、後者からバトンを受けたひとびとの商業的志が応用技術革新につながらないのは金融の化石化と英語圏のkickstarterに象徴されるような「動的な」資金の調達の未発達が原因だが、当然、日本の大学の研究室が、研究から派生した製品をkickstarterで資金を調達するような「勝手にグローバル化」をやってわるいことは何もないわけで、案外、若い世代がこれまでの古い世代の社会を「脱ぎ捨てるように」して、ちょうどサナギが成虫に変態するように日本をまるごと新しい社会に導く可能性はゼロではない。

昨日、モニとふたり家電店の新製品棚を見ていたら、3Dプリンター(第3世代cube)が山積みで、2000ドルで売られていて、おもしろがって買ってきてしまったが、こういうハイテクに関してはニュージーランドはいつでもとんでもない田舎で、いまごろは日本の店先にもならんでいるのだろうけど、「ただのオモチャ」というようなことになって、誰も買わない、ということなのかしら、あんまり日本語でニュースみなかったな、とふと考えたりした。

明るい好奇心がなくなってしまえば社会はそこで終わりなので、日本社会という洞窟の壁に木霊する皮肉の笑い声や旧態依然の退屈な習慣を守って相手をすきさえあればバカ呼ばわりする救いがたい悪意のひとびとの群れをとおざけて、日本がノーテンキな「どんどんいっちゃえば」を取り戻すことを少し祈った。

すごおおおくおいしいキャロットケーキを食べて、天にものぼる心持ちになるまでの短い祈りだったけどね。
祈ったど。

Kia kaha Nipponjin!



幻想が生み出す現実について

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ものごとをありのままに書く、というのは難しい。
そもそも言語自体が形態や物理的運動を描写するのに向いていない。

どこの本屋に行っても辞書を読んでみる習慣があるが研究社の英英辞典を古本屋で立ち読みして「elephant」の項を開けてみたら漢字で「象」と書いてあって大笑いしたことがあった。
名案である、と考えた、好意的な笑いです。

OnlineのMerrium-Websterを見ると、
Any of a family (Elephantidae,the elephant family) of thickset usually extremely large nearly hairless herbivorous mammals that have a snout elongated into a muscular trunk and two incisors in the upper jaw developed especially in the male into large ivory tusks and that include two living forms and various extinct relatives
と書いてあって、後半が余計なわりに前半を読んで現実の象を想起できるひとはいなさそうです。

デジタル大辞泉に基づいていると書いてあるgoo国語辞書では
「長鼻目ゾウ科の哺乳類の総称。陸上動物では最大。頭部が巨大で、鼻は上唇とともに長く伸び、人間の手と同様の働きをする。上あごの門歯が伸びて牙(きば)となり、臼歯(きゅうし)は後ろから前へずれながら生え替わる。現生種はアフリカ象・アジア象に大別され、化石種にはマンモス・ナウマンゾウなどがある」

ということになっていて、姿を思い描きながら読むと顔のまんなかから巨大な腕が生えて、こちらに向かってにぎにぎしている巨人が思い描かれて、悪夢にうなされそーな気がする。

あるいは将棋の駒の動きを日本語で説明するのも、やってみるとたいへんな煩雑さで棋譜に座標がふってあるのは、なんという素晴らしい発明だろう、と考えたりする。

島崎藤村が詩人として成功したあとに、詩では食えないので散文家に転業しようとして長野に転居して、「自然をありのままに描写した」千曲川のスケッチを描くことによって自分の日本語に内なる革命を起こしたことは有名で

「青い野面には蒸すような光が満ちている。彼方此方あちこちの畠側にある樹木も活々とした新葉を着けている。雲雀、雀の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
 火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝ちな、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
 小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた」

というような文章は、特に日本語に限らなくても、素晴らしい表現で、自然主義だ写実主義だと余計なことを考えないで、良い文章って、こういうものなのだな、と思えばいい態(てい)のものです。

言語によらず言葉を使うのに巧みなひとは、ちょうど宮大工と同じで、過不足なく、間隙をつくらず、かっちりあった材を組み立てるように、さっさと梁と柱を組み上げてゆく。桟を立て、後鉋を加えなくても、まして蝋など塗らずとも、立てた障子が、「しゅっ」と動く。

言葉をていねいに扱うのは、そのまま解像度が高い思考を獲得することで、前にも述べたが、言葉の感覚が悪い人はなにを読んでなにを考えてなにを書いてもムダで、そういうひとが書いたものを読むと、読んでいるページがだんだん白紙になってゆくような気がする。
やれやれ、また外れか、と考えて大井の競馬場で紙くずになった馬券を風のなかへ放り投げる人の気持ちになる。

言葉が形象を表現できないという事実は、言葉が現実からいかに乖離しやすいか、ということをあらわしているのではないかと疑う。
ヒッタイト人が粘土をひっかいて文字によって起きたことを記録していた頃にはskypeはなかったので、ちょっと待ってね、
こういうデザインなんだけど、
と述べてカメラの前に自分がデザインした家具のミニアチュアを示す、ということは出来なかった。
活版と紙の書籍でも制限がおおきいが、サイト上では、すでに静止画も通り越して動画で伝達したい情報を伝えるのは、あたりまえのことになっている。

例が悪いが学術性が高いので知られるフランス書院文庫にカバーをかけて引き出しのなかに忍ばせて、こっそり読んでむふふをしていたおっちゃんたちは、はなはだしく「遅れた」ひとびとで、ポルノハブというようなところにいりびたっている高校生たちのほうが、遙かに現実のあんないけないことやこんな恥ずかしいことについて現実動画によった情報を蓄積している。

ところでデブPが夜々耽溺するポルノを一緒にソルトアンドビネガーチップが肴のビールを飲みながら観ておもったのは、(よく知られているように)あれは男の側で誤解した性についての観念を現実の女びとの体を使って撮影したポルノアニメとでもいうべきもので現実でないものが現実の肉体を使って行われている。

ハリウッド映画の監督のもとには、若い男達から、「あなたが、女主人公が娼方を体のなかにいれたままベッドのヘッドボードを握りしめて30分も40分も悦楽にのたうつ映画をつくるので、ぼくのガールフレンドがぼくとのセックスを貧弱なものと悲しんで立ち去ってしまったではないか。どうしてくれますか?」
というガクガクな文面のメールが届いたりして酒の肴に良いそうだが、ハードコアポルノのほうも方向が違うだけで同じことで、「ありのままの現実」は描けてはいない。
行われていることは現実だが事実ではない。

近代小説が成立したのは、市民社会が生まれて、「他の人間はなにを考えてどうやって暮らしているのだろう」という圧倒的な好奇心が生まれたことと密接に関係している。
魔女の歴史に興味があるひとは、魔女裁判の消滅が読書人口の増加に緊密な関係があることを知っているでしょう。

聖書や周辺の宗教物語、民話、昔語りから得た、乏しい情報に基づいた観念としての「隣人」が、文章のなかで実例を示しながら生きた肉体として動き始めた結果、人間は他の人間に対しての畏れや標的性を失って、自分と意外なくらい似ている存在を見いだしていった。

ここで重要なのは、人間がお互いを差異よりも同一性がおおきい人間であると意識する以前に言語のほうは出来上がってしまっていたことで、言葉のもつ強烈なシンボル性は、現実に対する「あるがまま」の認識をおおきく歪めている。

インターネット の言語世界を考えるには、フィルムを編集しなかった映画のようなものを考えればよくて、現実の意識の流れに近すぎるせいで、散漫で、見るに耐えないものになっている。
言葉のシンボル性は細部を犠牲にするが、細部がない上にシンボル性に由来するパワーもなくて、なんだかぐずぐずな言語世界があるだけです。
口元にしまりがない感じがするひとたちが、思いつくままに喚き罵り、皮肉を述べて、そこで繰り返されているのは日常よりも更に退屈な、しかも観念ばかりで現実がない、べったりして、跳躍のない、うんざりするほど理屈っぽい繰り言に満ちた世界になってしまっている。
情報という面から見れば興隆でも言語文化の面から見れば破滅的状況に向かっているともいえる。

日本のアダルトビデオについていえば、尊敬する日本人友達の表現を借りれば「男は無性で女だけが性をもつ存在だという幻想に駆られた社会である日本」で育った言語の側が再構築した現実で、薄気味悪いだけで性的興奮を呼び起こしにくいのは、実は言語の体系自体が性的現実に対してたいした情報をもっていないからであるとおもわれる。

現実は止揚されなければ相手の認識に届かないという伝達の法則はここでも活きていて、大量に粒子の粗い情報をやりとりして共有するいまのインターネットは、その機能だけで社会をどんどん破壊してゆけもするが、いったん人間の精神の質を向上させる、というほうに眼をむけると、言語成立いらい、ずっと人間が苦しんできた言語と現実の乖離やシンボル性とあるがままの現実認識とのバランスや、つまりは人間の認識のありかたに伴う問題の所在を発見して、現実に対して解像度の高い認識をもちうるような方法を見いだしえなければ、社会的にも新たなタイプの疎外や現実から遙かにかけ離れた幻想の共有ということが起きてくるのかもしれません。


光へ向かって旅をする計画について

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死ぬのはイタリアがいいな、と時々おもう。
あの息もつけないほど圧倒的な美しさの夏のトスカナの田舎で、陽光が氾濫する庭で、ただ眩(まぶ)しさに瞑目するひとのように死ねたら、どんなに良いだろう。

へんなことを考える人だな、と言われそうだが、自分が死ぬ姿をあれこれ想像して、途方もなく悲しい寂しい気持ちになるのを楽しむのは5歳くらいのときからの習慣的な遊びなので、しかもこれは甘美な遊びで、30歳になったいまでは熟練しているといってもいいくらい真に迫って仮想的に死んでみるのも可なり。

マンハッタンは老人向きの町だが、マンハッタンは嫌だな、と思う。
あんなところで死んだら、道路を横断しそこなってクルマに轢かれたボロボロの猫の死体になったような気がするだろう。
ロンドンで死ぬのは索漠として退屈な感じがする。
パリならば高級娼婦のアパートで死ぬというのは、なかなか良い気がするが、死んでからモニさんに嫌われてしまうから採用できない案である。

ニュージーランドの大自然のなかで死ぬのも気分はいいと思うが、なんだか文明人の死に方として健康的すぎて、死んでから憮然とした気持ちになりそうな点で問題がある。

だから、やはりイタリアなのである。
官能と聖性がいりまじった、あの気が遠くなるほど美しい自然のなかで死にたい。
トスカナでもベネトでもよいが、シチリアなら完璧なのではなかろうか。

このブログには、膨大な、と自分で言いたくなるほどのイタリア旅行の記事が内蔵されている。
最後に一ヶ月半旅行しただけのイタリア行のときに書いたものに限っても、我ながらたいへんな量です。

「Sienaの禿げ頭」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/30/sienaの禿げ頭/

「移動性高気圧2」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/03/移動性高気圧2/

「InVacanza2」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/25/invacanza2/

「Sarteano」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/28/sarteano/

「Vernazzanoの斜塔」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/29/vernazzanoの斜塔/

「ノーマッド日記13」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/01/ノーマッド日記13/

「Arezzoの骨董市」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/02/arezzoの骨董市/

「ノーマッド日記14」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/05/ノーマッド日記14/

「カルボナーラの謎」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/13/pasta_alla_carbonara/

「スパゲッティ・ナポリタンの秘密」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/18/スパゲッティ・ナポリタンの秘密/

「豊かさは、どこへ行ったか?(その2)」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/17/where-have-all-the-flowers-gone/

「Back to Como」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/15/back-to-como/

「Parter noster」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/14/pater-noster/

「手作りの宇宙」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/11/手作りの宇宙/

「豊かさ、はどこへ行ったか?(その1)」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/10/豊かさ、はどこへ行ったか?(その1)/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/08/il-pranzo/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/07/mantova/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/06/ferrara/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/07/10/チェルノビオ/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/07/04/イタリア・ノート_1/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/28/「分解された光」のような幸福について/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/25/ピエモンテの畦道/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/21/麦わら帽子の思考/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/20/闇に目をこらす/

イタリアという土地柄には自然にも町にも人間にも、駐車場で日向ぼっこしている犬にさえ名状しがたい品の良さがあって、イギリスのような抜け目のない土地柄とは文明のていどにおいて雲泥の違いがある。
しかも文明の高さは細部にまで及んでいて、きみが夜の田舎の、人口が500というような小さな村の、12世紀くらいからあんまり変わっているとは思われない細い、ベスパならなんとかいけても、クルマではチンクエッタでも通りえない道をたどって、夜の12時ころ、月の光を頼りに散歩してゆくと、教会のドアがなぜだか、ほんの少し開いていて、しかも、ぽおっと、微かな光がもれでている。

ドアを開けてはいってみると、正面には十字架に磔(はりつけ)になったイエス・キリストの代わりに、絶命して横たわった神の子に両腕を広げて覆い被さって、嘆き悲しむ聖母マリアの巨大な像がある。

路地と路地がぶつかるところには、民家の、朝であれば菜園に水をやっているところに行き会って、ボンジョルノ、今日は良い天気ですね、でも午後から暑くなりそうだ、と短い言葉を交わす、気の優しい主婦がいる家の壁いっぱいに、キリストの絵が描かれている。

あるいは、日本の水田にそっくりな、ベネトの、じーちゃんがママチャリでぎっこら漕いで立ち去ってゆく、なんだか佐久みたいなあぜ道にクルマを駐めて、なんでこんなに青空がおおきくて、なにもかもやさしい美しさなのだろう、とぼんやり考えながら歩いていると、マリア様のいる小さな祠があって、老いた女のひとが、なにごとかを一心に祈っている。

宗教的社会は通常特有のケーハクに陥りやすいのに、イタリア、メキシコ、スペインは、ケーハクに浮き出てゆくどころか、まるで息をつめて沈潜するように、深く深く、密度が高い「静かさ」のなかに沈んでゆく。
能楽が好きなひとは皆しっているように、あの能舞台のある空間で「音が沈む」という不思議な体験をするが、イタリアでは、文明全体が濃密な沈黙のようなもののなかへ沈んでゆく。

イタリア人は多分「イタリア」と言われても、話がおおきすぎてピンとこないので、ピエモンテとかPugliaとか、どんなに頑張っても、その程度のおおきさしか「ひとまとまり」として感じないように見えるが、外国人から見ればイタリアはイタリアで、あの長靴は共和制ローマ人が脱ぎ捨てていった文明そのものの履き物で、なんだか間投詞と間投詞のあいだにさえ文明がぎっしり詰まっているのがイタリアなのであるという気がする。

だから、死ぬのはやっぱりイタリアがいいが、両親のチェルノビオの山荘で死ぬ、というようなのは、いかにも卯建(うだつ)があがらない息子然として嫌なので、家を買うかなあー、でもまだ高いよなー、EUエコノミーは大丈夫メルケルが頑張っているあいだは、なんだかつぶれそうもないが、主だったヴィッラの半分くらいを買い占めているロシア人は、プーチンの国権主義的強欲が災いして、おおごけにこけそうです。

悪魔がでるせいで毎夜の食事の前に悪魔祓いの儀式が必要なレストランのある小さな島や、ムッソリーニが殺された現場に、低い、黒い十字架がある湖畔もいいが、もっとずっと南で、マフィアが支配する田舎に住んで、もう文明も公正も、自分にはどうでもよくなったとつぶやきながら、どんどんぼけて死ぬのがいいかもしれない。
人間の一生みたいに中途半端な長さのものを真剣に考えても致し方がないであろう、と納得しながら死ぬのは流線形でかっこいい死に方であると思われる。

オークランドはもう夏で、夏の太陽が照って、芝生はよみがえって、人間には手が届かない光化学反応が散乱する緑の宝石箱のようなニュージーランドの庭で、ずっと死のことを考えていると、もう少し手をのばせば「生きる」ということの意味に届きそうな錯覚がわいてくるが、
どうせまだダメで、もう50年というようなバカバカしい長さを生きて、
死ぬ瞬間か、死後の瞬間に、ちょうどブッダがミルク粥に宇宙の影が射す野見たようにして、(もちろんブッダの普遍に及ぶわけはなくて自分ひとりのことにすぎないが0やっと時間性を失って同時いっせいに甦った言語のなかで、視界の片隅を通り過ぎる影をみるようにして、「生きる」ということを理解するのかもしれません。

光を見つめて盲いたひとにしか見えないものがある、という。
まだ太陽を見つめる勇気はないので、小さな太陽のようでなくもない、モニさんや、小さい人たちを見つめて、鏡に自分の姿がちゃんと映るように、慣れてゆくしかないのでしょう。


I don’t care

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触れていて暖かい光のようでないものは知性ではない。

初めてユークリッド幾何学やニュートンの古典力学を勉強するひとは、世界が明快な言葉で、どんどん説明されていって、あますところなく、均整がとれた美しい肉体を陽光の下に現すのを見て驚嘆する。

幾何学と古典力学をともに修めた18歳の人間が直観する世界は、それが自然に出来あがったものであるはずはなくて、何か「完璧な知性」というようなものが恣意的につくりあげたものに違いない、ということで、
その眼をちゃんと開けていられないほどの圧倒的な光は、そうして、
まるで冬の暗黒のなかで、そこだけ暖かい光に照らし出された空間のように、
世界を理解しはじめた人間がたいてい置かれる孤独な冷寒を暖めてくれる。

かじかんだ手に渡される一杯のコーヒーのような一片の数式、と言うと、きみは可笑しがって笑うだろうが、歯を食いしばって勉強するのとはちょうど逆に歯をくいしばっていなければ耐えられない世界のなかで、かろうじて息がつける場所で憩うようにして数学や物理と向かいあう少女や少年にとっては知性の役割とは、そのようなものである。

クロノス、エロス、タナトス、という。
人間の一生の本質が、その三つにしか過ぎなくても、知性の光がそこに加わらなければ、どうしても生きていけない、ごく僅かな数の人間が存在する。

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24歳のHannah Reidたちが書いた「Metal and Dust」

“And so, you built a life on trust
Though it starts, with love and lust
And when your house, begins to rust
Oh, it’s just, metal and dust”

という歌詞で始まる、あの歌のなかでは

We argue, we don’t fight

という繰り返しが何度も出てきて、愛し合って一緒に暮らし始めたふたりが、冷めてゆく情熱に抗って、それでも止めようが無くて、お互いが判らなくなってゆくことへの絶望がよく出ているが、脳天気にお説教や「アドバイス」を垂れ流している年上世代の言葉を聞き流して、
若い魂は、いつも、「より本質的なものの姿」を見ている。
魂の視覚が見て知っているものを表現する言葉を持たないでいらだっているだけである。

ただその数学者との昼食だけが楽しみで「なにからなにまで反吐がでるほど大嫌い」なケンブリッジ大学に我慢して暮らしていた若い日本語研究者のドナルド・キーンに向かって、バートランド・ラッセルは「人間の知性はすべからく若い頃にもどってゆくのさ、もどってゆけない知性など二流にしかすぎない」と述べたというが、ほんとうだろうか?

同じラッセル卿は、最高に面白い読み物「西洋哲学史」のなかで、ニーチェとブッダが議論している場にいあわせたとしたら、ニーチェの精密で圧倒的な論理に軍配をあげざるをえないが、しかし、自分はどうしてもブッダに味方する気持ちを隠せないだろう、と曖昧なことを書いているが、この本を書いたとき60代初めだったはずのバートランド・ラッセルは、多分、「知性」というものの正体に気がつき始めていたのだろう。

ちょうど暴力と不断に隣り合わせであることなしには言論の自由が成り立たないのと同じようにして、愚かさと隣り合う緊張なしに知性を保つ事は出来はしない。

そうして愚かさは、許してはいけないものまで許してしまうが、
ブッダは、それでもいい、とやさしく述べたのだった。

若いときのラッセルなら、金輪際受け取れなかった、そのブッダの愚かさを、60歳をすぎた数学者は、いわば自分よりも上位にある知性の判断として受け入れるだけの思索上の技巧をすでに身につけていた。
若い人間は、愚かさから愚かさへ、怖いものしらずの、向こう見ずな空中ブランコ乗りのように、暗闇から暗闇へ、パートナーが差し出した腕だけを見つめながら跳躍する。

サーカスの空中ブランコとは異なって、現実の人間の一生には落下しても生命を助けるために張られたネットなど有りはしないが、それでも何万、何十万という若い人間が地上が遙かに高い暗闇のなかのブランコに立って、自分が跳びこもうとする闇の奥を見つめている。

宙を切って、跳躍した若い人間の腕を、足で体を支えた、少し上の世代が、痛いほどつかんで、しっかりとらえて、若者を反対側の闇のなかへ運んでゆく。

感覚が計量した古典物理学が空中ブランコ乗りを助ける仕組みは、実際の人間の一生と同じであると思う。

60歳をこえて、40数年に及ぶ思考の訓練で言葉の指先の、その少し先にあることまで知覚するようになっていたらしいラッセル卿は、言語の少し外側に認識を延展する方法を知っていたようにおもえるが、その言葉の終わりから少し歩いていったところにあるのは、愚かさと叡知の見分けがつかない、まばゆい光の世界だった。

クロノス、エロス、タナトスというが、もうそんなことも、どうでもいいような気がする。

生きていくのにオカネに足をとられるのも、家に蓄えられた富に頼るのも嫌だと思って、学校を出て、ぼくが初めにやったことは一生を何度か過ごしても足りなくならない程度に「オカネ」をつくることだったが、「勝ち」を重ねるにつれてゲーム中毒の地が出てやりすぎてしまった。
こんなに時間をかけるはずではなかったのに、遊びすぎてしまった。
閉店までTimeOutでゲームにいれあげるバカガキ並だった。

ちょっとした思いつきで始めた日本語も、やり過ぎてしまった。
母語の英語世界では、ついぞ見ない、スーパー下品なひとびとがたくさんやってきて、ニセガイジンだとかゴボウ(?)だとか、めんどくさいから英語で話しかけたら、今度はハローのひとことも言えないのがばれて、照れ隠しなのか、突然誹謗する記事を書いて、勝った勝った勝ったと連呼して、本人もさすがに気がついたようだが、あちこちで憐れみを買っていたりして、マンガの主人公にしても品が悪すぎるひとたちとの邂逅は面白かったが、
しかし、時間の無駄でしかなかった。
こんなことを言って日本の人をがっかりさせたくはないが不愉快な人間に会うだけで他の言語に較べて得るものがずいぶん少なかった。

でも、やってみなければ、さわってみなければ、がっかりも出来ない。
そのうえに、ここにこうやって書いているように、「ぼくの他の人間には誰にも読めない言語」で日記を書くという、「自分だけのための言語を手に入れる」、最高の贅沢を手にいれたのでもある。
だから後悔というほどのことはない。

ムダなのかどうか、ほんとうのところは、もっとずっと先にいかなければ判らないことだろうから別にして、季節が変化するように、知性も、光が揺らぐように、変化してゆく。

足裏についたここまで渉り歩いた世界の泥を次のドアの前のboot scraperで、こそぎとって、また少し先を急がねばならない。

光のほうへ


言葉がとどかないところ2 _(哲人さんの返信2)_For everything a reason <哲学者の友だちとの往復書簡 III>

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 唐十郎の数ある戯曲のどれかに、「きみが言おうと思ってることは、きみの口のかっこうで分かってしまうよ」といった意味の、ちょっと意地悪なセリフがあります。折にふれて思い出す。これを知ったのはずいぶん若い頃ですが、ちょっと意気阻喪させられると同時に、一種の爽快感もありました。(自分が他人に理解されないという鬱屈は、鬱屈もろとも周りに理解されてしまっているわけだ。なんと、なんと。ハハハ。)

 私は、言葉によって自分を他人に伝えることは難しい、という考え方を、できるだけとらないようにしてきたのだと思います。「私」とは私が語ったかぎりのものであり、そこに私は存在していて、その私のありようには、私以外の人も私と同じ資格で接近することができる。私が特権的に接近できるのは、私の身体だけ(私の身体を内側から動かすことができるのは、私だけ)。私の心は、周りのあなたが理解するとおりに、そこに――私の身体のあるところに――ある。こう言う方が、すっきりしてるじゃないか、という気持ちがあったわけです。

 いつ頃からこういう風に思ってきたのか、始まりをはっきりとらえることはできないけれど、けっこう長く、こういう考え方で暮らしてきたようです。この考え方が正しいのか正しくないのか、それは分からない。たんに好み、というものでしょう。私は大きな素数みたいな存在ではなくて、あなたの思いつくいろんな因数で簡単に割りきれますよ、と言いたいわけです。(そー言われてもいちいち割ったりしたくない、と返されそうなんだが。)

 でも、問題は私の好みではなくて、言葉は果たして伝達の役に立つのか、ということでした。

 「大きな辞書」で簡単に割り出せるようなことを語っているかぎり、言葉が伝達の用を果たしているのかどうか、という問いさえ思い浮かばない。やりとりは滞りなく進み、挨拶したり、感謝したり、約束したり、依頼したり、大抵のことが何とかなります。私たちの日常のほとんどの言語活動は、この水準に終始するようです。言語によって、対人関係を調節し、いろんな仕方で他人を動かして行く。

 意外にうまく行かないのが、描写するとか、記述するといった言語活動のように思われます。込み入った頼みごとでも案外すっと要点が分かるのに、込み入った道順を訊ねてその答えが分かりやすいことはめったにない。言葉は、対人関係の調節はうまくできるけれど、世界の事実を記録するのはもともと苦手なのでしょう。

 数学の言語が、対人関係の調節とまったく関わりがないのにうまく伝達の役に立つのは、二つ理由があると思います。

 一つ目の理由は、数学的事実というものが、分かる人には同じ形で分かる、という特徴をもっていること。数1と、ある自然数に1を加える操作が分かるなら、1たす1が2であり、2たす1が3である、ということは5歳でも50歳でも同じ形で分かっている。数学的事実に関しては、概念が人それぞれで大きく違うということはない。だから、Mishoさんの表記を参照して言えば、概念から記号列への写像 f も、記号列から概念への逆写像 f-1 も、それぞれの人でほとんど同じになる。日常言語は、個々の人が心に抱く考えがさまざまなので、この写像と逆写像のあり方が人によって違ってしまう。

 二つ目の理由は、数学言語を用いる言語共同体が、かなり厳しい排除の仕組みを備えていること。写像と逆写像のあり方が標準と違う人は、数学言語を使う仲間に入れてもらえない。

 「1/2足す1/3は2/5」と計算してしまう子どもは、日本の場合、小学校高学年で算数の「できない子」という扱いになる。たぶん、その後ずっと、数学言語の共同体には参加できない。「二分の一たす三分の二は五分の二、ふーん面白いね」とは決して言ってもらえない。「みんな平等」でも「民主的」でもない。小学校以降、かなり多くの人がそれぞれの段階で排除され、その結果、数学言語の表現と解釈がヘンテコな人は、数学言語を話す集団内にほとんどいなくなる。日常言語は、こんなに強い排除の機能を持ってはいないと思われます。

 日常言語の場合、皆の参照する「大きな辞書」に含まれる写像と逆写像の設定は大まかで、排除の働きも強くないため、「正直に言って北村透谷は滑稽で、浅い」と言ってしまう人が出てくる。これは、数学の言語共同体なら、「できない子」に分類される人なのでしょう。

 数学に「できる子」や「天才」がいるように、日常言語にも「できる子」や「天才」がいる。標準的な写像・逆写像の型に乗らない思考や記号列を作り出す人がいる。そういう人々の言葉、たとえば、詩人の言葉に接したとき、私たちは何をどうすることになるのか。北村透谷と田村隆一について、私の今回のこの返信にまつわる体験をお話ししましょう。

 北村透谷の書き物は、一つ二つ読んだことがあるきりでした。今度、岩波文庫の選集で、「処女の純潔を論ず」を読んでみました。まず、『南総里見八犬伝』の発端の一挿話が熱烈に論じられていることに、ひどく驚かされた。
 
 ではともかく、ということで、八犬伝を図書館から借り出して、透谷が論じる伏姫と八房の挿話を拾い読みに読んでみました。里見一族を呪いつつ斬首された奸婦、玉梓の怨霊が乗り移った飼い犬八房は、里見義実の戯れの約束を真に受けて敵将安西景連の首を取り、約束通り、恩賞に義実の娘の伏姫を要求する。義実は八房を殺そうとするが、伏姫は綸言汗の如しと諫め、八房を伴って深山に籠もる。だが伏姫は八房をあくまでも畜生と見なして身を許すことはなく、法華経の読誦書写の日々を送ります。この後、姫は処女のまま懐妊し、純潔の証しを立てるべく懐刀で割腹して果てますが、身に帯びた水晶の数珠が飛び散り、その後、関八州のあちこちに八犬士が産まれて活劇になる、というわけですね。

 透谷はまったく本気でこの挿話を取り上げていますね。この挿話が八犬伝全巻の核心で、残りはただの侠勇談にすぎないと言っている。透谷の論を単純化して示せば、怨霊の祟りと異類婚姻譚という魔物の世界が片方にある。もう一方には法華経と純潔がある。法華経に守られた伏姫は、純潔の証しを立てるために死なねばならないが、魔界に呑み込まれはしなかった。このいきさつが透谷を動かしている。ふむ。
 
 開化の混乱を生きた青年詩人には、明治の世俗社会が一種の魔界と見えたのかもしれない。クリスチャンとなって世俗の外に一歩出ることはできても、世俗の外に立つ一個人の立場で明治の社会を生きることは、物心両面で容易ではなかっただろう。そんな連想が浮かびます。八犬伝にこと寄せて、透谷は、明治の社会で個人であることの困難と、その真の意義を語ろうとしている。
 
 これは一葉や啄木とそっくりに見える。これら夭折した詩人たちは、漱石の造型した三四郎や代助とは違い、財産や門地といった防御壁をもたない裸の個人でした。さらに、福沢とも違って、一身独立して一国独立す、と言わない。国家と結びつこうとせず財産の後ろ楯ももたない若い詩人が、貧しい明治の社会で自立した個人として生きるのはほとんど無理なことだった。八犬伝のこの挿話は、一見しょうもない怪異譚なんだが、透谷は自分の境涯をそこに見たようだ。
 
 とまあ、私の場合、「処女の純潔を論ず」を卒読して言い得るのは、こんなことになります。怨霊譚、異類婚姻譚と法華経もしくはキリスト教、土俗的魔界と宗教的浄福、明治社会と一個人、世俗内と世俗外、こういう対比的な枠組みを使って、透谷の言葉からその心事を推量してみる。
 
 うまく行くかどうかはさておき、何らかの概念の枠組みを詩人の言葉に当てがって、そこに浮かび上がるものを見る。これ以外に、隔たった時代の言葉を分かるための方法というものはなさそうです。でも、このやり方は、相手を個性としてよりも類型として見ることにつながりやすい。そして、対象が評論だから成り立つことかもしれない。詩作品ならばどうなるのか。

 よい詩というものは、「ああ、これはよいな」と思って記憶にとどめておくことができるだけでしょう。「どこがよいか」とか「なぜよいか」などと評釈を始めるのは禁物で、説明すればするほど、その詩の良さから遠ざかるような気がします。(教室で詩を習うと、どんなよい詩でも色褪せて感じられる。)

「するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない」

 これはよい。なぜよいのか、当然それを語ってはならんのですが、それでは話の接ぎ穂というものが無いわけで、野暮を承知で、私がこの詩句を見て、まず直観的に思ったことを披露します。それから、この詩句をめぐってちょっと面白い体験をしたので、それを報告しましょう。
 
 鳥って、舌がありましたかね。あるんだろうな。ツバメのヒナが親鳥から餌をもらおうとして大口開けて騒いでいるTV映像なんかを思い起こすと、舌は確かにあるようだ。鳥は、私の印象では、哺乳類に比べて人間が感情移入することの難しい生き物で、それは、目元と口元に表情が無いからだろうと思います。目はただ皎皎と見ひらかれている。嘴は硬く、笑顔を作ることは無い。彼らは私たちの手の届かない天空にいて、捕らえることはできない。地上の何かを見つけると、遠くから一気に飛来して襲う。まさに、異類、です。
 
 その異類には、槍のような、ナイフのような、裂けた舌がある。彼らは観察し、呑み込むが、何か当方にご意見をお聴かせいただける、というわけではない。徹底的に、異類である。私たちは、彼らに拒まれながら、彼らを見ることができるだけだ。
 
 まあ、こういう連想をしました。よい詩句だ、と思わせられた効果を言葉にすれば、こんな感じになる。
 
 さてそれで、このところこの田村隆一の詩句をなんとなく頭の片隅において、ガメさんの返信にどう答えようかな、と考えていることがよくありました。夜ベッドに入っても、なんとなく考えている。ある日、寝入りばなに、よく知っている人を人混みでちらっと見るような、なんだかそんな感じでなにか想念が意識をよぎるのです。今のなんだろ?と思って、意識を覚醒の方にもっていくと、もう分からなくなる。取り戻せない。でも、鳥と、どうやら眼に関する何かと、差し迫ったような懐かしいような情調がともなった一つの想念だった、という感じは残りました。
 
 別の日、夕方帰宅する途中にこの詩句をなんとなく考えていると、小道の角を曲がったときに、またふと、何かの想念が意識をよぎる。差し迫った情緒をともなっていて、よく知っているような、鳥と、眼。ん?今のなんなんだ?と思って捕まえようとすると、逃げてしまう。また別の日、机の前で休憩しているときにも、同じ情調をともなった何かがふっとよぎる。結局、都合4回こういう経験がありました。
 
 4回目のときには、何かが心をよぎると同時に、「見なさい」ということばが、旋律に乗って浮かんできた。歌の切れっ端なので、えーとえーと何だこの歌は、と考えたら思い出した。その部分の歌詞は以下です。
 
 「「見なさい」あなたの眼が
 「見なさい」わたしを見た
 「怖れるなかれ、生きることを」
鷹の目が見つめてきた」
 
 これは、「鷹の歌」という中島みゆきの歌の一部です。なるほど、確かに、鳥と、眼と、見ること。で、「見なさい」というところは差し迫ったような曲調です。(YouTubeにはよい音源が無かった。素人さんの「歌ってみた」ばかりでした。)
 
 田村隆一の言葉が、この歌を呼び出していたわけです。あの詩句が、この歌を私の記憶の中で呼び起こしているのに、私にはその自覚がない。意識して捕まえようとすると、逃げ去ってしまう。言葉が、脳という物理的装置の中で、まさに物理的に別の言葉を呼び起こしたらしい。だが、脳の持ち主は、まるっきりマヌケで、そんなことはつゆ知らない。こういうことってあるんだなー、というおもしろい体験でした。
 
 ちなみに、中島みゆきのこの歌は、歌詞カードで確認すると、まあ凡庸な、と言っては失礼だが、わかりやすいエピソードを言葉にしたものです。ところが、歌で聴くと、俄然、難解な詩になる。
 
 (実は、今回この返信を書くために、初めて歌詞カードを見て、歌詞を黙読すると単純で分かりやすいことに驚きました。なのに、なんだか難解な歌だなー、と思って聴いていた。歌い手の意図は、無意識に難解な方を指しているのじゃないか。以下、難解な所以をちょっと説明します。)
 
 「「見なさい」あなたの眼が」という「あなた」は、歌詞カードで読めば、前に出てきたある男なのです。だが、歌で聴くと、誰のことだか分からない。というのは、「見なさい」が女振りの歌い方で歌い上げられるからです。(歌い手は男振りに歌うこともできたはずです。)だから「見なさい」と言っている「あなた」が前出の男だなんて、全然思いつきもしない。
 
 末尾の「鷹の目」の「鷹」も、歌詞カードを見ると、昔は「鷹と呼ばれた男」のことを指すと読めるけれど、歌で聴くと、何のことやら意味不明になる。黙読と違って、歌ってゆくと数十秒余の時間が経ってしまうので、同じ対象を指す表現として受け取りにくい。
 
 結局、歌われた世界では、「見なさい」と命ずる「あなた」がいて、その「あなた」は聴き手には誰だか分からなくて、その誰だか分からない存在は「鷹の目」を持っていて、上から「わたし」を見つめていて、「生きることを怖れるな」と告げている、というとんでもなく形而上学的な光景になってしまう。この「あなた」って、ひょっとして、神なの?という、日本語の歌謡としては、まずあり得ない印象が生じます。
 
 「人間の手の届かない上空に、私たちを見ている異類がいて、人間はそのものをただ見上げることができるだけ。そのものは観察し嚥下するが、批評しない。生きることを怖れるな、とのみ告げている。」
 
 説明っぽく言えばこんな「解釈」を、私の脳は、田村隆一の詩句と中島みゆきの歌唱を結びつけて勝手に作っていたようです。ところが、脳の持ち主は、意識に邪魔されて全然自覚できない。4回目にやっと気がついたのでした。
 
 詩を読むというのは、こういう風に、意味を意識的に考えたりするのとは違う水準で、読む側の言語体系が衝撃を与えられる体験なのだと思われます。その衝撃を伝達したり増幅したり変調したりする操作は脳が勝手にやる。そうやって言語が言語を呼び起こし、読み手の言語体系を作りかえるのでしょう。
 

 田村隆一の「言葉のない世界」の終り二行は、こうなっていますね。

 「ウィスキーを水でわるように
 言葉を意味でわるわけにはいかない」
 
 相手を類型としてではなく、個性としてとらえようとするなら、相手の言葉をただただ聴き、あるいはただ読み、「言葉を意味でわる」作業はほどほどで止めて、言葉が自分の中の何かを呼び起こすのを待つ、というやり方しかないのだと思います。
 
 個としての他人を本気で理解しようと思ったら、各種の辞書を頼りに類型化する作業はやめて、ただ一緒にいて、言葉を聴き、振る舞いを共有して、自分の中になにか変化が起こるのを「後から知る」というやり方しかないのでしょう。


哲人さんへの手紙3<往復書簡V>

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「見ればなつかしや
我ながら なつかしや

(井戸のみづもに映るこの姿は/懐かしい業平さま
わたくし自身の男装の姿ながら、ほんとうに懐かしい思いがします)

亡婦魄靈の姿ハ凋める花の。色なうて匂ひ。殘りて在原の寺乃鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。破れて覚めにけり夢ハ破れ明けにけり」

と言う。
「井筒」は、少なくともぼくにとっては最高の能楽の演目で、やがて歌舞伎に発展する能が陥りやすかった通俗性が最も少ない点や、本来は微かなものであるはずなのに沸き起こるような幽玄、最後の有常の娘の、背筋がぞっとするほどの悲嘆の表現の美しさ、能面自体が激しく歪んで慟哭の表情に変わってゆく不思議さなど、18歳で毎度毎度日本を訪問するたびに母親にお伴を命じられる歌舞伎が嫌いだったぼくに、能楽の日本語世界の青い虚空を背にして際立つような美を教えてくれた演目でした。

哲人さんが例として挙げた中島みゆきには、グラシェラ・スサーナというアルゼンチン人の歌手のために書いた「髪」という曲があります。

こういう歌詞です

長い髪が好きだと
あなた昔だれかに話したでしょう
だから私こんなに長く
もうすぐ腰までとどくわ

それでもあなたは離れてゆくばかり
ほかに私には何もない
切ってしまいますあなたに似せて
切ってしまいますこの髪を
今夜旅立つあなたに似せて  短かく

長い髪を短かくしても
とてもあなたに似てきません
似ても似つかない泣き顔が
鏡のむこうでふるえます

あなたの写真も残らなかったから
影をあなただと思いたい
切ってしまいますあなたに似せて
切ってしまいますこの髪を
今夜旅立つあなたに似せて  短かく

この中島みゆきの大ファンで「20世紀最大の詩人」とまで褒めちぎった吉本隆明を調べているときに、この「髪」を聴いて、歌詞を読んで、
「井筒」の紀有常の娘が現代に甦って自分を捨てた恋人をおもっているような不思議な感覚が起こりました。
中島みゆきは、どうやらたくさんの日本語にふれて、「日本語の文脈を踏まえる人」で、哲人さんの言う

「個としての他人を本気で理解しようと思ったら、各種の辞書を頼りに類型化する作業はやめて、ただ一緒にいて、言葉を聴き、振る舞いを共有して、自分の中になにか変化が起こるのを「後から知る」というやり方しかないのでしょう」

という辞書を省略した伝達を、日本語の文脈に寄り添うことによって出来る人で、通常は通俗に阿ることなしには不可能な「たくさんの日本人へ自分の感覚を伝達すること」が出来たのは、中島みゆきという人の、この能力に拠っていて、吉本隆明が本来は情緒を排して単簡なリズムのめらんめえちょうに近いセンテンスが多かったという講演で感動に声をつまらせさえしながら中島みゆきの「化粧」を激賞したのも、同じ理由によっているのかもしれません。

「化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど
せめて今夜だけでも きれいになりたい
今夜はあたしは あんたに逢いにゆくから
最後の最後に逢いにゆくから
あたしが出した手紙の束を返してよ
誰かと二人で読むのはやめてよ」

という言葉で始まる「化粧」を吉本隆明は死ぬまで愛していたようです。

日本語に限らず、歌の歌詞は書き写してみれば、がっかりするほど凡庸で、その主な理由は言語においては極めて重要な「音そのものによる伝達」をチューンにゆだねてしまって、逆に言えば、音の上で完成した詩、たとえばT.S.EliotのThe Love Song of J.Alfred Pruflockに曲をつけようとしてみれば判りますが (←ぼくは実際にやってみようと思ったことがある(^^;   )
詩の言葉の「音」自体がチューンを受け付けない強固さで言葉の音楽を規定しているので、まったくうまくいきません。


And indeed there will be time
For the yellow smoke that slides along the street,
Rubbing its back upon the window panes;
There will be time, there will be time
To prepare a face to meet the faces that you meet;
There will be time to murder and create,
And time for all the works and days of hands
That lift and drop a question on your plate;
Time for you and time for me,
And time yet for a hundred indecisions,
And for a hundred visions and revisions,
Before the taking of a toast and tea.」
という滑稽であるはずなのに、地の底から響いてくるような恐ろしい「音」は、もう言葉が書かれた段階で旋律もリズムも揺るぎなく完成されていて、音楽がつけこむ余地がない。

これがずっと音楽よりになっていくと、オペラなどは、ほとんど
「バカみたい」な歌詞で、

Vissi d’arte, vissi d’amore,
non feci mai male ad anima viva!
Con man furtiva
quante miserie conobbi aiutai.
Sempre con fè sincera
la mia preghiera
ai santi tabernacoli salì.
Sempre con fè sincera
diedi fiori agl’altar.
Nell’ora del dolore
perchè, perchè, Signore,
perchè me ne rimuneri così?
Diedi gioielli della Madonna al manto,
e diedi il canto agli astri, al ciel,
che ne ridean più belli.
Nell’ora del dolor
perchè, perchè, Signor,
ah, perchè me ne rimuneri così?

という「Vissi d’arte」
の歌詞は、英語ならば

I lived for my art, I lived for love,
I never did harm to a living soul!
With a secret hand
I relieved as many misfortunes as I knew of.
Always with true faith
my prayer
rose to the holy shrines.
Always with true faith
I gave flowers to the altar.
In the hour of grief
why, why, o Lord,
why do you reward me thus?
I gave jewels for the Madonna’s mantle,
and I gave my song to the stars, to heaven,
which smiled with more beauty.
In the hour of grief
why, why, o Lord,
ah, why do you reward me thus?

と訳されて、よくて日常に呟かれる言葉、悪くすればそれ以下、というような言葉にしかすぎません。
しかし、それが、あの優美な旋律に乗ると、相貌をいっぺんさせて、魂に迫る表現になって胸をいっぱいにする。

2

トルクメニスタンからインドへ向かった(主にロシア人研究者たちの)文化人類学の延長にある言語学者のなかには言語がもともと音韻だけで意味をもたないものだったのではないか、と考えるひとたちがいます。たとえばインドにはいまでもまったく意味をもたない、いわば空洞な言語が存在して、つまりチャントだけがあって、ちょうど伝統音楽が継承されるように継承されている。
その抑揚や音の高低やリズムまでが厳格に決まっていて、意味性はまったく持っていない。
起源は「鳥の啼き声の模倣」だというのです。

家の裏庭の生け垣に蝟集していっせいに啼きはじめる鳥たちを見ていると、いつもこの「元始、言語は意味をもたない音にしかすぎなかった」という学説を思い出す。
意味をもたない音が伝えられるものを考えると、音楽でなければ、不安、焦燥、自己の存在、警告、…で鳥が述べていることに耳を澄ますと、異種である人間であってすら、かなり精確に彼らが伝達したがっていることは判る。
Dr Dolittleみたいに会話するわけにはいきませんが、必要不可欠な情報は、実際には意味を持った言葉による警告よりも明瞭に伝わる。

このあいだ軽井沢の古本屋で買ったむかしの日本語週刊誌をぱらぱらめくっていたら、外国へ駐在する日本人社員の生活がいかにたいへんか、という記事があって、
風呂場の水道管が破裂して、水が家の床を水浸しにしているときに、社内でも英語が得意でアメリカ駐在に選ばれた父親がプラマーに電話していくら説明しても要領を得ない。
その様子を見ていた8歳になる娘が父親から電話をひったくって、
「Water! Water! Flood! Hurry!」と叫んだら、あっというまにプラマーが来て水道管を直した、というのです。

音は気持ちを精確に伝達する。
音楽は、きっと、数学的に処理された「音による伝達」であるからこそ、通俗性をもたされなくても、たくさんの人間に精確に伝えたい感情を伝達するのでしょう。

「相手を類型としてではなく、個性としてとらえようとするなら、相手の言葉をただただ聴き、あるいはただ読み、「言葉を意味でわる」作業はほどほどで止めて、言葉が自分の中の何かを呼び起こすのを待つ、というやり方しかないのだと思います」

と、哲人さんが述べるとおりで、本来は「言葉を意味でわる」作業は詭弁屋にまかせて、皆無であるのが望ましくて、「相手の言葉をただただ聴き、あるいはただ読」んで、共有された時間がつみあがるにつれて、「言葉が自分の中の何かを呼び起こすのを待つ」というやり方しかないが、
日本語ではここに困った障害があって、まず何よりも歴史が明治時代のところで、スパッと切断されていて、ほんとうは定義もちゃんとされていない無数の言葉がひとびとの頭のなかで曖昧な思考として発酵してしまった、という事情があると思います。
「文明」「恋」「愛」…観念上の意味に限らず、
I love you.

あなたに恋をしている/あなたを愛している
を比較すれば容易に感じられますが、
日本語のほうは、なによりも自然な言語表現とは感じられない。
自分の恋心を精確に伝えようと思えば思うほど、表現のトーンを落とした
「好きです」になってゆくでしょうが、これは英語では
I like you.
で、イギリス英語ならばI love youと同じ意味を持たせられますが、
しかし、I love you.
が真剣に口にされるときの観念の高みは表現が難しい。
「思い入れ」に依存せざるをえない。

近代語を安易に西洋語から翻訳したことによって真実性を失った日本語は、それ以降、ほとんどすべての人文分野で、苦しむことになったように見えます。

哲人さんが挙げている、もうひとつの例である田村隆一は、
ご存じのとおり「荒地」の同人で、初期の「荒地」同人である鮎川信夫や中桐雅夫たちにとっては、この「空洞化した日本語」は十分に意識されている問題でした。
牧野虚太郎や森川義信たちは、どうすれば日本語が人間の表現になりうるか、あるいはどの語彙に「日本人の心」が眠っているかを考えて、戦争に狩り出されて死ぬまで、バー・ナルシスや夜更けの町の通りで、そればかり考えていた。

そうして戦争が終わったあとの1947年、明治をうわまわる言葉の意味性の破壊が起こった戦後の焼け跡にたって「意味を失った日本語」に囲繞されていると感じながら田村隆一たちは、詩誌「荒地」を創刊します。

鳥の啼き声に囲まれながら田村隆一が、分水嶺の、尾根の、両側が切り立った言語の細い径を注意深く踏みしめながら、たどりついたピークが
大江健三郎をはじめ、たくさんの作家がそこに戻って「言葉」の意味を思考した「細い線」でした。
それは、こんなふうな詩です。

「きみはいつもひとりだ
涙をみせたことのないきみの瞳には
にがい光りのようなものがあって
ぼくはすきだ

きみの盲目のイメジには
この世は荒涼とした猟場であり
きみはひとつの心をたえず追いつめる
冬のハンターだ

きみは言葉を信じない
あらゆる心を殺戮してきたきみの足跡には
恐怖への深いあこがれがあって
ぼくはたまらなくなる

きみが歩く細い線には
雪の上にも血の匂いがついていて
どんなに遠くへはなれてしまっても
ぼくにはわかる
きみは撃鉄を引く!
ぼくは言葉のなかで死ぬ」

 
 

無論、最後の一行、
「ぼくは言葉のなかで死ぬ」というのは田村隆一の、
おれは詩人として生きて死ぬのだ、という宣言でもありますが、
この見事な詩句のなかの「言葉」が、
意味をもった言葉なのか、
あるいは音が定義する言葉なのか、
次のときに話したいと思っています。

でわ


再出発する日本のために

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暗闇のなかでひそひそと囁きあう声がして、耳を澄ませて聴いてみると、どうやら日本語のようでした。
韓国語と、とてもよく似た、でも少しやわらかい響き。
目を凝らしてみると、着物を着た老夫婦(らしいひとたち)が立っていて、
わたしどもの息子が、…という。
そのあたりで、ぼくは、もう「ああ、これは夢のなかだな」と気がついている。

わたしどもの息子が、あなたさまにとんでもない迷惑をおかけして、…
という言葉が聞こえてきて、誰に謝っているのだろう、と訝っていたら、すっと、こちらに正面を変えて、
あなたさまに、と、ぼくに話しかけだしたので、狼狽する。

あなたさまに、わたしどもの息子が、ご迷惑をおかけして、…
息子は、ああいう人間ではなかったのが…夢が、破れて、
(夢が破れて)
鬼が憑いて、
(鬼が憑いて)
もう、わたしどもには、
(もう、わたしどもには)

…というところで目がさめた。

ふだんは夢をみても、どうも夢を視たらしい、ということをおぼえているだけで、内容もおぼえていないが、妙に生々しい夢で、声調までおぼえている。

あの見も知らぬ老夫婦は、誰だろう?と考えてみるが、思い当たるひともなく、なぜ夢にあらわれてまで、詫びがいいたかったのかもわからない。

なんだか狐につままれたようで、不思議で、そういうことは珍しいが、うっすらと汗までかいていて、なんだか日本が心配になるような夢だった。

アベノミクスの失敗自体は、このブログ記事を読んできてくれた人は知っているとおり、初めからわかりきったことだった。
社会・経済構造の変革の努力なしに、中央銀行の思いつき、しかも教科書から引用したようなアイデアだけで日本経済がよくなることはありえない。
ツイッタで書いたが、奇妙な比較でも、それはちょうど個人が経験することでいえば外国語の習得と似ていて、ああでもない、こうでもない、小さな単語帳よりもノートブックに一覧をつくったほうが語彙を増やす効率はいいな、いやフラッシュカードはもっといいようだ、本をたてつづけに読んでみたらどうか、DVDをたくさん観たらよいかも、いや、ここは先生につかないとどうしてもわからない、と自分なりの大方針を立てて、工夫をつづけて、バランスをとり、進捗のなさにげんなりしたりしながら、不断に産業が模索をつづけて、初めて他国と異なる特徴があらわれて、イノベーションが起こり、優位が生じて、その上で金融の緩和や、金融機関のクレジット能力を増大させる工夫が加わって、経済が強盛になってゆく。

経済エリートが陥りやすい罠は、実体経済で動く通貨量が、資本移動などの実体から離れた通貨量よりも遙かに小さいことから、実体経済を経済インデクスのなかでも小さい項目とみくびって、「優位な産業がなければ経済は建設されない」という簡単な事実を見失ってしまうことであると思う。
専門のひとにわかりやすそうな例でいえば、連合王国が特殊なだけです。

グーグルもアップルもマイクロソフトも存在しない国で、貨幣経済政策だけをマネすることの虚しさを、日本の経済エリートは、まだ理解できないでいる。
経済が机上で決まる、という古くて干からびたエリート意識が、いまだにとれないでいるからでしょう。

結果は日本語メディア以外のすべてのメディアが報じるとおり、悲惨なもので、個々の日本人が自分のなけなしの資産を「お国のため」にさしだして、投機の資金にして、その最後の賭けに負けてしまった。

国債の常識はずれの規模での国内売買という、銀行が主体のある経営意志をもたされず、実際には政府の一機関として振る舞うしかないという日本の極めて特殊な金融体制を利用した国民からの富を吸い上げる装置をフルに動かして、個人がつみあげた貯蓄をすべて吸い上げて、意気揚々と乗り込んだ国際市場で、もくろみとは反対に、国民から借金してつくった賭け金も全部すってしまった。

クビのうしろに手を組んで、自分達では決してやってみる気が起こらないが、政策家としては魅力的に聞こえる、この日銀と日本政府の前代未聞の大博打がボロ負けに終わったのをみて、ああ、やっぱり、ああいうやりかたはうまくいかないんだな、日本人が良い実験をしてくれたおかげで、よい勉強になった、というのが、世界中の経済人の正直な感想だとおもう。

壁の大スクリーンから目を自分の机上に落として、さて、おれのこの難局は、じゃあ、どう対処すればいいんだ、というところだと思います。

問題は、もともとあんまりうまく行くわけはなかったアベノミクスの失敗よりも、アベノミクスがひんまげてしまった社会の姿のほうで、もちろんこれも、アベノミクスが突然枉曲したのではなくて、社会に国際的な競争力を回復させるために行った小泉純一郎の「改革」の頃から続いた一連の傾向が、アベノミクスで固定されただけだが、かつては支配層と「その他大勢」の収入差が先進国最小というのもバカバカしいくらい小さくて、軽自動車で会社に通う三菱グループの惣領がBBCのドキュメンタリになるくらい富の格差が小さいことを誇りにしていた日本社会が、いつのまにか、弱肉強食のキャピタリズムを剥き出しの形で持つアメリカ社会の構造を引き写して、アメリカ社会のような富の成長がないのに、社会の構造だけはごく一部の人間に富が集まるという、「貧乏なアメリカ社会」とでもいいたくなるような変形社会をつくってしまったことで、アベノミクスの負の効果は、個々の人間にとっては、こちらのほうが大きいような気がする。

人間はドビンボになっても隣も、その隣も、そのまた隣も、見渡す限りビンボなら、なんとか凌げるもので、たいして腹もたてずにやっていける。
取り分けて、日本は、英語圏の国々とは正反対で、同じ言語の国同士の競争というようなこともなく、従って、あきらめも付きやすくて、日本語の高い壁のなかで、お互いの貧困を慰めあいながらやり直していくことが出来るはずだったのが、富の再分配のやりかたに失敗して、大量の「経済競争に敗北した人間の群れ」を生み出してしまった。

集団的サディストというか、右から左まで、アカデミアの最底辺の、いわば学問の世界の「大部屋役者」たちが、最も攻撃的な日本のインターネット「言論」の世界に傷ましく端的にあらわれているように、学歴というようなもので順位付けされて、東京大学を頂点に、国民全体がひとりひとりオデコに偏差値を貼り付けて生活するような屈辱を強いられている世界で、今度は経済格差まで上下を押しつけられて、これで幸福感を味わえと言われても、せいぜいペドフィル的な女は人間でないことになっている世界に耽溺して、苦痛を癒やすしかないような、不運にも当の女に生まれれば、ぬかるみにうつぶせに倒れ伏した自分の上を、男達が笑いあいながらガヤガヤと歩いていくのを、窒息しかけながら聴いているしかないような、ものすごい世界で、ぼくの貧弱な頭で考えると国外に出るくらいしか解決がないような気がする。

それでも生きていかねばならないのは、なんと難儀なことだろう、こんなのやってられるか、と思うだろうけど、博打で「すってんてん」になって、父親が家のオカネを使い果たしてしまって、その上に高利貸しに大借金までしてしまった家に生まれついた息子や娘たちの立場に若い日本人はおかれてしまった。
そういうときは、一見、知恵がありそうな、親戚や近所の学のあるナマケモノの意見など聞いていてはダメで、そういうひとびとは肘で押しのけて、またゼロから地道に「国力」をつみあげていくしかない。
幸い、毛派が勢力を強めて、国家の根本的な安全保障のためには日本を叩く以外にない、と強く迫っていたのが、習近平は予想に反して有能な指導者で、社会の腐敗を根絶する名目で社会を支配しているオールドパワーを制圧して、人民解放軍と毛沢東派の影響力を小さなものにしつつあるように見えるので、(自分のほうから挑発する愚行を犯せばべつだが)地政学的な脅威は最小で、時間はある。

これだけ乱暴な政策をとって失敗すれば、20年はどうしても再建にかかるだろうが、オカネがなくなってしまったものは仕方がない。
年金を辞退しやすいように、いまのいったん辞退すれば、二度と年金がもらえなくなる制度を改めて、いちど辞退した年金もまた困窮すればもらえるように制度をあらためる、というような制度的な細部の整備から、
いままでの日本のおおきな病巣だった、50代くらいの人に多いように見える信じがたい無責任なもの言いに集って、うなずきあっている、自分に甘い、肝腎なことは他人がやるさの言論に耳をふさいで知的な生産性を回復するというような知的な体質を改善するというようなことから初めて、じーちゃんのいいかたで述べれば「千里の道を一歩から」、またやり直すしかない。

目が覚めて、しばらくして、あの老夫婦は、明治人なのだ、と気がつく。
用もない外国人のぼくの夢にまで、はるばる出向いてきて、すべてが自分達の責任であるように頭を深々とたれて詫びるところが、とても日本人で、切ないような可笑しいような不思議な気がする。

ご破算になってしまったけれど、日本のことだから、50年もすれば、また繁栄にたどり着くのではなかろうか、そのときまでぼくが生きているかどうか判らないが、国というものには不可思議な「性格」のようなものがあって、日本は全体主義が性にあっていて、またそこに回帰して、(ぼくの頭ではいいことにおもえないが)滅私の集団にもどって、中国を見習って、西洋の価値観とはことなる、個人に重きをおかない、たとえばシンガポールの「流線形の全体主義」のようなものを獲得していくのだろう。

「シンガポール_流線形の独裁」

http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/

あるいは、今度こそは、個々の人間の内なる自由が膨張して、正常な「個人から全体へ」のベクトルを持った自由への欲求が、ほんとうの自由社会をつくりだしていくだろうか?

しかし、そのためには、どういう形でか混乱を伴う「革命」を通過することが必要で、破壊と混乱をくぐりぬけることなしに、自由の向きが180度転換する社会の変化が起こるわけはない。
「なにもしないためならなんでもする」日本社会が、それほどの変化を現実にできるものだろうか?

なんだか、変わった国だなあ、と思う。
どこまでつきあえるかわからないけれど、ついていけるところまでは、ついていってみたい気がします。


For everything a reason_言葉がとどかないところ3_哲人さんの返信3 (往復書簡VI)

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言葉に意味があるというのは、そもそもどういうことなんだろうか。これは容易ならん問いで、不用意にぶつかると、座礁してそのまま難破、ということになりかねません。でも、これまでのやりとりから言って、この問いを横目で見ながら通り過ぎるわけにも行かなくなってきた。

言葉の「意味」というのは、その言葉で「言いたいこと」だ、ととりあえず言ってしまおう。これでは話が一歩も進んでいないように見えますが、実はそうでもない。私は、この言い換えがけっこう気に入っています。少なくとも、「意味」に二つの極があって、一つは、「言いたい《こと》」という事物の極、もう一つは、「言い《たい》こと」という話し手の意図の極である、ということは、おぼろげに浮かび上がっています。

この、ごく当たり前のところから考えてみます。

事物の極は、言葉が指し示す標的になっている物体や出来事、意図の極は、言葉が生まれてくる元にある話し手の気持ち、と割り付けておきましょう。すると、言葉の原始的なあり方は、指差すという動作に集約して示すことができそうです。指差しは、野生のチンパンジーでは観察されたことがないのだそうで、言語同様、ヒトという種に固有のものらしい。

指差しをするヒトの個体Aは、自分の指先から延びた想像上の直線と交わる位置にある事物xに、他の個体Bの関心を引きたいという気持ち(意図1)をもっている。もちろん、関心を引いた上で、Aはxに関する自分の気持ち(認識や反応)をBに伝えたいという気持ち(意図2)ももっています。例えば、Aがにっこり笑ってxを指差せば、(表情の読み取り能力は生得と仮定して)、Bには、xがAにとってたぶん好ましいモノなのだということが分かります。

「笑顔+指差し」で、Aの動作の言いたいことがBに伝わり、Bの反応から、Aの言いたいことがBに伝わったということがAにも分かり、AとBはめでたく「xはAにとって好ましい」という認識を共有し、さらにお互いがこの認識を共有しているということも共有します。言い《たい》という気持ちも、言いたい《こと》もこうして共有され、意味が分かった、とか、話が通じた、という状態が成立するでしょう。

笑い声や泣き声は、指差しより原始的かもしれない。というのも、笑い声や泣き声は、一般に、気持ちの表出になってはいるものの、指し示す事物の極が無いように思われるからです。しかし、笑い声や泣き声も、個体の状態を指し示す働きを備えている。

泣いている赤ちゃんの場合、例えば、濡れたおむつの不快感が原因となって、泣くという結果が生じます。このとき、その泣き声は、不快感という原因を指し示す働きを持っている。泣き声や笑い声のような、指差しよりも原始的な音声の表出では、言い《たい》という端的な気持ちの表出が、それ自体への再帰的な指示作用をともなっていて、言い《たい》という意図がそのまま言いたい《こと》になる、という仕組みが成り立つようです。

でも、この自己指示作用をどう理解するかはけっこう厄介な問題です。煙が発生したところに火の存在を見て取るとか、咳ばらいで他人の存在に気づくといったことと同じように、泣き声が発生したところに赤ちゃんの不快感の存在を読み取るというだけならば、これは、音からその発生源にさかのぼる物理的な因果性の認識にすぎません。言語の意味解釈とは別物でしょう。

しかし、赤ちゃんの泣き声は、聞き手の解釈を求めています。その子の世話をしている人は、おむつが濡れたのか、空腹なのか、眠いのか、暑いのか、喉が渇いたのか、等々のさまざまな可能性を考慮して、泣き声の意味を読み取るでしょう。

これだって、結果から原因を、少し複雑な経路で推論する因果的認識にすぎない、と言おうと思えば言えそうです。けれども、泣き声の自己指示作用を読み取る推論は、泣き声の意味の解釈と言いたくなる要素を持っている。というのも、養育者は、赤ちゃんを気づかう気持ちをたっぷり持ち合わせているからです。

赤ちゃんと養育者の間には、感情の相互交流が濃密に存在しています。そのせいで、養育者にとって、赤ちゃんの泣き声が何を表出しているのかが重要になる。相手を物理的な対象と見て因果推理を適用するのではなくて、あらかじめ情緒の交流と共有の関係があって、その中で相手の状態に共感しつつ、相手の表出の原因を推定するかたちになっている。こういうやり方で、養育者は、泣き声を発している赤ちゃんの意図(意味)の解釈を行なうのでしょう。これは騒音から発生源を推論する因果的認識とは違い、やはり気持ちと事実とを相互に共有する行為、つまりコミュニケーションの行為であると思われます。

というわけで、何だか解りきったようなことをくどくど書いているけれど、私は何が言いたいのか。ヒトの発声には意味が必ずともなう、と言いたいようです。ヒトの音声の表出を、「言いたいこと」という意味的な水準を抜きにして、言語として受け取ることは、おそらくできないのじゃないか。オウムやインコが人の言葉を真似しても、それを言語と呼ぶのは難しい。音声が指し示す事物の極と、音声を発した主体の意図の極が、その音声に割り当てられないかぎり、その音声は言語ではないでしょう。

だから、鳥の鳴き声を人が真似をした場合でも、それが人の発声である限り、何らかの意味を持つ。あるいは、その鳴き真似をする人と情緒的な交流をすでに持っている他の人にとっては、かならず、何らかの意味を持ってしまうのだ、と私は言いたいようです。

この「何らかの意味」というのは、ここまでの話の流れから言って、鳴き真似をする人の意図の極と、その鳴き真似が指し示す事物の極ということになります。でもそれは、「大きな辞書」を参照して解る水準のことではなさそうです。どちらの極も、解読を待つ未知の項として存在しうる。そして、事物の極として指し示される出来事は、鳴き真似をする人の気持ちそのものなのかもしれないけれど、聴き手は解釈によって、つまり自由な想像力によって未知の項に到達するのであって、あらかじめ決定された解読規則によってそこに達するわけではない。

詩といえども、こういう水準での意味性を無視することはないはずです。「ぼくは言葉のなかで死ぬ」という田村隆一の詩句でさえ、あえて鈍感な分析をもちだせば、「言葉」は言葉を指し、「死ぬ」は死ぬことを指すという、誰もが割り当てる事物の極を無視しては成り立たない。しかし、「死ぬ」という詩句によって指し示されているのは、もちろん辞書的な意味における現実世界の死ぬことではないのだから、読み手は、自分の想像力によって、現実とは別の、つまり詩の世界の死ぬことを見いださないといけない。

このとき、読み手の想像力を支えてくれるのは、確かに各種の「辞書」ではなく、言葉そのもの、つまり音の響きであり、その音の響きを用いて言い表されてきた表現の長い歴史、詩の歴史でしょう。詩の言語は、現実世界の事物への割り当てを拒絶して、音の響きによって作られてきた詩の世界の事物への割り当てを求める。そういうことなんじゃないだろうか。

音の響きを頼りにして私たちが向かうのは、現実の世界ではなく、表現の歴史として存在する虚構の世界でしょう。例えば、中島みゆきについて、ガメさんが「辞書を省略した伝達を、日本語の文脈に寄り添うこと」によって行うと言うとき、この「日本語の文脈」とは、数多くの詩作品が作り出してきた虚構世界の集まりなのだと思われます。

草野心平に「ごびらっふの獨白」という詩があります。こう始まっている。

「るてえる びる もれとりり がいく。
ぐうであとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。」

ごびらっふは、どうやら蛙らしい。で、「日本語譯」がついています。

「幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福に包まれてゐる。」

冒頭の蛙の語りの三行が、この日本語の始まりの二行に対応するのかどうか、もちろん不明です。この作品は、少し複雑な構造になっていて、ごびらっふという蛙である語り手、その日本語への訳者である(氏名不詳の)語り手、これらの言葉を書き記している作者の草野心平、という三つの層がある。蛙の語りも、訳者の語りも、おとぎ話とまったく同じ仕組みで虚構世界を生み出しています。

この蛙語は、響きを口に出してみると、蛙っぽい感じ(「るてえる」「けえる」)だけでなく、未知の外国語の音写のような響き(「ぐうであとびん」「げらげれんで」)もあります。だが、それはさて措いて、この音の響きはどういう想像活動を誘うのか。

私の場合、蛙が語っているという虚構の設定によって、この音の響きから、東アジアの夏の夜を想像します。田圃かもしれないし、池のほとりかもしれない。暗い水面が広がっている。大気は湿り気に満ち、蒸し暑い。密雲に、燐光がある。たくさんの蛙が鳴いています。文明とは無縁の、太古の世界です。

後続の「日本語譯」の方を見ると、「土のなか」とあるので、ごびらっふは冬眠中のようです。だから、夏の夜を想像するのは、国語の試験なら間違いにされそうなんだが、かまうことはない。「日本語譯」の方に読み進んだときに、あらためて、冬眠中の蛙の「うつらうつらの日」を思い浮かべればよい。そして、その「暗闇のなかの世界」でまどろむ蛙の、

「ああ虹が。
おれの孤獨に虹がみえる。」

という詩句に打たれればよい。

再び「孤獨」は孤独であり、「虹」は虹なんだが、私たちは現実世界ではなく、虚構世界(まどろむ蛙の独白の世界!)でこの孤独と虹を見つけ出さないといけない。それはしかし、この詩句に打たれたとき、すでに暗黙のうちに見いだされているにちがいない。にもかかわらず、このとき読み手が見出したものに、辞書にもとづく伝達と記録のための言葉はとどかない。どうやら、そういうことであるようです。

では。



メルボルン

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フリンダーステーションの階段を駆け降りて、電車のしまりかけたドアに跳び込むと、まるで自分が東京にいるような錯覚に襲われる。
メルボルンの街は、いくつかの生活の横顔が東京によく似ている。
中国系人の、日本の人にうり二つの顔が通り中にあふれているせいかもしれないが、
クルマよりも電車やトラムで移動するほうが便利な街のつくりのせいであるような気がする。
マンハッタンもそうだが、人間が2本の足で移動するようにデザインされた街は、歩いているひとたちの表情が似てくる。

悪いことではない。

第一メルボルンやマンハッタンで暮らすひとは統計上も同じ国の他の地域、たとえばバララットやアップステートニューヨークで暮らすひとよりも、ずっとやせていて健康である。
試しにfitbit をつけて歩いてみたら、一日20000歩以上歩いていたから、毎日、ネルソンのグループトランピングに参加しているのと変わらない。

Degraves StreetのようにUKぽい小路もあるが、全般に広々として歩きやすい街で、特に子供のときから馴染みがあるヤラ川の南側は、この頃は自転車がびゅんびゅん飛ばしてきて怖いが、けばいだけの、くだらない恰好をしたサイクリストを気にしないことにすればところどころバーに立ち寄って白ワインを飲みながらうろうろするのに向いている。

劇場に近い、おおきなテラスのあるイタリアレストランでランブルスコ1本とオイスターベイの白ワインをいっぽん空にして、カラマリやアルデンテのリゾットの米の歯触りを楽しんで、うめー、と考えて、Jacqueline Mabardiのトスカがフロアに倒れ伏した恰好のまま優美な難曲 Vissi d’arteを歌いきるという、負担がおおきい演出のトスカを観て帰り道に大成功だったオペラに居合わせた夜特有の興奮の余韻をかみしめながら、もう一杯二杯、シャンパンを飲んで家路につく頃は、fitbitの歩数は24000歩を越えている。

例の家は他人に貸してしまったので、短期の家具付きアパートに泊まるが、メルボルンはすっかり都会になったので、良いアパートが出来て、ロンドン並とはいかないが、ホテルのように索漠とした部屋ではない。

昼食や夕食はほとんどメルボルンの友達たちの招待なので高級レストランばかりで安い定食屋に行けなくてつまらないが、いちどだけサウスヤラで行った四川料理屋の豚まんはうまかった。
四川料理屋に多い小振りのミニチュア豚まんではなくて 維新號がおそれいりそうな雄大でふくよかな豚まんで、ふかふかしていて、ニコニコして食べていたらモニさんに笑われてしまった。
辛い料理を頼んでも、ちっとも辛くなくて豪州化された四川料理だったが、おいしかった。
また来たい、と考えたが、残念ながら昼食と夕食どころか朝食までメルボルン人との会食でうまっているのでダメである。

チーフアナリストだというので、なあんとなくネクタイをしめて、髪型がビシッと決まって、でもよく見ると後ろのほうの髪の毛が一本だけおったっているタイプのおっちゃんが出てくるのかと思ったら、20代の頭の回転の速い女のひとだった。

起きたばかりだったのでゴム草履とショーツに自分でシルクスクリーンプリントした赤いゴジラがついているTシャツででかけたら、レセプションで面会の約束を疑われて、「仮に会えても15分だと思いますが」と言われたが、しばらく話していたら、どうやら頭のおかしい青年ではなくて、ほんとうは実際におかしいのかも知れないが危険性はない青年であるのが納得されたらしくて、約束の15分が経った頃に、チーフアナリストのおねーさんが立っていって今度は役員のおばちゃんをつれてきた。

話の途中で一軒屋は2寝室のほうがメインのマーケットだというので、聞き返したら3寝室は3組の「プロフェッショナルなカップル」がシェアするのが普通だという。
だんだん話を聴いてみると、考えてみれば当たり前だが、オークランドよりも住環境はずっと悪くて、「良い話」として紹介される事例から浮かび上がってくるのは高収入のディンクスでさえ高い家賃と低劣な住環境に悩まされて喘いでいるいまのメルボルン人の現実だった。

世界中どこでも「バブル経済」の繁栄によってビンボ人は逆に追い詰められていくのが常識で、現代社会では「持たざる者」にとっては社会などは繁栄しないほうがいいといいたくなるくらいのものである。
メルボルンのバブルを歓迎して、「このバブルは我々の夢だった」とまで言い切るひとびとに別れを告げて、会社を辞して、外に出たら、なんだか不意に暗い気持ちになってしまった。

これがあの、おおらかで、少しならいいよ、ただでもっていけばいい、ここは恵まれた国なのだから、と言う人がたくさんいたメルボルンか、と、少しだけ感傷をもった。

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「繁栄」の問題は、いつも「人間にとっては幸福とはなにか?」という陳腐化した、でもいまだに答えがちゃんと出てきはしない問題に帰り着く。
オーストラリアが20世紀末と較べて問題にならないくらい繁栄しているのは紛いようのない事実だが、幸福かどうか、というと、事実は逆だろう。

いつまでも垢抜けなかったメルボルンの街が、見ようによっては、というのは上流社会の門のなかに立つのでなければ、マンハッタンよりも都会と言っていい程度には都会になっている。
世界じゅう豊かだった時代を持つ街には義務のように存在する広大な現代美術館がこの街にもあり、夕暮れ時には高校や大学や地元のクラブのひとびとがローイングを楽しむ川がある。
おいしいカクテルをつくるバーテンダーがいるバーが町中に散在していて、
ほとんど永遠にショッピングしながら歩きつづけていけるショッピングストリートがある。
これも都会の条件である水準が高いオペラやバレーがあり、ビリー・クリスタルやビリー・コノリーがやってきてスタンダップコメディで一夜を笑わせるクラブがある。
ショーを観て川沿いを散策しながらカクテルを飲んで、お互いに招いたり招かれたりするパーティを開く週末がある。

マンハッタンやロンドンにあって、(似たものはあっても)ここにないのは広大なボールルームで「貴顕」を集めて開くハイソサイエティの晩餐だけだが、ああいうものは、どっちみち恐竜の会合のようなもので、もうすぐ、どの都会からもなくなるべきものだろう。

メルボルンは、都会の仲間入りをしたのだと思う。

不幸の仲間入りをしたのでもある。
ビンボ人は駆逐されて「いない」ことになっている。
家を追われ、街を経済的に追放されて、むかしは至るところにあった「ブラシ屋」やイタリア人の兄弟がやっているソーセージ屋やベルギー人の姉妹が毎日薪窯でパンを焼いていた小さなベーカリーはとっくの昔になくなってしまった。
あとに出来たのはチェーンの名前もおぼえる気がしないデリであり「ベーカーズデライト」で、なんのことはない英語圏じゅう同じ店の名前で埋めてゆく凡庸と退屈を目指した巨大資本の努力の爪痕が残されてゆくだけです。

都会になったことに伴って良いこともある。
もともとゲイが違法なインドネシアやマレーシア、中国本土から移住してきたゲイカップルがたくさんいて、目立つようになったこともそのひとつで、
中国人のふたつの顔が英語で話している、そのアクセントでシンガポール人だと判るゲイカップルが、窓際の特等席で 1970年代のワインを開けて誕生日を祝っているのを眺めながら、メルボルンでは、子供のときはまだ
「窓際は、ちょっと困ります」とアジア人カップルに平然と言い放つ「高級レストラン」が存在したのを思い出す。
奇妙ないいかたをすると、人種差別がなくなり階級が消滅して性差別も解消へ向かう人間の文明の努力と、世界じゅうが同じ町並みになってゆく底の知れない凡庸と退屈めざした努力は、もしかしたら同じものなのかも知れない。
だから、コーヒー屋がどんどんスターバックスになり、間の抜けた「M」サインが街のあちこちにかかげられることにも良い点がたくさんあるのかもわからない。
少なくとも、そのふたつのおおきな事象には関連があるもののように思われる。

ともあれ、

むかしから、このブログを読んでくれている人は仕事上の理由でメルボルンについてはあまり書かないことにしていたのを知っているが、今回は、なんだか墓碑銘のようなものを書きたくなったのかも知れません。

むかしのメルボルンがなつかしい

(言ってしまった)


2015年

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新年の抱負を訊ねられたので、まず芝生を張り替えて、それから家を塗り直したい、と述べたら大笑いされてしまった。
ガメは相変わらずだな、という。
「抱負」なのだから、もう少しおおがかりなことを言うべきなのかも知れないが、なにも笑うことはない。
失礼なジジイめ、と考えたが、めでたかるべきボクシングデーだったので、なにも言わないことにした。

2015年は長く吹き荒れる嵐の初めの年になるのではなかろーか、と、このブログの至る所に書いてある。
もっとも凍死家は悲観が商売なので、暗い予想ははずれることが多くて、明るい予想を立てるひとびとの話を聴いていたほうが安心立命な人は、これからはアベノミクスで薔薇色です、という無責任おじさんたちの言明に耳を傾けたほうが良いのだと思われる。

経済や市場は本質がランダムウォークなので経済の予想を述べる人は所詮ええかげんな人である。
それが判っているから仲のよいもの同士で予想を述べあうので、もともと経済の予想などは大のおとながマジメにやることではない。

それを承知の上で述べると、失敗に終わったアベノミクスを成功となんとか言いくるめて心理的に市場を浮揚させようとあがく安倍政権の日本だけではなく、世界中見渡しても、危なそうな国や地域がいよいよ危なくなっていて、そもそも経済状態がマジメに把握されている様子がないギリシャや20代の失業率が50%を越えちったスペイン、補修費が足りなくて道路の穴の数とおおきさがだんだん増えてくるイタリア、眺めているとドイツとーさんの辛抱の終わりがヨーロッパの終わりだと思えてくる。

アベノミクスで国富全体を減少させて、言わば国全体のステータスを低下させることによってハードランディングを避ける日本の方針は、ひとりひとりの日本人はどんどんビンボになって哀れだが日本以外の国の人間にとっては理想的なシナリオでアベノミクスがこのまま続行されてほしいと願っている。

中央銀行が自ら判断停止を宣言して単調に貨幣流通量を増やすと言っているのだから外国の投資家にとっては「夢の狩り場」で、日本という経済大国の枝にたわわに実ったままぶらさがっている味の良い果実が取り放題という、願ったり叶ったり、こんなに良いことはない。

きみが仮にニュージーランド人だとすると2001年には1ドル40円だったのが、いまは95円で、簡単に言えば1億円の日本の家は2400万円弱で手に入る。
中国人たちにとって日本は短期の観光で買い物にでかけたり買春や食べ物に舌鼓を打つにはよい国でも投資対象としては魅力がない市場だが、ここまで国をあげて大安売りになれば別でバブルが進行して高くなりすぎた英語市場に手がとどかなくなった中小投資家たちが、たいへんな勢いで日本の小規模な旅館・ホテルや、特に太陽電池のような特殊な先端技術を持つ中小企業を買っている。
ツイッタでも書いたが、連合赤軍事件で有名な軽井沢の浅間山荘も、いまは中国企業の所有で、他にも中国観光客に評判がよい小さな宿泊施設は片端から中国企業が買い進めている。

中国嫌いの支持者が多い安倍政権が、ドアを開いて、中国に日本を安売りに売り飛ばす政策の立役者になったのは見ていて(皮肉で)面白いが通貨の強さは国の格そのものなので通貨がさがれば国自体が他国に蹂躙されやすくなるのは当たり前というのもバカバカしいほど当たり前で、まさかそれが判らないほど知恵のまわらない国民でもなし、日本の人が自分で選択して先進国の階梯をおりて国ごとランクを下げて出直そうと健気な覚悟を固めているのを傍から見ていて何かいう必要は無い。

1945年に日本を永遠に重工業を持てない国に変えて軽工業国化するプランとともに占領をはじめたアメリカ合衆国は共産主義の東アジアへの浸透に怯えて、当初の方針を棄却して、後世の歴史家ですらびっくりするような金額のドルを日本市場に注ぎ込む。
その過剰というのもアホらしいドル投下の受け手になったのが岸信介に代表される戦争中の軍事経済を計画した国家社会主義経済官僚の一群で、彼らは自分達が戦争中に視た「sweet dreams」を、かつての敵国アメリカ合衆国のオカネで実現してゆく。
日本の戦後の「奇跡の経済復興」の正体は国家社会主義経済政策とアメリカドルが出会ったことによる爆発的な化学反応で、結果は、マンガ的なことに、日本経済が巨大化しすぎてアメリカは日本に対するコントロールを失うことになってしまった。
国家的対外恐怖心がいかに国の将来を誤らせるかという好例だが、ここでは長くなるので書くのはやめておく。

おおきな目で見ると、こう言うと経済学者は怒りで悶絶するだろうが、日本の凋落は、だから1991年に冷戦が終結したことに拠っていて金融緊縮によるのではない。
日本の経済は常に市場経済原則によらずに政治的な理由によって浮沈する。
経済学者には見えない市場なのだと言い換えてもよいかもしれない。
日本の経済が近代を通じて「自由主義経済に変装した国家社会主義経済」だからです。

最近、レーガノミクス時代の合衆国元経済官僚から始まって、日本の人がアベノミクスは必ずうまくいくという精神的支えにしているらしいPaul Krugman は、「アベノミクスのよき理解者」どころか、実はアベノミクスをそそのかした「ミスターX」その人なのではないか、という声が広がっているのは英語サイトを読めばあちこちに出てくる。
証明されれば大スキャンダルで、見ていて、ずいぶん思い切ったことを言うなあ、と思う。

Krugman の行動について、なぜ当初から訝る声が多かったかといえば、インターネットや新聞からは見えなくても、若いときから「日本はダメに決まってる」で有名な人だからで、それがどうして突然ああなんだ、という不審が憶測を呼んでいるのでしょう。

なぜKrugman の話題をもちだしたかというと日本以外の世界ではアベノミクスはとうの昔に失敗したものということになっていて、海外投資機関もFinancial TimesやThe Economistにまで「この期に及んで日本に投資する会社は無責任だ」という警告が出るに及んで、下手をすれば個人の投資家に訴訟を起こされてしまうので手を引いているのに、日本では安倍政権の選挙の圧勝で支持されていることで判るようにアベノミクスが成功したことになっている不思議さについて考えていたからである。
いまでは逆に「当の日本人があれほど支持しているのだからアベノミクスは実はうまくいっているのではないか」という声が出ていたりして、なんだか不思議なことになっているが、この「不自然な感じ」「嫌な感じ」というのは凍死家なら皆しっている「感じ」で、その先には「大雪崩」が待っている。

日本がアベノミクスにしたがって、周囲にオカネを撒きながらゆっくり緩慢に弱国化していくのは諸外国はどこも歓迎でも、GDPで中国の半分になったといっても、まだまだ巨大な経済である日本が突然崩壊すれば、当然、世界的な嵐の引き鉄になる。
現時点で日本について外国の投資家が最も心配しているのは、それであると思う。

20年間、なにもしなければ回復には最低でも20年かかる、というのは特に経済知識がなくても直感的にわかりやすい。
日本の社会は「失われた20年」に無暗に先延ばしばかりおこなって、現実を直視して回復努力に乗り出すことはなにもしなかった。

簡単な例を挙げる。
子供のときにトヨタの工場を見学に行ったことがあるが、そのとき連れて行ってくれたイギリス人のエンジニアのおっさんは「口あんぐり」というのがぴったりの反応を示して、たとえば当時(1990年代半ば)のイギリスのクルマは「慣らし運転」が必要だったが、トヨタの工場ではエンジンを並べて慣らし運転を終わらせてから組み込みに入っていた。
もっと驚くべきはホンダの工場で、ひとつのラインで同時に多車種をつくることが出来るようになっていた。
空前の技術で、フォルクスワーゲンのおっちゃんに聞いたら、「われわれは20年くらい遅れているようだね」と苦笑いしていた。
治具、ライン、熟練工の訓練、すべてにおいてヨーロッパ勢は20年は日本の自動車会社に遅れていて、本来は極秘のはずの最新ラインを見せてしまったのも自信の表れだと受け取れた。

よく話題になるフォルクスワーゲンの内部が円筒形の新工場は、しかし、日本の自動車会社の技術水準を超えてしまった。
ギミック的にも、ヘッドアップスクリーン やアクティブクルーズコントロールの標準装備に始まって、ヨーロッパ車は「クルマ」という工業製品の概念そのものを変えつつある。
どうやら移動IT空間のようなものを考えて、その理想に向かって一歩ずつ歩き出している。
自動操縦が実現したところで日本の自動車のような旧世代の技術思想に基づいたクルマは一挙に陳腐化する可能性がある。
最も得意とする自動車産業ですら20年の怠惰は日本を20世紀の過去に取り残してしまいつつあるように見える。

日本の「民間銀行」が民間の体裁をとっているだけでローン商品ひとつ自分で開発する権利をもたない、実質は「政府の一機関」にしか過ぎないことを、このブログでは何度も書いた。
破天荒な額の国債発行を可能にしているのは「民間」であるはずの市中銀行が、政府の命令一下、採算と経営を度外視した国債引き受けに走り出す、という常軌を逸した日本の摩訶不思議な金融界の仕組みである。
この記事では、これ以上詳述しないが、2014年でも後半は銀行についての記事で「あれ?」と思う小さな記事がたくさんあった。
プロの投資家が読めば銀行が通常の業務に支障をきたしだしていることを示唆する記事だが、ちょうど安全潜航深度を超えた潜水艦の鋼鉄壁が軋むときに立てる不気味な音のように、日本の金融業界は軋音を立て始めている。

安倍首相は「この道しかない」と言うが、アベノミクス以外に方法がないように見える人は実体経済を支える産業世界を知らない人で、つまり、20年前にやらなければならなかったことを、20年後のいま始めるしか根源的な解決はない。
安倍首相や麻生太郎のような人達が述べることを聞いていると「努力をしらない人なのではないか」という疑問が浮かぶ、と年長の日本人の友達が遠慮がちに述べていたが、この人達には共通したにおいのようなものがあって、なんとなく安直というか、深みにかけるというか、あんまり言っては失礼だが全体に思考が安手な感じがする。

経済は役人や金融家や政治家が机上で改善できるものではない。
どれほど実体経済に較べて机上の数字で流通する通貨量がおおきくても、一国の経済は、その国の社会が教育・倫理・技術のコツという形で積み重ねた実体経済の質で決まるので、アベグラカダグラと呪文を唱えて一挙に経済が解決するということは起こりえない。
ドイツは日本と並んでIT産業の育成が苦手な社会だが20年間に積み上げた旧世代産業の充実の基盤に立ってベルリンを実験場に急速にIT産業が力をつけている。
他国のことは考えたくないのかもしれないが、ドイツを見ていると、日本が「アベノミクス」の呪文を唱える代わりに、ほんとうはやってみなければならなかった、地味だが実効性のある努力がどんなものだったか想像がつきやすいのではないだろうか。

38歳になって大学受験の勉強をしろと言われる、高校卒業以来遊びほうけてきたカネモチのボンボンみたいだが、やらなければならないことはやらなければならないので、アベノミクスの失敗でいよいよ個人の資産まで消滅の運命でも、日本の人は「ゼロからの出発」が得意で、好きなのでもある。
貧富の差さえ小さければ、相当につらい生活でも皆で助け合って生きていけることは日本の近代の歴史が証明している。

2015年が、空疎なおもいつきと自己陶酔の安易な方策を捨てて、20年の遅れを取り戻すために腕まくりをする、その始まりの年になると良いと、心から思っています。

(画像はワンガヌイからワイトモへ行く途中のニュージーランドのウエストコーストの農場でごんす)


年をとるということ

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20歳であるということは希望よりも痛覚が発達した心を持っているということである。

必然的に、痛みにくい心をもったおとなは、すべからくバカであって、良いも悪いもなくて、年をとっているということは人間の痛みをナマで感じられなくなってしまっているという点で愚かなのだというほかはない。

23歳に至らない人間を「若者」と呼ぶことにすれば若者の正義は、ただ若いということにある。
年齢にはたいした意味がない。
若い人間はいつまでも若い。
年齢で人間を区切ることには意味がない。
いづれも10代と20代を、その後の一生の準備に過ごすという凡庸だが決定的な謬ちを犯してしまった人間の繰り言であって、もっともらしいだけで、かけらほどの真実もない。

ぼくは自分が30歳をこえてジジイになってしまったにも関わらず、年をとった人間が本質的に嫌いなのであると思う。
30歳を越えてしまった人間は、

1. 通りを渡りはじめたときに通りの向こう側に着くまでのあいだに自分と恋人が存在として消えてしまったりしないと意味もなく信じている。

2. 世界が「意味」に満ちていると妄想したがる

3. セックスのように破滅的で破壊的な行為を日常の一部とみなしだしている

というような点で、すでに反人間的な存在であるとおもわれる。
他にもいろいろ余罪があるが、書くのがめんどくさい。

岩田宏が、

あこよ あこよ
大きな声じゃ言えないが
としよりにだけは気を許すな
としよりと風呂に入るな あこ

とまだ幼児だった娘に対して書いたのは年寄りというものの「老い」だけではない、本質的な薄汚さを知っていたからだろう。

三島由紀夫が千年を越えて生きる天人にも寿命があって、やがて五衰があらわれると述べている。

衣裳垢膩

頭上華萎

身体臭穢

腋下汗出

不楽本座

と言う。

着ているものが垢じみてくる

髪飾りが枯れてくる

体臭が臭う

腋に汗をかくようになる

分を知るということがなくなる

たかが外観のことではないか、と言う人は、哲学が理解できない人だろう。
着ているものが垢じみても平気なのは、「人間は外観よりも中身だ」というような世にもケーハクな考えにとらわれて、世界と真剣に張り合って生きる気概をなくしてしまった人なのでもある。
肉体が臭い、腋に汗をかくのは、肉体が少しづつ屍体に近づいている徴である。
慎みを失って、ほんのちょっとの努力でなんでもわかるような気になるのは、生きることに狎れすぎて世界を過小に見積もるようになって、自分を途方もなく甘やかすようになる老人の通癖である。

老いる、ということは恭謙な人格を装いながら際限なく傲慢になる方法を身につけることでもある。

曾祖父は、しわくちゃどころではないシワシワの顔の人で、昔の写真をみるとゲーリー・クーパーが上流階級人化したような、ものすごいハンサムだが、生まれてから死ぬまで神様でもおもいもつかないような幸運に恵まれたわりには皮肉な人だった。
いま思い出してみても飼っていたJという犬とSという雌猫と、この人には珍しく思い詰めて結婚までするほど愛した、全体に古代ローマの彫像のような印象を与える女の人(←つまりは曾祖母)以外には世界への愛情をまったく欠いた人で、単純に人間と人間がつくった社会が嫌いだったのだと思う。

半世紀以上も年が上のこの人と子供の頃のぼくは、同年齢の友人同士のように仲が良かった。

わざわざ、ひ孫を呼び寄せて述べた、いまわの際のひとことが、「人生に意味なんかない。遊んでくらせ」だったくらいで、人間の世界になんの価値もみいだしていない人だった。

ぼくの一生で初めての「親友」だった、この人は、競馬場のVIPラウンジから双眼鏡で自分の馬を眺めながら、あるいは十歳の子供だったぼくにタバコをすすめながら、よく肉体という有機機械の出来の悪さについて話して聞かせた。
40歳を過ぎた人間なんて半分腐敗した魂なのさ、と述べた。
一生を生き延びるための実際的な知恵は人間を底なしに腐敗させる。
ガメ、どんな場合でも年寄りを信用してはいけないよ、自分が年寄りになったあとでは特に。

愚かであることを大切にしたほうがよい、と何度か言われた。

あの人は賢さが人間の醜い特性であることを知っていた。
あの人は老いが人間の思惑をこえた絶対悪であることも知っていた。
神の人間に対するゆいいつの羨みが「愚かさ」であることを良く知っていた。

老いるということは、それ自体が病だが、人間は「腐ってゆく肉体」を持つことによって「永遠」という概念を獲得した。

20歳であるということは痛覚が発達した心を持っているということである。

その鋭くて巨大な痛みのなかには言語の体系がもちえなかった叡知がある。
言葉によって手のひらのなかに取り出して観ることは出来ない叡知のことを話している。
きみとぼくが痛みのなかに置き忘れてきた自分自身。

その影に会いに行く


孤茶と訪問する戦後昭和史5

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雪が積もり出した午後、日本橋三越本店のライオンの脇に立っていると、その頃はまだ走っていたトローリーバスのパンタグラフと架線のあいだに青い火花が散って、積もってきた雪に反射して、それはそれは美しかった、と義理叔父が述べている。
従兄弟とぼくが東京の町並みの醜さを冗談にしてふたりで笑っていたので、自分の故郷である東京を不憫におもったのでしょう。

ちょうどハリウッド女優の荒れた肌をフォトショップが修正するようにして、義理叔父の記憶も修整されていたに決まっているが、それにしても、京橋のうなぎ屋のテーブルをはさんで、義理叔父が話し出した「むかしの東京」は驚くべき町だった。
それは宮崎駿が描き出す、あの和洋折衷というか、遠い昔の日本と遠い彼方の「西洋」への憧れに満ちた日本の姿に似ていて、聴いているだけででかけてみたくなる町のようでした。

ところどころ、びっくりするような所があって、笄町から交差点を渡って、龍土町へ、龍土町からもういちど交差点を渡って霞町側へ行くと、根津美術館へつづく緩やかな坂道がモニとぼくが広尾山に住んでいたときにもあったが、その坂道の左側は義理叔父が中学生で、学校の帰り道に南青山の友達の
家に寄っていった頃には、まだ長屋という名前のスラムがあって、つぎはぎだらけの服や、まるで戦後の掘っ立て小屋がタイムスリップで紛れ込んだような一角があったという。

義理叔父はずっとあとで田宮虎彦の短編集を後で送ってくれて、霞町のスラムの様子が描かれていて、そのときは、へえ、と思ったが、もう題名も描写も忘れてしまった。
本自体はロンドンにあると思う。

パンケーキとホットケーキは日本では別のものでね、と義理叔父が楽しそうに話している。
またかよ、と従兄弟が父親に悪態をついたので、義理叔父がよく話す話題であるということがわかる。
ホットケーキはパンケーキよりも分厚くて甘いのだよ、という。
鎌倉ばーちゃんは帝国ホテルのホットケーキが好きだったが義理叔父はなぜか池袋の丸物百貨店のホットケーキが好きで、ばーちゃんにせがんで連れて行ってもらった。

丸物百貨店はあとのパルコで、そうだあそこには10円のジープを走らせるゲームがあって、と話し出したが、いくら聞いても、英語でも日本語でも、どういう仕掛けのゲームかは判らなかった。

パンケーキはずっとあとだよ、と義理叔父が言う。
おれが高校に入ったあとで、だから、70年代のまんなかくらいではないかしら、青山の歩道橋の近くにあって、雪印乳業の経営で「SNOW」という名前だった。
国語の教科書にスタインベックの子馬の話があってね、というので、英語でなくて国語なの?と聞くと、
だってスタインベックを英語じゃ、まだ読めないだろう、と要領を得ないことを言う。
だってスタインベックは英語じゃないですか。
いや日本語なんだよ、日本語だけどスタインベックで、といよいよ要領を失ってきたので、めんどくさくなって、あとは黙って聴くことにした。
その子馬の話にパンケーキが出てきて、子供がね、
「子馬の話じゃなかったの?」
いや、子馬の話なんだけど子供なんだよ。
パンケーキの上で目玉焼きをぶちゅっとつぶして、ベーコンで食べて、
それがあまりにおいしそうなものだから、ずっと「パンケーキ」というものに憧れていたのだよ、おれは。
ベーコンにメープルシロップかけないの?と従兄弟が疑問を述べる。
日本人はベーコンにメープルシロップかけたりしません、となんだか義理叔父はきっぱりと述べている。
従兄弟とぼくは、ふたりで顔を見合わせて、だっせー、メープルシロップかけないでベーコンとパンケーキ、だっせー、と声をあわせて合唱している。

井上陽水の「傘がない」がよくかかっていた「SNOW」を出て歩道橋を渡ると「ユアーズ」という輸入品専門のスーパーマーケットがあって、深夜の1時に東洋英和の女子高校生の友達とふたりでハリウッド映画に出てくるしゅわしゅわ泡が出る「シャボン」を探して店じゅう歩きまわった。
不良じゃん、と従兄弟とぼく。
ビブロスというディスコがあってね、というので、
「Studio 54」のパチモンのクラブだな、と従兄弟が言うと、義理叔父のほうはマンハッタンのチョー有名なStudio 54のほうを知らなくてびっくりしている。

沢田研二と萩原健一がよく朝まで狂ったように猥談にふけっていた青山墓地下の「サラ」(この店は、2005年頃だったかに行ってみたら、まだあった)や午前2時になるとオカマのおねーさんたちがバーにずらっとならぶレストランの「O&O」、アグネス・チャンがマネージャーを盾にバーの隅っこで一心不乱に勉強していた「防衛庁の正門前のハニービー」、都会の子供がいきがって行きそうな店がみんな出てきて、初めは茶化しまくっていたものの、東京の子供たちの生活が目に浮かぶようで楽しかった。
ロンドンはバスクやカタロニアの町まちとは異なって子供にとっては「夜」が存在しない町なので、なんだか羨ましい感じがする。

高校生になると、夜の10時というような時間に電話がかかってきて、早くに就寝した鎌倉ばーちゃんやじーちゃんを起こすまいとして、慌てて必死に電話機にとびつくと、受話器の向こうから、ぼくも知っているトーダイおじさんのひとりMさんの声が聞こえてきて、おい、六本木の香妃園でカレーを食おうぜ、という。
自転車に乗ってでかけると、Mさんは妙ににやにやした顔をして待っていて、
京橋のフィルムセンターで観たダリの「アンダルシアの犬」がいかに面白かったかに始まって、当時は忘れられた存在であったはずの小津安二郎の映画の面白さ、溝口健二や、川島雄三の映画の素晴らしさについて力説するのだそうでした。

あとで判ったのは、Mさんは通学の途中で一目惚れして、毎日3通ずつ(!)ラブレターを書いては出していた相手の「アオイさん」が、通っていた女子高校も投げ出して、家出して、アメリカ人のボーイフレンドを追いかけてカリフォルニアに行ってしまい、あまつさえ、ボーイフレンドが寝ているベッドから電話をかけてきて、私をほんとうに愛しているならオカネを送ってくれ、と言われて、このまま人生を廃業したい、と思い詰めるほどショックを受けていた頃で、日本の古い映画への熱狂も、その頃は麻布警察署の隣の二階にあったという香妃園の広いテーブルをはさんでの軽躁も、みな手痛い失恋の故で、理由はわからなくても、6年制の学校の長いつきあいで、なんとなく友の異様な様子がわかって、めんどくさがりやの義理叔父も、期末試験を三日後に控えていても、なにも言わず、一緒に笑って、テーブルの上のカレーを平らげて、お互いに疲れ果てるまで、しゃべりにしゃべったもののようでした。

それから自動車整備工場の娘の「美代ちゃん」が後年、浅田美代子という名前で女優になったり、渋谷から赤十字産院下まで走っていた通常の都バス料金の半額の「エロバス」で見かけて、腰をぬかすほど綺麗だった女学館の学生が三蔵法師になってテレビ番組に出てくるようになって、やがて白血病で死んでしまったり、義理叔父の昔の東京話は、まだまだ続くが、この記事は古茶さんに約束したまま、ほうっぽらかしになっていた「昭和シリーズ」の続きを書くのが目的で、というのは古茶さんの記事のほうが本題なので、水を向ける、という表現の用法が合っているかどうか判らないが、水を向けるための記事で、続きは古茶さんの記事を読んでから、にしたいと思います。


孤茶と訪問する昭和史6(孤茶の回)

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(昭和訪問記事は孤茶どんと交代で書いているので、今回は、以下、孤茶さんが書いた記事でごんす)

1970年というと、カラーテレビがうちに来て一年か二年経った頃で、当時おれは小学五年生だったから、流行の「スマイルマーク」と呼ばれた黄色地に黒でニコニコ顔が描かれた丸いバッジなんかを胸につけていて、裾の広がったベルボトムのジーンパンツ(Gパンという名が一般的になるまえは、そう言っていたような記憶があるけど、もしかしたら北海道の山奥だけかもしれない)なんか穿いちゃって、雪融け頃の空知川の水面にかかる霞みたいにボンヤリした毎日を送っていた。
その年にビートルズが解散して、翌年にはザ・タイガースが解散。パブロ・カザルス先生が国連で鳥の歌を演奏するも、かつての神憑った指遣いはカタルーニャの彼方に消え去り、無残な旋律の間に潜む執念にも似た息遣いが聴く者の心を鷲掴みにした。ジョン・コルトレーンが亡くなって3年ほど経った頃だ。大阪では万博が開催されて、そこでレッド・ツェッペリンが来日演奏して、イタリアのパビリオンではブイトーニのスパゲティが紹介されて、それをきっかけに日本で販売されるようになった。でも、そんなことは北半球のアジアの東の島国の北の最果ての山奥の少年には、まったく関係のないできごとで、おれはクレイジーキャッツのコントに笑い転げていたのでございました。
むかしの記憶は、白黒画像の標準語で蘇ってくる。そんで、やたらとセンテンスが長い。ほんとうは北海道弁の荒くれた田舎だったけど、でも、そこは世界の中心だった。おれの。

沢田研二と萩原健一は当時の二大スターで、ジュリーこと沢田研二は喉を開いた伸び伸びとした歌声で、いっぽうのショーケンは喉を締めて苦しそうに歌っていた。
カンテ・フラメンコだと、アンダルシア地方のさらに南のマラガ辺りが喉を締める歌い方で、北に行くほど喉を解放する歌い方になるんだけど、喉を締める方が禁欲的なんだよ、と聞いたことがあって、へえ。と納得しかけたものの根拠のわからない話で、それはウソかもしれない。
近所の従兄にはふたりの姉がいて、ジュリー派とショーケン派に分かれて対立していたかというとそうではなくて、ふたりとも加山雄三の若大将ファンだった。「しあわせだなあ」なんていう突き抜けた歌の45回転EPドーナツ盤にうっとりしていて、やっぱり十一歳の少年には関係のない世界だった。
1959年うまれだからね。ビートルズには間に合ってない。今ではクラシカル・ロックと呼ばれるハードロックなんかも少しは聴いたけど、中・高生の頃はコルトレーンやドルフィーみたいなジャズばかり聴いていて、家ではバッハの無伴奏チェロ曲なんかを弾いていた。ぜんぶ死んでしまった人たちの音楽じゃないか。田舎では音楽の話ができる同級生なんかいなくて裏山のエゾリスもジャズには興味がないようで、団塊のオトナたちのバンドに混じって、ウッドベースで4ビートを刻んでいた。音楽にかんしては友達が少なかった。

GSの話だ。GSと言っても、グスタフ佐々木のことではない。ていうか誰だ、それは。グループサウンズです。グループサウンズがテレビや芸能誌(昔は「月刊明星」やら「月刊平凡」といった十代のナウでヤングでハッピーな若者向けの芸能歌謡誌があって、付録に歌本という小冊子が付いてて流行歌の歌詞の上にコードネームが振られてた)を賑わせた。
けれども。
連日テレビで放送された割には、そのブームはせいぜい数年間で、レコード売り上げもパッとしなかったのは、「テキトーなオトナたちに仕掛けられたブーム」だったからで、なんか海の向こうで流行ってるみたいだし、ガキなんざ、こんなもんで満足しちゃうんじゃないの? と思って真似して作ったら、当のガキどもは、思惑通りには興味を示さなかったってことではないかと睨んでる。
無国籍芸能とでも言えばいいのか。ちょっとフシギな芸能。
もうちょっと補足しておくと、絶大な人気を誇ったザ・タイガースは、もともと京都では知られたアマチュアバンドで、歴とした実力派だったのは岸部一徳のベースを聴けば、わかる。いいベース弾きです。それなのに、数々のシングルカットされた曲の中にメンバーの作詞・作曲した曲は、ひとつもない。ザ・テンプターズでも最初の二曲と、他に一曲くらいか。
本格派で鳴らしたザ・ゴールデン・カップスはどうかと見てみると、これも全くない。すべてプロである他人の作った曲です。彼らはライヴで望まれてもシングル化されたヒット曲を歌うのを嫌い、米国や英国でヒットしたロックやR&Bのカバーを好んだというから、ま、そういうことだ。
キワモノみたいに思われてるけど、ブルーズやらせたら当時としては巧く、おまけにメンバーに作曲家で編曲家の星勝がいたザ・モップスならどうだ、と思ったけど、はたしてレコード化された自作曲は、なかった。
だいたいデビューが決まるとグループ名を変えられ、「これ着てね」とお揃いの変な服を着せられて変なアダ名つけられて「今日から、おまえサリーな」とか言われちゃう。え~、おれ渡辺ボルケーノがいいな、って言っても聞いてもらえない。でもまあ細かいことを我慢すればメジャーデビューできるんだと耐えて言うこときいたら、ロックじゃない曲(でも良い曲多いよね)歌わされて「ここで首傾げて人差し指さしてウインクだ!」って軟弱な振りまでつけられて「なんかハナシが違う」ってブーたれてる奴らの歌だから、派手な宣伝のわりには売れなかったんだろう。
テレビで見るとつまんないけど、高座に上がると別人みたいに面白い噺家みたいなもんで、ライヴでガチのオリジナルとかやると凄いけど、そんなことしたらテレビ見てファンになった娘さんは「え~……」って困惑しちゃう。
それでも一部に熱烈なファンはいた。手本というか見本にした西洋世界のロックと、日本の流行歌が衝突し、期せずして不思議なオリジナリティーを持ってしまったってことでしょう。でも、そんな新鮮な衝突は長続きしなかった。

そんなところに大手レーベルから見向きもされなかった「フォーク」が、下手なりに「やむにやまれない」欲求を自分で歌にして、ギター掻き鳴らしながら自分で歌い出すと、当時の若者がワラワラ寄ってきた。音楽性や技術ではグループサウンズのほうが明らかに勝ってるんだけど、ギターひとつで真似できるんだもん。GSはなにぶんブーたれてるもんで、ヤラセで女の子たちをバタバタ失神させてみたりしてもイマイチで、思い入れを本気で叫ぶフォークのほうが盛り上がっちゃうんだが、フォークソングは一部を除いて「四畳半的叙情世界」ばっかり歌ってたわけで、のちにユーミンなんかのニューミュージック(テキトーなネーミングだよね)が「ビンボーなのはしょうがないけど、ビンボ臭いのは、ヤだ」って登場する下地をつくった。
この頃、どっかの音大の教授が「よしだたくろうの曲は、詩が音符に乗りきらず字余りになってて、やはり米国生まれのフォークソングは日本語との馴染みが悪いのかもしれませんが、彼のつくる旋律は日本固有のヨナ抜き音階と言われる四度と七度の音を抜いた音階で、これは民謡と同じで、だから日本人の心を打つのです」などと今思うと相当デタラメな解説をしていて、後に雑誌などでも同じ解説を何度か読まされた。
歌詞の字余り問題は、この後ますます顕著になっていくし、音階の件はトニック、ドミナント、サブドミナントからなる簡単なコード進行や、ありがちな循環コード進行などの定型にペンタトニック・スケールの旋律を乗せただけのことで、ヨナ抜き音階が日本特有なんて嘘っぱちで、ペンタトニック音階の旋律は世界中にあります。アジアに限っても、ほとんどの国にある。
あと、当時のフォークのリズムパターンは、強いて分類するとカリプソが多い。ぜんぜん日本の伝統に根ざしてない。日本の庶民の伝統芸能は浪曲や都々逸、文楽、地唄。端唄といった口承文学だったのが戦後になって否定といっていいくらいに廃れてしまった。民謡でも時代に合わせてエレキギターやシンセサイザーを取り入れて新作が次々と出てくるのは河内音頭くらいのものじゃないだろうか。
戦前のものの否定と、テレビやレコードの爆発的な普及で芸能メディアの流行ペースは格段に速くなっていたから、グループサウンズというのも出るべくして出てきた形態のひとつなんだろう。なんか評論みたいなこと言ってるけど。

まあ、そんなことより面白いのは並行して萌芽していたロックだった。1970年前後には「ロックは英語で歌うべきか、それとも日本語で歌うべきなのか問題」があった。略して「ロックは英で歌うべれとも本語べなか問題」だ。いや申し訳ない。あんまり略してないし、おまけにウソだ。でもまあ、とにかくそういう問題があって、熱い論争になっていた。
テレビでも喧しく討論してて、論点は「日本語で歌うのが日本人。そうじゃないと日本人の心に届かない」てのと「ばーか。ロケンロールてのはアメリカのものなんだから英語で歌うの。あのリズムに日本語のリズムは乗らないの!」と、こんなことを大まじめに殴り合わんばかりの勢いで激論を交わし、お互いが一歩も譲らぬ平行線で、おれはコドモながらにこれを見て「もう、どっちだっていいんでないかい」と北海道弁で思ってた。
ザ・タイガースに「おれと組もうぜ」と誘って東京に連れてきたはいいけど、この人と一緒にしておくとすぐ壊れちゃうからと、レコード会社からハシゴを外された末にいろいろあってヨーロッパを回って帰ってきた内田裕也さんは甲高い声で、「ロケンロールは英語じゃなきゃ。あれはただのミュージックじゃない。ウエイ・オブ・ライフなんだ。よろしく」みたいな「ロックは英語で派」だった。反論すると安岡力哉を使って拳骨食らわせちゃうんだから。
だけど、ある日いっぺんに、この問題は、あっけなくカタがついた。
E.YAZAWA。キャロルの登場です。
ファンキーでモンキーでベイベーで、おどけてる。これがヤザワ。ヤザワの心の叫びがロックよ。英語じゃない。日本語じゃない。ハングルでもない。ハングリーです。これ大事。ハングリー、ハングラー、ハングレスト。ね。ヤザワはいつもハングラー。よろしく。
いくら何でもそんなこと言ってないと思うが、ヤザワのその扇情的な歌と人気の前には論争なんて無意味だった。「あ。歌っちゃったよ。日本語で」と。それでもまだ頑固に英語に拘る派は、「でもほら、ああいうヘンな層にウケてるだけでしょ。普通の人には受け入れられてない」とか負け惜しみ言って、見ないフリしてたら、宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギ・バンドがダメ出し的に普通の人の人気を攫ってしまったので、英語派は消滅した。やはりE.YAZAWAは偉大だったのか。Tシャツとタオルは買っておくべきだったのかもしれない。
このヤザワを見出したのも内田裕也さんで、もう「ロックは英語」なんて言わなくなってた。裕也さんは沢田研二もデビューさせてるし、ジェフ・ベック呼んでみたり、日本のロック・シーンに貢献してる。自前の音楽はアレだったけど、この功績はもう少し評価されていいのではないか。

「もう何もかも捨てて、東京に出て歌手になっちゃおうかな」と、ヨタ話を飛ばしても、目の前の男は笑わなかった。それまでは何を言っても笑っていたのに。笑うどころか、訝しげな表情で、おれに訊いたのだった。
「誰かから聞いたの?」
え。なにが?
「おれが昔、東京で歌手だったこと」
え? ……うっそ!
「いや。ウソじゃないけど……。なんだ。知らなかったの」
知りませんでした。歌手、ですか。
「うん。グループサウンズだけどね」
さいしょはボーヤ(バンドボーイ。楽器を運んだりセットしたりの雑用係)から始めたという。苦労とは思わなかった。いつかスターになれると信じていた。福島の高校では人気者だったのだ。ファンの女の子もたくさんいた。歌には自信があった。「だから下宿じゃサインの練習ばっかりしてて。ばかだよね」綺麗な標準語だった。福島弁は若いうちにすっかり抜けてしまったのだろう。
バンドの名を聞いたが、おれは知らなかった。男はグスタフ・ササキ(仮名)といったが、その名も有名ではなかった。「そうだろね。売れなかったもん。ひとっつも」せめてレコードの一枚も出して、故郷に錦を飾りたかったが、まったく叶わなかった。オリジナル曲を持つわけではなかったが、名の知れたグループサウンズの曲ならだいたい歌えた。器用なコピーバンド。それでも仕事はあった。ビアガーデンやキャバレー。当時はある程度の水準だったら、バンドの仕事は選り好みさえしなければ食うに困ることはなかったのだ。カラオケが普及するまでは。
「おっ。知ってるねぇ。そうなんだよ。カラオケなんだよ。……ああ。ジャズやってたの。ふうん。昔は簡単だったよね」ササキは遠い目をしてビールをもう一杯たのんだ。
それから少し、おれたちは昔のドンバのナシハ(バンドの話)で高揚した。同じだったんだもん。ステージを終えると物陰で、店のマネージャーがその日の日当を配ってくれる。店によっては酔客の残したオードブルを振る舞ってくれる。「冷えた唐揚って、あれマズいのに旨いよね」
複数のバンドが出演する場合、次のバンドに人気をさらわないように、ネジを緩めてドラムセットの皮を弛ませちゃう話とか。あれやられると、どんなに巧いドラマーでもヘタに聞こえちゃう。ひどい話だ。
そんな話をして、いつかギターを弾いてくれ、と頼まれた。それに合わせて歌いたい、と。
いいすよ。ギターも少しなら弾けますから。そう答えて、その日は別れた。

それからも、なん度か会った。ササキの家は、当時おれが住んでいた郡山市の近隣の町で、うちの奥さんと連れだって花火大会や花見に行ったり、うちの奥さんがタイに里帰りしたときに検疫のことを知らずに持ち込んだ生のマンゴスチンとライチのお裾分けを届けに行ったり、夫婦同士のつきあいになっていた。うちの息子が生まれるまえのことだ。
「ギター? 次でいいよ。今回は持ってこなくていい。ちゃんと歌の練習してからだ」毎回そう言った。「それよりも、こないだ貰った果物ね。あれ、庭に種を植えたら芽が出てさぁ、けっこう伸びてきたんだよ。福島じゃ寒いから、実はならないと思うけどね。伸びたの。見においでよ」
ササキの古くからの知り合いという人とも知り合った。団塊ど真ん中で、ササキの小学校からの同級生ということだった。「へえ。あいつ歌手だった頃の話なんかしたのか。珍しいな。友達のいない奴だから、仲良くしてやって。でも、昔の話はあんまり深く訊かないほうがいいかもね」
なんで?
「うん」嬉しそうに言った。「東京で歌ってた頃、最初の奥さんが、あいつの実の弟と駆け落ちしちゃったんだよ」
え。
「そんで何もかもイヤんなって、こっちに戻って来たんだけどね」
……。
「もうすっかりヒトが変わっちゃって。んで、それ以来、弟とは絶縁状態。まえの奥さんはね、今のと違ってすんげえ美人。ま、今のカミさんは若いよな。一回りくらい下なんだっけ」
もういいですよ。そんな話、もういい。
「なんでだよ。あの町じゃ、みんな知ってる事だぜぇ」
田舎に住むということは、こういうことなのかな、と一瞬思った。

春だった。
ササキの奥さんから電話をもらったが、そんなことは初めてだった。いつもはササキが電話してくる。「お父さんがね、入院しちゃったんです。ちょっと今、うまく喋れないんでアレなんだけど、もし良かったら顔でも見にきてあげて。会いたがってるの」と病院の名を告げた。
酸素吸入器をつけているので、うまく喋ることができない、ということだった。肺の病気だそうで、申請すると医療費のかからない珍しい難病だと、ササキの奥さんは言った。病名を訊くと、「なんかね、ムツカしい名前の病気」と目を伏せた。
あたりまえだが、ベッドで寝ているササキは元気がなく、おれたち夫婦の顔を見ると、タイの寺院で願いを込めて仏像に貼りつける金箔よりも薄く頼りなく笑った。
「おなか、おっきくなったね」と、うちの奥さんを、くい、と顎で示した。
うん。出産予定は八月です。
うんうん、とササキは頷いて、吸入器越しの遠い声で、自宅の庭の南国の果物の木の話をし、病気が治ったら歌うからギターを弾いてくれ、と言い、疲れた、と一言述べて肩で息をし、目を閉じた。

ふたたびササキの奥さんから電話があって、葬式の日取りの案内を告げられたのは、その見舞いから三週間も経った頃だった。体調の良いときは、おれが見舞いの時に持っていった幾つかの知恵の輪で、嬉しそうに遊んでいたという。
「あの知恵の輪は」とササキの妻が言った。「あたしが貰ってもいいでしょうか。あのひとが遺した物って、あんまりないんです」
もちろんです。
葬儀は、よく晴れた日だった。知らないおばさんが、うちの奥さんを見て「お葬式に参列する妊婦さんには魔除けの鏡を持たせないとダメなのよ」と小さなコンパクトをくれた。
驚いたのはササキに三十歳近い息子がいたことで、なん度も遊びに行ったのに、その姿を見たこともなければ、そんな事実も知らなかった。なんでも高校生の頃から郡山に下宿して以来、ずっと別居していたということで、ササキの妻の「あのひとの息子です」という、そっけない紹介で、前妻との子ではないかと推測した。親族席にササキの弟を探したが、それらしい者はいなかった。
うちの奥さんは、初めて見る日本の葬式が珍しいようで、「泣いてるひとがいるよ」と驚いていた。タイでは幼い子供の葬式でもなければ、泣く者はいない。葬式は、生き残っている者たちがお互いの生存を確認し、笑顔で集合写真を撮る良い機会なのだ。大人にたいしては、泣かなくともいい。「だって、もうじゅうぶん生きたでしょ」
読経のときの大きな鈴(りん)の音に小さく「オッホー」と応え、どうかぜひ、と招かれた精進落としの席の折り詰めを見て、ひどく感心していた。
おれは、小さな声のタイ語で、うちの奥さんに訊いた。おれが死んでも、泣かないでしょ。
「え? いや。うーん。いや。そんなことない」と、うちの奥さんは不意を突かれて目を泳がせた。「泣くよ。うん。泣く。とても泣く」
ああ、こりゃ泣かないな。でもいいや。おれが微笑むと、うちの奥さんも微笑んで、「マイペンライ(だいじょうぶ)。ちゃんと憶えててあげるから」と言った。

それからなん年も経って、おれのギターは、あの震災でヘッドが割れ、ほかの物と共に処分した。楽器が壊れるのを見るのは、つらいものだ。かたちだけでなく、記憶みたいなものも一緒に壊れてしまう。
持ち物の殆どを処分して、よく晴れた空みたいに、いっそ清々しい気持ちになったものだが、あれからもうすぐ四年。今また服を買い、本も買い、ギターまで買ってしまい、ものは徐々に増えていく。
でも、生きていくってのは、あたらしいギターを買うってことで、だけど、それを弾くひとは日々齢を重ねていって。
あたらしい瓶の古酒だね。古酒は旨いものほど早くなくなるというのに、なぜおれは未だ生きているんだろう。
それでも妻はおれのことを憶えていてくれると言うのだから、マイペンライだ。
(内田裕也さん以外は敬称略)


生活防衛講座 その1

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2009年には、「アイスランドの次はニュージーランドだ」と皆が述べていた。
ここでいう「皆」というのは文字通り世界中のアナリストで経済が少しでも判るひとなら定見ということになっていて、「次はニュージーランドだ」という。
ニュージーランドが国家として倒産するだろう、という意味で、論拠の最大のものは5yearCDSが206.3bpsから215.2bpsに上がったので5年以内にニュージーランドはデフォルトになるだろう、ということだった。

その頃クレジットクランチ直後のロンドンにいたぼくは、クレジットクランチの直前に手じまいにしたオカネをニュージーランドに投入することにした(←下品)。
いろいろな資金がニュージーランドから大慌てで逃げ出すのが手にとるように見てとれたからでした。

5年たってみると経済や市場の権威のひとたちが述べた事はすべておおはずしで、正反対というか、いまはニュージーランドはバブルのただなかにある。
この奇妙な事情のあとさきは説明する必要を感じないが、単純に凍死家と経済家の考えることはそれだけ違う、という意味で書いている。

ずっとむかし、蒐集している日本語雑誌をカウチに寝転がって眺めていたら読者の経済相談室、というような風変わりな企画があって、「短大に行った学歴の平凡な主婦」と自分を表現している人が、
「たいへん素朴な質問で恐縮ですが、日本は人口が減っているのに、最近は住宅ブームで新規住宅が建設ラッシュで地価も騰がっています。
人口が減れば家はあまるとおもうのですが、なぜですか?」
と書いてある。
評論家の人が、ほとんど苦笑が見えるような感じの筆致で、でも嫌味がない言い方で、経済はそういう単純なものでない旨を懇切丁寧に書いている。

読み捨てを基本とする週刊誌を、まさか何年も経ってから読む意地悪な読者がいると、この大学教授の肩書がある評論家の人は想像もしなかっただろうが、読んでいるほうは、この問答があった一年後、住宅が過剰供給におちいって暴落したのが判っているので、軽い溜め息をつきたい気持ちに駆られます。

余計なことを書くと、日本の住居用建物市場は奇妙な市場なので有名で、まず既存の住宅に「中古住宅」という、ものすごい、嫌がらせのような名前がついているマンガ的な細部から始まって、1990年に建った家は「築25年」であるという。
社会通念として家が年齢を加えるごとに減価してゆくという中古車市場に似た市場常識に支配されていて、
ちゃんと計算してみたことはないが家を買うよりも借りたほうが経済的には遙かに賢明、ということになりそうな不思議な市場をなしている。

他の国ではどうかというと、建物が出来たのが1000年前で、床にクリケットボールを置くと、コロコロコロと勢いよく転がるのを喜色満面で見つめた買い手が、「おおお。歴史の勢いですな、これは。角の根太のあたりが腐っているのもわくわくする。直すのに手間がかかりそうだ」と相好をくずしながら述べて、その場で売買契約を結ぶイギリスのようなヘンタイな国は極端としても、ニュージーランドでも、家を観に来た買い手が、
「コンクリートブロック、というと50年くらい経っている建物だろーか」と訊くと、不動産エージェントが、さあー、多分1960年代だと思うんだけど、ともごもごいう、という好い加減さで、なぜそうなるのかというと、誰も家が建って何年経過しているか、というようなことは気にしていなくて、
建物が健全かどうか、デザインがカッコイイか、クルマは何台駐められるか、あるいは最近はバブルで土地がものすごく高くなったので敷地がどのくらいあるか、というようなことしか考えない。
そうして言うまでもなく、最も価格に影響するのは通りの名前と地域の名前で、クライストチャーチならば地域名よりも通りの名前がすべてだが、オークランドでは住所の宛名にハーンベイ、リミュエラ、パーネル、…というような名前が入るかどうかで決まる。

もう少し余計なことの続きを述べると、英語圏では、どの国にも、ここ50年ほど価格が下がったことがない通りが存在して、たとえば日本の人が知っていそうな通りならばマンハッタンのパークアベニュー沿いのアパートメントはいちども価格がさがったことがなくて。モニさんが両親からプレゼントされたアパートメントはここにあるが、不況でも不動産市場が暴落しても、日本が宣戦布告しても、小惑星がニューヨークに激突しても、価格がさがるということはない。

いっぺん買えてしまえば、価値はあがってゆくだけです。
日本の住宅市場があまりに特殊なので日本に住んでいる人の目にはなかなか見えにくいことだが、たとえばニュージーランド人は、もともとは大学を卒業するとローンを組んで3寝室の家を買って、それから平均10回家を売買して、人生の後半に到て子供が独立すれば、それまで5寝室の床面積が300平方メートル、敷地が1200平方メートル(←1000〜1250平方メートルが、もともとは高級住宅地の標準的な住宅の敷地面積だった)の家に住んでいたのを売り飛ばして、10個程度の、理想的にはブロックごと買ったフラットを持ち、死ぬまで家賃収入で暮らす、というのが物質的に成功する人生のモデルで、イギリスも、ディテールは異なるが、一生の財政プランの骨格は同じです。

いまはバブルのさいちゅうなので、初めの3寝室が、あんまり良い住宅地でなくても、60万ドル、日本円になおせば5500万円もしてしまうというバカバカしさで、どうするかというと、やはり同じバブルの渦中で、しかも絶対収入金額が多いオーストラリアに出稼ぎに行って稼いで貯金する人が多い。

普通の人が目にする日本語の記事は、経済専門家にくわえて、なんだかよく判らないブロガーみたいなひとが、厳粛な顔つきで思いつきを書いていて、自民党が大勝したのでアベノミクスが本格化して景気がよくなるだろう、とか、来年は日本経済は崩壊して全員路頭に迷うだろう、とか、専門家も受け狙いブロガーも禿げ頭の「経済学者」もみながいろいろなことを述べて、賑やかだが、数学モデルを考えてみればすぐに判るというか、前にも書いたが経済も市場もランダムウォークで、もしかすると普通の人の直観とは異なるかもしれないが、予想のようなことが成り立つわけはなくて、簡単に言えば「アベノミクスで景気がよくなる」と述べる人も「日本は轟沈する」と述べる人も、どっちもええかげんなウソツキで、現実はどうなのかといえば、
株価チャート、というものがあるでしょう?
あんなものでもただの迷信で、というと、どっと怒りの声が浴びせかけられるだろうけど、迷信は迷信なので、血液型診断と同じで、まして窓が開いたとか、窓がふさがったとか、はははは、きみダイジョーブか、というくらいヘンなものであると思う。

アベノミクスに踏み出したことがいかに国民ひとりひとりに破滅をもたらしうる、国家経済主義者らしい奇策で、その奇策のむなしさはSNBが出した正統金融政策によって、立ち会いで変わった横綱があっさり小結に押し出されてしまったとでもいうような、みっともない姿で国際市場のまんなかでたたずんでいるが、そういうことは「予想」ということではなくて、経済にはやっていいことと悪いことがある、というただそれだけのことだが、もう何回も繰り返し書いたので、もうここでは述べない。

日本の人にとっての焦眉の急は、自分の生活と、こっちはもっと難しいが、自分の将来の生活を防衛することで、経済家やブロガーのインチキなご託宣はどうでもよいから、足下を固めなければ、欧州も日本も、ただでさえグラビティポイントが高い船体の経済なのに、ぐらぐら揺れて、不気味なことこのうえない。

理由の説明を省いて現実の説明に終始すると、世界じゅうのオカネモチがやっていることは、ラットレースから抜け出すことによって産まれた余剰のオカネを「値下がりしたことがない通り」に住宅を買ってキャピタルゲインに期待するか、本質的には同じ投資の考え方だが集合住宅を買って家賃収入をつくってキャピタルゲインにつなげてゆくことを期待している。
本来は通貨は生活に必要なものや生活を楽しむものに使われるべきで、夫婦のクルマを買い換えたり、よりよい「自分達が住む家」に移ったり、家具調度、子供の自転車、というようなものに消費されるべきだが、ブッシュが政権につくまでほぼ40年にわたって住宅価格が安定していたかつてのアメリカ社会(←キャピタルゲイン目当ての住宅投資が出来ないことを意味する)、分厚くて莫大な中間層をもっていて、しかもその「中間層」に工場労働者から管理部門の部長クラスまでが含まれていたアメリカ社会とは異なって、ほんとうはもうオカネがいらない家庭にしかオカネが流入しないので、行き場を失ったオカネが住宅投資に向かって、住宅がどんどん非現実的な価格になってゆく、という循環に陥っている。

その結果なにが起こるかというと社会が繁栄すればするほど社会の9割を越える層はどんどん貧乏になって、住宅の価格の高騰で最も肝腎な家を奪われてしまうことで、一軒の家に6,7人で住んでやっと家賃を払ういまの都市部ニュージーランド人の生活は、中間層の生活の質がホームレスに無限に近づいているいまの社会を忠実に反映している。
言うまでもないがアベノミクスが「社会の繁栄」と呼んでいるのは、西洋型の「オカネがあまった人間の懐に更におおくのオカネがはいる社会」の繁栄のことで、分配の構造が変わらない以上、繁栄は直截生活の質の低下に結びついてゆく。

逆にアベノミクスが失敗すれば個々の日本人から借用した形になっているオカネは永遠にもどってこないままディーラーの手元におさまってしまうわけで、この場合は、いちど沈降した経済社会全体を元のGDPパーキャピタ25位あたりに戻すことも難しくて、あんまり使わないほうがよい指標であると言えなくもないが、日本語ツイッタで、円の実質実効貨幣価値は、 すでにプラザ合意以前の70円程度にさがっていると教えてくれた人がいて、確かめてみるとそのとおりで、うひゃあ、とおもったが、あんまり経済に興味ないもん、という人のために簡潔に述べると、何のことはない、日本はすでに中進国になっていて、「アベノミクスが、うまくいったら先進国にもどれるかんね」というところまで、名実ともに、通貨の価値もともに、ずるずるとアベノミクスのすべり台を滑り落ちてしまっている。

SNBの決定がマスメディアが伝えるより世界経済に対しておおきな影響を与えていることや、アベノミクスがすでに失敗としかいいようがない様相をみせて日本を一挙にビンボ地獄に送り込もうとしていることは、別に、ここに書いても仕方がない。
次回から、個々の人間、ケースバイケースで、このだんだん無茶苦茶になりつつある世界を生き延びてゆくには、どんな具体的な方法があるか、退屈でも、ひとつひとつ述べてゆこうと思います。

(画像は家の引っ越し。いらなくなった建物をちょうど自動車を買うように建物ヤードで買って、こうやって建物ごと使う場所まで移動させまする)


生活防衛講座 その2

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1 住宅

銀行からオカネを借りて自分の家を買う、という行為は経済論理上はたいへんバカげた行為であることはよく知られている。
特に日本では無意味に近い。

ニュージーランドの伝統的なホームローンへの感覚は、固定金利9%の15年ローンで、1990年代ならば3寝室の一戸建で二台クルマがはいる車庫がついて庭がある家が15万ドルだったので、ざっと見積もって頭金なしで一ヶ月の支払いが$1500で支払いを終える頃にはだいたい倍の30万ドル弱を支払って家が自分のものになる。
大学を卒業するのは21歳なので大学で知り合った伴侶と結婚して初めの家のホームローンを支払い終えるときには36歳。収入がふたりあわせて10万ドルくらいなので月給というようなものに直せば9000ドル(当時の円/NZドルレートでは50万円)なので、フィジーやタイランドに一ヶ月くらいずつ休暇で遊びに行って子供をふたり育てても余裕をもって暮らせた。

いまは金利は6%に落ちて、その代わり3寝室の同じ家が60万ドルはするので逆にホームローンを組んで家を買う人は少なくなっている。

自分の家は通常資産に数えない。
なぜなら自分が住んでいる家は一円も生まないからで、いつか確かめてみたことがあったが、日本でもこの習慣は同じであるようです。
つまりホームローンを組んで自分の家を買うというのは借金をして「ゼロ資産」を買うことなので、のっけからただの無駄遣いとみなされる。

一方では前回述べたとおり日本では7000万円で買った住みなれた家を売って8000万円で売れるということは稀で、どちらかといえば4000万円くらいになってしまうことのほうが多い。
よくしたもので、いまみるとホームローンの利息も1.2%というような夢のような利息なので、15年かけて払っても600万円ほどしか利息を払わなくてもいい勘定になるが、それでも例えば鎌倉で25万円の家賃を払って住んでいる人は、いつでも川崎の9万円のアパートに引っ越せるが、家を売るというのは、日本のように慢性的に地合がわるい市場では「売りたくなったから今日売ります」というわけにはいかないので、急に売ろうとおもえば、7000万円の家も3000万円になるのがおちである。

自分ではめんどくさいので日本でも鎌倉・東京・軽井沢と家を買ってしまったが、えらそーだが、こういうバカなことをするひとはオカネが余っているからそういうバカなことをするので、だんだんスウェルが高さを増すいまの世界を渡っていくためにはどうすればいいかというこの記事の趣旨とあわないので、われながら(←古用法)シカトする。

結論を先に述べると日本で住宅を購入するのは経済的にはたいへんに愚かな行為で、家賃を払って住んでいたほうがよい。

20年なら20年という、その社会で通常「このくらいの年数でホームローンを完済するのがふつう」とされている年数で住宅の価格が二倍になる社会でなくてはホームローンを組んで家を買うのは努力して資産を失う愚行なのでやめたほうがよい。
自分の家を借金して買うという経済行為を正当化するゆいいつの言い訳はキャピタルグロースで、それが見込めない場合、簡単に言って(日本の市場でいえば)見栄を買うだけのことで「見栄」はどこの国のどんな市場でも最も高くつく商品だからです。

2 職業

現代の世界では打率がいくら高くてもホームランがでなければラットレースから抜け出せない、という。
キャリアをベースボールに喩えているので、生活費に400万円かかる社会で600万円稼いでいることには、あんまり意味がない、400万円しか給料ではもらえなくても、たとえば作曲した曲がベストセラーになるとか、発明したものが何億円かもたらしてくれるとか、文字通り「桁違い」の収入をうみだしてくれる職業でないと他人や他人がつくった会社の社員として働くことには意味がない。

ゲームでいえばチビキャラを倒して経験値をあげながらも目的としているのはボスキャラを倒してステージをクリアすることなので、チビキャラを倒すのにいくら習熟してもボスキャラを倒す技があって、次のステージにジャンプできなければラットレースからは抜け出せない。

そうして、たとえばきみが22歳の人間だとして、仕事を始めた当初の目的は、経済上は、あくまでもラットレースから抜け出して「食べるために稼ぐ」社会の支配層の側が「大学卒業者程度の人間が懸命に働いてやっと食える」ようにデザインした毎日から脱出することが目的です。

自分の職業的人生の価値と経済上の職業の価値が頭のなかでごっちゃになっているひとは、自分の職業の「経済的側面」と「意義的側面」を分けて考えるべきで、それが出来ないで、(昔の日本語でいうと)「自分探し」を職業を通してするようでは、ラットレースの社会の側がデザインした罠から抜け出せなくなってしまう。

欧州やNZやオーストラリアでは、もうどうして良いか判らなくなるとふたつの職業をもって、朝から夕方は店員で夕方からは看護師というようなのは普通で、アジアでも台湾のひとなどは女のひとは昔からふつうにそうやっていた。物理的に、いわば体力的パワーにものを言わせてラットレースから脱け出そうという試みで、ストレスに耐えて永続的に続けられる人は、たとえば夫婦で若いときからこれをやって50歳くらいでラットレースから抜け出すが、そういう例は実はニュージーランドでも普通に存在する。

なんだか力任せで乱暴におもえても、大企業でサービス残業だかなんだか、ええかげんな名前がついている無賃労働で夜まで残るくらいなら、単純なマニュアル労働でもなんでもいいからふたつ仕事をしたほうがいい、という意見は納得ができるもので、たいへんそうだが、やってみる価値がないとはいえない。

仕事をみつけるときのタブーは、「先にいけば高収入だから」という職場で、そんなことは起きても稀だから、まあ、ウソに決まってるな、とおもうほうが良い。
具体的には「当初1000万円だすけどダメだったら下げるからね」という雇い主は信用してもよいが「初めは300万円だけど頑張れば将来はすぐ1000万円だすからね」という雇い主を信じるのは、信じるほうが悪い。
昇進にしても地位にしても同じことで、20世紀はもう終わったので、初めに良い条件が出せない雇い主は、だいたい詐欺師みたいなものだとおもったほうが自分のためであるとおもわれる。

ついでに言うと医師や一定分野の技師のように細分化がすすむ方向がみえているテクノクラートも「土方化」がすすむのはわかりきったことなので、そういう職業につくのもラットレースがやや高級になるだけで、永遠にコーナーからコーナーへ、hand to mouthで、走り続けなければいけないのは判りきっている。

ふつうに工学系の大学を出て、いきなりラットレースを脱した友達の例をひとつあげれば、わし友オーストラリア人Cは卒業して、西オーストラリアの道路がない大辺境に始まって、オイルリグの技師としてキャリアを始めた。
地平線まで自分の土地であるような牧場が買いたかったからで、北海、アフリカ、あとどこだったか忘れたが、毎日ヘリコプターで通勤する(←道がないので他に到達方法がない)生活を十年送って、日本円で3億円くらいためた。
荒くれ男たちに混じって、山賊と銃撃戦を交えたりして、なかなかかなかなな波瀾万丈の技師生活を経て、いまは、念願どおり牧場を買って十年辛抱強く待った奥さんと暮らしています(^^;

ひとによってさまざまだが、

1゜ オカネと正面から向かい合って、自分なりに勝算が見込める「ラットレース脱出計画」を立てる

2゜ 世間的な見栄は顧慮しない

3゜ プライオリティをはっきりさせて余計なことを考えない

というようなことが守られている点で。20代〜30代でラットレースを抜け出すひとは共通しているように見える。

3 いいことはある

ラットレースを抜け出す方法はいろいろで、アスピナル卿のようにブラックジャックで勝ちくるって、こんなに賭博が下手なやつが多いのならば自分が胴元になったらもっと儲かると考えて自分でカシノを開いてレースから抜け出るひともいれば、ある晩、泥酔してお小遣いで ビットコインを買ったのをすっかり忘れていて、ある日、「このパスワードはなんだ?」と疑問におもって開いてみたら、そこにはいつのまにか大値上がりして2億円を越えるビットコインが燦然と輝いていた運のいい酒好きなアメリカ人サラリーマンもいる。
スーパーの買い物の帰りに気まぐれでロトを買ったら6億円の大当たりで、さっさと旦那に仕事をやめさせてスペインに家を買って引っ越してしまった主婦や、酔っ払って富豪のおっちゃんとイッパツやったら子供が出来てしまい、それが元で300億円だかなんだかのオカネをもらうことになった愉快なフランス人のおばちゃんもいる。
ラットレースからの脱出はさまざまでも、そこから初めて「自分の一生」がはじまるのは共通していて、少なくとも若い人間にとっては、ラットレースから脱出することを意識して生活することがすべての始まりで、ラットレースのなかでいくら懸命に走って上位に出て、一位になっても、そんなことにはあんまり意味がないことを先人は教えている。

なんだかオカネについて書くのは、相変わらず、ものすごく退屈で(ねむい)
次回があるかどうか判らないが、次回があれば、年収別のサバイバルプランと、そこでもまだ眠っていなければ、たくさん例を挙げて、ラットレースの、そのまた予選で出走取り消しになったような前半生を送りながら、結局はラットレースを抜け出して、人間としての一生を開始するにいたった、わし友達たちの例を挙げていこうと思います。

でわ



生活防衛講座 その3

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1 時間給

朝7時に起きて夜9時に仕事から家に帰り着く人が一日あたり2万円もらっているとすると、このひとの時給は20000÷14で1428円である。
会社の側の理屈では労働時間が7時間なのだから、あとは通勤時間他で時給は2850円ではないか、というだろうが、それは企業の側の理屈なので知ったこっちゃない。
働くほうから見れば、あくまで1428円です。

初心のうちは、自分の労働の価値を社会の側がどのくらい評価しているか知るために時間給を基準にしてオカネという社会の究極の批評尺度をあてはめてみるのは良いことだと思われる。

凍死家などは時間給が1000万円を越える、というひとは普通にいます。
もっとも凍死家は時間給がマイナス1000万円を越える人も普通なので、時間給という尺度は「オカネが天井から降ってくる」場合にのみ有効であることがわかる。

而して、ひとは時間給のみによって生きるものには非ず。

医学の基礎を勉強しただけで、こんなグチャグチャな不気味な学問やれるかい、と考えて、むかないものはむかないので職業として医学に進むのはやめてしまったが、一方、数学のほうは稲妻のようなカッコイイ才能がなくて、これも飽きて、やむをえないので賭博師になろうと思ったが、全然関係のない工学系の発明でラットレースから出ることになった。
おにーちゃん、まさか家業をついで楽しようというんじゃないでしょーね、という妹の白眼視がそこで終熄したが、それとこの記事とは関係がない。

数学が自分の頭に向いている人間は朝起きた瞬間から数学のことを考えはじめて、自転車で学寮に向かうときも数学を考えていて、学内では、うっかり芝生を横切って、件のクソジジイに、「きみはこの庭の芝を横切る権利はないだろーが」と怒られたりして、時間給は計算してみると200円だったりすると思うが、
これはそういう病気なので、観点を変えれば大学は阿片窟のようなもので、目をうつろにして数式を虚空に描く学問依存症患者達がはびこっていて、それでも大学の外に放し飼いになると社会が危地の陥るというような理由で、多額の企業または国家のオカネを濫費して収容しているだけなので、そもそも給料をもらえるほうが間違っている、という考えもある。

ぼく自身は時間給時代は、ひどく短くて、芸能プロダクションが店の近くにあるせいで、やたら綺麗なねーちゃんが日がな一日うろうろしているのに眼がくらんで、カフェのウエイターをやって二週間でクビになった。

だから時間給についてエラソーに云々するわけにはいかないが、冒頭の数え方で1500円をくだるような時間給で働くのは文字通りの「時間給のムダ」で奨められない。
どうしてもマクドナルドでバイトをするしかないのなら、物価が途方もなく高いとは言っても、いまや時間給一時間3000円の域に達すると噂されるノルウェーでマクドバイトをやったほうがいいと思われる。
たしか去年からノルウェーもワーキングホリデービザに参加しているので30歳以下なら誰でも働ける。

えー、でもノルウェーのマクドもやっぱりただのマクドだから、という人がいそうだが、そういうのを「机上の悲観論」という。
想像力をもってみよ。
たしかに同じようにマクドで、床に落っことしたパテを素早く拾って焼いたりするバイトだが、きみが女ないしゲイであると仮定すると、横をみれば同僚のにーちゃんは、北欧的にジェンダー平等の観念が発達していて固そうな尻がつんと上を向いていて、ちょっとやさしくすれば週末は…(←これだから二週間でクビになる)

えー、おほん。
つまり、時間給を数えて働くのは時間給で測ることに意味がない収入にたどりつくためで、自分の収入が時間給という概念になじまなくなったときには、たいていの人間はラットレースからぬけだしている。
時間給という尺度の生産的な利用法は、そーゆーものであるよーです。

2 年収400万以下

約束の年収別サバイバルプランだが、年収400万円以下は、なにも考えずに外国へ移動するのがよいと思われる。
たった4万ドルできみを使えると思っているところが、もうきみのその会社なり業界なりでのきみへの評価 「安くこきつかえるじゃんw」が端的にあらわれている。

社長はきみに期待している。
同僚もきみを頼りにしている。
しこうして年収は400万円にとどかない。

そういう暮らしを10年もつづけるとどうなるかというと、心のなかに窠(す)がはいって、やがてその黒みはきみの魂に及んでしまい、
妙にうらみがましい性格になったり、「世の中は汚い」
「社長は口ばっかりで、おためごかしの嫌な奴だ」
「こんな会社に将来なんてない」
というような語彙と表現が頭のなかでぐるぐるしだす。
しかも、そんなこんなで、上目遣いに世の中を見ているうちに40歳になってしまったりする。

それではもう遅すぎる、ということはないが、20代のときの5倍くらいの跳躍力を要するので、やや「世の中バカなのよ」(←回文)というブラックホールにのまれつつある天体のようなものである。

ビンボである、というのは常に一面ではよいことで、全財産売り払ってしまえばポケットにはいって、航空券とワーキングホリデービザスタンプが押してあるだけのパスポートをもって、エコノミークラスのシートに身を沈めれば、それだけで新しい人生がはじまってしまう。
人間の一生で、これほどの贅沢な瞬間はないとも言えて、世界中の、どんな富豪ジジイもうらやましがるだろう。
オカネを稼ぐ目的のひとつはオカネで買えない豪奢にひたることだが、
その初めのひとつは冒険の書の第1ページを開くことであると思う。

3 年収400万〜600万

貯金をする通貨を選ぶ、ということは大事なことで、アイスランドで金融危機が「庶民」に直截影響を与えたのは、たとえばホームローンを組むときにコンピュータのスクリーンを見せて、
「円で組みますか?アメリカドルで組みますか?それともポンド?」というふうにやっていたからで、円のところをみると、年利がドヒャッ1.5%とかなので、円でホームローンを組んだ人が多かった。
為替リスクの説明は法律で義務づけられているので、きちんと説明されてはいたはずだが、ふつーの「庶民」たるもの、そんな難しいことを説明されてもわからないので、まあ、ダイジョブだろ、と思って円にしてみたら全然ダイジョブでなかった。

よく市場がちょっと波立つと「世界の投資家が安全通貨と目される円に向かってなだれこみ…」という解説があって、日本の人は、おおおお、やっぱりわしらって信用あるのね、つおい、と思うようだが、それは誤解で、
ここで「安全通貨」というのは一週間の範囲でおおきく動かない通貨で、ここで述べられる「投資家」はオカネを借り集めて毎月利益をあげるのが義務のヘッジファンドみたいな「投資をビジネスとしている」機関なので、「次の動きが見えるまでリスクを避ける待避港」みたいなものだと思ってよい。

言葉を変えれば「枯れた市場」で突拍子も無いことが一夜で起きたりしない安心感があるかわり面白いことは何もない。

つまり利益も生じない。

残念ながら、加工貿易に依存する産業体質の古さもあるが、なにしろ
「人口が減っている」
「人口が老化している」という、市場凋落の二大絶対要素を抱え込んでいるのに、肝腎のこのふたつの要因への解決策は放ったらかしで、アベノミクスで復活だ!とか、産業世界を知らないもの特有なご託を並べて、
なるべく楽に気分だけで経済を復活させようと思う人がうじゃうじゃいる日本のような市場がまともな将来をもっているわけがないことくらい、相当アマチュアな凍死家でも知っている。

日本の市場はいまや沼沢の上に建設された楼閣のようなもので、いかに壮麗な建物をたてても、地盤が、問題がくすぶりつづけた揚げ句腐敗して、メタン沼沢の泥濘と化してしまっているので、傾いて倒れるか、アッシャーの家のごとく、振り返ってみると、ずぶずぶと沈んでいるか、どちらかの可能性しかない。
一喜一憂が、やがて一喜二憂、一喜三憂に変わって、自分が強いつもりで負けがこみだしたひとの常で、やがては負けても勝ったと言い募り、負け続けて破滅が迫っても「もうひと勝負」と言い出して、どんどん事態は悪くなってゆくだけであろうと思う。

国内にいながら決定的な破滅をやり過ごす方法は個人にとってはおおきく分けてふたつあって、ひとつは金(きん)を買うことで、もうひとつは通貨を買うことです。

金を買うのは、当面現金化しなくてもよい見通しがある場合で、金は意外なくらい主に脆弱な財政基盤の国家の売買によって下落したりもするが、長期的には右肩あがりで、違う言い方をすると「暴落したときに売らないで済む」のなら、常に良いリスクヘッジ商品です。

凍死家にとっては常識でも、あんまり普通の人が知らないことを述べておくと、通常の銀行/投資企業は金の買い取りを拒否することが出来る。
ところが、ほんとうはあんまりブログのようなところで書いていいことではないが、どの国ににも買い取りを拒否できない会社が指定されていて、日本では田中貴金属という会社がこれにあたる。
日本の蓄財家が田中貴金属の100gインゴットばかり買うのは、要するにそういう理由で、その先はモゴモゴ言ったほうがよいが、金を買うなら、考えた方がよいことであるよーだ。

もうひとつの通貨のほうはレバレッジをかけるとFXそのものになってしまうが、防衛的に利用することも出来て、その場合は、自信がなければ基軸通貨にするのがよい。
中国人たちがUSドルばかり買いあさるのは、USドルが基軸通貨とみなせるからで、円がUSドルと同じ思想に立った通貨政策をとることのアホらしさはここにもあるが、いまは個人の防衛策を考えているので、そんなことを言っても仕方がない。

ユーロの挑戦を退けて、世界基軸通貨のディフェンディングチャンピオンとなったUSドルは、マイナーカレンシーのオーストラリアドルやニュージーランドドルとは本質的に異なる資産なので、収入のいくらかを分けてUSドルで積み立てておくのは悪い考えではないとおもわれる。

年収400万〜600万というところにいる所帯は、伝統的な蓄財法が最も有効な収入レベルで、他にもたくさん方法があるが、そっちのほうは商売のファイナンシャルアドバイザーに任せるとして、この記事のほうは締めくくりにヘンなことを書いておく。

「スーツを着て歩く人間はジーンズをはいて歩く人間よりもムダなカネを使う」というのは、いまでもほんとうで、公園の芝生や階段に腰掛けて、豚まんにかじりついてお昼ご飯にできるジーンズの人はスーツでランチタイムの居酒屋に向かうサラリーマンよりも、やはり生活コストが安い。

えー、でも、おれ背広で階段に座るよ、という人もいるが、ライフスタイルの本質的な違いは、そういうものではなくて、電車で通うところを自転車を好み、会社帰りの一杯もサドルにまたがって酒屋の店先でチビ缶を飲み干す人では随分余計なオカネの使い方が違うようです。

それはつまり、もともと「大卒の人間が企業に入って働いた場合、小さい家を借金して買ってやっと暮らせる」ようにデザインされた現代社会の、そのデザインにどの程度乗るか、ということで、近代のデザインから遠ざかれば、それだけラットレースの仕組みから遠くなってゆく。

4  ちかれたび

オカネの話を書くのがこんなに退屈なものだとは思わなかった。
ひとりづつ、友達や、ラットレースから上手に抜け出した日本の著名人(例:大橋巨泉)を書いていこうと思ったが、オカネについて書くことはツエツエバエに刺されるのと同じ、ということが判ったので、やめちにした。

ひと頃、日本で、特に若い人のあいだに流行ったように見える「支出を最低に抑えて低収入で生活を楽しむ」試みは、実は、英語世界では伝統的な考えで、何百年にもわたってさまざまな試みがされてきたが、本質的にはラットレースを周回おくれで歩いてまわるだけのことで、あんまり良い考えではないようだ。
論理的に述べても、20代から40代くらいまでは一見有効でも、親のカネや子供の扶養をあてにすることになって人間性の面で問題が出てきたり、ちょうど強制保険もなしにクルマを運転しているようなもので、人間が生きていくのには付きものの「事故」が起きれば、計画全体の余裕のなさが災いして、一瞬で取り返しがつかないことになる。

世の中の99%のことはオカネでカタがつくが残りの1%こそが人間にとって大事な一生の部分なのだ、ということを思い出して、せめてもオカネに邪魔をされないで一生を送りたいと考えるのがよいらしい。

がんばらないぞー、と気合いをいれながら、まあ、気楽にオカネを貯めましょうぞ。


生活防衛講座 番外編

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ただ生き延びたいと願っていただけだった、とシャーリーズ・セロンがインタビューで述べている。
15歳のとき、自分に襲いかかる父親を母親が銃で撃ち殺す、という人生のスタートだった。
母子で移住したアメリカでは手切れ金のようなものを母親から渡されて「あとは自分で生きていけ」と言われた。
母親はミラノに移っていった。
ゆいいつ自分ひとりで稼いでいける可能性のある職業で、そのために低賃金のファッションモデルをして貯めたオカネをレッスンにつぎこんだダンスは足の怪我で続けていけなくなった。

食べていける見込みがなくなったニューヨークを捨てて、16歳のシャーリーズは女優として生きるべく単身ロサンジェルスに向かう。
片道だけの切符代は母親が不承不承だしてくれた。
一晩泊まり(日本でいえばドヤ街、毎日前払いで一日ごとに精算する)の安アパートで仕事を探す毎日だったが、オック語の姓を持つアフリカーンス語訛の強い英語を話す16歳の女びとに仕事をくれるもの好きなプロダクションはなかった。

気が狂いそうだった。

やがて一文なしになった。
青ざめた顔で、白くなった唇を震わせて、自分をバカにしきったような口を利く銀行員は、カウンタの向こうで「これ南アフリカ振り出しの小切手ではないですか。こんなものカリフォルニアの銀行で受け取るところはありませんよ。
ダメです。現金化なんかできません」と述べる。
長い行列が自分の後ろに出来ていくのを意識しながら、それでもオトナたちのルールに従って静かな口調で懇願していたシャーリーズは、とうとう耐えきれなくなって「生涯でいちばん下品な」金切り声で、
「じゃあ、あなたはわたしにいったいどうしろというの?
このカネがなければ、わたしには今晩泊まるところがないのがわからないの?
わたしには食べるパンもないのが、あなたにはわからないの?」
泣きながら叫んでも銀行員のほうは肩をすくめるだけだった。

そのあとに起きたことは有名で、長い行列に辛抱強く並んでいたひとりの男が、不思議な国際金融取引上の知識をもっていて、銀行員にやりかたを教えて、南ア小切手を現金化してみせる。
なんだか壊れたお話人形のように繰り返しお礼を述べるアフリカーンス語なまりの女の子に、いやたいしたことじゃないのさ、このひとに、ぼくにはたまたまあった知識がなかっただけだよ、と述べて立ち去っていくが、途中で気を変えて、シャーリーズのところに歩いてもどると、名刺をわたして、なにか仕事があるかもしれないから、仕事を探しているのならここに電話してね、と言って歩みさっていった。

この親切な男が五指にはいる有名なハリウッドのマネージャーであることを、まだこの南アフリカ人の若い娘は知らない。

シャーリーズ・セロンがやがて大スターになってゆくのは、神様だけが知っていたことです。
この場ではシャーリーズ・セロンは、これで今晩、危険がいっぱいのロサンジェルスの大通りで、ホームレスとして道ばたで眠らないですむ、という安堵で頭がいっぱいだったし、ハリウッドでは名が知られたタレント・エージェントのジョン・クロスビーも、思いつきで、なんとなく気の毒で、名刺を渡しはしたものの、ひどいアフリカーンス訛の、スタイルはいいけれどもパッとしない容貌の若い娘が、あとで世界を代表する美人女優といわれて、オスカーを獲得するとは夢にも思わなかった。

なぜこんなくだらない話を長々と書いたかといえば、人間には自分の一生がこれからどうなっていくか判らないのだ、ということが言いたかったからです。
フライドチキンのチェーンをはじめるためにオンボロ・ステーションワゴンの後部座席で毎晩眠る、もう60歳をすぎたのに、14歳で家出して以来、良いことが何もない人生だったカーネル・サンダースがいくら気の強い老人でも、そこから5年間に自分の身の上に起きる成功をかすかでも予見できたはずはないし、ビジネスで成功する夢だけを財産に、52歳になるまで失敗につぐ失敗、ありとあらゆる不運、おまけに病魔にまでとりつかれて、文字通りボロボロの中年セールスマンだったレイ・クロックが、まさか自分が生きているうちに自分が築いたハンバーガーレストランチェーンの王国の繁栄を目にすることになるのを知っていたわけはない。

ニュージーランドのトランピングの習慣を知らずに南島に買った巨大な農園のゲートに鍵をかけて閉じてしまって「カネモチハリウッド人の横暴」としてニュージーランド人たちの怨嗟を買う嚆矢となった「世界で最も成功したカントリーシンガー」シャニーア・トゥエインは、まさか当の自分が「身勝手なカネモチ」として攻撃されるようになるとは、ホームレス時代、トロントのシェルターやバスを転転として、ひと晩の寝場所をみつけるのに苦労していた頃は思いもよらなかった。

パーティで、 自分がむかし食べるのに困ったあげく、ひと晩だけだ、と自分に言い聞かせて、売春をして、その次の夜、レストランで眼のまえにだされたステーキが自分の肉のようにおもえて食べられなかった、と自分の職業的一生をまったく滅茶苦茶にするかもしれない、お酒をのみすぎた夜の気まぐれから、しなくてもよい告白を見るからにケーハクなイギリス人のオカネモチの青年に述べた 女優は、その魂にまで及んだ屈辱がいまでも忘れられないのだと思う。
もちろん、ひと晩だけですむわけはなかったわよ、と言った美しい人の、炎があがっているのに暗い眼の光を忘れるわけにはいかない。

もうダメだ。
絶対にここから自分を救い出すことなんか出来るわけがない、と思い詰める、眠れないまま過ごした明け方の時間をもたない人は、多分、この世界にいないだろう。
八方ふさがり、というが、八方どころではなくて、自分のいる場所のまわりが360度隙間なくしっくいでかためられたような、「不可能」が囲繞して、自分だけが世界のなかで「意味」をうしなってゆく瞬間は、しかし、思いがけないことに誰もが経験する瞬間なのだと思う。

そういうときに「いろいろなことを考えてみる」「ひとつひとつ考えなおしてみる」とよいというのは現実には小狡く一生を立ち回ってきた人間のたわごとで、普通には、ただのナマケモノの習性を発揮して「考え」たりしていれば、事態はますます悪くなってゆく。
どうすればいいかといえば、解決策はただひとつで、とにかく玄関のドアを開けて太陽の光のなかへ、あるいは降りしきる雨のなかへ、物理的に出てゆく以外にはない。

スーパーマーケットの掲示板から千切ってきた電話番号をにぎりしめて電話口で必死で自分を売り込んだり、就職の知恵を書いた本を買うときに本屋のおねーさんに「がんばって」と励まされて、「頑張って」て励まされるなんて最低で、でも屈託のない笑顔は少しありがたいと心を和ませたり、乾いた町の通りを乾いた唇とかさかさの肌で大気をこすれあわせながら歩いてみる。

手足を、からだを動かして、どこまで自分の体が動き続けていられるものなのかを試してみる。
人間が機械でないのは、なんて残念なことだろう、とつぶやいてみる。

機械なら泣いたりしないですむのに。

やがて、肉体の疲労のなかで、自分の体そのものが街の風景のなかに溶けて、自分が自分でない、この風景のもののけのように感じられるようになってくると、突然、きみのまわりに、きみに似たもののけたちの姿が見えるようになって、でもそれが、ひとりひとりが仲間で、自分がひとりではないんだ、みなこの漆喰のなかで声を殺しているんだと気がつくときがくる。

それに気づくことこそが最大の生活防衛策で、まだ会ったことのない親友に必ず会える日がくることを理解することが、もっとも自分の一生を安全にすることなのだと思うことがあるのです。

信じてもらえないかもしれないけど


崩れ落ちかけている橋をわたる

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ロンドンで法廷弁護士を職業にしている友達の日常を観ていると、「やらなければならないこと」に優先順位をつけていって、20くらい「緊急な」仕事があると、そのうち3つくらいこなせればいいか、ということになっている。あとの17個は緊急なのにどうするのかというと「出来ないものは出来ないのだから仕方がない」という「居直り未決箱」にいれて家に帰る。

溺死寸前、というのが21世紀の人間の姿で、余裕で5時に仕事を終わって家に帰るほうは、今度は収入の面では、「ほんとにこれで食べていけるだろうか?」というところに留め置かれる。

日本がいまどうなのかは、ぼくがいるところからは見えない。
もともと日本とのつながりが、いま50代の義理叔父と、その友人からなる、この記事でずっと使っている呼び方でいえば「トーダイおじさん」たちくらいしかないからで、この人たちは、チョー楽というか、高給で、割とヒマをこいていて、リタイアしても、あれやこれや、月30万円くらいは年金があって、その上に株の配当や、自社株のストックオプションや、年収の話を聴いていると、3000万円くらいはあって、若い世代のビンボ話が出ても、「そりゃ、たいへんだねえ」という、上品だが、間の抜けた感想しかないもののようです。

だからいまどうなのかは、ちゃんと見えないが、インターネットいっぱいに広がっている、うめき声や、呪詛、なんとか苦境を笑いのめそうとする努力、というようなものを観ていると、事態は「たいへんだねえ」というような、のんびりしたものではありえなくて、一方、この「たいへんだねえ」が改善されれば、今度は英語圏型の、仕事能力はどう頑張っても、てんぱっても、30しかないのに、仕事量は100は優にある、という事態に移行していくだけに思われる。

実力型、競争型、生産性が低い人間は死ね方式にしないと、最早、どこの国であっても国が立ち行かないからで、アベノミクスなどと囃して、ナマケモノたちが、これいいな、絵に描いた餅うまそーじゃんで、机上の経済プランに浮かれているうちに、また解決が先にのびて、トーダイおじさんたちはいいだろうが、若い世代には、何トンという鋼鉄の塊のような負債を背負わせて、しっかり頑張ってね、ということになった。
アベノミクスと無責任おじさんたちが呼んで浮かれているものの正体は、ゴールドマンサックスのアナリストのご託宣を待たないでも、ただの通貨の減価による経済振興策で、それにカッコイイ名前をつけて、頭の弱い人間を踊らせて心理的効果を狙っただけのものである。

アベノミクスを個人の視点からではなく社会の側、全体経済の方角から「これって、いけないんですかね?」と言われて、「ダメですね」と言い切るには複雑なことを述べなければいけなくなるのは、そのせいで、日本が加工貿易国である以上、多くの設備投資が海外で行われていても、円が安くなれば、あたりまえだが、少なくとも円建ての業績は上昇する。
株価もあがる。

あー、株価あがったーと思ってぼんやり眺めているひとびとの財布から、オカネがどんどん出て行って、いまは、日銀によれば、実効貨幣価値だと、ついに70年代と同じになったそうだが、どのひともこのひともビンボになって、ただ日本の支配層が持っている株価だけが少なくとも円建てでは上昇して、通貨の減価分を補い、ついでに言うと日本と英語圏の決定的な違いは、たとえばアメリカ人はむかしから株が大好きで、スーパーの店員も、保険会社に勤める事務員も、どのひともこのひとも株式を保有していて、株価があがれば、あるいはデビデンは日本語ではなんだっけ、配当があがれば、潤って、空疎なバブルのオカネも社会に薄く広く広がっていくが、日本では株式保有者の名義が安倍であったり麻生であったり、たとえば鳩山家ならば別荘もブリジストン一家のすぐそばで、あの辺りは軽井沢でもなかなか良いところだが、ときどき散歩の途中で、ふと考えて、この軽井沢の森のなかに別荘があるひとたちだけで日本の株式の8割とかあるのではないか、と妄想したりした。

しかも株価がいくらあがったところで、ダメで、日本には新世代産業がない。
造船をやっていたころは、渡り行く先は自動車と家電と決めていて、トヨタ、ホンダ、マツダ、ソニー、パナソニック、日本は80年代は、「VCRと自動車の上に浮いている国」と言われていた。
その頃、ヨーロッパやアメリカから観た日本は「国家社会主義経済」であるというのが常識で、「おそるべきMITI」と渾名のついた通商産業省が司令塔で、ああだこうだ、おお、うんと言ってくれるなら、わし大蔵省に行って交渉してくるわ、で、官民一体、アメリカに対しても、勝てるもんなら勝ってみい、だったのは、アメリカはなにしろ、自由主義経済で、やることはてんでばらばら、集中力がなくて、だらしないというか、太平洋戦争で、あまりに統制がひどいので、日本軍将校は丘の上から敵を観望して、「おれがいって気合いをいれてやりたい」と考えたそうだが、それと同じことをアメリカの会社を観て考えたりしていた。

自動車と家電の次はコンピュータとインフラ輸出と決めていて、まぜ半導体で、ほんとうはスペースインベーダーのコピー機用にやくざに売りまくったのだが、そうでなくて、大型電算機に売ったことにしたメモリと、原子力発電やダム、地下鉄や高速道路の輸出で、はっはっは、左団扇、というのが官民の目論見で、ODAのような、実質日本企業に発注先が限定されていた、なんちゃって「援助」も恩着せがましい顔で、インフラをどんどん輸出するという国家社会主義経済の国でなければ出来ない離れ業だった。

そういう大規模な加工貿易の工業立国をやるには巨大な資金がなければ出来ないが、東芝を例にあげると、社名の東京芝浦電気は、東京電気と芝浦製作所が合併して出来たが、4年に一回、なぜかオリンピックの年にやってくるチップ相場の大波には東京電気が乗って狂ったように稼ぎ、残りの3年は芝浦製作所が騰がりくるう土地を売買して殆ど不動産会社にして稼ぐ、というふうにして巨大な会社の屋台骨を支えていた。
ホンダのような会社は政府も手伝って、「工場用地」をどんどんどんどん買いあさって、工場用地の選定の第一の基準は「土地の値段が騰がること」で、アメリカにおけるマクドナルドと同じ商売みたい、というか、価格が騰がった土地を担保にまた「工場用地」を買って、よく考えてみると不動産業だが、そうやって「技術の階段」を駆け上っていった。

ところが、バスケットがひとつだと危ないと数学は教えている。
国が強力に指示してミニコンを捨て、ワークステーションを捨てて、パソコン?あんた頭おかしいんちゃうか?あれはオモチャでしょうが、アップルIIでどうやって仕事するの?それともオカミにたてつくのか、で、大型電算機にいれこんで、あんたはここ、そこのあんたはこの会社と技術を盗むアメリカ側パートナーまで世話して、女衒みたいな下品さで、IBMスパイ事件を起こしたりしながら、資源を大型電算機に傾けていったが、これが大外しで、ありえないことに世の中はパーソナルコンピュータに向かって走っていってしまって、日本は渡ってゆく先の産業を失ってしまった。

しかも、ここまで書いたイメージではコンピュータのサイズのハードウエアの問題みたいだが、実はそうではなくて、もっと悪いことにパーソナルコンピュータはネットワークと一緒にやってきて、日本の産業社会には、これがパラダイムシフトで、社会の土台ごと動く思想的な大跳躍であることが判らなかった。

幕末にアメリカに渡った日本人たちの最大の謎は百科事典で、「こんなになにもかもばらしてしまったら、アメリカの家元たちはどうやって稼ぐのだ」と訝しんだそうだが、もともと「シェアする」という考えがなかったことが原因のひとつだと思うが、情報伝達の速度を極限まで速くして、組織の形態のほうを集散を簡単に行えるようにする、という発想は、到頭最後まで理解されなかった。

もうひとつITのパラダイムシフトが起きることを邪魔したのは、日本の「民主主義」への、いまでは英語世界には知られた誤解で、日本では民主主義的手続きは「全員が納得するまでよく話しあうこと」なのである。
よく考えてみなくても、これは全体主義そのもので、しかも全体主義であるのに決定に時間がかかるぶんだけ間が抜けているが、幕末の老中会議などを観ると、どうやら、日本人の体質的な決定方法で、伝統的な合議方法が民主主義の意匠を着た結果、そうなったもののようでした。

モニさんが帰ってくるので、今日はもうこの辺でやめようと思うが、「アベノミクス以外にありえないのではないか」と述べる人は、要するにただのナマケモノで、テキトーをこきながら社会に寄生してきたひとたちであると思う。
観ていても、なんだか「努力」ということを知らない人が多くて、たとえば大学で十数年訓練した初めてできることを、「3ヶ月やってみたら出来ました」というようなことを平然と述べる。
「大学みたいなところは、それだけ機関として出来が悪いから」という。
ま、大学などは阿片窟みたいなものなので、それはそうなのかも知れないが、いくらなんでも、そこまでひどくはない、自惚れてはいけません、自信過剰はカッコワルイぞ、と思う。
日本では首相も、そういうところがなくはなくて、なあああんとなく腰が座らずにそわそわして、眼が、どっかヘンなところに焦点を結んでいて、情勢の説明に行くと、携帯をいじりながら、あっ、そう、じゃ、もう適当にスピーチつくるしかないんじゃないの?
と述べていそうなところがある。
なんだか言葉が、つるりん、と上滑りしている。

1949年に日本にやってきたジョゼフ・ドッジは、「日本の経済は両足を地につけていず、竹馬にのっているようなものだ」と述べた。
片方はアメリカの経済援助、もう片方は国内の補助金制度だというのです。

このジョゼフ・ドッジが日本に押しつけた経済政策によって戦後のハイパーインフレは収まったが、ドッジ不況がおこり、株価は85.25円までさがって、日本人はひどい耐乏生活を強いられた。

その耐乏生活は、しかし、その後の高度成長の準備にもなった。

日本社会の「緊縮政策嫌い」は、もしかしたら、そのヘンの記憶にあるのかなー、と思うが、
いまは浮かれても、アベノミクスではやはりダメで、結局は、誰がなにを言っても、もういちど富の分配を見直して、富裕層からオカネをもぎとり、若い層にオカネを移転しながら、アベノミクスの失敗でオカネをつかいはたしたいまでは、耐乏生活に耐えながら、新産業を育てて行く以外には道がない。
最も「痛み」がある政策としては、やはり年金制度を廃止しなければ根太がぬけて、国ごと沈没するだろう。

たいへんなことだが、何度も繰り返しているとおり、いまの時代には、「めんどくさいから住む国を変える」という方法がある。
アベノミクスのようなケーハクに付き合って、ここまで国をボロボロにしたおっさんたちの汚いお尻をぬぐう(←ひどい表現)のが嫌ならば、さっさと国を出てしまえばいいので、このぶんだけは、むかしの、たとえば1930年代に生きていた若い衆に較べれば、国際社会が生んだ特権というか、人間が文明化したことによって生まれた特権というかがあって、「恵まれている」と言えば言えないことはない。

その特権も行使しなければ、それはそれで生き延びる道はあるに違いないが、もうすぐモニさんが帰ってくるので、どうやってサバイバルしていけばいいのかは、またこの次にしたいと思います。


反サバイバル講座

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時間をつくりだすことは未来をつくりだすことと同義であるのは、いろいろな人が述べている。
若いときには「食べられればいい」と思うのがふつうで、食べることができれば、あとはどうでもいいです、という態度も、じゅうぶん許容できる態度であるとおもう。

ここからは、とんでもないことを書く。
いつもは「公約数的なきみ」を想像しながら書いているが、今日はそうではないからです。

日本では「柴戸を閉め庵を閉じて」暮らすという。
無責任おじさんたちがボロボロにしてしまった、いまの日本に住んでいるとしたら、そうしてぼくが20代の日本人であるとしたら、案外、世界をシャットアウトして暮らすかも知れない。
それでは食べられないではないですか、と訊かれたら、人間がヤケクソになって餓死できるかどうかやってみる、と応えるのでなかろうか。

戦争が終わったとき、坂口安吾は「堕落論」を書いて、「堕ちるところまで堕ちてみればいいのだ」と書いたが、このジャーナリスティックな才能があった作家は、人間性について誤解していて、いったん堕ちてみれば、堕ちていく底などというものはなくて、フリーフォールで、人間の堕落には「底」などはないのは、ロンドンやマンハッタンの普通の人間は足を踏み入れない場所に行ってみればすぐに納得される。

たったいまの、この世界でも、一切れのパンのために身体を売り、わずかな白い粉のために這いつくばって相手の性器をよろこんで口に含む男達などは掃いて捨てるほどいて、人間でなくなってもまだ堕落の先があることなどは、坂口安吾のような終生職業とともにある人生しかしらなかった人には想像がつかなくても、場末の街角では、ほとんど常識にあたることなのだと思う。

そういうことをすべて承知したうえで、物質世界の思惑などは捨ててしまう、という選択は常にある。

日本でこれをやると、まず初めに電気が止まるそうです。
床に寝っ転がって、「荘子」を読んでいると、ざっざっざっ、という作業靴特有の堅実な重い音がして、ガンガンガンと階段をあがってくる音がする。
バチッという音がして、電気が切れて、本を読もうにも読めなくなる。
冷蔵庫が冷気を失って、なかのものが室温に近づいていく。

それから電話が切れたそうです。
このひとの話は、ずっとむかし、携帯電話など存在しなかったころの話なので、いまの参考にはならないが、電話がかかってくると、向こうの声は聞こえるが、こちらの声は聞こえない。
そのまま、ほうっておくと、向こうの声も聞こえなくなったものであるらしい。
だいたい3ヶ月くらい請求を放置しておくとそうなる。

ガスがとまる。
感心なことに、日本社会においては水道はなまなかなことでは止まらない。
水が飲めなくなると死んでしまうからで、ぼくなどは、その話を聴いたときに、なにがなし、日本社会の「やさしさ」のようなものを感じて、感動した。

食べ物がなくなって、初めに起きたことは「胃がよくなった」というので笑ってしまった。
なにしろ、酒が買えないからね。
胃が健全になる。

3日くらいも食べないでいると、いよいよ「荘子」を読んで胡蝶の夢に耽ってばかりもいられないので、へろへろになりながら外に出てみると、よほど青い顔をしていたのでしょう、挨拶するくらいの付き合いしかなかった隣のおばちゃんが牡蠣フライをご馳走してくれた。

本能が働いて、牡蠣フライのカロリーが残っているうちに外へでていった。

結局、このひとは、このあとどうなるかというと、日雇いの土方から始まって、バイトに出て、自分のねぐらから半径5キロ以内で暮らすだけのひとであったのに、オーストラリアを経てアメリカへ移住してしまうが、それはともかく、別に堕落する必要はなくて、ヤケクソになってしまうと、意外と自分でやるべきことを自動的におこなうものであるらしい。

自殺衝動をもたなかった、このひとは、「もう死んでもいいから」と何度も頭のなかで考えたそうで、生きていけるなら死んでもいい、また電気がついて、ガスが使えるようになるなら死んでもいい (^^; と唱えながら、
「でも、なんにもないって、案外しあわせなんだよねー」と述べていた。
会社に入ろうとは、到頭いちども考えなかったようで、理由をたずねたら、なんとなく、それだけはやると終わりのような気がした、という答えだった。

突然、へんなことを言うと、人間が人間として生きていくためにゆいいつ必要なことは「集団と一緒に歩いていかないこと」で、これは絶対の決まりである。
前にも述べたが天然の災害のときですら、他の大勢の人間が逃げてゆく方向に逃げていけば、死ぬ確率は遙かに高くなる

生き残ったところで、企業なり社会なり国家なり、おおきな集団の「部分」としてでしょう。
きみが生き残るということの意味は、社会の側から世界を観ないで、きみの視界の中心にきみが立っているということでなければならない。
社会などは、どうしても「二の次」でなければ、きみ自身の存在がゾンビみたいなものにしかすぎなくなってしまう。

そのときの感覚のよすがになるのは、考えが足りない若いときの無暗に「柴戸を閉め庵を閉じて」、世の中のことなんか知るけ、をしたときの感覚の記憶かもしれなくて、もっとも自棄的に見えた半年が、あるいはきみの一生を救うのかも知れません。

学習の皮肉は、たいていの場合、ハウトゥーのようなものは人の一生を救わず、現実の生活になんの役にも立たないことに打ち込むことだけが一生を根底から救済することで、この不思議な因果は、ずいぶん昔から、さまざまな人が書いている。

人間はそもそも得体の知れない生き物で、それを判ったかのように書いている人々は、みな酷いウソツキであると思う。

得体が知れないからこそ、人間と人生についての浅い計算に立ったハウトゥー本などは、まるでダメなので、なんとか方式で外国語を憶えた人の外国語などは、いずれ話してみると失笑するしかないようなもので、「最少の時間で成果を最大にする7つの習慣」や、「心配癖をなおせば思考は現実化する」かも知れなくても、ほんとうにほんとうの「ハウトゥー」は自分の安全をすべて投げてしまうことにしかない。

だから必死につくりだした時間で、自分の一生に金輪際役にたちそうもないベンキョーをすることは、意外や、自分を物理的に救うことでもあるのです。

たったひとりで、命綱もなしに、降りていった意識の井戸の底で、きみは意外なものに出会うと思う。
その驚きが、結局は一生を支えきってしまう、ということも、よくあることなのだと思います。

暗がりに耐えさえすれば。


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医師になることが人生の保障になると思う人は、どうかしている、と前にも書いた。
枚挙的なことが嫌いな、哲学に向いた 若い人間にとって医学を勉強するのは地獄だろう。
医学に向かない人間が医師になる場合、取り得る道はふたつしかない。
自分の最善の友人たる自分自身に別れを告げて医師という社会的存在の仮面をかぶって、自分とは違うものになりおおせるか、医師であることをやめるか。

あんた、当たり前のことを言うのはいいかげんにしてくれ、と言われそうだが、人間には職業に対してさえ向き不向きがある。
医師としては、やることなすことダメで、おまえは人を殺す気か、とまで言われた若者が、歴史学に変わったとたん、別人になって、というよりも、本人と思わぬ邂逅をはたして、到底誰にも到達できない深い洞察を示す、というようなことはざらにある。

歴史は、そういう人間を必要とするので、もちろん社会の側もその能力に対して支払いをする。

エルウィン・ロンメルのように軍事的才能に恵まれる、という不思議な才能の持ち主まで存在する。
ロンメルは「イギリス人は頭が良い民族であるはずなのに戦場においては、どうしてこんなにバカなのだろう?」と真摯な疑問を記しているが、イギリス人がバカだったのではなくて、ロンメルが天才だったのである。
戦略はもちろん、局地戦闘においてまでロンメルは、ただ呼吸をするように易々とアイデアを生み出した。
迂回する。
ほら、ここにフランキングできる突出部ができる。
きみはなにを見ているんだ、ほら、この突出部をフランキングしてちぎり取ってしまえば、もっと遙かに巨大なバルジが、ここに現れるではないか。
三日でやれば空軍の優位とともに進めるだろう。
歩兵を伴わなければいいんだよ。
教科書どおりにものごとをすすめるのは愚か者のやることだ。

ロンメルはそういう調子で数倍の戦力をもつ連合軍を、翻弄して打ち砕いた。
軍事的才能はなかったが、軍事的才能を見分ける能力は十分すぎるほど持っていたウインストン・チャーチルは、破天荒にも、この敵国の将軍を激賞した。

ドストエフスキーは長編小説「賭博者」をたった半日で書いた。
大負けに負けたカシノから、日本語では「付け馬」という、負けの借金を取り立てる強面のおっさんが家までついてきていたからです。
ウソをついていた彼は、どうやっても書くのに一週間はかかる小説を一日で書いてしまわなければならなかった。

切羽詰まったドストエフスキーの「名案」は、世界で初めて口述筆記で小説を書くことで、ドストエフスキーは、このとき口述された言葉を紙の上の言葉に変えていった、知的な敏捷さをもった女のひとと結婚することになる。

ロンメルもドストエフスキーも、軍人・小説家という職業がこの世に存在しなければ、ただの凡人だったに違いない人達です。
それどころか、ドストエフスキーに到っては刑務所で一生を終えるひとだったでしょう。

職業が多岐にわたる現代では「ホットドッグをたくさん食べられる」という職業的な能力も存在して、身長173cm、体重58kgの日本人小林尊という人は「ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権」で6連覇することによって高収入を獲得することになった。
日本での評判と北米での評判を見比べてみると、どうやら、海外での評判のほうが高いようで、「大食いをスポーツに変えた」伝説の人として、空手における大山倍達というか、カンフーにおけるブルース・リーというか、そのくらいの声望はあるひとのようです。

ほかに大した能力がなくても、親が有名な人物で、他人にちやほやされるのが上手だ、という才能だけで食べている人びともいて、パリス・ヒルトンやニコール・リッチーのような異能のひともいれば、もっと親が有名な政治家だというだけで、本人にはこれといった能力がなくても、一国をとりしきる職業についている安倍晋三や麻生太郎のような人もいる。

どの人も、通常の見地からは、それがどんな才能なのか、うまく可視的に見えてこない点で、強い言葉でいえば「あぶく」のような才能にしかみえないが、もう働かなくてもいいくらい高収入をあげているので、やはりおのおのの不思議な職業について才能があるのでしょう。

このあいだの「反サバイバル講座」について、宮前ゆかりという、いいとしこいて不良な上に正義漢の人が「呼ばれた方向に行けばいいんだよね」と述べている

https://twitter.com/MiyamaeYukari/status/563768414276042752

その通りで、むかしは神様が呼んでくれたが、いまは神様は昏倒しているので、うまく「遠くから自分を呼ぶ微かな声」が聞こえる場所に自分を運んで、「正しい」ことをおおきな声で絶叫するひとびとや、言わずもがなの正義の合唱の向こう側から、途切れ途切れに自分を呼んでいる声に耳を傾けなければならない。

冬の夜、窓際の椅子に座って、どこへ行くという宛てもなさそうなベンキョーのあいまに、霜が付いた窓を開けて、オレンジ色の街灯がともった町を見ている。
クルマのエンジンの音がして、クルマのブレーキの音がして、酔っ払いが夜空に向けて叫ぶ意味のない叫び声や、救急車が走ってゆく音がして、いま聞こえたのは女の悲鳴ではなかったかときみを緊張させる。

夜更けの町の騒音のあいまから、低い、小さな声で、泣いている声がする。
きみは、びっくりして聞こえるはずのない「泣いている声」の方角に眼をこらしてみる。

朝になれば、きっと忘れてしまうが、そのときに聞こえたすすり泣く声は、ほんとうの声で、戦場になった自分の町で殺された母親が息子にとりすがって泣く声や、両親を失った幼い子供が毛布の下で声を殺して泣く声、
あるいは、競争の激しい社会で、どうすれば学歴もなにもない自分が生きていけるというのだろう、と怯える若者が流す涙や、自分には一生と言えるほどのものはなかったと考えながら死に臨んでいる老いた男の頬を伝う涙、
きみがたしかに聴いたと思ったあのときのすすり泣く声は、現実の声で、きみの心が世界に向かって開いた瞬間に、きみの心にとどいてしまったのだと思う。

その声がおおきくなる方角へ歩いていくのが良い。

社会というジグソーパズルには寸分たがわずきみの形をしたピースが空いたままになっていて、きみがくるのを待っている。
自分の短い経験からいうと、特に自分のほうから探しに行く必要はないようです。
「聴き取りにくい声」が聞こえる魂には、自分が行くべき方角も次第に明瞭にわかってくるものであるらしい。
右往左往をやめて、自己満足にすぎない正しいことの合唱に加わるのもやめて、ひとりでいよう、ひとりで耳をすまそう、と心に決めるのがよくて、聴き取りにくい声が聞こえはじめてしまえば、およそ、「どうやって生きるか」というような疑問は、どうでもよくなってしまうもののようです。

さあ、声がするほうへ。
光へ


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