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Channel: ガメ・オベールの日本語練習帳_大庭亀夫の休日ver.5
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新年の手紙

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千鳥がほんとうはフランス語で書く童話作家なのだと知って、ああ、なるほどな、と腑に落ちたのをおぼえている。
ツイッタの日本語タイムラインで出会った、日本で生まれて育った人が、フランス語の本をつくって出版することによって生計をたてているのを知って腑に落ちるのはいかにも奇妙だが、千鳥の場合は、なんだか、だいなかよしの静かで風変わりな日本人の友達の生業として、ぴったりだと考えたのをおぼえています。

初めは、どんなふうにして、お互いを認識したんだっけ?
ぼくがおぼえているのは、その頃はクロマニヨン人たちの洞窟だということになっていて、ずっとあとになって、実はクロマニヨン人だけでなくてネアンデルタール人もいたのがわかったスペインの洞窟、Cueva de El Castilloに出かけたときの記事

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

を書いたら、「ブログ記事を読んで行ってきました。いいところだった」という千鳥のツイートがあって、ぶったまげてしまったことがあった、あれが始まりだったのだろうか。

千鳥らしく、なんだかあっさりとなんでもないことのように言うけど、行ってみればわかる、あの洞窟は、とんでもない田舎の不便なところにあって、モニとぼくはBilbaoからクルマで行ったが、それでも遠くて、1時間半くらいだとは言っても、田舎道で、くたびれて、例のでっかい源氏パイがおいてあるロードサイドカフェで休んだりして、やっと着くような山のなかにある。

ぼくは内心で自分をヘンケン博士と呼んで、ふざけてあそぶくらいで、偏見をふんだんに持っている。
偏見って、思考を節約するためには便利で、
気取り屋?ああ、あのひとイギリス人だから。
ズケズケ言いすぎる?
だって、あのひとドイツ人だもん、で、なにも考えないで判断がくだせるので利便という点ですぐれている。
考える、という世にもめんどくさいことをする手間がはぶける。

人間の判断なんて、めったにあってることはないので、正しく観察するべく調整しても、一生懸命考えても、偏見による直観的な判断と有意な差があるとは到底おもわれないが、ともかく、ぼくには日本の人は電車とバスみたいな公共機関でしか移動しないという偏見があるので、ビルバオからまっすぐに行く電車もバスもないのに、いったいどうやっていったんだろう、と考えていたら、
「バスを乗り継いで行ったんだ」と応えて、恬淡としていた。

あの洞窟がある山はね、もっと上にのぼってみると、そこに3畳敷くらいの平らなところがあるのさ。
そこで、まわりの景色を眺めて、ぼんやりしてきたよ、と書いてあって、道がなくて、そんなところがあるなんて考えてもみなかったぼくは、軽い嫉妬を感じました。

あんたは、ほんとうにニホンジンか、と訝った。
日本人が、そんなルールから外れたことをするだろうか。
ほんとは、わし両親の密命をうけたMI5のスパイなのではないか。

千鳥には顔と顔をあわせて会ったことがないし、年齢がいくつのひとかもしらないし、既婚なのか独身なのか、もしかしたら童話がベストセラーになって積み重なった黄金の延べ棒の山の一部を処分してつくった後宮(ハーレム)に美女をはべらせて、近代では許されない、あんないけないことや、こんな新聞にでたら道を歩けなくなるようなことをしているのかもしれないが、だいいち、このあいだコンピュータ雑誌を読んでいたら、World of Warcraftの参加者の少女たちは調査してみたら八割が中年のおっちゃんだったと出ていたが、逆に、おなじWorld of Warcraftの熱狂的なファンで、中毒になって、昼夜を忘れて熱中のあまり撮影をすっぽかして罰金を取られたりしていたMila Kunisは、ずっとむきむきな中年男になりすまして、パーティのなかの暴力男として畏怖されていたそうで、千鳥だって、真実の姿は、20歳の絶世の美女かもしれないし、数えてみると足が八本あるかもしれなくて、それはそれで、オンラインでしかしらない友達を持つたのしみなのだとおもいます。

現実世界の友達のほうが真の友だというのは、友達をもたない人の幻想にしかすぎない。
世の中にはオフライン会というものがあって、普段はオンラインでしか付き合いがないひとたちが、現実に顔をあわせて、一所にビールを飲んだりして交友を深くするものであるらしいが、千鳥は知っているとおもうが、
ぼくは、友情というものに興味がないんだよ。

むかしから友達はたくさんいるし、親友というべきひともいるけれども、それはやむをえない事情によって友達になってしまったのであって、できれば友達でないほうがよかった。

友達というものは厄介で、何年もあっていなくても、それどころか言葉を交わしていなくても、考えていることが手にとるように判ってしまう。
不幸も幸福も伝染する。
苦しみが通電されたように伝わってきて、自分のものでもない困難のせいで息が苦しくなる。
オンラインでもおなじことがあるようなんだけど、こっちは社会通念がネット友達という、つながりが軽い響きの言葉の影響を受けているので、いきなりブロックして、しらばっくれてしまえば、向こうは、なんだこいつ、と考えて嫌いになって忘れてくれます。
だから、楽であるとおもう。

むかしは、さんざん駆け出しのワカゾーのくせに偉そうだと言われて、最近は、あれはああいう人だということになって、うまいことにそれでいいことになってしまったが、仕事でも仕事以外でも、他人がぼくに会うことは至難だということになっている。
謎の首領ナゾーで、ビデオ会議でまで声だけだったりして、自分でもいったいおれはなにを考えているんだろうと呆れる。

心のどこかにあるのは、どうやら家系であるらしい厭人癖で、ぼくを育てるのに母親を手伝ってくれた、というよりも、はっきり言ってしまえば母親の代わりに世話をしてくれたひとが、あなたは子供のときから顔をみただけで相手がどんな人間かわかってしまうから、とよく述べていたが、仕事上たいへん助けになっているその能力は、友達ともなれば、自分にとっても相手にとってもたいへんな負担で、やめればいいのに、むかしは酔ってしまうと、相手が考えていることをその場で述べてしまったりしたので、恐ろしがられることまであった。

友達など、持たないにこしたことはない。

ところが日本語という外国語が媒介すると別で、考えてみればあたりまえだが、日本語で考えて行動するぼくは、たしかにぼく自身なのだけど、ぼくではない。
なんだか異なる人格で、しかも自分の場合は、多分、日本語がオンライン以外ではまったく使わない言語であるせいで、いよいよ現実世界にいる英語人格とは乖離してきていて、ぼくは、ほんとうは、….千鳥が気が付いているとおり…よく、日本語で冗談で述べる成熟したおとなそのままで、少し冷淡なところがあって退屈な人格だが、日本語では、日本語を使って書き始めたころのデタラメで無鉄砲な青年がまだ生きている。

で、ほら、論理的にならべてくると一目瞭然だが、日本語で思考している「ぼく」という存在は、実は千鳥たち、オンラインの友人に完全に依存している。
友達たちがいなくなれば、ぼくという人格自体が消滅するだろう。
かけがえのない友情というが、ぼくの場合は、友情の存在自体が、ぼくの存在でもあるのです。

ずいぶん長い年賀状になってしまった。
今年は、ずいぶん嫌な騒擾の年になりそうだけど、千鳥のことだから、淡々と、自分の魂のてっぺんにある3畳敷に腰掛けて、世の中を眺めて過ごせてしまうのではないかとおもっています。

いつも、なんだかぼんやりスクリーンの向こう側にいてくれて、ありがとう。
今年も、また、よろしく。

では


スーパーマーケットで考えたこと

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クミン、クローブ、カルダモン…店に入ると、まず右側に香辛料の量り売りの棚がずらり並んでいる。
おなじ赤唐辛子粉ひとつとっても、少しも辛くないものから、ほんの指先についた量ていどでも跳び上がるほど辛いものまで、何種類もあります。

左側は野菜。
インドの人が大量に使用する、タマネギや茄子、トマトが、ほおれケチケチするな、という気持で、どおおおーんと積まれている。

Lotusという名前から、出来たばかりのときは、タイ人たちのスーパーマーケットだとおもっていたが、入ってみると、インド食材店で、日本のスーパーマーケットの倍はありそうな店内に香辛料からヨーグルト、インドの人たちが大好きなビスケット、ヌガーの類まで、インドの人たちが食生活に使うものはなんでもかんでも、例えばヨーグルトならヨーグルトで8種類も10種類も置いてあって、冷凍庫にはトースターで簡単に焼ける、日本で言えばどら焼きくらいのおおきさのロティから、本格的なおおきさのロティまで並んでいて、米は米で、ありとあらゆる、と言いたくなるほど多種類のバスマティライスが並んで、大好きなブラウンライスも、ここにくればいかにも高価なお米らしく瓶に入っているのではなくて、20kgの袋詰めもちゃんとある。

客は肌が浅黒いインドの人ばかりで、見ていると、すれ違い方まで西洋人の作法とは微妙に異なっていて、あれだけdiversityに満ちた国で、最大公約数な作法があるのかないのか、それでも異邦のひとにしかすぎないこちらから見れば、いかにも「インド的」なルールがあって、見ているだけで楽しくなってしまう。

客も店員も楽しそうで、置いてある食材の使い方がわからなくて、店員に訊いたりした日には、客も加わって、皆で即興の料理教室を開いたみたいになることさえあります。

浮き浮きしていて、スーパーマーケットであるのに、毎日の買い物というものが、本来、いかに楽しい娯楽であったかをおもいださせてくれる。

去年、ペナン島のペニンシャラホテルに逗留していたときに、戦前のイギリス上流階級かなにかになったつもりなのでしょう、勘違いして、まるでマレーシア従業員たちの主人然とした傲慢な態度で振る舞うオーストラリア人たちに見ているだけでうんざりして、話しかけられたりして迷惑なので、余計なお金を使ってウイングも変えてもらって、のんびりしていたときにおなじフロアだったのがサウディアラビアとインドの家族で、両方の家族ともたいへん善良な気持のいいひとたちだったが、とりわけムンバイから来たインドの人達は楽しいひとたちで、ときどき一緒に昼ご飯を食べたりしていた。

インドのひとは、男も女もおしゃべりが大好きである。
むかし、日本にいるときに、航空券の手配をお願いしていたAirNZのひとは、チートラ(仮名)という人だったが、もう、もんのすごいおしゃべりで、しゃべってしゃべってしゃべりまくって、チケットの話であったはずなのに、いつのまにか旦那さんの話になって、息子の相談になって、しゃべることがなくなってくると、だんだんほんとの話になって、祖父の悲劇的な死に至ったりして、いちどなどはチケットを二枚買うのに2時間ちょっと話をしていた。

このインドの家族のひとびともたいへんに、お喋りが好きで、数日するうちには、身元素性から家族全員の現況に至るまで、ことごとく把握できるようになってしまったが、このときに、むかしから謎だったマンチュリアンソースについても教わった。

カシミールの東にアクサイチンという日本の九州島くらいのおおきさの地域があって、漢字では悪妻珍と書くのかとおもったら阿克赛钦であてが外れたが、1950年代からたびたび小規模な武力衝突があって1962年には「武力衝突」という表現が詐称であるような本格的な戦争に発展した。

中国の国境周辺での伝統的な外交政策は、軍事的に十分に勝てる見込みが立つまでは積極的に相手と友好を謳って、伯仲してくると、ひた押しに、というか、牽制されてもめげずに地域調査を繰り返し、相対的な軍事力が優勢になると小競り合いを起こして、これでもう絶対に勝てるとなると一挙に軍勢を繰り出して制圧する、というやりかただが、インドは中国の外交政策を熟知しているので、もっかは小競り合い直前の段階で兵力を増強して、牽制して、発砲を禁じている。

最も最近の小競り合いは2017年で、ドグラム高地に道路を建設しようとする中国軍とインド軍のあいだでなんどか衝突があったが、武器は、そういうわけで「投石」でした。
インド兵と中国兵が部隊規模で相手を罵りながら石をぶん投げ合っているところを想像すると、マンガ風で可笑しいが、ほんとうは深刻な事態で、銃火に至ってしまえば、お互いの国をにらみあっている中距離核ミサイルの応酬にまで一気に発展しかねない現実が兵卒レベルまで認識されているという背景がある。

インドと中国・パキスタン連合軍の緊張は、そこまでいっていて、
ちょうどペナン島にいるときも、テレビをつけてみたら、中国とインドの高官同士がマレーシア人の司会で、テレビの討論番組で、文字通り口角泡をとばして、すさまじい論戦というよりも罵り合いをおこなっていたが、なにを書こうとしているかを知ると、きみは脱力するに違いなくて、国と国は啀み合いに忙しいがインドでは、ここのところずっと中華料理ブームで、インドレストランに出かけると、メニューの一角にはインドチャイナ料理というものがあって、インドチャイナはインドシナではないところがややこしいというかなんというか、その代表がマンチュリアンである。

インド人家族の奥さんにマンチュリアンソースのレシピを教えてもらったら、
ケチャップと酢と醤油とタイ・スウィートチリソースだった。

ああ、それで!
と納得する、わし。
インドスーパーマッケットの棚には、中国料理食材のコーナーなんてないのに、たいてい醤油や米酢、スウィートソースだけは忽然と並んでいる理由がわかってしまった。

野菜、ヨーグルト、スパイス、ロティ、ついでにパニプリの元になるおもちゃの硬貨みたいな、なんという名前か厨房に行かないと判らないので、めんどくさくて、いまは判らないキット、なぜかニュージーランド系のスーパーマーケットよりもずっと安いオレオ、でっかい缶に入ったグラムジャム、チックピー、アーモンドやカシューナッツ、マンゴーチャツネ、ライムのピクルスと買い込みながらモニとふたりでトローリーを押して、使い方がよく判らないものがたくさんある棚を眺めて歩いている。

チェックアウトカウンタに並ぶと、目の前に、いつか見た踊るDevi像そっくりの若い女の人が、クレジットカードで支払いをしているところで、失礼にも、くすっと笑ってしまう。
モニが、横で、ふざけて、にらんでみせている。
ああ、そう言えば、あんなにずっと前のことなのに、あのDevi像はモニと一緒に観たんだったな、と考えて、なにがなし、暖かい気持になります。

駐車場では、インド人友に会った。
「バーフバリ、観た?」
と言う。
二三年前インド映画のあれこれについて話して遊んだときに、Baahubali観るといいよ、面白いんだよ、すごく、と述べていた。
観たけど、あんまり好きじゃなかった、と述べると、
ははは、ガメはThe Lunchboxみたいなのが好きなんだものな、仕方ないね、とバフバリが大好きでも、The Lunchboxが最高のインド映画だということについては意見が一致するインド友は、あっさり、そうですか、という態度です。

Nimrat Kaur、Airliftにも出ていたよ。
おお、ガメ、あれも観たのか。
インドでは有名な実話なんだよね、あれ。
うん、そうらしいね。

Nimrat Kaurは「間違った列車に乗って正しい駅に着く」The Lunchboxの子供を捨てて駆け落ちする妻の役の女優です。
Airliftはイラクがクウェートに侵攻したときにイラクの軍隊に取り巻かれてクウェートに取り残された17万人のインド市民脱出の実話に基づくボリウッド映画。

またね。
じゃあ、また。

一日の、普段の、なんにも変わったことのない情景。
20歳のときなら、退屈でやってられないと考えたに違いない午後のひとときであるのに、クルマに乗って、高速道路に乗る頃には、なんだか得体の知れない幸福感が胸いっぱいに膨らんで、隣の席のモニさんのほっぺたにキスしてしまった。

ガメ、前、見ろよな。
危ないじゃない。

ははは。
あんたに言われたくはない

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/22/continent/

1月の、真夏の、誇らしげな太陽の光が、透明で硬質な青さの空を満たしている。
ときどき、自分がどれほどこの世界を愛しているかに気が付いて、あまりのマヌケさにどぎまぎしてしまうことがある。

世界は、なんて美しい、楽しい場所だろう。

韓国と日本と

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韓国人と日本人の違いが、よくわからない。
違うのは判るが、その異なりかたは、スコットランド人とイングランド人よりは小さいのではないか。

日本の人のほうが5年間11回にわたる大遠征とかなんとか、いまも軽井沢の森のなかに昂然と建っているはずの十全外人碑にしるされているとおり、何度か長期滞在をしているので、より近しく感じられるが、映画やネットフリックスのテレビシリーズでみると、韓国の人はなんだか日本の人のようである。

もちろん、わしくらいぼおおおっとしていても、目に付く違いはある。
韓国の人は日本の人に較べて、感情が激しやすいらしい。
上司が部下を叱っているうちに、だんだん感情が激してきて、ほっぺを張り飛ばすシーンは、韓国の映画やテレビには、すごくよく出てくる。

いけいけである。
どんどんいっちゃえ、というところが韓国の人にはあるらしい。
ビジネスにおける投資では東芝が5円を100回投資しているあいだに、サムソンは500円を元手に5000円を借りて、一挙に全部半導体の新工場に賭けてしまったりしていたのは、誰でも知っていることである。
余計なことをいうと、東芝も富士通も日立も、日本勢は、「あんなイケイケ投資をやっていれば必ず失敗する。韓国が半導体から撤退する日は近いだろう」と冷笑していたが、潰れたのは自分たち日本勢のほうだったのは記憶に新しい。

…新しくもないか。
むかしアップルの新しいコンピュータを買ってくると、なかを開けてメモリとハードディスクがどこのものかを見るのが、真っ先にやることだったが、最後に日本製を観たのは、子供のときに買ってもらったIIciではなかったか。

こっちは民族性の違いというより歴史性の違いではないかとおもうが、韓国の人は観察していると、戦前の日本人って、こういう風だったのではないか?とおもうことがある。

いつかクライストチャーチのゴルフレンジで、いえーい、タイガーウッズ打ちじゃあーん、これはリディア・コーと叫びながら、やくたいもない、いろいろなプロゴルファーのスウィングをマネして遊んでいたら、隣のケージのおっちゃんが、なぜか韓国語で絶叫している。

ダメ、ダメ、ダメ!
そんな打ち方ではダメだ!!
おれの教えたとおり打たないとダメじゃないか!

というようなことを述べているらしい。

やおら起ち上がって、会社の部下とおぼしき青年の、なかなか色っぽくなくもない細い腰に手をまわして、「ほら、こうだよ、こう!」と腰のひねりかた、動かしかたを指導しています。
なにがなし、他人の閨房をのぞいているような気分になって目を逸らさないといけないような妖しい雰囲気である。

honchoという。
歴とした英単語で、いまMerriam-Websterでみると、

BOSS, BIG SHOT

と意味が書いてある。

グーグルでは、

A leader or manager, the person in charge

なんて書いてあります。

日本語の「班長」がもとなのは、言うまでもない。

戦争中に捕虜収容所における日本兵のヒエラルキイの観察から、どうやら「班長」が現場の実権者であるらしい、というGIの観察によって生まれた。

いつもの悪い癖をだして、余計なことをいうと、この「班長」はしかし、戦後日本語の「班長」とは意味が微妙にずれていて、戦前の語義語感どおりの「班長」は例えば経産省の役職名のなかに残っている。

韓国版honchoさん、熱血です。

それはともかく。

そのゴルフを教導して、妙にベタベタと肉体に触られながら淫靡に指導し指導される姿が、いかにも旧帝国陸軍の下士官と新兵風で、なんて面白いんだろうと見とれてしまった。

他にもいろいろと、多岐にわたって「日本みたい」と思うことがあって、例えば映画をみていると、若い女の人に中年のアブラが多そうなおっちゃんが、「おらおらおら、言うことを聞けば、これがおまえのものになるんだぜ」と手の先でひらひらさせているものを見ると、な、ななななんと、「銀行通帳」であったりする。
見ているほうは借金を背負わされ、露出した歩くチン〇コみたいなおっちゃんにおらおらされて、いまや絶体絶命の貞操の危機にさらされているヒロインの運命のことはすっかり忘れて、「あっ、韓国も銀行通帳があるんだああー」とマヌケなことを考える。
デザインが三菱UFJ銀行そっくりである。
ディズニーのキャラクタが表紙に付いてないけど。

現実の韓国の人と話していて、最も「日本人と似てるなあー」と思うのは、やたら「XX国人の民度」の話をしたがる点で、不気味なくらい日本の人に似ている。
わし友の奥さんである韓国の女の人などは、最たるもので、夕飯に呼ばれたりしてモニとふたりで出かけていくと、必ず一回は「最新民度ランキング」の話をします。

付き合いのごく初期は「アジアでは、残念だけど、韓国は日本に負けてるわね。日本人は、やっぱりどうしても韓国人よりも勤勉で、決定的なのは教育を大事にして、若い人を育てることを知っている。この世界は、やっぱり勉強する人間の勝ちですから」と、ニュージーランド人が聞いたら、床に穴を掘って頭を突っ込んで下半身を宙でジタバタさせたくなるようなことを言う。

それが二年前には、「日本と韓国が、ちょうど並んでアジアでは最上民族だとおもう」
と言い出した。

最後に会ったときはシンガポール人がいちばん民度が高いことになっていたが、これは多分、シルビアパークのシネマに三回観に行ったはずのCrazy Rich Asiansのせいであるとおもわれる。
公開直後は、Henry Goldingがいかにハンサムでハリウッドの白い俳優たちなど足下に及ばないかを述べて、旦那をもじもじさせていましたから。

別の韓国友に韓国製の映画やテレビを観た強い印象として
「韓国ドラマはintegrityの物語がおおいよね」と述べると、ふふふ、という顔になって、
「韓国人はね、integrityきちがいが多くて、だから困るのさ」と不思議なことを言う。

わが国の伝統はだね、正義や倫理ばっかりにうつつをぬかして、ぜんぜん仕事しないんだよ。
困ったもんだ。
日本人と、だから差がつくのさ。

両班、というような単語が頭をちらつくが、知ったかぶりの半可はかっこわるいので、まさか口にだすわけにもいかない。
黙っています。

どうも、この日本人と韓国人がおおきく異なる部分は、儒教の影響のおおきさに原因している気がするが、まだ韓国語に熟達しないのでほんとうのところはわからない。

ところで、「なにかがちがう」と思うのはintegrityだけではない。
前にも書いたが、わしが日本語に興味をもったのは小津安二郎の映画が端緒でした。
映画として完璧であって、映画の神様が大船の松竹スタジオに降臨して、「映画の子らよ、わたしは、ここに、映画を語り終えた」と述べてでもいるような、圧倒的な世界は、ここで、この言語を学ばなければアホだんべ、と思わせるのに十分だった。

ところが。
ところーが。

いまの映画は韓国の映画のほうが数段おもしろい。
日本に最後にいた2000年代初頭は日本では「韓流ブーム」で、近所のおばちゃんは、ほぼ月に一回のペースで韓国に行っていたようだったが、そのときは、人気がある韓国俳優が、なんだかのっぺりした印象の外貌で、ぞぞっとするだけで、興味の起こりようがなかった。
女優さんのほうも、nice faceのゆで卵みたいな顔で、ぶもー、と考えるだけだった。

それがNetflixのStrangerという物語のつくりが粗っぽい、でも、integrityintegrityintegrityで、ぐいぐい押すドラマで、すっかり認識が変わってしまいました。
とにかく、おもしろい。
人間が欲望の泥沼に足をとられながら必死で生きていく姿が伝わってきて、フラメンコみたいというか、ストレートで、現代のクール文化を突き抜けてしまっている。

おお、これはおもろい、と考えて、
A Taxi Driver
1987
Taegukgi

と観ていくと、ちょうど黒澤明や小津安二郎の映画のように、韓国の人の魂の波動がそのまま伝わってくる面白さです。

荒削りでも、どんどんひた押しに魂のちからで迫ってくる韓国の映画に較べると、「韓国映画と較べて、どんな感じがするだろう?」と考えて観てみた、いくつかの新しい日本映画は、感情がつくりものじみていて、なんだか、すっと心に入ってこないものが多かった。
うまく言えなくてもどかしいが、そこで描かれているすべてのもの、感情、考え、運命そのものですら「底が浅い」感じで、小手先でひねってつくった人生のような、ほんとうにこんな生きかたを日本の人がしているはずはない、と感じる体のもので、半分は最後まで観られなかった。

最もショックをうけたのはIn This Corner of the World (「この世界の片隅で」)で、ふだん、ツイッタで考えを述べあって、共通点が多いのが判っている友達も皆ほめていて、振り返ると、「自分も好きなはずだ」と強くおもって観ているのに、どうしても、おもしろいと思えなかった。

スイッチが入らないというか、主人公の女の人に対してやさしい気持にすらなれなくて、びっくりもしたし、悲しい気持ちになった。
主人公がつくりもののようにしか見えないのです。

細やかに、よく出来ていて、なるほど丁寧にすべてを描いているのだけれど、例えば「火垂の墓」とは、なにごとかが決定的に異なっている。

アメリカのネットワーク局ドラマに続いて、カナダでも東アジア人ばかりが登場するテレビドラマシリーズが始まったのが話題になっているが、きみも知っているとおり、両方とも韓国人の家族が主人公です。
ゴールデングローブの主演女優賞をアジア人で初めて手にしたサンドラ・オーも韓国系の人で、もっと言えば東アジアのグループで初めて西洋の十代の女のひとびとを身体の芯から熱狂させたBTSも韓国の人のグループでした。

尤も、実をいうと、音楽についてはBTSを観ても、全然いいとおもわなくて、
へえ、こういうのが人気があるんだ、程度なのだけど。

前に書いたように、わし眼には、文学において日本語を殺してしまったのは80年代と90年代のコピーライター文化で、すぐれたマーケティングの才能の群れが日本人の魂を抹殺してしまった。
そこにあったのは、みんなでニコニコして異質なものをリンチにかけて嬲り殺しにする「楽しい虐殺」とでもいうべき文化でした。

そこで虐殺されたひとびとに対しての想像力をもたず鈍感であったことに、いまの日本語は復讐されている。

Integrityを明然と拒否して、強ければいい、儲かればいい、と剥き出しにされたへのこじまんで、その犠牲になるのが嫌なら、嘘でもいいからおれたち勝者の側にいるようなふりをしろ、というのがいまの日本社会でしょう。

それが魂が破壊された人間をうみ、魂を破壊された人間たちが呪詛のようにグラフィックデザインとコピーライティングで出来たようなプラスティックな物語を生産しつづけている。

大好きなトトロやSpirited Awayをつくった宮崎駿や、衝撃を与えた「火垂の墓」をつくった高畑勲は、そうおもって映画を眺めると、いかにも昭和のおやじが観た世界をそのまま描いた映画で、それは「昭和はよかった」というような話ではなくて、昭和のなにかが未来を殺してしまったのだというふうに、わしには見えます。

その日本社会で殺されてしまったなにか、魂にとても近しいものが、兄弟国の韓国社会では生きのびているのではないだろうか。

パンドラという「もし福島第一事故が韓国で起こったら」がテーマの映画では、例えば菅直人が行った決断は韓国の指導者では無理だという認識が示されている。
映画のあちこちで、「なぜ日本人に出来ることが韓国人には出来ないのか」という問いかけが繰り返しでてくる。

観ていて、韓国の人は日本が兄弟国であるのをよく知っているのだなあ、とおもうが、おなじ国情比較が好きな日本=韓国的な特徴であっても、話してみると、「ここは日本のほうが悪くてなおしたほうがいいとおもうが、こういうところは日本人のほうが、ずっとすぐれているんだよ」と話す話し方が通常な韓国の人達に較べて、日本の人のほうは
「韓国人はダメで悪い。どうしようもない」という粗野な言動に終始する人が多いようでした。

レーダー照射事件にしろ徴用工問題にしろ、現今の日本の人が思考の軸にずれを生じて、それがおおきくなって、話の要点がつかめなくなっていることの説明は、主要な英語メディアの論説をみれば、判るだけの落ち着きがある人ならば、すぐに判ります。

だから、ここでことさらに説明しないが、韓国問題を象徴として、アジアに完全に背を向けてしまった日本を、やはり残念におもっています。

友人として

ある欧州人への手紙

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「母親が部屋に入ってきたが、そこに私がいることには気が付かないようでした」
母親は、私を見ているのに、私の姿が見えないのです。
おかあさん。
私はここにいるのよ。
あなたの娘は眼の前にいるの。
なぜ、私をちゃんと見てくれないの。
なぜ…..

「わたしは娘がそこにいるのを知っていました。
でも、娘がいることだけがわかっていて、どこにいるのかは判らなかった。
娘がなぜ自分がどんな姿でいるのか見せてくれなかったのか、理由は判りません。
わたしは娘の名を心のなかで呼んでみましたが、娘は答えてはくれなかった。

…それからですか?
私はドアを閉じて、部屋を出て、そのまま家をあとにしてきたのです」

おぼえている会話はそれだけで、B級ホラー映画ということになるのだろうが、その会話だけを妙にはっきりとおぼえているのは、脚本家が意図していなかったはずの、親子というものの姿が、よく描かれているとおもったからだろうとおもう。

そんなヘンな映画の見方があっていいものか、ときみは笑うだろうし、実際、この世界は、世界の意味性というコンテクストのなかで生きているきみの言う通りなのだろうけど、ぼくはきみがよく知っているとおり、現実の世界よりは遙かに断片化された世界に生きている。

日本にいるとき、なぜ自分がこれほど能楽にひかれるのか理解できなかった。
母親も妹も父親も、歌舞伎のほうがずっとおもしろいと述べていたし、言いたい事は判らなくもなった。
歌舞伎の華やかさや物語の合理性は、とてもわかりやすい娯楽で、まるでよく利くマッサージのように気持をほぐしてくれるからね。

ところが、ぼくときたら能楽のほうが百倍も千倍も好きだったんだよ。
好きこそで、例えば、面を片手で覆う仕草が能楽では号泣を意味しているのだというような約束事も、説明される前から知っていた。

知っていた、というよりも、ほかに受け取りようがないではないかとわざわざ解説する人の顔をまじまじと見つめてしまったりしていた。

いまならなぜ自分が、たったの十歳の子供にしかすぎないのに、歌舞伎よりも能楽のほうがずっと気に入っていたか判る。

能楽のほうが自分が生きている世界のコンテキストに近かったからだろう。
歌舞伎や物語のように、起承転結があって、ひとつづきに現実が生起する世界にぼくは生きてきたことがない。

ぼくは刹那から刹那への飛び移る時間を生きていて、はたして自分が現実であるのか亡霊であるのかもはっきりしない意識のなかで、まさに、能楽のなかの、この世に未練を残して死んだ霊魂のように生きてきてしまったのだと思います。

霊魂が死んだら、なにになるのかって?
それは形を失った時間のすみずみまで広がった、緊張のない、いわば句点のない文のような生の広がりになるのだろう。

形がない生命。
人間の精神には耐えることができない、緊張も物語もない、ただの茫漠とした意識の広がり。

あるときからずっと、ぼくは自分が世界から意味性をすっかり抜き去って見ていることに気が付いていた。

どんなふうに言えば、うまく言えるだろう?
猫が見ている世界のようなものだと言えばいいだろうか?

哲学者は世界を考察するために生きているが、彼らの最大で致命的な欠点は、自分が「言語」を使って考えていることの恐ろしさをちゃんと判っていないことなのではないかとおもうことがある。

子供向けの伝記本にはガリレオはピサの斜塔から鉄球と羽根を落としたり、軽い球と重い球を落下させて落下速度の違いは空気の抵抗によるので、質量は落下速度に影響しないと見いだしたことになっているが、それは初めにその話をつくった本の書き手がワインを飲み過ぎた二日酔いでめんどくさかったか、〆切りに追われていたかしていたからで、現実にはもちろんガリレオ・ガリレイは、そんな杜撰な実験をしたわけではなかった。

角度がゼロの斜面からすこしずつ角度N(N<90)度の斜面を考えていって、直観的にもわかりやすい、傾斜を転がって同時に終点にいきつく球が90度になった場合が落下なのだと考えたのだった。

これは現実に実験したのですらなくて、すべて思考によったのだけど、ここで使われている言語は哲学者たちが使う言語と、おなじ自然言語であるのに明らかに異なっている。

いわば現実が直輸入された言葉で、現実そのものは「猫が見た世界」と少しも変わらない。

それが「言葉が存在しない世界」になれた自分には、よく判るのだといえば虫がよすぎるだろうか。

なぜそんなことをおもいついたかというと、小さな子供の頃から旅行ばかりしていたぼくは、まったくなにを言っているか見当もつかないひとたちがたくさんいるところで、でも文字通りちやほやされて、言葉というものを音として聴くことになれて、意味などはずっと優先順位が低いものだったからではないかとおもうんだけど。

時間に始まりがあって、それがリニアかつシーケンシャルに現在をつらぬいて未来へ向かっていくものだというのは、むろん、仮定にしかすぎない。
それは「人間がそういう観点から時間を眺めている」という意識の表明にしかすぎなくて、ほんとうは時間は未来から逆行してくる時間とのあいだでせめぎあって、ちょうど河口で川の水と満潮の水が至るところに時間の渦をつくったり、奇妙な方向に流れていたりするのかもしれないし、実は二次元で比喩できるものですらなくて、まったくn次元的なものかもしれない。

あるいは複素数的な表現こそが世界の実情にあっていて、実数的な世界観を持つわれわれは、素朴な観察のみによって世界を解釈した祖先がつくった言語にすっかりだまされているだけかもしれない。

余計なことをいうと、哲学者が有効な思考において、ますます文学者に似てきてしまったのは、つまりは、そういう事情ではないだろうか?

ではわれわれはなにを手がかりに生きていけばいいかというと、多分、それはある「寂しさ」であるとおもっています。

存在の寂しさ。
この世界をいずれは去っていかねばならないものの寂しさ。

真を知らず、善にめぐりあわず、不完全な美に満足して死ななければならなかった生物の寂しさ。

自分にとっては、犬も、さっき例にだした猫も、その寂しさだけは人間とおなじに、あるいは人間以上に、言語が介在しないだけ明瞭に判っていて、その寂しさをめざして生きているように観察してきました。

われわれは何千年か、何万年か、言語によって世界を認識してきたけれども、ほんとうは、それによって欺かれてきたのでもある。

むかし夏をすごしていた牧場で、夜更けに、ひとりでびっくりするほど濃い青色の月の光のなかを歩いていて、ふと言葉の外に歩み出てしまったことがある。

あるいは、「いま自分は言語の外に出てしまった」と感じられた一瞬があった。

そのときに言語がいかに世界と自分とを隔ててきたか知った。

どんなにあらゆる種類の音を避けて、静かな場所へ行こうとしても、人間は自分の体内から聞こえてくる音からはのがれることができないが、人間の存在が言語からのがれることが難しいことは、それによく似ている。

いまのところ、ぼくもモニも、欧州に帰るつもりはありません。
この手紙が、そのことに対するきみの怒りへの十分な返答になっていることを望みます。

少しは誠実でいるために、この手紙の草稿をぼくは日本語で書いたことを告白しておきます。

理由は、言うまでもないとおもう。

では

日本語の生活

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身に付けた日本語能力を、どうしようかと時々考える。
日本語はツイッタとこのブログにしか使っていない。
あたりまえだが家のなかで日本語はいっさい使われていないし、かーちゃんシスターの夫は日本人で、息子も日本語を話すが、最近はどういうわけかこのふたりとも日本語が混ざらなくなって、英語だけのほうが楽なようです。
義理叔父は日本語のほうが楽は楽なのだとおもうが、英語と日本語を切り替える力業は誰にとっても不自然な頭の働きで、日本語でずっと話せるのならいいが途中で英語に切りかわるくらいだったら初めから最後まで英語のほうが楽だ、ということなのでしょう。

最近は、というほうが正確だとおもうが、町でも日本人同士が、お互いに日本人だと判っているらしいのに英語で話しているのをみかける。
これも理由は簡単に判って、まわりと英語でやりとりしているのに、相手が日本人だと判ったからと言って「日本の方ですか? ああ、そうだとおもいました」に始まって、取り分けほかに人がいるときには、いちいち日本人に話す対象が変わったときだけ日本語に直すのがめんどうなのでしょう。
気持として自然である気がする。

ツイッタや日本語ブログも、以前は日本の人に話しかけるのに使っていた。
柄になく政治や社会についての話題も多かったのは、日本の人がまったく気が付いていないことで、ちょうど日本の社会にとって致命的になりかねないことがどんどん進行しているときにあたっていたからで、まさかブログやツイッタで微かでも日本語社会に影響を与えることなど出来るはずがないのは判り切ったことだったが、日本語をたまたま勉強して、英語ならcommitmentという、関わりがあれば、やらなければならないことが生じるのは、普通の人間ならあたりまえの感覚で、特にはてなとかいう鬱陶しいおじさんやおばさんがたくさん群れている集団には迷惑したが、ニセガイジンだのなんだの「捕鯨はやめたほうがいい」「男女の格差がひどすぎる」「冷戦構造がなくなったことを踏まえないと地政学上、どんどん不利な場所に追い込まれる」、2007年から2014年くらいまでの前半のあいだじゅう、冷笑や罵声を投げつけられまくりながら、何度も書いてきたのは、いま残っているブログ記事だけからみても明らかであるとおもいます。

そういう段階が過ぎた後半になるとアベノミクスという日本の経済構造を根底から覆す世紀の愚策に政府が乗り出したのに驚いて、もともと日本人など頭からケーベツしていて、アベノミクスみたいな他国ではとうの昔に否定された政策理論も、日本のようなやや未開な心性の全体主義社会ならうまくいくかもとちょっとだけ実験動物観察的な興味をもった程度のクルーグマンの「やってみれば」のひとことを「ノーベル賞学者のお墨付き」のように押し戴いて国の運命を賭けてしまうのはたいへんな間違いだと、前後十くらいも記事を書いたりして、そのあとは、日本の人がのんびりしているあいだに、ずんずん進んでいく全体主義化、あるいはそれまでは民主主義の皮をかぶせてあった全体主義の可視化について書いたりしていた。

親愛なるメグ @sakai_meg さんが、今日の朝、こう述べている

このくらいはバラしてしまってもいいとおもうが、メグさんはテキサスに住んでいる人で、アメリカ人のコピーに熱中して、その割にはアメリカ人が信奉する本質的価値は見落としてしまっている傾向がなくもない日本の人のなかでは、珍しいくらいたくさん本を読んで、頭と心のなかに充満した英語の圧力を利用して自分の頭で考えて行動することができる人です。

例えば政治信条に耳を傾けていると「メグさん、過激派なんじゃない?」とからかいたくなったりするが、イギリスでたくさん出会ったうすっぺらで読みが浅い進歩主義政治を信奉する日本移民のひとたちとは、また違って、メグさんの場合はくちにしないだけでアメリカ社会を通してみた人間性への絶望が「世の中をなんとかして変えなければ」という焦慮に駆りたてた結果であるように見えました。

こちとらは、と突然へんな日本語を使うのは、いまちょっと使ってみたくなったというだけで他に何の理由もないが、20歳余くらいまでは社会を変革しなければと考えていろいろと活動して、通りで石はなげるは、討論会で相手が顔をあおざめさせて怒りのあまりぶるぶる震え出すような言葉を述べるは、しまいにはわざわざ大西洋を越えてでかけていって、暴力をふるったりしていたが、こりゃあかんわになって、政治というものがドアの向こう側というかこっち側というかにしか、結局はないものだと考えるに至ってしまったが、メグさんは、希望を捨てていない。

ただ「早くに怒って落選させないと、手遅れになる」と述べたりしてるところを見ると、うふふふ、かわいい、とおもってしまうので、日本はもうすっかり手遅れで、社会が変わっていける点は通り過ぎてしまって、いまさらなにをやってみたところでとっくに手遅れですよ、とおもわないわけにいかない。

別に日本に限ったことではないが、政治的にマヌケな人間というものはそういうもので、日本がうまく立ち回って、狡猾という言葉は外交では褒め言葉だが、アメリカ相手に狡猾な立ち回りを繰り広げて、アメリカに対しては植民地のような顔をしながら、独立国としての実質を維持して、維持どころか、当のアメリカ自体に敗戦国日本に逆に支配されるのではないかと恐怖を与えるところまでいっていたことは、ブログには何度も書いた。

憲法第九条の終わりに
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/14/wherepeaceends/

葉巻と白足袋
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/27/shigeru_yoshida/

平和憲法という魔法の杖を捨てる
https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/07/02/wand/

ところが、そのあいだじゅう、「進歩的知識人」たちは「日本はアメリカの植民地に過ぎない」「日本はアメリカの属国だ」「アメリカの犬」とボロ負けに負けた敗戦国である自国の苦渋と知恵に満ちた外交を罵り続けて、政治議論という一国の社会にとっては最も肝腎な場所を糾弾でわめきちらす声と、その罵りをはぐらかす不正直の応酬の荒野に変えていった。
いざ議論が必要なときには、議論が交わされるべき町は風が吹き荒ぶ不毛の土地になりはてていた。

日本の社会ではタブーになっているが、オカネに眼がくらんで暴力団と結びついて早くから没落した正統右翼よりも、日本社会の天然全体主義ぶりに乗っかって立場主義つまりは相対主義から一歩も出ずに「敵の敵は味方」「人間性はダメでも味方は味方」に終始して大多数の日本人から呆れ果てられて信用を失った左翼の側によりおおきな現在の日本の戦前回帰に責任があるのは、日本から一歩でれば、日本語マスメディアの犯罪性と並んで誰でもが知っている。

はてな人たちの薄気味の悪い集団中傷を十年以上放置しておくことによって、自分たちの「リベラル言論」がいかに質のわるい人間—ほとんどならず者と呼ばれるべきひとたち—-によって担われているか、一緒に歩いてきてくれたひとたちは息をのむようにして見つめて、よく知っているはずです。

そうこうしているうちに、いつごろからと特定すべきか、日本は後戻りできる地点を過ぎてしまった。

いつか我が友オダキンが「どうもガメは、最近、妙にやさしくて怪しい。どうやら日本はもうダメだとあきらめているのではないか」と述べていたが、
ははは、ばれちったか、というか、他の人がこっそりおなじことをつぶやいているのも何人か眼にしたので正直に言ってしまうが、死期が定まった病人に「がんばれば治る」と励ますくらい残酷なことはない。

風来坊のガイジンに「言い過ぎだ」「そこまでのことはありえない」と暢気に述べていたことが悉くほんとうになってしまった時点で、「もう手遅れ」なのは考えてみれば、これも当たり前のことです。

ツイッタではよくドイツが曲がりなりにも再び国際社会に受け入れられたのは、戦後ドイツのアイデンティティそのものを「ナチの否定」「ナチズムの敵対者としての国家」に置いたからだという話をする。
自分はドイツ人だが「あの」ドイツ人とは違う。われわれはかつてのドイツ人とは敵対する立場なのだ、という考えを国民としての主張はおろか、国のアイデンティティそのものとして採用することで再生した。

だからきみがドイツ人で、「そうは言ってもナチにもカッコイイとこがあったよなー」と秘かにおもっている場合は、当時はまだ50万円がとこはした航空券代を払って日本の東京の、渋谷というところにある大盛堂書店の地下にあるミリタリーグッズ店まで、遙々でかけてオリジナルの軍装品を密輸しなければならなかった。

ドイツ人にとっては、彼らにとっての伝説のミリタリーショップが東京にあるのは偶然ではなくて、論理的必然性があることで、なぜなら、日本こそがかつてのナチの「お仲間の国」で、しかも日本のほうは彼らの祖国と正反対に、自分達のアイデンティティを戦前の大日本帝国からの一貫性に求めている。
ドイツ人とはまるで反対に日本人は世界最悪の帝国と言われた大日本帝国が意匠を変えただけで中身はおなじであることをむしろ誇りにしている。

ナチは残酷だったが日本は何万人だかのたいした数でないアジア人を勢い余ってちょっと集団強姦したり処刑したりしただけなので話が異なるのだと驚くべきことをマジメに言い放つ日本の人に何人も会ってぶっくらこいたのをおぼえているが、普通にはナチに勝るとも劣らない残虐行為に耽って自滅したと認識されている大日本帝国は、なぜナチがダメなのにおめこぼしになったかというと、そんな日本人に都合がいい理由ではもちろんなくて、ナチドイツが強大な国で、伝説の、地獄から姿をあらわしたブラックドラゴンそのままの軍事力の強さで、ヒットラーが犯したいくつかの素人っぽいマヌケな判断の誤りがなければ、いまごろはとっくにナチの世界になっていて、アーリア人だけが人間で残りは家畜というナチの夢の世界が実現していたはずなのに較べて、日本はそのドイツの尻馬に乗って「バスに乗り遅れるな」の、いとも品性下劣な標語のもとに各国の軍事力がドイツとの戦場に引き寄せられたあとに出来た真空地帯、インドシナ、インドネシア、東アジア、オセアニアに少しでも分け前を手にしようと火事場泥棒に乗り込んで行ったにすぎない、という事情がある。

アメリカの日本に対する認識は一貫して後年のサダムフセインのイラクやISISに対するのと似た「厄介だが取るに足りない悪の勢力」です。

だからアメリカのホワイトハウスや議会の関心は圧倒的にドイツの戦後に集中していて、日本は、アメリカ占領軍にすべてを丸投げしてすませてしまった。

日本の戦後民主主義の奇妙なくらいの投げやりで荒っぽい構成は、あれはつまりは「軍人が考えた民主社会」なのだとおもいあたれば簡単に説明がついてしまう。
ダグラスマッカーサーには、一国の未来に対するビジョンや洞察などはまったくなくて、ほんの数年先に自分の統治に都合がいい社会制度を採用しておしつけたのに過ぎない。

やっと食っていけるていどの非武装軽工業国家をつくるのが目的だったが、そこがビジョンのない政治の哀しさで、共産主義の圧力が高まり、冷戦が起こり、ついには38度線を越えてコミュニストの軍隊が押し寄せてくるに至って、泥縄に泥縄を注ぎ足して編んで、人材不足の苦し紛れに満州で戦犯として連行した国家社会主義者の一団(例:岸信介)まで無罪放免にして、なんだかヘンなものをつくってしまったのが戦後日本だった。

戦後日本のさまざまな制度上の矛盾、つじつまのあわない社会理念は、つまり、そうやって「出来てしまった」ものだった。

いろいろと表面を覆う夾雑物を取りのけて仔細に眺めてみると、芯のところにあるのは「もともと自由など必要としていない国民に自由を押しつけてしまった」という人間性というものへの理解を根本から欠いたアメリカ占領軍将校たちの態度に行き当たる。
日本人が信じたくないのは当たり前だが、アメリカにとってはもともと戦後日本は、「あんまり本国からオカネをもちださなくてもなんとか食料や軍需製品を自給自足できる国の体裁をとらせた巨大基地」にしかすぎないので、日本人がアメリカ人にはおもいもよらない悪知恵(というのはアメリカ人から見てのことで、日本人からすれば誇りにおもうべきだとおもうが)を発揮して80年代に自国を脅かす強国になったときには、どれほど慌てふためいたか、英語ではいくらでも記録があります。

ところが、かつて自分たちがスパイとして雇って首相をやらせていた人物岸信介の孫が、因果はめぐる糸車、日本の人気がある首相になるに及んで、また日本が自国の忠実な犬として働いてくれることに落着した。
しかも今度は食料と軍需品だけでなくて、兵士の供給もゆくゆくは日本現地で調達できる見通しになっている。

もともとが世界に名だたる好戦性で鳴らした日本人自身も、新しい事態を好感をもってうけとめていて、なんのことはない、全体主義日本とアメリカが共存共栄するためには、こっちの形のほうがよかった、ということに落ち着いている。

冷戦が終わって、新しい安定構造を模索していたのが、安倍政権の明示的な日本帝国の復活が日本人によって支持が表明されるに至ったことで落着したということで、歴史というものはこうなると安定してしまって、なかなか動かすことができないので、「もう日本が1940年代後半に一瞬夢に見た自由社会に戻ることはないだろう」と世界中が判断している。
それを悲しむのは日本にもひとにぎりはいる自由を求めるひとびとだけでしょう。

そうすると、西洋の人間のなかでも際立ってわがままな自分としては、観光に立ち寄るくらいのほかは日本に戻ったりする機会があるわけはないので、原題にもどる、自分が身に付けた日本語はどうするかなあ、とおもいます。

言語は特にある程度上手になったあとでは習得が楽しくはあるが維持するのが難しい能力の代表で、なんとかして機会を見つけて使いつづけないと、あっというまにダメになってしまう。
例が妙ちきりんだがペットを飼っているようなものでもある。
絶えず気を配り、餌をあげて、水をあげて、ときどきは特別な集中力で配慮を向けなければ勝手に病気になって死んでしまう。

せめて読みたい本や映画がたくさんあればよいと願うが、いかんせん、自分で興味がもてるのはせいぜい1960年代くらいまでで、そのあとになると、まるで趣味にかなわない。

困ったなあ、とおもっています。

日本史 第一回 無謀なこころみのための前書き

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愚かさだけが人間を救う力を持っているという事実は人間の最大の皮肉であるとおもう。
知性の極北で世界に対して絶望した若者を救うのは、どんな時代でも美しく若い肉体をもった人への恋だったし、人間の魂を地上の凡庸から引きはがして、中空へ天上へと押し上げるのは、ただ肉体に心地よい盲目の情熱だけが出来る離れ業だった。

人間は不思議な生き物で、おなじ人間として理解できなくはないが、人間が持っている能力のなかで最もたいしたことがない「知力」という能力において自己を誇りたがるが、言うまでもない、5千年のあいだ思考を費やしても暴力による殺しあいひとつ止めることができない「知性」など、あってもなくてもおなじで、強いて存在を認めることにしても本能や反射とは誤差の範囲で、なにも文字のような大仰なものを編み出して記録するほどのものではなかった。

ゴッドレーヘッドへ行く細道から横へそれて、よく海辺を歩いた。
考えてみれば母親の演出による偶然で、違う言い方をすれば、これを「思うツボ」ともいうが、子供のときに、国というよりは南極に近い島の圧倒的な自然の総称と考えた方がよさそうなニュージーランドと出会えたことは、一生の幸福のはじまりだった。

そのうちに訊いてみようとおもうが、多分、母親と父親とは、どうやら根っからの都会っ子に育ってしまいそうな息子の行く末を心配したものであるに違いない。
このカップルは、都会というものをまったく信用していないカップルで、頼りのない床の間の自然しかない「都会」という場所を軽蔑していた。

ふたりとも都会で生まれて育って、もちろん郊外に家を持っていて週末をそこで過ごしてはいたが、都会の利便のなかで一生を組み立ててきたひとたちであるのに、
都会とゴミ箱を区別していないところがいつもあった。

ジョニーという父親の友達は、特にぼくと気があって、さまざまな話をしてくれたが、この法廷弁護士の言葉で描写される父親は、多感な、絶望した都会の知性に富んだ青年であって、自分が知っている父親とはまるで異なる人のようだった。

それは普段の父親とはまったく異なるが、よく見知った感じのする青年、….そう、ほとんどぼく自身だった。

その発見をしたときの気持を正直に述べれば、きみは、腹を抱えてげらげら笑い出すに決まってるが、ぼくは、すっかり感動してしまったんだよ。
あのちょっと申し訳なさそうに「わたしですか?わたしは、いま典型的なイングランド人を演じている最中で、忙しくて、申し訳ないが、ちょっと自分の真の姿をあなたにご披露するひまがないのです」とでも言うような、よく訓練された、没個性の、絵に描いたような連合王国のエリートで、それでもだんだん判ってくると端倪すべからざる知性を持った、まるで存在自体がunderstatementだとでも形容したくなるおっちゃんが、自分とそっくりの人間であるなんて!

むかしはね、快活で機知に富んだ母親、華やかな才気のかたまり然とした人が、なぜこんな退屈なおっさんと一緒にいられるのだろう、と考えた。
よく同情していた。

長じて、自分の母親と父親が周囲の反対を押し切っての大恋愛の末に結婚したのだとしって、心からぶっくらこいてしまった。

母親は父親がなにを演じていたのか、よく知っていたのだとおもいます。

子供のころ、いちど「おかあさまは、おとうさまを退屈な人間だと考えたことがありますか?」と思い切って訊いてみたら、母親は愛車のジャガーのEタイプの下から仰向けに作業用の台車ごと滑り出てきて、スパナを持ったまま、オイルで煤けた顔でじっとぼくの顔を見ていたが、次の瞬間、それはそれは可笑しそうに、世の中にこれほど愉快なことには生まれて初めて出会ったとでもいうような楽しそうな笑い声で、大笑いした。

それから、「息子よ。聴きなさい。
これからあなたの背がどんどん伸びて、もっと遠くが見えるようになれば、近くのことも判るようになるでしょう」
と述べた。

そして、それは、その通りでした。
ぼくは、自分が父親を嫌いにならずにすんだ幸運な息子のひとりに数えることになっていきます。

多分、父親と母親が地球を半周したふたつの国を往復して暮らすという大胆な計画をもったのは、あのときの自分のひとことがきっかけだったのではないかと思っている。

両親は、ぼくの、考えや記憶を内心で何度も反芻する危険な癖を見破っていたのだとおもう。

自然が人間の知性に授ける叡知は、読書や学問、都会の喧噪が人間に与える知恵とはまるで異なっている。
言語や人工の森林のなかでは人間は万物の霊長だが、自然のなかでは、荒々しく、個々の人間の生命への配慮などいっさいない、まるで神の暴力そのもののような自然の力に抗して、知恵をはたいて、必死に生き延びる存在でしかない。

冬の山をスキーで滑り降りたり、フィヨルドを何日もカヤックで旅行したり、そういうイメージ通りの自然のなかでの生活よりも、もっと単純に、例えば満月の夜に農場のパドックに出ると、濃い青色の、と言うと表現だとおもうかもしれないが、実際に月の光はコバルトブルーと形容したくなるほど濃い青色になることがある、月の光のなかで、自分がなんともいえない狂気のなかに引き込まれていくのが実感としてわかる。
世界中の言語に月と狂気を結びつける言葉はいくらもあるけれども、あれは、ただの写実にすぎないのね。
瞳孔がおおきくひらいてきて、総身の体毛がふわっと逆立つような気持になる。
肉体はどうなのかわからないが、魂は獣に姿を変えて、歩くというよりは彷徨するようになります。

あるいは、密度が高い白色の雲は高度によって積雲と定義されるわけだけど、あれとおなじ、いわばもこもことした雲が、背伸びして手をのばせば届きそうなところに降りてきたことがある。
家の軒よりも低いところに雲海が出来ている。

また別のときには、夕暮れ時、やはり地上すれすれ、どころか膝よりも下におりてきた雲が、茜色に輝きだして、やがて薔薇色になって、そのときはオープンロードを運転していたひとがひとり残らずクルマを止めて、その「美しい」というような言葉では到底形容しきれない、この世のものではない何かに、ただ息を呑むことになった。

ニュージーランドの南島というところは、そういうことがいくらでもある土地柄で、ぼくは一年の数ヶ月をその神秘的な土地ですごして、どんな本にも書かれていない世界観を持つことになった。

それはどんな世界観かというと神を前提とした無神論とでもいうべき世界観で、人間が信仰してきた、人間側のリアリテの感覚を満足させようとするようなちゃちな神ではなくて、現実に自分が眼に見なければ、誰がどんなに上手に説明して描写しても嘘にしか聞こえない世界こそが自分たちの現実の世界なのだという現実に立脚している。

死者がよみがえり、空が眼の下におりてきて、星が煌めきながら空いっぱいに回転してみせる世界は、人間の現実の感覚を嘲笑っているのだとおもいます。

今日から、少しずつ、ぼくは自分の話をしていこうと思っているんだよ。
いまはたくさんいると言ってもいい日本語の友達たちにあてて、自分がいったいどこから来て、どんな姿をしていて、なにを考えているのか、説明しようと考えています。

もっと日本語がうまくなってからとおもっていたんだけど、最近の日本語への情熱のなさから考えて、もうそろそろ見切りをつけなければ。

ぼくはね。
むかしからの付き合いのひとたちはすでに知っていることだし、最近の付き合いのひとはさぞかしびっくりするだろうけど、日本という文明と、そこに住んでいる人間が好きなんです。
それがなぜかは、これから、おいおいあきらかになっていくだろう。

言語というものは、嘘がつけない正直なものでもあれば、その言語を使って現に生きている民族の背丈よりも遙かに高い、いまではすっかり忘れられた、その民族にいちどは属して死んだひとびとの叡知と感情がいっぱいに詰まったものでもある。
もっと正確にいえば、いま生きて毎日を生活している現代日本人は、その歴史のなかに堆積した日本語と語彙の地上に映る影にしかすぎない。

自分達では言語を使っているつもりでも、現実は言語がいま生きている人間のほうを乗り物にしているので、その逆ではありえない。
その逆がなりたつのは言語が未発達で、せいぜい伝達の便宜を満たすのが関の山だというような場合だけでしょう。

ちょうどシェイクスピアの劇中の人間たちが彼らの内なる英語につき動かされて、企み、試み、喜び、哀しみにくれるように、どんな国のどんな社会でも、人間は言語という傀儡師が操る一場の劇でしかない。

あのほとんど世界のどんな観察者にも観察されないできた東のはての島で、どれほどの神への挑戦や人間の限界への挑戦がおこなわれてきたか、これから、一緒に出かけて訪問しようとおもっています。

きみがこの風変わりなこころみに最後まで付き合ってくれる忍耐心をもっていてくれればいいんだけど。

日本史 第二回 滅亡の理由

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今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突(たうとつ)より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり。人心自(おのづか)ら持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自から殺ろさゞるもの稀なり。その本来の道義は薄弱にして、以て彼等を縛するに足らず、その新来の道義は根蔕(こんたい)を生ずるに至らず、以て彼等を制するに堪へず。その事業その社交、その会話その言語、悉(こと/″\)く移動の時代を証せざるものなし。斯の如くにして国民の精神は能(よ)くその発露者なる詩人を通じて、文字の上にあらはれ出でんや。
 国としての誇負(プライド)、いづくにかある。人種としての尊大、何(いづ)くにかある。民としての栄誉、何くにかある。適(たまた)ま大声疾呼して、国を誇り民を負(たの)むものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。彼等の中に一国としての共通の感情あらず。彼等の中に一民としての共有の花園あらず。彼等の中に一人種としての共同の意志あらず。晏逸(あんいつ)は彼等の宝なり、遊惰は彼等の糧(かて)なり。思想の如き、彼等は今日に於て渇望する所にあらざるなり。
 今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、曷(いづく)んぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。曷んぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。彼等は哲学を以て懶眠(らんみん)の具となせり、彼等は詩歌を以て消閑の器となせり。彼等が眼は舞台の華美にあらざれば奪ふこと能はず。彼等が耳は卑猥(ひわい)なる音楽にあらざれば娯楽せしむること能はず。彼等が脳膸は奇異を旨とする探偵小説にあらざれば以て慰藉(ゐしや)を与ふることなし。然らざれば大言壮語して、以て彼等の胆を破らざる可からず。然らざれば平凡なる真理と普通なる道義を繰返して、彼等の心を飽かしめざるべからず。彼等は詩歌なきの民なり。文字を求むれども、詩歌を求めざるなり。作詩家を求むれども、詩人を求めざるなり。
 汝詩人となれるものよ、汝詩人とならんとするものよ、この国民が強(し)ひて汝を探偵の作家とせんとするを怒る勿(なか)れ、この国民が汝によりて艶語を聞き、情話を聴かんとするを怪しむ勿れ、この国民が汝を雑誌店上の雑貨となさんとするを恨む勿れ、噫(あゝ)詩人よ、詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は、陋小(ろうせう)なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ、能く歌ひ、能く罵り、能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須(すべか)らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを以て満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし。汝がドラマを歌ふは贅沢なり、汝が詩論をなすは愚癡なり、汝はある記者が言へる如く偽(いつ)はりの詩人なり、怪しき詩論家なり、汝を罵るもの斯く言へり、汝も亦た自から罵りて斯く言ふべし。
 汝を囲める現実は、汝を駆りて幽遠に迷はしむ。然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如(し)かざればなり。汝の耳には兵隊の跫音(あしおと)を以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、吁(あゝ)、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。

あなたが死んだ、ちょうど百年後に、ひとりのイギリス人の子供が、真っ青な顔をして自動車の後席に座っている。
馬入橋、という名前の橋だったとおもいます。
平塚にある、鎌倉と箱根の往還で、いつも渋滞がある橋で、その橋にさしかかる頃には、運転している叔父が心配になってバックミラーを何度も覗き込んでは、
「ガメ、だいじょうぶかい? 顔色が真っ白で紙のようだけど」と訊ねるほどになっていた。

従兄弟がいれば、笑って、こいつお腹がへっただけだよ、と自分の父親に告げただろうけど、生憎、東京から叔母と一緒に電車で箱根へ向かった従兄弟は、車内にいなかった。

奈良で倒れてしまったことがある。
「青くなったり、赤くなったりして、まるで信号機みたいだった」とあとで義理叔父が笑っていたとおり、糖分の不足で、気分が悪くなって、奈良公園を歩いて横切っているうちに、そのままどおっと倒れてしまった。

なぜガメは自分が誤解されているときになにも言わないのか、とよく怒られたが、黙っていることに理由などないのだから、答えられるわけはない。
強いていえば言い訳をするのがめんどくさい。
周りの人間がすべて敵になって襲いかかってきても、きみたちはぼくじゃなくて誰それを敵とすべきなのに間違っているんだよ、と説明するくらいなら、黙って防御して、自分に襲いかかってきた人間をすべて暴力で床に並べてしまったほうが楽だ、という程度にぼくは怠け者で、子供のときもそうだったが、実をいうと、いまもそれは変わらない。

小田原の市境を越えると、鈍感な叔父も、ようやっと、なにが起こっているのかに気がついてレストランを探し始めた。
ぼくは内心、さっきから義理叔父が盛んに訊いている、どんなレストランがいいかなんてどうでもいいから、いちばん近い食べ物がある店にクルマを駐めてくれればいいだけなのに、と、この気が利かない日本人のおっさんにうんざりした気持でいる。
料理屋である必要すらなくて、バナナ一本だけでも、この気持わるさはいっぺんに収まるのに。

結局、裏通りに入ったところで、義理叔父はファミリーレストランを見つけて、
そこに入った。
窓際の席で、たしかパンケーキとサンデーを食べて、やっと気分がよくなった。

窓の外に小さなモニュメントのようなものが見えていて、いったいこれはなんだろう?と観るともなしに観ていると、テーブルの向こうに座っている義理叔父が、
「驚いたな。ここは北村透谷が生まれた場所じゃないか」とつぶやいていたのだとおもいます。

そのころは文章を読むどころか、あなたの名前も知らないので、それはぼんやりした記憶になって、過去の色がついたガラス玉がそこここに散乱しているような場所に埋もれていって、このときの光景と、素っ気ないどころか、めんどうそうでさえあるデザインの、というよりもデザインが欠落したモニュメントを思い出して、あれがあなたの生誕の場所を記念した碑であったことに気が付いたのは、ずっとあとになって、ニュージーランドという国の、南島の、一家がもっていた牧場のライブリでのことでした。

日本の歴史を話そうとしているのに、あなたの名前を外すわけにはいかない。
いつか、そう述べたら、「それは歴史というより文学史のほうだね」と述べた日本の人がいたが、文学の歴史が社会の歴史と別に存在していると意識される社会があるとすれば、要するに魂がはがれおちてしまった社会で、いくらなんでも日本はまだそこまで落ちぶれてはいないだろう。

ずっとあとになって、一年のうち何ヶ月かを東京で過ごそうと決めたぼくは、自分の生活の利便を考えて広尾山というところにアパートを買いますが、それは失敗で、あの辺りの、麻布、霞町、広尾、一の橋という一帯は、退屈な町で、銀座にでかけていくことが多かった。

あなたが歩いた、数寄屋橋から木挽町にかけて、尾張町や新橋まで、ぼくもよく歩いて、そういうときにはいつも、

革命にあらず、移動なり。

という、あなたの雷鳴のような声を聴いていた。

あなたが死んだあと、日本は、あなたが危惧したとおり、

汝の耳には兵隊の跫音(あしおと)を以て最上の音楽として満足すべし、

「物質的の繁栄」のためには当時はまだ世界最大の富裕を誇っていた富める隣国である中国を侵略して掠奪するのが最もてっとり早いことに気が付いて、清との戦争を始めます。

計画上は、うまくいくはずの近代軍の運営を、まるで乗馬をおぼえたての成り上がりの若者のようにして、おっかなびっくり、海戦でいえば、後年、史上初めて統制された艦隊行動によって敵を組織的に撃砕する、世界の海戦の範をつくる「ツシマ海戦」を戦って海上部隊戦闘の理想を示したのとおなじ国の艦隊とはおもえぬほど、ぶざまな叩き合いを繰り返して、それでもなんとか勝って、勝利のトロフィーとして、台湾を領土化し、朝鮮半島を植民地化する。

あなたが一生を通じて恐れたことは、日本人が西洋の倫理を希求し、善を信じ、美に憧れる面に興味をもたずに、てっとり早く幾許かのオカネを手にするための道具としての西洋の、特に軍事につながる技術の習得に夢中になることでした。

あなたは、西洋人にとっても西洋人が最大の敵であったことを、よく知っているただひとりの日本人だった。
あなたが生きていた時代に、文字通り血みどろの闘争を繰り広げて、物質の価値に眼がくらんだ、ゆるんだ口元に欲望の唾をためて、眼を血走らせて冨の蓄積に狂奔する「悪しき同胞」と戦っていたのは西洋人たちでしたが、もちろん、その戦いの敵もまたおなじ西洋の人間でした。

天上の価値と地上の利便が正面から戦えば、どんな時代でも地上の利便が勝つに決まっている。

あなたは恋愛こそが人間を解き放つのだと述べて、それこそが人間の魂を地上の桎梏から天上へと解放する鍵なのだと言ったが、一方で、おなじ日本人の同胞たちが、物質的の、「悪しき西洋」に向かって走りだすのではないかと常に恐れていた。

結果は、残念なことに、あなたが恐れていたとおりになりました。
もうすぐ、あなたの危惧をうけつぐことになる人に、夏目漱石という人がいます。
この背丈が低い、小さな小さな男の人は、不幸なことにロンドンに住んで、
イギリス人という生き物の尊大さ、粗暴さ、自分達と異なる種類の人間達への容赦のない軽蔑を目撃して、一生ぬぐいさることができない傷を心に負ってしまう。

この人が、どんなことに心を悩ませて、息をするのにも努力がいるような気持でロンドンの毎日を暮らしていたかは、日記のなかで、ある日、向こうから、ついぞ見かけないほど目立って背が低い男がこちらに向かって歩いてくるのを認めて、わざとすぐ近くをすれちがってみて、自分がその滑稽なほど背が低い男よりも、さらに背が低いことを発見して、どうしようもなく落胆する記述にうまく書かれている。

漱石という人は、同時代の森鴎外のような、自分の観念をとおして着飾った自分を欧州の町に置いてみるのではなしに、ただぽんと地上に投げ出された現実として自分を見て、人種差別を見つめることが出来る人でした。

実際、人種差別というものの本質を夏目漱石という人ほどよく知っていた人は、日本では、いまに至るまで、いないでしょう。

故郷の田舎町で見知った見苦しい風体の西洋人たちと異なって、気圧されるほど美しい西洋人のカップルに列車で出会って茫然としている青年三四郎に、向かいの席の中年の紳士が
「お互いは哀れだなあ」と言い出す。

反発を感じた三四郎が「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と述べると、この紳士は
平静な顔で、にべもなく、「滅びるね」という。

この「三四郎」という小説が書かれたのは、あなたが自殺した年から数えて十五年後、「滅びるね」という紳士の予言どおり日本が滅亡する直截の原因になった日露戦争が日本の勝利で終わった1905年から3年が経った1908年のことでした。

1945年、つまり近代知性の希望を担った三四郎が上京する列車のなかで出会った紳士が、この国は傲慢によって滅びるだろうと観察を述べた40年後に、日本はこの紳士の予言のとおりに、世界の歴史にも稀な国家まるごとの滅亡を経験する。

その破滅と破壊のすさまじさは、あなたの時代の人間の想像力の限界を遙かに越えていて、あなたが滅びてしまえばいいとまでおもいつめた、西洋の悪しき意匠の書割そのままの町並は、文字通り見渡す限りの瓦礫になって、核爆弾によって破壊された広島の町には、町の中心地の至るところに、核爆発のエネルギーによって、ただの影となった人間が壁に焼き付けられた姿を残すことになる。

日本人は、しかし、その徹底的な破滅をさえ生き延びて、今度こそは魂の高みの力によって生きようとする。
昨日までインドネシアを取ればいくら儲かると計算を口にしていたひとびとが、眼を輝かせて自由の価値について熱っぽく語るひとびとの口まねをするようになります。

精神的価値を価値と認めた、日本の歴史には稀有の、というよりも後年に日本人が捏造した歴史とはやや事情が異なってゆいいつの時期が、こうして始まります。

当然のこと、ひとびとは真実の言葉を求め、古代にまで遡って自分達の魂を発掘して、ほぼ10年ほども精神的価値にすがって生きようとする。

でも直ぐに成果がでないことを自分達で考えるのは苦手なんですよね。
アメリカ人たちが、共産中国の攻勢に慌てふためいて、日本全体を反共基地化することに決めて、誰がどんなふうに計算しても過剰な投資をして、貧弱な市場に洪水のように資金を投入したことで、日本人の魂はふっとんでしまいます。

途中ではおもしろいことがあって、もともと喉から手がでるほど欲しかった元手になる冨を、あろうことかかつての敵アメリカが供給してくれたのを幸い、自分達がかつて満州で視た国家社会主義経済の夢を本土で実現するべく、かつてのファシズム経済のチャンピオン岸信介たちの手で、国民個々の生活の質などまるで考慮する必要がなかった全体主義経済は予想通りうまくいって、1980年代にはアメリカをおびやかすほどになって日本の鷹揚な主人のつもりでいたアメリカ人たちを恐慌に陥れる。

でもその日本の台頭がもたらしたアメリカ人たちと自由社会にとっての深刻な危機は、冷戦構造が終わることによって日本の地政学的優位が失われることによって、あっさり終焉を迎えます。

あなたの生誕を記念した碑を、意味もわからずにぼんやりと眺めていた子供は、やがて、あなたの国の言葉に興味を持って、なんという偶然か、あなたが書いた文章にめぐりあうのですよ。

それは「哀詞序」という、近代日本語のごく初期にかかれたのに、多分近代日本語の頂点をなす凄艶な美しさをたたえた文章で、女学雑誌の編集部から原稿料を値下げしたいという死活に関わる要望を伝えられたうえに、結婚を取り巻く倫理を捨てて激しい恋に落ちた相手の若い女のひとが亡くなった、個人的な絶望のなかで書かれた文章でした。

我はあからさまに我が心を曰ふ、物に感ずること深くして、悲に沈むこと常ならざるを。我は明然(あきらか)に我が情を曰ふ、美しきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。然はあれども、わが美くしと思ふは人の美くしと思ふものにあらず、わが物に感ずるは世間の衆生が感ずる如きにあらず。物を通じて心に徹せざれば、自ら休むことを知らず。形を鑿(うが)ちて精に入らざれば、自ら甘んずること難し。人われを呼びて万有的趣味の賊となせど、われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり。

まだおぼえていますか?
これは、あなたが死ぬ前年にあなたが書いた文章で、ぼくにとっては最も初期に暗誦できるようになった日本語の文章でした。

ぼくは、あなたの文章が開いてくれたドアから日本の文明の歴史に分け入っていくことになる。

いつか、ほら、ぼくが酔っ払って泊まったホテルで、あなたがぼくの夢を訪問したことがあったでしょう?
夢のなかで、あなたの二の腕に後ろから触れた瞬間、あなたの自分の国へのすさまじい怒りを指先に感じて、驚いて、ひどく魘されて、モニに起こされた。

あのあと、モニは、どんなことがあってもあのホテルに宿泊することを拒むようになった。

いまでは、もう、あのホテルがあなたが自殺した地面のうえに立っていることも知っています。

死ぬ前、あなたは疲れ果てて、自分はもう老いて、生きていく力が残されていない。
自分のまえには、すでにどんな希望もない、とつぶやいていた。

北村透谷。
1894年逝去。
享年二十五歳

例え悪夢のなかでもいい、もういちど、あなたに会える日がくるだろうか?

日本史 第三回 片方しか翼をもたない天使たちについて

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有栖川公園の丘の上にある図書館から、ひとりの若者が出てきたところだった。
若者、といっても、ぼくの眼にはまだ子供で、ひどく痩せていて、膝が突き出たジーンズに、ブラシもしていなさそうな長い髪がほどんど肩にまでかかっている。

おまけに本人は気が付いていないが、上下に「ひょこたん、ひょこたん」と音がしそうな歩き方で、それなのに足をひきずっているような、不思議な歩き方をする。

角の交番のところまでくると、立ち番の若い警官をちょっとにらみつけるような顔をしながら信号を待っている。
昼ご飯を食べてから午後の古典文学の授業に出ようとおもっていたが、めんどくさくなった。

なだらかな、長い坂を下りて広尾駅に出るか、産院下の交差点に出て、そこから坂をあがって都営バスで渋谷に出るか、あるいは、平坦だが距離が長い、中国大使館の前を通って材木町の交叉点に出る道を行って、六本木に出るか、
なんだか毎日おなじことで悩むので、いっそ月、水、金は広尾駅から日比谷線、というように決めてしまえばいいのではないかとおもうが、それもバカバカしいような気がする。

午後の授業に出る気がなくなった理由は、いつもの怠惰だけではなくて、昼ご飯にでかけた定食屋で見た光景のせいでもある。

学園紛争が長かったので、とっくのむかしに学生食堂が逃げ出した学校のなかには、ひどく不味いパサパサした菓子パンを売っている、近所のベーカリー「キクヤ」の出店以外はなにも食べ物を調達できる店がなかったので、もう中学生の頃から、きみは学校の外で昼ご飯を食べるのに慣れていて、いちばんおいしいのは西武グループの堤の家がある坂のうえの交叉点にある「キッチンあき」だったが、ここでは3年生たちが幅を利かせていて、カウンター席だけの店内なのにコーヒーまで注文してくつろいでいるので、
「おい。ふざけんなよ。午後の授業がはじまっちまうだろう」と後ろから立って待っている2年生が声を荒げても、
「うるせーぞ、2年坊主、おまえら、ここで食べるのは百年早いわ。
下の那須まで走っていって食ってこいよ」と集団でせせら笑う始末で、埒があかないので、倍近く払わねばならないフィッシャーマンズワーフに出かけなければいけないことも多かった。

その日も、そういう事情で、フィッシャーマンズワーフに出かけたが、店内に一歩入ると、3年生も2年生も店のコーナーにおいてあるテレビの画面を見つめている。

なんだろう?と思って見ると、雪のなかで機動隊が伏せている。
軽井沢のあさま山荘というところで、「連合赤軍」が銃をもって籠城しているのだという。

きみの高校のなかにも、赤軍派はいた。
戦記派叛旗派がいて、青年解放同盟がいて、あとはお決まりの中核派、革マルといて、革マルの幹部だった世界史の教師は横浜線で中核派の集団に襲われて頭蓋骨陥没の重傷で休講中だったりしていた。

でも「連合赤軍」という名前は初耳だった。

顔にみおぼえがある3年生の背の高い男が「殺せ!殺せ!やっちまえ!」と叫んでいる。
そのまわりで他の3年生たちが、げらげら笑い転げている。
「マルキなんて、みんなぶち殺せ」

きみも実は通りに出てヘルメットをかぶったことがある。
学校の友達の誘いはぜんぶことわって、深夜、こっそり相模原にでかけて、戦車の搬入に反対して集まっていた大学生たちに混じって、どのセクトにも属さないことを示す黒いヘルメットを手にして、デモの隊列に加わった。

結果は、ひどくがっかりさせられるもので、実際に加わってみるとまるで軍隊で、見るからに軽薄なリーダー格の演説がうまい大学生が、最前列に並べた高校生たちに逃げるな逃げるなと叫びながら、機動隊が放水車を前面に押し寄せてくると高校生たちを盾にするかっこうで、一目散に逃げていった。
逃げていく後ろでは、高校生たちが機動隊員にジュラルミンの盾で殴られ、女の高校生たちは髪をつかまれてひきずりまわされて泣き叫んでいたが、リーダーたちは振り返らなかったので気が付きもしなかっただろう。

きみの姿をみかけたらしい3年生が、次の日、「おまえ、いったいあそこで何をしていたんだ。公安の犬じゃないのか」と述べたので、きみはすっかり嫌気がさして、そのまま学生運動と名の付くものには背を向けてしまった。
その3年生が、公安が高校生たちのなかに放ったスパイだったと判ったのは、ずっとあと、大学を卒業してから、友達に初めて聞いて知った。

政治というものはそういうものだと、その頃にはもう判っていたので、ただ、そうだろうな、とおもっただけだった自分の気持ちを、きみは見知らぬ人の心をのぞき込むような得たいのしれない不思議なものだとおもうようになっていきます。

「時の時」という、いまではもう使われなくなった言葉がある。
きみが麻布の丘の上にある学校で中学と高校時代を過ごした数年は、日本という国にとっての「時の時」というべき時代だったのだとおもう。
誰にも言わないだけで、「世の中のために働きたい」という都会人らしくない、当時の日本人たちが聞いたらふきだしてしまうような純粋な気持ちでおもいつめて、本郷の大学を出ると、きみは大学院をあきらめて、といっても成績や家庭経済の理由ではなくて、人文系の大学院に行く級友たちに馴染めなかったからだけども、仕事につくことにする。
選択肢は朝日新聞社という新聞社と大学院と公務員で、結局きみは上級公務員試験を受けて、霞ヶ関に通う毎日を選ぶことになる。

振り返ってみると、その頃の日本は、自分達では一人前の先進国を自認していたが、ほんとうはまだ中進国くらいの社会でなかっただろうか。

後年、きみが霞ヶ関官庁のありかたにすっかり嫌気がさして、国費をつかって、でもひそかに日本には戻らないぞと決めて向かったボストン郊外のケンブリッジという町で、おなじ学校を出た、それなのにあの学校ではときどきあることで、あんまり見かけたことのない顔の日本人がいたでしょう?

いつもUnoピザで、おもしろくもなさそうな顔でピザを食べながら、ピッチャーのアイスティーを真冬でもガブ飲みしていたあの奇妙な日本人は、実は、あとになってぼくの叔母と結婚するひとで、いまでもときどきスカイプで話したりするんだけど、あのひとは朝、わざわざいちど日比谷に戻って、高校へ行くまえに、三信ビルの地下にあったアメリカ人相手のダイナーで、一杯のウイスキーとステーキサンドイッチを食べてから学校へ行くのをしばらく習慣にしていたのだけれど、ちょうど日比谷線の出口から出て坂をのぼる頃になると、長身のイギリス人の双子の姉妹が学校へ行く途中であることが多かったそうです。

「ところがね、この双子の高校生のねーちゃんたちがジャガーに乗って学校へ行くんだよ!」と、いつか、この義理の叔父が興奮気味に話してくれたことがある。
金髪で背が高くて、すんごい美人の双子の姉妹なんだけど、毎朝みるたびに、
なにがなし、日本はまだまだダメだなあ、おれたちはビンボだし、ダメだ、とほとんど意味もなく考えた。

悪い癖で、そのときは言わなかったが、実はぼくはこの「双子の姉妹」を知っていて、あのふたりは当時高校生ではなくて休暇中の大学の一年生だったはずで、クルマもジャガーではなくてMorgan Plus 8だが、着飾るのが好きで、上手なひとたちだったので、若いときも、義理叔父が感嘆して落胆したように、東京の日本人たちに自分達の富裕と美貌をみせつけては喜んでいたのは想像にかたくない、というか、想像すると、あの愉快なおばちゃんたちの若い頃らしくて、なんとなく笑ってしまう。

それはともかく、ちょうどきみがケンブリッジで毎日めちゃくちゃな量の本を読まされてペーパーチェイスとディベートの毎日を送っているあいだに、きみの故国ではおおきな変化が起きていたのだとおもいます。

それはつまりは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、中進国が先進国になってゆく過程だった。
きみが本郷にあがったあと、用事があって出向いた駒場で「ポパイ」という雑誌をにぎりしめた田舎の進学校出の「東大生」たちが「どこにいけばお嬢様学校の女子大生とやれるか」について夢中になって話しているのを聞いて、自分の大学に嫌気がさした、と義理叔父に述べたそうだが、また聞きでその話を聞いて、ぼくがおもいうかべたのは2009年にシンガポールで会った友達が、まったくおなじ話をしていたことだった。

あさま山荘事件は1972年で、そのころのきみにとっては留学、まして「移住」などは到底現実味をもたない選択肢だった。
一週間程度の海外への観光旅行ですら、団体旅行で行くのが普通だった頃のことで、後年、きみが留学したときも省庁が直截派遣するか人事院がオカネを貸与して、日本にもどってきて働く約束で送り出してくれるか、ふたつにひとつしか選択はなかった。

1982年になると、ハーバードのいわゆるアングラ、学部にも日本人が入っていくようになります。
留学は普通のことになって、当時のことで、留学してアメリカで就職してしまえば、日本には戻ってくる方法がないのとおなじで、程度がわるい人間だけがアメリカで就職することになっていたが、それでも、海外で生活する日本人は増えていった。

連合赤軍事件の一年前、赤軍派の重信房子が奥平姓のパスポートで出国に成功してパレスチナに脱出するのは1971年で、奥平剛士との偽装結婚によって得た姓で簡単にパスポートをつくれたのは、要するに当時の日本社会の常識では新左翼の活動家が「海外に高飛びする」こと自体が考えられないようなことだったからでした。

1972年から1982年への、日本の相貌ががらりと変わる10年間を書くために、ぼくはきみのところに戻ってこようとおもっているが、
今回はちょっと疲れたので、ひとりの女の人のことについて触れて記事を閉じたい。

キッコーマンで働きながら明治大学の夜間学部で勉強に励む苦学生だった重信房子には、同じ明治大学の夜学に通う遠山美枝子という友達がいました。

おしゃれが好きで、おいしいものが好きで、重信房子とふたりで居酒屋に行けば、ビールを飲んで、日本社会の不正について怒りあう、仲のよい友達同士だった。
通りに出てデモに加わり、投石をする勇気はなかったが隊列のなかを重信房子と肩を並べて歩いて「シュプレヒコール」をあげた。

重信房子がパスポートを取得して海外に活動の拠点をつくりに去ってしまったことを「たいせつな友達と会えなくなる」という気持で考えることが出来る感受性の持ち主だった。

重信が去ったあとのことは、言うまでもない。
日本共産党革命左派と赤軍派が合同して連合赤軍が形成されると、自動的に党員になった遠山美枝子は、外国人の眼からみれば銃砲店を襲って奪った実銃を持っているだけで、ままごと遊びにしかみえない「軍事訓練」に参加させられる。
リーダーになった永田洋子に口紅をしていたのを見咎められて、十分に革命的な自覚を持っていないと責められ、しかも他の革命的自覚が足りないとされた党員を殴ることに手加減をくわえたことを追究されて、みなが観ている前で自分で自分の顔が滅茶苦茶になるまで殴ることを強制される。
渾身のちからで自分の顔を数時間にわたって殴りつづけさせられた遠山美枝子は、真冬の戸外で柱に縛り付けられたまま寒さと自分が自分の肉体に加えたショックのせいで死ぬ。

麻布の丘の食堂で高校生たちが、「殺せ!やっちまえ!」と叫んでいたころには、もう遠山美枝子は冷たい死体になって榛名山中で置き去りにされていた。

遠くからみると、事件の全体は政治的ですらなくて、中進国社会が先進国社会に遷移する途中ではよくみられる愚かさの表現でしかない。
どこまでも愚かだった若者たちは、いまでもおぼえているリクリエーションセンターのGIたちがふきだすような「ガキのペイントボールサバイバルゲームより子供の遊びじみている」と評された「軍事訓練」で革命的自覚が足りない12人の若者を拷問を加えて殺し、最後はあさま山荘に立てこもって、ふたりの警察官とひとりの民間人を射殺して投降する。

このあさま山荘事件が、奇妙なほどの沈黙のうちに日本人が「左翼」に見切りをつけて決定的に、そこまで他国では考えられないほどの深く長い伝統をもっていた一般民衆の左翼運動に対する共感に終止符を打った出来事であることを発見したぼくは、軽井沢の押し立て山の麓にある、あさま山荘を訪ねていったことがあります。
軽井沢ニューレイクタウンという日本にはよくある書割じみた、ヨーロッパをまねた、いかにも安っぽい新開発別荘地で、人口の、池というにも小さすぎる「湖」に結婚ビジネス用のチャペルが立っていて、水の上にはお決まりのスワンをかたどった、いつ観てもマヌケな感じがする例のボートが浮いていた。

その「湖」の岸辺に立って、ぼくが考えていたのは、連合赤軍のメンバーやきみの話に出てくる「やっちまえ!ぶち殺せ!」と叫んでいた高校生たちのなかで、ただひとり自分に理解できそうな遠山美枝子という、意志の弱い、おしゃれ好きの、でもひと一倍社会の不正に敏感な勤労学生のことだった。

日本は彼女の死を分水嶺にするようにして、冷笑と都会人気取りがないまぜになった、いまの日本に直截つづく名状しがたいうすっぺらな「先進国社会」へ向かって歩き始める。
政治に殺された愚かな若者たちのことは存在もしなかったように綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。

遠山美枝子。
1972年逝去
享年二十五歳

彼女が十分に学力はあったのに昼間の学部にすすまなかったのは早くに父親を亡くし、低賃金に喘いでいた母親を助けるためでした。


十七歳

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どう言い逃れをしても、だれかが20歳まで、この腐った世界を生き延びるということは、その人間が、なれきって、欺瞞に対して不感症になってしまっていることの証拠でしかない。

少なくともおれは20歳になってしまう人間を信用しない。

きみが地下鉄の駅の構内で、やにさがった、目つきが気に入らないおやじをぶん殴ると、おまわりがやってくる。
おやじが威丈高なことをいって、おまわりさん、こういうカスがいまの日本を悪くしているんだ、おもいきり厳罰に処してやってください、とかなんとか言っている。

めんどくさいから、このおやじがおれの尻に触ったんですよ、と告げてやると、おまわりは突然ひるんだ顔になって、「まあ、とにかくあなたたちでよく話しあって」という。

「よく話しあって」。
なにを?
見ず知らずのクソおやじとおれがなんの話をすればいいというのだろう。
おれがあくまで、おやじにおれの尻にさわりやがって、訴えてやる、おまえの家庭をめちゃくちゃにしてやるからそう思え、というと、おやじは50代の汚い中年男の顔をくしゃくしゃにして泣きだしやがった。
きみは、わたしがそんなことをしなかったのを知っているじゃないか。
どうして、きみはわたしをそんなにいじめたいんだい?

いじめる?
おれが、おまえみたいな薄汚いおやじを「いじめる」のか?
カンにさわるので、おまえの頭がどうかしちまっただけで、てめえはたしかにおれのケツにさわったじゃねえか、この変態野郎、という。
まったく不愉快なやつ。

朝から、ろくなことがない。

人間には人間同士で通じる言葉などありはしない。
疑うのなら、家に帰って、自分の親が自分をどのていど理解しているかやってみるがいい。
あいつらが知っているのは、きみではない。
ドラマでみたり、結婚してから話しあった子供のことはよく知っているが、それはきみ自身じゃないんだよ。
それは自分の所有ラベルがべったり背中に貼り付けてあるかわいい息子や愛らしい娘で、きみとはなんの関係もない親の願望にしかすぎない。

世界と意志を疎通するのに言葉に頼るのはばかげているだろう。
第一、 おれには世界とコミュニケーションをもつことの意味がわからない。
無意味だろう、そんなこと。
世界がきみを理解して、きみが世界を正しく解釈してやって、それでどうなるというのだろう。

和解するのか?
一日の終わりに、世界ときみはお互いの関係が壊れずに無事だったことを祝うのか?

どうしても世界と意志を通じたければ、ナイフを持って町にでかけるというのはどうか。
誰でもいいから、刺してみればいい。
世界は突然よそよそしい顔を捨てて、きみとのあいだで感情の血液を循環させはじめる。
言葉はお互いをわかりあうためにあるわけじゃない。
言葉はお互いを疎外するためにある。

おれはきみになんか興味がないことを伝えるために言葉を使う。
なぜかって?

きみが生きているからだよ。
おれは生きている人間には興味はない。
もっともらしいことをしゃべって、下卑た眼で、なあ、そうだろう?
きみにもぼくがいうことがわかるだろう?とこちらをうかがう生きた人間が、おれは嫌いなんだよ。

死んだ人間は素晴らしい。
もう死んでしまった人間には、少しも卑屈なところがない。
もう世界になにも求めてはいないからね。
死は人間を高貴にするとはおもわないか。

おれは死体を自分の部屋にひとつ欲しいといつもおもっている。
腐って、耐えられないほどの臭いを放って、ぐずぐずに崩れ落ちる屍。
力なく肘掛けにおかれた手のひらの甲からは、まるで洗ったような白く光る骨が見えている。

死体がそばにあれば、もしかしたら、おれにも世界が愛せるのではないか。

桜木町のバッグ屋で万引きをしようとして失敗したことがある。
財布を、うまく鞄に落とし込んで隠したとおもったが、店主のおやじにみとがめられた。

そいつはね。
警察につきだすとわめきだすかとおもったら、猫なで声で、下手にでた声で、
きみは綺麗だねえ、と言い出すんだよ。

結局、おれは、店の二階の、誰もいない冷房もない部屋で、そのおやじのあれをくわえさせられることになった。
強くかむな。
もう少し舌をひっこめてつかえ。
やさしくしろ。

さんざん注文をつけられて、30分くらいも、顎がいたくなって、あとで感覚がなくなるまでなめさせておいて、最後は髪の毛をつかまれて、頭を前後にゆらせやがった。

財布をもらった。
終電に近い桜木町の高架のプラットフォームのベンチに腰かけて財布をだしてみたら、なかに新品の1万円札が3枚はいっていた。

おれは泣いた。
あたりまえだろう。
めちゃくちゃに泣いた。

気が付くと、どっかの会社の制服を着たクソババアが、あなた、だいじょうぶ、と顔をのぞきこんでいた。

葉山に行きたい。
おれは葉山に行ったことがないんだよ。
いつか学校をさぼって、図書館でインターネットを観ていたら、いまどきお目にかかれないような、古い、クソ日本語で書かれたブログにでくわした。
いまどきジジイでも使わないような古くさいクソ日本語は、でも、おれには気にいったんだ。

プロフィルをみるとイギリス人だと書いてあったが、そんなのウソに決まってる。
日本語で育たなかった人間が、あんな日本語を書けるわけはない。
けっ、インチキ野郎め、とおもって読んでいたら、引き込まれてしまって、結局、午後のあいだじゅう読んでしまった。
世の中には、じっさい、いろんなヘンな野郎がいるもんだよな。

ところで、そいつが子供のときの日本の思い出として、葉山の、長者ヶ崎や鐙摺の海に迫る山や、その鐙摺の頂のうしろからあらわれる輝かしい白さの積雲のことを書いていて、それから、おれにとっては葉山は頭のなかで聖地のようになってしまった。

切符を買って、横須賀線に行くのでは、おれはきっと、あのインチキ野郎が書いた葉山には着けっこない。
そんな行きかたではダメなんだよ。

もちろんクルマで行ったってダメだし、最近は大学生たちがよくやるように自転車で行ったって、あの葉山には着くわけはない。

おれはボロボロで、もうあんまり生きるちからが残ってない。
もともと20歳になるまで生きているような狡猾で自分にウソをつくのがうまい人間じゃないから、きっとこんな感じになるだろうとはおもってたけど、それにしても、こんなふうに、立つのもやっとな気持になるとはおもわなかった。

頭を毛布がおおっているみたいといえばいいのか。
どんよりと頭のなかが曇っていて、なにもする気が起こらない。
机に向かって、なにかしようとなんとか腰掛けても、自分はなんてダメな人間だろうという気持がこみあげてきて、涙がとまらなくなる。

なにもしたくないし、なにもできないんだよ。

でも葉山にいって、あのインチキ野郎が述べたように、沖にでて、低い山を振り返れば、また生きていけるのではないか。
そうしてみることには、自分が20歳を越えて生きていくためのなにかがあるのではないか。

いつも、そうおもうんだけど。

でも、もう間に合わないかもしれない。
ファミレスの窓際の席に座って、大通りの向こう側をぼんやり観ている。
あの交叉点に立っている人間たちは、なんだって、信号が変わって、通りを渡りだしたあとも、渡り出す前の自分とおなじだと、あんなに自信をもって、疑いもしないで歩いていけるのだろう。

おれは、違う。
おれは通りを渡ることひとつにしても、どこかに行きたいからわたるんじゃないんだ。

サイレーンの声。
誰かがおれを呼んでいるような気がするから通りをわたるんだよ。
おれは、まるで人間のような顔をして、もう20歳をすぎているのに、腐った人間でないふりをして、いつかあの通りをわたるだろう。

でも、ビルの影から射してきた夕陽があたったとたんに、冷たい空気のなかに、ふっと消えてしまうにちがいない。
知ってるんだよ、おれは。
自分がそんなふうに、この世界からいなくなることを。

おれは、そのとき、はじめて自分がやすんじて人間であると感じられるにちがいない。

きみのところにやってきて、そのとき、さよならが言えるかどうかはわからないけれど。

アルカディアへ

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ポイント・イングランドに行ったんだ。
公園の前にクルマを駐めて、坂道をあがって、ポイント・イングランドの銘板の前まで歩いていくと、夏の終わりの、爽やかな風が吹いてくる。

真夏でも、どんなに暑くなっても26度くらいで、過ごしやすいオークランドの夏も、もう終わりで、これからしばらくは、最低気温が16度で最高気温が16度だったりする、オークランドのヘンテコな秋がやってくる。

初めてオークランドに来たときのことをおぼえてるよ。
ぼくは多分5つか6つで、雲ひとつない空から空港に近付くと、馬さんたちが放牧されている牧場に囲まれた空港が見えてきて、果樹園に囲まれたクライストチャーチ空港と好一対で、欧州の淀んだ空気になれていた眼には、まるで別の惑星のようだった。

あの頃から、ニュージーランドという、このいなかっぺな国がずっと好きだったんだとおもう。

バブル経済期の西武プリンスホテルの接客マニュアルには客を来館時の車種別に分類してあって、メルセデスのSクラスから始まって、徒歩でやってくる歓迎されないマヌケな客まで、こと細かに対応の仕方の区別が書いてあったそうだが、ニュージーランドもいまは似たような時期で、以前なら考えられないような光景を観るようになった。

接客業なのに相手がアジア人だとまったく相手をしない。
客のほうが挨拶をしているのに、わざと無視する。
見かねて脇から「この人がハローと言っているじゃないか」というと、白々しく初めて気が付いたような顔で応対を始めるのはいいほうで、ひどい人になると「ああ、そうですね」と言って相変わらず素知らぬ顔を決め込んでいる。

窓に貼りだしてある売り家を見て、「おっ、これはいいな」と思って入っていくと、なにしろヒゲヒゲでぶわっと広がった長い髪(←ときどきは束ねてある)にフリップフロップ(ビーチサンダル)にショーツで、自分でプリントした赤いゴジラが正面で火を吐いていて、背中には青い文字ででっかく「大庭亀夫」と書いてあるTシャツなので、こっちをちらっと見て、「あっ、あんた、間借りの人は隣ですよ」とのたまう。

往時のプリンスホテルとおなじことでいなかっぺな社会というものは、そういうもんです。

わしが最愛の国ニュージーランドの変わり果てた姿に涙がでそうになるが、なあーに、オーストラリアのように資源豊富で中国から入ってくるUSダラーでウハウハハウハウな国と異なって、もともと資源も産業も、なあああーんにもない国なので、ちょっと躓けば、いきなり国ごと経済が破滅するに決まっているので、そうそう心配しているわけではありません。

もっかはやばいけどね。

どおりゃ、クリームドーナッツでも買ってくっか、とおもって、家の近くのヴィレッジと名前がつく、うーんとね、日本でいうと小田急線の各駅停車駅の駅前商店街くらいだろうか、のおおきさの商店街へ歩いていって、時計台がある交叉点に立って信号を待っていると、ランチャ、ベントレーコンティネンタル、ポルシェ、フェラーリ、ポルシェポルシェポルシェ、で、見ていて、なにがなしやるせない気持になってしまう。

うんざりする、と言ったほうがいいか。
なにしろ皆さん驕りたかぶった気持なので運転マナーもめちゃくちゃで、先週も、縦列からいきなり飛び出してきたアウディがいて、窓を開けて「危ないじゃないか」と言ったら、そのおばちゃん(40代・白い人・オッカネモチ風)が「あんたが止まればいいだけでしょう」と言いやがった。

言いやがった、表現として、お下品ですね。
でも「言いやがった」といいたくなります。
だって、普通の道路を普通に走ってるだけなんだよ。
そこに方向指示器もつかわないでいきなり鼻面をぶんまわすように突き出して飛び出しておいて「おまえが止まればいいだろう」って、あんたはロンドン人か。

いちどモニさんが、近所に良い家が売りに出ているから様子を観に行かないかと述べるので、おお、いいね、散歩のついでに一緒に行って訪問しよう、と述べてから、目立つといけないから、モニのBMWで行こう、と言った。

自分で言ってからBMWで行けば目立たないとおもう社会って、だいぶんビョーキかもな、とおもって苦笑する気持になった。

わしガキの頃は、ニュージーランド名物は、ドアが一枚だけ、色が違うシビックやカローラだった。

むかしはネルソンにホンダの工場があって、ここでシビックをつくっていたが、日本にはない色があって、明るい黄緑色や黄色のシビックが結構売れていた。
ところがね、ぶつけられたりすると補修のためのドアがないんですよ。

ニュージーランド人は、ぶつけられたり修理の必要があっても新品なんて滅多に使いません。
中古の部品をストックしてあるカーヤードに行く。

つい最近まで、例えばクライストチャーチのレースコースの近くにはミニの中古部品屋があって、あのミニちゅうクルマは年柄年中ドアの窓を開閉するクランクのハンドルが折れるんだけど、折れると、中古屋に行って、クランクハンドルのぼた山から自分の好きなのを採集してくる。
一個1ドル。

ドアぼた山もあって、安いので、色違いのドアをつけたシビックが通りを徘徊することになります。

それがいまはシビックやモリスマイナーがBMWになって、キドニーグリルがついたクルマならば、どこへ行っても匿名仮面なクルマとして通用する。
めだちたくないときは紺色のBMWがいちばんいい。
モニさんのBMW5はグリーンだけど。

簡単に言うといまの英語圏は中国が世界中から吸い上げたオカネが英語都市に還流することによって空前の大繁栄を遂げている。
もちろんグーグルもあればアップルもあるし、エアバスだってあるんだけど、その上に余剰な資金として中国由来のグリーンバックがすさまじい勢いで流入するので、中国の人が好みそうな英語の町は軒並み不動産バブルを引き起こしている。
伝統的に中国移民が多くて、巨大で完結された中国コミュニティを持ったシアトルやサンフランシスコは目もあてられないほど不動産価格も物価も上昇して、日本語でも年収1400万円では貧困層に分類されるとニュースでやっていたのが話題になった。

シンガポールの指導層のおっちゃんたちとペニンシャラホテルで会食したときも、「中国人問題は深刻だ」と、名前も、ダメなわし目には、どっからどう見ても中国の人たちがまじめに眉根にしわを寄せて述べていた。

もっともシアトルでロサンゼルスでメルボルンでオークランドで、「中国人の買い占めのせいで不動産の値段が暴騰して問題だ」というのは、いつもの例でいくと眉唾でなくもなくて、わしが子供のときにいま外務大臣のウインストン・ピータースが「このままではニュージーランドは日本人の洪水にのみ込まれてしまう」という大演説をぶっこいて、支持率1%に満たない泡沫党が30%を越える人気政党になって、ぶっとんだことがあったが、このときもたまたまニュージーランドにいた義理叔父が、日本領事館まで出向いて日本人移民の数を調べたらニュージーランド全土で500人しかいなかった。

いまインターネットで数字をみると500人ではなくて数千人だったはずで、義理叔父がいくらいいかげんだといっても、桁くらいちゃんと見てこいよ、とおもうが、もしかすると南島だけに限った数字か、あるいはパニクっていた日本領事館がそういう数字を義理叔父に伝えたのかもしれません。

だから中国効果は誇張されている可能性はなくはないが、それにしても、不動産価格も物価も(と、ちょっとここまで書いて心配になったので付け加えておくと不動産価格と物価は統計上も経済の性質上も別のものですね)なんだかすさまじい上がりかたで、このあいだ不動産屋が家に来て「11億円くらいで売ってくれないか」と述べて呆れてしまったが、オークランドでもかつては30万ドル(当時の円貨で1500万円、いまだと2200万円くらい)も出せば小さくても一軒家が買えて、ニュージーランドでは大学で知り合ったカップルが卒業して結婚して、まっさきにやることは10年ローンを組んで「初めの家」を買うことだったが、いまは治安があまりよくない地域でも4000万円はするので、家を手にするにも、よく考えたフィナンシャルプランが必要で、オカネのことがよく判らない若いカップルが気楽にテキトーな気持で家を買うというわけにはいかなくなってしまった。

イギリスという国は、そういう国で、若い人でもなんでも、例えば階級が高い家の人間は無茶なオカネの使い方をする国です。
妹は、渋々認めるとまともなほうの人間で散財も嫌うほうの人間に属するが、それでも大学のときに乗っていたくるまは黒のベントレーのコンチネンタルGTというクルマで、わしも嫌いでないスポーツカーだが、日本円で3000万円くらいするクルマだった。
ちょうど流行りだったからで妹の高校の時の同級生の女の友達は猫も杓子も成金もコンチネンタルGTに乗っていた。

一事が万事で、再び述べると、それがイギリスという国で家の経済とは別に、
「自分にちょうどいい生活」という概念があって、自分の地位や環境に相応しいかどうかで生活スタイルが決まる。

しかしオーストラリアやニュージーンラドは、もともとは若いビンボ国で、そういう国ではないので、いわゆる「成金」が充満して、おもいあがりもはなはだしいというか、驕りたかぶった気持が国中に充満していて、いろいろと鬱陶しいことが起きている。

ニュージーランドはもともと日本とおなじでビンボが似合う国です。
ビンボだからといって、引け目を感じたり、卑下しなくてもいい国というか。
国民性などは正反対に近いが、ビンボになると人間が活き活きしてくる点では、とてもよく似ている。

技術のありかたひとつみても、日本は零戦に象徴されるように竹ひご文化といえばいいか、新型の高速艦上戦闘機をつくるのに、千馬力に満たないエンジンで、骨格に手作業で穴を開けて重量を軽くして、人馬一体、ちょうど後年のMX5(ユーノスロードスター)のような、やさしい線で出来たいわばたおやかな技術を結晶させるのは、ビンボで文化のポテンシャルが全開になる社会だからでしょう。

一生懸命やっているのに気の毒な感じもするが、いまの安倍政権が世界のあちこちでバカっぽさをヒソヒソされるのも、多分、政権の中心を担う麻生太郎と安倍晋三というふたりの政治家が、若い時からの名うての遊び人で、努力ということにはまったく縁がない、いわば「反日本文化」的な半生を送ってきたふたりの老人だからではないかとおもうことがある。

世相の、韓国の人を、なんだか必死になって見下そうとしてみたり、ツイッタを開けても名誉白人と呼びたくなるような、「見て!見て!わたくし、白人たちに伍して、大活躍して成功してコガネをためたのよ!!」と窓を開けて叫んでいるような傷ましいと形容したくなる日本人の数の多さも、つまりは本来はビンボになじむ文化スタイルが富裕を前提に出来ている文化に適応しようとして、機能不全を起こしているのだと見える。

なあんにもない小さな部屋で、小さな机に向かって、一杯の極上品の紅茶に、王室御用達のビスケットを並べて、「この机は王侯の匂いがする」とつぶやく幸福には、そこはかとなく日本のビンボの良い匂いがする。

「馥郁たる貧困」などはフランス語ならば言語の矛盾だが、日本語だと案外表現として成り立ちそうです。

わしはいつも日本の人は、経済の崩壊も、貧乏も恐れる必要はないのではないかとおもっている。
イギリス人の文化では貧困はもちこたえることができなくて、かつて惨めさに耐えかねた労働階級のマジメ人たちは、小さな船にほとんど着の身着のままの姿で乗り込んで、地球を半周した二万キロの向こうの小島に未来を託すことにした。
誰かが「そこでは一生懸命に働けば小さくても自分の家が持てて、子供を学校に行かせることができる。なにより、出身が低いからといって誰にもバカにされることがない」と言ったからでした。

わしはクライストチャーチの家にガレージを新築しに来てくれた人が、午後のお茶を出しにいったら、イギリスからやってきたばかりの移民の人だったが、「この国ではマネージャーにミスターをつけないで呼んでいいので驚いた」と述べていた。
ファーストネームでいいんだよ、と述べてから、ジョン、ジョン、となんだか舌で大事なものの名前をいつくしむように転がしてでもいるかのような発音で述べていたのをおぼえている。

そのとき、自分の祖国の階級社会というものが、いかに残酷で罪深いものか学習したのでした。

ビンボでも、皆がちからをあわせて助けあって、どうにかこうにか生きのびる社会へニュージーランドはまた戻ってゆくに違いない。

そうして、なんにも根拠はないのだけど、日本もまた経済の崩壊が誰の目にもあきらかになったとき、いまのインチキな響きのそれではない本来の「美しい国」の相貌を取り戻すのではないかとおもうのです。

そのときは、一緒にビンボしようね。
楽しいとおもうぞ。

ソーセージロールと日本語

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遠くの町に、むかしは商売で栄えた家があって、諸事万端、やりくりに苦しんでいた近隣の家ではうらやましいと考えて、なにが繁盛のコツか知りたいと考えたりしていた。 それが代が変わってみると、外からは窺いしれない、見えない所でおかしくなっていたらしくて、なんだか道端で会って短い会話を交わすだけでも、奇妙なことを言うひとたちになってしまっている。 いまの日本の印象といえば、そんなところだろうか。 気のせいかもしれないし、自分の側が日本への関心が少しずつ薄れてきて、気持の上での距離が遠くなってきたからかもしれない。 自分が理解できていると考えている言語ごとに、その言語のいちばん柔らかい部分が露出していそうなサイトを散歩して遊ぶことが多いが、日本語ではツイッタで、日本語は大事にしてきた外国語のひとつなので、自然友達もおおくて、近所のパブで駄弁るかわりに日本語の友達と駄弁ったりする。 ところが急速に日本語が荒っぽい攻撃的なだけの空疎なものになっていて、いや攻撃的というよりも悲鳴に近いといえばいいのか、投げつけるような言葉と呻くような言葉が交錯して、友達は友達で、こちらに顔が向いているときには、見慣れたやさしい、少しはにかんだようなところがある表情をみせていても、知らない人に向かって話しかけているところを横でみていると、苛立った、拳をふりあげたような言葉を使っている。 悪い、というわけではない。 事態が絶望的であるというときに、当の燃えさかる社会のまんなかにいて、のんびり良い天気に晴れ渡った空の話をしていては、そちらのほうが異常だろう。 ただ、なんだかびっくりした気持になって、言語を通してみせる社会の形相が、どんどん凄まじい歪んだものになっていくので、ちょっと寂しい気持になっているだけです。 午後3時で、火曜日ならちょうど仕事を終えて帰る時間なので、医師の友達と新しく出来た菓子屋でコーヒーでも飲もうと考えて病院を訪問したら、ひと足ちがいで帰宅したあとだった。 仕事先からいっぺん帰宅してしまった人間を呼び出してまで会っても仕方がないので、海へでかけることにする。 「海へでかける」というと、少しあらたまったことをするように聞こえるかも知れないが、北島がくびれたようになっているところに位置するオークランドという町は、やたらたくさん浜辺があるので有名な町で、英語ならtucked inという、隠れたように引っ込んでいて、まるで知っている人だけの秘密のプライベートビーチのような浜辺から、タカプナビーチやミッションベイ、セントヘリオスのような長大な砂浜まで、いまインターネットで見てみたら、 「数が多すぎて、いくつあるかは誰も知らない」と書いてあって笑ってしまったが、文字通り無数にあって、外に出て、なにをするか考えつかないと、とりあえずは海へ出るのが習慣になっている。 おおきな枝振りの楡の木陰にクルマを駐めて、芝生をわたって、砂浜に沿って並んでいるベンチに腰掛けて、毎日、明るい青からエメラルドに近い色へ、くしゃくしゃにしたチョコレートの銀紙のようにまぶしく陽光を照らしているかとおもえば、不機嫌な鈍色に、その日の気分によって色を変える海と、その向こうに低くなだらかに稜線が広がるランギトト島を見ている。 日本や日本人のことを考えるのは、国や人間について考えるための最も適切な方法であると信じる理由がある。 日本語の先生は、繰り返し「日本人を特殊だと考えすぎてはならない」と述べていたが、初めはそうおもっていたはずでも、自分の感想では、ほんとうに、ぶっくらこいてしまうほど特殊で、というよりも他の種族と異なっていて、なにもかも逆さまだと言いたいくらい違うが、だからこそ人間に普遍的な問題を見やすい構造をもっている。 しかも日本語は他言語を母語とする人間の理解を拒絶していると表現したくなるほど難解な言語で、実際、なかに分け入ってみると、日本語によって現代的な宇宙像や人間の思考一般、感情の陰翳を表現できるのは奇蹟的な事情によっていて、例えばカタカナ外来語のように、誤解や曖昧な理解、あるときにはまったくの仮の命名であるような言語上のアタッチメントに取り外し可能な語彙や、まったく内容を理解していなくても、なんとなく判っているような顔をして論議をすすめられる言語の特徴が、皮肉なことに、日本語が疑似的な普遍語であることを助けてきた。 多分、おおくの論者が述べてきたように、日本語が外国語の脚注語として発達してきた歴史を持っているからで、初めは中国の文章を読むために乎古止点を発明し、返り点をつけ、送り仮名をつけて、漢字を読み下し、文章そのものを日本語音に変えることで誕生した日本語は、同じ要領で、西洋語、なかでも英語を、従来からの脚注語としての仕組みに日本人の耳に聞こえた音や学習者が綴りから推測した(現実には存在しない)音を母音の少ない日本語で書き表したことを示すカタカナ語や -ticをつけることを示す「的」を多用して、気分上の理解を喚起する、フランス的、民主的、という言い方を考案して、なんとか消化してこなそうとした。 明治時代に頼山陽が書いた漢詩を読んで吹き出した中国人たちは、一方で、夏目漱石が書いた漢文を読んで、これを書いたのは中国人に違いないと述べたという。 漢文を外国語として学んだ日本人と日本語化された漢文を本来の漢文と信じて磨いていった日本人が、漢文吸収の当時から居たわけだが、不思議なことに西洋語については、西洋語を西洋語のまま習得する日本人は皆無とは言わないまでも稀な存在になってゆく。 それにはカタカナだけで考えてもメリケンがアメリカンに表記を変えてゆく日本の英語教育が介在して影響しているはずだが、ここでは云々するのをやめておきます。 翻訳や通訳は本質的に便宜だけのもので、落ち着いて考えればあたりまえだが、日本語や韓国語のようなグループの言語を英語やフランス語のグループに「翻訳」するのは不可能作業で、それが可能であると考えるのは人間の歴史文化に対する理解が浅薄なのにしかすぎない。 離れ離れに歴史をつみかさねていった欧州やアジアの地方地方の文化が、ようやく接点をもって、境界を共有して、少しづつお互いの領域を浸潤しはじめたのは、インターネット以後の世界の特徴で、長く見積もっても20年の歴史しかないが、 ここが始まりで、もう百年もすると、あるいは日本語をフランス語に「翻訳」できるようになるかもしれない。 まさか、そんな軽薄な理解をする人がいるとはおもわれないが、いままでも瀬川深とかいう、作家だと名乗る人が、とんでもない、高校生が受験英語のレベルで考えるにも失笑されるような浅薄な理解で見当違いな反論を書いてきたことがあったので、念のために述べておくと、ここでは技術的な誤訳というようなことを述べているのではなくて、最も言語が異なることの影響が小さいはずの名詞であってさえ、例えば、おなじ「左手」であっても、うっすらともともとはカトリシズム経由の邪悪な手のイメージがまとわりついている西洋語や、不浄な印象を刻印されているヒンドゥー語の文脈のなかに置かれていると、日本語の左手とは違う言葉だということを述べている。 きみは笑うかもしれないが、眼の前におかれているスプーンでさえ、英語で見ているスプーンと日本語で見ているスプーンでは違う物体なんです。 互換性がない言語は互換性がない社会を形成する。 翻訳文化は言語を一定のルールと定石にしたがって置換してゆけば他文化を自文化に血肉化できるという、根拠のない、一種の宗教的な信念だが、百年以上に渉って誤解をつみあげてきた結果が、いまの日本の「近代」社会で、それは西洋の側からみると、おおまじめに演じられてきた演劇であって、しかも、近代の初期に国家の発展には寄与しないと明治人たちが判断したintegrityというような単語の多くは初めから省かれている、畸形的な言語に基づいた社会だった。 人間は自分の姿を見ることはできない。 鏡という前後が逆になった自己の映像を観ることはできるが、その「観る」が平たい言葉をつかっていえば曲者で、若い男が鏡のなかに見いだす自分の顔は常に整った容貌で有名な俳優の誰かの影響をうけて現実よりハンサムであるのは、誰もが知っている。 鏡がならぶレストランのトイレで、すぐわきに見慣れない顔をした見知らぬ他人が立っていて、飛び退くような気持で、あらためて観ると、自分の横顔だったという経験をしなかった人はいないだろう。 この頃、到底好きになれない言葉だが「マウントをとる」という言葉が流行っている。 あるいは、昔から「猿山の大将」というでしょう? 猿では例えが悪すぎるが、人間は自分の姿を観ることはできなくても、自分ととても似ているが、異なるものからは自分の姿を読み取ることは出来て、西洋人にとっては、日本人と日本人の社会は自分のことについての省察に最も向いているし、日本人にとっては西洋人の社会は自分たちを省みるのに資すべきものであると思う。 日本社会が西洋の人間にとって最も観察に好適なのは日本の西洋化の努力が古くからのものであることによっている。 ちょっと酷い言い方になるが、もうひとつは、その努力が多くの局面では頓珍漢なものだったことにもよっていると思います。 日本の人自身も気が付いているのではないかとおもうが、日本の西洋化への努力に端を発した歴史のなかで最もうまくいったのは科学で、理由は言うまでもない、例えば物理学は翻訳もなにもしない、もちろん方言はあってお国訛りはあるが、共通語の数学をそのまま使ってやってきたので、母語で物理学をさっさと修得しうるという「翻訳」の良い面だけが発揮されたからでしょう。 翻訳文化に最も感謝すべきなのは科学を学ぶ学生であるのは、日本の人なら、あるいは直観的に誰でも知っていることなのかも知れません。 … Continue reading

人間であるという難問について

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行ってみると幅が3メートルくらいの道路だった。 花屋があったのをおぼえているので、いまでも場所を特定するのは簡単なのではなかろうか。 ビルの4階の窓から通りを隔てた反対側のビルの窓に向かって「奇声を発しながら」コンピュータを投げつけている男がいると警察に通報があったのは、なにしろ夜中で、東京駅のすぐ近くのオフィス街のことなので、たまたま通りかかった通行人か、近くのビルで深夜まで働いていたサラリーマンかなにかだったのでしょう。 「なんだか、でっかい男の人で、大声で叫びながら、コンピュータやモニターを向かいのビルの事務所に向かって投げつけているんですけど、その叫び声が、どうも英語なんですよね」 と述べている。 警官が通報を聞いて4人で急行してみると、なるほど2メートルは優にありそうな大男のガイジンが、いくつもいくつもデスクトップコンピュータを通りを隔てたビルに向かってぶん投げている。 やめなさい、と言っても、ぜんぜん、やめません。 おとなしくお縄につく様子が微塵もないので、4人でわっと取りかかったら、 あっというまに4人とも殴り倒されてしまった。 いったん待避して、本部に応援を要請して、結局40人動員してやっと取り押さえた、とあります。 ニュージーランドのクライストチャーチからセールスにやってきて、供述によると、「こんな社会は人間の社会ではない」とおもったのが理由だという。 どいつもこいつも、マジメで礼儀正しい、規則を守って勤勉に働くクソ野郎ばかりだ、と取調室でどなりまくって、そのまま眠りこけてしまったそうです。 マイケルジャクソンの幼児性愛の実態を被害者の口から洗い浚い詳細なディテールとともに述べたLeaving Neverlandは破壊的なドキュメンタリだった。 最もショックがおおきかったのは、言うまでもない、数多くのアルバムセールスの売り上げ世界記録を支えたマイケルジャクソンのファンたちで、最も一般的な感想は「もうマイケルジャクソンの音楽を(精神的に)聴けなくなってしまった。 それが悲しい」というものでした。 HBOのドキュメンタリが、あちこちでネットのオンライン公開になった、ちょうどその日に、名前を聞いたことがない、なんとかいう名前の日本の俳優がコカインでつかまって、まだ判決が出たわけではないが、警察がつかまえて、本人が「やった」と言ってるんだから科人だろう、という日本の習慣にしたがって、すっかり有罪あつかいになって、その結果、いろいろなドラマに多岐に渉って出ていたらしいのが、どうやら全部、例えばDVDなら回収になるらしい、というニュースがあったようだったが、マイケルジャクソンの場合は、そういうことではなくて、気持の上で隔壁ができてしまって、マイケルジャクソンの声をもう聞けなくなってしまった、という意味です。 去年は巧みな演技で知られるケヴィン・スペイシーが、やはり未成年に対する同性愛で告発されて、主演していたNetflixのドル箱ドラマHouse of Cardsが打ち切りになった。 すでに撮影をほぼ終了していたAll the Money in the Worldは、急遽Christpher Plummerを代役に立てて取り直しをするという離れ業を演じて完成にこぎつけた。 こういう流れは文明の段階が進歩するにつれて、女の人であったり、子供であったりする、より最悪には女の子供であったりすれば、どうなっても文句すら言わせてもらえないような社会が、徐々に、いらいらするほどゆっくり、人間であれば属性がなんであろうが、みなが(考えてみれば、あんまり当たり前で茫然とすることには)平等である、同じ人間であるにしかすぎない、という偏見による乱雑さが解消される方向にすすんでゆく自然の流れにしかすぎない。 発端は、ハリウッドの帝王と言われたプロデューサーHarvey Weinsteinが無数の性的ハラスメント、強姦を含む、権力を背景にした有無をいわせぬ性的な暴君としての行いをAshley JuddやRose McGowanたちが、文字通り職業生命を賭けて告発した、いまでも長くて苦しい女の人達の戦いが続いているMe Too movementでした。 Emma WatsonのHeForShe運動 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/ もそうだが、最近になって女の人達が、アメリカでインドで、これ以上男達の横暴を許さないと強く決意して続々と起ち上がってくる様子には、おもわず「歴史的必然」という古色蒼然とした用語をおもいださせるところがある。 ハリウッドで仕事をするひとたちのなかで、最も素晴らしい姉妹といえば、誰に聞いてもPatriciaとRossannaのArquette姉妹の名前を挙げるだろう。 単純に言って、ふたりともとんでもなく聡明な上に倫理意識が強く、恐れずに正しいと信じたことを、どんな巨大な権力に向かってもはっきりと言葉にして述べるからで、みなが尊敬している。 … Continue reading

国とは、なにか

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ジャシンダ・アーダーンは今日(3月29日)はマオリのクロークを身に付けて現れた。 モスク銃撃を生き延びたムスリム人が、コーランの朗唱をいくつもはさんだスピーチをしたあとだったので、息をしやすく感じたニュージーランド人もおおかっただろう。 ハグリーパークをぎっしり埋めつくして見える聴衆は、でも、ハグリーパークを知っている人なら誰でも判る、どんなに人が集まっても、あの広大な芝生の上では頼りない人間のパッチにしか見えない。 圧倒的で莫大な緑とほんの少しの人間、という構図は、ニュージーランドの原風景で、都会のまんなかの公園でも、やはりおなじことです。 アーダーン首相という人は、びっくりするほど素晴らしい演説をする人で、ボロ負けに決まってると言われた労働党を率いて選挙に臨んで、「ジャシンダって、だれだ?」と言われながら、与党国民党に肉薄する票を集めて、国民党の勝利宣言を横目で見ながら排外的な右翼大物政治家ウィンストン・ピータースと手をにぎって、 国民もマスメディアもあっと言わせる大逆転で権力の座についたことにも、この人の「言葉の力」が大きかった。 誇張しすぎなのではないかという人が現れそうだが、近代の政治家でジャシンダ・アーダーンほど演説の言葉の力によって人を動かせる政治家はウィンストン・チャーチルくらいしか思い浮かばない。 首相に就任したばかりのときは、百戦錬磨のベテラン政治家ウィンストン・ピータースに手のひらの上で踊らされて一年もたないのではないかと危ぶむ人がおおかったが、蓋を開けてみると、マオリのクロークを着て訪問した連合王国からはじまって、まず外交でびっくりするような成果をみせ、今回の多文化主義社会ニュージーランドのコミュニティ間の分裂を生んで不思議がないモスクでの銃乱射事件のあとでの一連の演説は、分裂どころか、ニュージーランド人の結束を強める結果になった。 剛腕というか、すさまじいほどの政治力で、アメリカ人や連合王国人がニュージーランド人に対して、あんな大政治家が小国の首相ではもったいないと失礼なことを述べるところに来ている。 むかし、冬の連合王国を離れて、天国のような夏のクライストチャーチにやってくるたびに「この国は素晴らしい国だが、若すぎてアイデンティティがまだない」と妹と兄とで言い合った。 思い出してみると、まったく可愛げのないガキたちだが、実感でもあった。 子供という生き物はバカなので若さよりも歴史をありがたがる。 なにしろ、そのころのニュージーランド人たちと歴史の話をしていると、ニュージーランドの歴史を話していたのがいつのまにか連合王国の歴史になっていて、いったい自分がイギリス人なのかニュージーランド人なのか、自分でもあんまりはっきりしていない人が多かった。 空間的に遠いだけでなくて、時間の上でもゆっくり過去を進行している南半球のイギリス、という意識だったと思います。 ぼんやり考えると、なんとなく「イギリスの田舎みたいな国」だったニュージーランドが、ところが、ジャシンダ・アーダーンの言葉によって、ほとんど日毎に国としてのアイデンティティをつくってゆくのを同時的に目撃するのは、心地よい楽しい経験であると言わないわけにはいかない。 アーダーン首相の演説の特徴は、感情を隠さず、弱さも隠さずに、そのまま言葉にして述べることで、銃撃直後の演説は特に、ジャシンダ・アーダーンの怒ったときのボディランゲージが全部盛り込まれていて、この人の、身体を震わせるような、「自分たちの仲間」が殺されたことへの、すさまじい怒りが伝わってきて、アーダーン首相を個人のつながりや私的な小さな集まりで知っている人間たちにとっては、怒りの深ささえ、よく判るものだった。 われわれはみな、個人個人が幸福になるために、この国へやってきて根を下ろした。 その幸福の基礎はhumanityでなければならない、とアーダーンは繰り返し述べる。 そんなにビンボ人の福祉にオカネを注ぎ込んだら国民は税金でたいへんなことになると述べる国民党の政治家たちに対しても、移民を制限するべきだ、このままではニュージーランドは我々の国ではなくなってしまうと述べる旧い世代の移民である国民たちに対しても、あるいはイスラムの教えにしたがって寛容社会をつくろうと呼びかけるムスリムのリーダーたちに対しても、計画経済政策を成功させてきた歴史を誇りにする労働党の社会主義リーダたちに対してさえ、ジャシンダ・アーダーンはおなじ言葉humanityを繰り返してきた。 人間を人間として扱うことが国の基礎だ、と強い口調で述べてきた。 安価な住宅の供給、世界的にも五指にはいるオーストラリアに対して高いとは言えない賃金の是正、次々と打ち出す政策は、つまりは 「人間が人間らしく暮らせる社会環境をつくる」という点で一貫している。 友達も自分自身も、ジャシンダとは反対の政治的立場にいる。 これを書いている本人は、もともと「政府なんか、いらん」という立場で、そんなものは最小にしておいて、さっさとブロックチェーンの検証理論とAIによってカバーできることはカバーする新世代の政府をつくったほうがいい、という意見です。 実際、ニュージーランドは他国に遙かに先駆けて、そうなってゆくとおもう。 いまの「国家」のイメージとは凡そ似ても似つかない国になっていくのでないと、第一、おもしろくない。 幸いなことには、ニュージーランドに集まって来ているIT研究者や事業家はAIエキスパートが多いので、例えば、ちょっと理由があって名前はかかないが、Viaductにある聡明な女の人が社長の某会社などは先端的なAIサービスを始めたところです。 生活のレベルでもアバターを使って、AIと音声認識を組み合わせた顧客サポートは、すでに現実化されていて、一部の銀行ではもう始まっているのだったか、始まるところか、話を聴いているときに酔っ払っていたので時期をちゃんとおぼえていないが、コスト削減のためにインドやフィリピンにつなげる電話サポートのようなマヌケなサービスの時代は終わって、顧客がサイト側に用意されたビデオフォンのアイコンをクリックすると、現実の人間と区別がつかない、実際にはAIが生成したサポート担当が顧客の質問を音声認識で聴き取って、AIが返答する。 ニュージーランドという国は、ド田舎時代ですらカラーテレビネットワーク放送が世界でいちばん早かったので判るとおり、変わるとなったら、あっというまにガラッと変わる国なので、図書館やカウンシル、政府のサービスも争っておなじスタイルのサービスになるのは目に見えている。 だから、まあ、つなぎにテキトー政府をはさんで政府なんてなくしていいんじゃない?というのが考えで、ジャシンダ・アーダーンが率いる「強力な政府」は迷惑であるし、経済について、内輪や公的な場での発言を聞くかぎり、この人が首相のあいだは経済は不景気で決まりだな、と他の投資家や会社のCEOたちと、あんまり品がよくない冗談を言ってなぐさめあったりしている。 それでも、一緒にジャシンダ・アーダーンの国民が力をあわせてひとりひとりの国民が幸福な生活を送る国にしよう、 人種差別は相変わらず存在するが、この国では歓迎されない。 あらゆる種類の暴力と差別は歓迎されない。 この国から排除されるべきものだ、とアーダーンが訴えるのを一緒に観ていて、 日頃はオカネの話に夢中のおっちゃんたちが涙を浮かべて聴き入っている。 声を詰まらせながら、「首相は経済政策はアホだが、人間としては、いいな。尊敬に値する」と強がっている。 投資家友達が「まあ、もういいや。ジャシンダのあの古くさい社会主義経済的な考えじゃ何年かオンボロ経済になってビンボになるだろうが、国ができるためのお代だとおもえば仕方がない」と述べていた。 すかさずオーストラリア人の同業者の友達が、「この人、こんなこと言ってるけど、シンガポールとオーストラリアに大金移動させてんだぜ」と言って笑っていたが。 国が個々の国民個人のためにある、というのはニュージーランドでは昔からあたりまえのことでした。 オークランドやウェリントンにいると判らないが、ニュージーランドの背骨は、あくまで農場の国だからです。 … Continue reading

インド式と中国式

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むかし、日本にいたときにいたずらっけを起こして、義理叔父をそそのかして小さなビジネスゲームをやって遊んだことがある。 義理叔父の会社に出入りしていた会社の社長さんにお願いして、実際の会社の運営をお願いして、輸入ゲームのオンライン販売をやった。 スウェーデンのパッケージゲーム卸会社から$2くらいで仕入れた少し古いゲームを、どんどん送りつけて、オンラインで売ってもらって月の人件費や倉庫代やなんかを支払ったあとの純利益が1500万円/月くらいはあったが、Steamの動向を見ていて、商用サーバーを立ててマジメにオンラインのゲームかストリーミングサービスをしなければならないのが判ってきて、ゲームのビジネスに時間を使う気はしないので、ロシアの企業やフランスの企業からSteamに対抗する事業プランの提案はあったが、乗らないでやめた。 なにしろ、そもそも輸入ゲームのオンライン販売をやろうとおもいたったのが日本に滞在ちゅうに新作のゲームが出ると横須賀基地の売店にあれば、その頃付き合っていた米軍将校のガールフレンドに買って来てもらったが、さもなければ、アメリカや連合王国の友達に頼んで送ってもらうか、切羽詰まると、日本から最も近い販売店があるグアムのモールへ行くかしかなかったので、めんどくさくて、それなら、おっちゃんたちに利益を与えて、ゲームも酒池肉林というのかどうかしらないが、ただでいくらでもゲームを送ってもらえる仕組みをつくろうとおもったという不純な動機だったので、あっさりやめることにした。 ゲーマー族 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/ なので、ビジネスというゲームに勝ったり、スクリーンで増えるクレジットの代わりに銀行の残高で増えるのは嫌いではないが、ナマケモノなので、自分で働かなくてはならない事態になるのだけは、いつも避けることにしている。 ましてゲームのオンラインビジネスなどは、好きな分野のひとつなので、案の定、そうか、それならダウンロードよりもストリーミングにして、権利関係はフランスのあそこがうまいからあそこに頼んで、などとゲーム戦略を頭が自動的に考え始めてしまうので自分でも危なくて仕方がない。 びっくりしているシャチョーのHさんや義理叔父を前に「断固やめる」で押し通してしまった。 その後の展開は、考えたとおり、Steamが伸びて、あれほど繁栄していた「仕入れのウィザード」という「ゲームのやりすぎなんじゃない?」な渾名で呼ばれていたスウェーデンの卸会社はおとうさんになってしまったので、初めは義理叔父が書いていて、あまりに下手なので、何語で書いても名文家の若者が取って代わって書いたこのゲームブログだけを残して、あとは跡形もなくなったが、それがいちばんよかったとおもっている。 ときどき、3人で集まって、このオモチャのようなビジネスを肴にただ酒をおごってもらったが、そのときの報告でいちばん興味をひいたのは、「日本の人はびっくりするほど英語ができない」という報告だった。 ふたりの日本人であるおっちゃんたちも、事前に考えていたよりも日本人がずっと英語が苦手なので、びっくりしてしまったらしい。 詳しいことは煩雑なので避けるが会社へのemailや売り上げの傾向から、日本の人の英語の苦手ぶりは歴然としていて、たとえばDiabloのように完全日本語訳サイトが出来ると、発売からしばらく経ったあとでも、売り上げが爆発的にのびたりしていた。 常連顧客は、だんだんemailをやりとりして判ってくると、なんというか、大学の教師が圧倒的で、それも英語学科や英文学関係の人が多いようでした。 残念なことに、日本はもっか、戦後始まって以来というくらいの不振で、自称は「戦後最高の空前の好景気」だが、姿が傷ましいので誰も記事で触れたがらないくらい、傍目には言っていることのウソがあきらかで、日経225を始めとする、体面をつくろうための、投資ともいえぬ出費はつみあがって、ついに借金1000兆円にとどき、国民ひとりあたりの収入は、たとえば、相変わらず過労死する若者は死屍累々と通り道に横たわっているのに、かつては日本の半分に満たなかったナマケモノ王国ニュージーランドにすら抜き去られて、万年2位の地位から26位にさがって、もうすぐ、かつては日本の3分の1、統計によっては5分の1と言われた韓国にも抜かれるのは確実視されている。 日本のほんとうの不振の原因は、時代が変わってしまって、早足で歩き去っていく世界が、もう日本文明の手が届かないところへ行ってしまったからだろうとおもう。 長く数えれば30年、短いほうで数えても20年、ああいえばこういうの堂々めぐりを繰り返して、なにもしないためならなんでもする、何のためだかよく判らない努力にしがみついてきたのだから当たり前といえば当たり前だが、折角、一時は世界史にもユニークな文化を創り出して、例えば文学でいえば、アメリカ軍が対日戦争の必要に駆られて大量に教育した日本語理解者の情報将校が、余って、そのうちの少なからぬ数の優秀な若い頭脳が日本学者や日本文学翻訳者に転向するという不思議な奇縁に恵まれて、他言語では思いもつかない僥倖に恵まれたのに、この方面でいえば、だいたい80年代を通じての頽廃で自ら命脈を絶ってしまった。 その原因のひとつが英語を理解できないことなのはあきらかで、英語を理解しない社会をつくってしまった結果、英語をベースにした世界の多様性から取り残されてしまった。 中国の人は日本人と異なって英語が達者だというが、こちら側からみると、そうでもなくて、多分、数の比率でいえば英語を多少でも理解する中国人は初歩的な英語を理解する日本人に較べてずっと少ないのではないかとおもいます。 ニュージーランドに移民としてやってくる、いわば「開かれた」考えが多いはずの中国の人たちのコミュニティであってすら「water」という単語がわからない人なんて、びっくりするほどたくさんいる。 水を注文して、水のことだとわからない店に数年ぶりに行ってみると、おや、ひさしぶりですね、なつかしい、と英語がまったく出来なかったのに、見事な英語を話すようになっていて、こちらもすっかり嬉しくなってしまうウェイトレスのような人もいるが、主人は、相変わらず英語はからっきしダメで、中国語で注文したら、にやっと笑って「やるじゃないか」という顔で、いそいそと調理にかかってくれたりするのは、日本人と同じで、特に民族的に日本人よりも英語習得の才能があるわけではない。 日本の人と最も異なるのは、国家が意図して育てた英語のプロとでもいうべき人達が分厚い層をなして存在することで、このひとたちは、きっと、すんごい努力に明け暮れるのでしょう、英語が母語の人間並の英語で、特に英語が出来るひとたちは、つるりんとした出所不明のアクセントだが母語と称してもわからないほどの英語能力を持っている。 いつかBBCで中国と日本の外交官を招いて日中関係の番組をやっていたが、耳に心地よい中国側と対照的に、日本の人のほうは「判らないのはおまえの努力が足らんからだ」と言わんばかりのすさまじい訛りの英語で、日本ファンとしては、 日米開戦の原因の何分の一かは野村吉太郎の箸にも棒にもかからない英語と歯並びだったのに、70年経っても、あんまり変わってないね、と寂しい気持で見つめることになった。 中国のこの行き方は、おもしろくて、国家の利益というような観点からは、海外に出ていく会社員のひとりひとりが、あんまりたいしたことがない「流暢な英語」なんて話してもたいした意味はなくて、英語エリートを育てて、彼らを通じて国家と社会の意志を実現したほうがよい、という中国の伝統的な外交信念から来ている。 さもなくば相手が流暢な中国語をしゃべるべきだ、という考えが表裏一体としてあって、それはどちらの国力が勝るかによる、という中国人の身も蓋もないといえなくもない現実主義が反映していることは言うまでもない。 実際、宗美齢の美しい上流階級のアクセントで話される英語と日本人の横柄で汚い発音の英語との対比が「中国は善玉、日本は悪玉」のイメージづくりに、どれほど役だったかは、枚挙にいとまがないほど逸話があって、ほとんど伝説になっている。 中国は日本同様、国家や社会の利益を優先する全体主義国家なので、それでいい、ということなのでしょう。 インドの人はおしゃべりで、男も女も、一日中、ひっきりなしにしゃべっていて、手が結び目をひとつつくるまでに、世界の創造から始まって破滅の日に至るまでの創世記物語をすべて語り尽くしそうな勢いで話すが、おもしろいのは、ニュージーランドにいるひとたちは、家庭のなかでも英語で、この饒舌、長口舌文化を実行する。 インドの人がやっていると、なんだか自然で普通なことに見えてしまうが、よく考えてみると、大学教育も受けなかった人が、森羅万象、トイレットペーパーのロールの巻き方からブラックホールの画像のおおきさについての驚きまで、ありとあらゆる出来事を外国語である英語で延々とまくしたてるのは、たいへんなことです。 むかしの本を読むと、インド国内で家庭のなかで英語で会話するのは上流家庭だけだと書いてあるが、最近は、映画を観ていると、下層でもなんでも、少なくとも都会では家庭内でも英語で、ところどころヒンドゥー語という家庭が多いようで、オークランドの地元のインドコミュニティFM局を聴いていてもパンジャビ局やタミル局はそうでもないがヒンドゥー局になると、ほとんど英語で、番組内の聴取者からの電話も、英語の人がかなりいる。 ヒンドゥー語とベンガル語のようにお互いに通じないインド語を話す同士ならともかく、ちょっと考えてみて、ヒンドゥー語人同士が、ごくこだわりなく英語で話して、冗談を述べて笑ったりしているのは、日本ではついぞ見かけなかったことで、どうやらインドの人にこっそり事情聴取してみると、インド人が亜大陸のdiversityそのものをアイデンティティと考えていることと関係がありそうでした。 中流以上になると、英語を話せない人は家庭内においてすら少数派で、子供が英語を話せない親を恥ずかしがって他人に会わせないようにする、というのはボリウッド映画にはよく出てくるシチュエーションで、日本の50年代や60年代の映画のなかで田舎の方言しか話さない祖父母を疎んじる孫たちが出ているのと呼応していて、ああ、そういうことなのか、と見てとれる。 English Vinglishの娘も英語を話さない母親を恥じて他人にあわせまいとするが、この映画にはもうひとつ、ベンガル語が母語で、ヒンドゥー語よりも英語でお願いできませんか、と述べる教師が出てきて、インド人が急速に英語化していることの背景をうかがわせる。 実際、インド版のXファクターを見ていると、スター志望の出場者に、話しかけるジャッジ役のスターたちがヒンドゥー語と開催地のタミル語と英語を自在に駆け抜けて使っていたりして、インドにはインドの大陸欧州的な環境があって、そのせいで、言語というものそのものへの認識が日本人や中国人とはおおきく異なっていて、母語も外国語も、いっしょくたに言葉は言葉という、思考の上での風通しのよさが、インド人の外国語習得をおおきく助けているのがわかります。 言語を学問として受け止めると、まず普通はそこでダメで、構文だのなんだのといいだすと、そこから先は言語学者になる以外にはなんの使い途もない外国語分析の病に倒れるしかなくなることになるが、インドの人が、チョー理屈っぽい有名な国民性であるのに、英語の習得にだけは理屈をもちだしてこないのは、つまり長い経験で、そんな考え方にとりつかれると永遠に英語がわからないということをよく知っているからでしょう。 日本の文明のおおきな特徴のひとつは問題と正面から向き合って解決することが苦手で、問題をなかったことにしてしまったり、たいした問題でないと皆でいいあって、どうにもならなくなるまで解決を先にのばしたりすることだが、十年間日本語と付き合っておもったのは、もうそろそろ自分達が英語が出来ないということを認めて、もう少しマジメに英語が出来ないことの重大な結果を考えないと、30年の長きにわたって続けているこの堂々めぐりは終わらないだろう、ということでした。 オンラインの新聞ひとつとっても、英語がわかって英語の記事も読んでいるということと、英語で記事を読む方が日本語の、あの、ほんとうのことを言い回しで必死に誤魔化そうとしているかのような判りにくい文章で書かれた記事よりも楽に読めて、だいたい英語の記事で用を足してますというのでは、まったく反映されて出来る頭のなかの世界が異なる。 本来、聡明であるはずの日本の人を、ここまで愚かにしたのは、つまりは腐った材料でおいしい鮨はつくりようがないのとおなじで、見たところ、世界でも名だたるダメさで、すっかり世界中で有名になってしまったマスメディアの質の悪さのせいでしょう。 … Continue reading

アゴラで

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インターネットはアグレッシブな性善説なのだという。 アメリカから遙々やってきて、挨拶と、おお元気かや、のハグもそこそこにいきなり、どうやら話したくて仕方がなかったらしいことをまくしたてはじめる。 だいたい、プライバシーが必要だとか、考えが間違ってるだろ? 邪悪な人間だけがプライバシーを必要とするので、善意をもって暮らしていれば隠すものがある個人なんて、そうそうないはずだ。 インターネットは基本的なデザインがプライバシーを前提としていない。 あんな20世紀的な理屈をもちこまれては、やれることもやれなくなってしまう。 おれはもうジジイやババアの古くさい頭に付き合うのは、うんざりだ。 この人は贅沢な人なので他のまともな旅行客のようにコンベアの前でスーツケースが出てくるのを待つ必要はない。 一緒にわしのクルマまで歩くが、そのあいだもずっと、育ちがよいので口角に泡をためたりはしないが、すごい勢いで話しています。 あんたはMG42か。 グーグルが中国政府に買収される日、という有名な冗談がある。 純粋にマーケティング用のビッグデータだから大丈夫、グーグルにストアレジや検索や、というふうにどんどん頼っていくのは、なんとなくよくないのは判ってるが、便利だし安いからドロップボックスから移行するか、と言っているうちに、よく見てみると朝起きてから夜寝るまで、どこにいてなにをしていて、もっと悪いことには何を考えているかまで全部グーグルに判ってしまうようになって、オンラインで把握された状態になっているところで、グーグルがポンッと中国政府に事業全体を売ってしまう。 でも、普通の人間は中国政府に把握されて困るプライバシーなんてもってないだろう? と、言う。 あるいは、21世紀の後半は、プライバシーに価値がある0.1%以下の人間と、「その他」に分かれていくだろう。 ラウンドアバウトで左側から進入してくる、おっそろしい運転のインド人風のおばちゃんがいるのでクラクションを鳴らして、あーびっくりした、と述べているあいだも、こちらの動揺には一向にかまわず、インターネットがいかに本来の革命性を発揮できないでいるかを滔滔と述べ立てる。 性善説は長いあいだパッシブな立場に立たされる考えだったが、インターネットによって性悪説を圧倒するちからを持つようになった。 アナーキズムは建設性をもたない政治思想にすぎなかったがインターネットの登場で、国権主義はもちろん、政府そのものを否定しうる道が出来てきた。 高速道路に入ったので、返答する余裕が生まれている。 話は、いつのまにかブロックチェーン理論で変わる社会に寄り道している。 銀行はなくなるのがたしかなわけだけど、他にはどんなものがあるかな、ガメ、きみなら想像力がCGみたいなやつ(←どういう意味だ)だから、クリアなビジョンが頭にあるんでないの? 銀行や不動産会社というものが存在できなくなるのは、まことに祝着の至りだが、ITと組み合わせて個々の人間がブロックチェーン理論による評価の紐付きになるのは、なんとなく滑稽で可笑しい。 日本の人相手にね、そのうち頭の上に偏差値の小旗をつけて歩くようになるのではないかと軽口を利いたことがあるが、あの国とかは、AR的に実現してしまいそうだよね。 ぴんぽーん。 ガメ。 35歳。 年収5円 思想的に素行不良 なんちゃって人の顔をみるたびに、その人の思想傾向や年収や最近起こした主な不祥事および不穏な言動について表示される。 そうするとさ、「前科」みたいな情報というのは、情報量が小さい時代の区分になって、もっと詳細で連続的な評価になるのだろう。 横断歩道でないところを先週は5回渡っているとかね。 ビッグデータを始点とするテクノロジーが発達していくと、かなりあっというまに、そのデータを人間が見るかどうかは問題でなくなってくるわけだよね。 人間の頭脳の処理能力では、いずれにしても処理できない量の大量のデータが個々の人間について瞬間的に、例えば、航空機搭乗券取得の優先順位をつけるために処理されて、あなたはいま乗れます、あなたは来月まで待つべきだ、というふうになってゆくだろう。 AIとデータテクノロジーが結びつくと民主制のようなものは無効になっていくことが予想される。 高速をおりて、オークランド名物のばかばかしさ、都心に直通の高速道路が存在しないのでエプソンの町並を通り抜けるころになると、民主制が情報テクノロジー革命を生き残れるかどうかや、技術革命がパラダイムシフト化したことによって近代哲学が再検討を余儀なくされるだろう予測に話が移行している。 途中では、ある朝、紙の新聞をカフェで広げてみたら自分の父親が労働者の敵として盛大に攻撃されていた、という笑い話をしたりして、ひっきりなしに話をしながら笑いこけたりしているうちにわし家に着いた。 ニュージーランドに主にいて、ときどきメルボルンの家に出向く程度の生活をしばらく送ることにしたのは、子供と朝から晩までべったり一緒にいて、犬さんの父親なみというか、ほっぺたを鼻でくちゅくちゅしたりして、子供がいつも親に抱っこされている日常をおくりたかったからだが、ひとつには揃いも揃って議論が大好きで、ひとの顔をみると議論したがって、見えない尻尾が激しくふられていそうな北半球のお友達に、日常、恐れをなしているからでもある。 自分では、頭の回転がのおんびりなせいもあって、あんまり議論を好んでいるとはおもえないが、どうも向こうから見ると、よっぽど議論をしかけたくなる体質であるらしい。 いまはちょうど世界が音を立てて変化しているときで、しかも加速がついて、ついていけない国や社会、あるいは個人ですら、どんどん後ろに置き去りにしている。 中国に焦点をおいてみると、その遠くに見えている理由が「やがて絶対的に不足する資源」にあることは、はっきりしている。 … Continue reading

漂流する日本に

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トルドー首相が安倍首相を迎えて二度も日本と中国を取り違えて「チャイナ」を連発したのは象徴的な出来事だと捉える人がおおかった。 日本では、この椿事どころではない外交上の大失礼を安倍首相の責に帰する人がおおかったが、それはいくらなんでも酷で、当然、カナダでは「トルドーのボンボンは、なにを考えとるんや」と自分達の首相が相手国をかつてはその国のライバル国であった国と取り違える外交上の失態を嘆く声がおおかったように見えます。 一方では、安倍首相が軽んじられて、各国の首脳の失礼な冗談のタネになっているのは、まさか表通りのマスメィアでは伝えられはしないが、誰でもが知っていることで、侮辱されても侮辱されても、まるでいじめにあっているのに、いじめそのものに気が付かないふりで「ぼく、クラスのみんなの人気者なんだよ」と母親に報告する健気な子供のように、安倍首相はあきらめずにあちこちの国にでかけて、ネグレクトされ続けている。 初めに英語世界でおおきな話題になったのは、トランプが大統領の座に着いたばかりのときの安部夫妻のアメリカ訪問で、いったいどうものを考えたらそういうことをしようとおもうのか、驚天動地というか、メラニアは安倍昭恵に付き添ってDC市内を案内するという例外があったことのない慣行を無視して、首相の夫人を、ひとりで半日ほったらかしにする、という公然たる侮辱を与えるという行動に出た。 各国の外交雀たちは、大喜びでした。 元外交官や、性格が悪いある種のひとびとが出入りするコミュニティに属する「外交通」たちは、なにしろ、なによりゴシップが好きなので、メラニアの破天荒なデタラメぶりと、屈辱を必死に我慢して、まるで主人のもとに出張してきた夫についてきて、誰もめんどうを見てくれないので、途方にくれながらひとりで見知らぬ町をほっつき歩いて時間をつぶす会社員の妻のような日本の首相の妻の姿を同情を持って眺めていた。 あるいはトランプが経営するリゾートでのパーティで、当時はマーサーファミリーの後ろ盾でホワイトハウス入りして、ぶいぶい言わせていたスティーブン・バノンに、西洋人の目にはどう見ても清朝の宦官の小走りにしか見えない走り方で、慌てたように歩み寄って、やはりこれも西洋人の目には卑屈にしか見えない恭しい態度で自己紹介をしていた。 いま、こうやって書いていて、どう思い出してみても安倍首相がぺこぺことお辞儀をしながら名刺を渡していた映像がたしかな記憶として頭のなかに浮かぶのは、しかし、現実にはなにしろ一国の首相なのだから、そんなはずはなくて、日本の出張会社員の姿と重なるマナーで、逆に動作を記憶が捏造しているのでしょう。 気位が高い国民性を考えれば無理もなくて、日本では報道されないが、そのあとの数多の外国訪問でも卑屈であるか威丈高であるかで、まるで風刺漫画に出てくる誇張された日本人そのままの像をみせて世界中を楽しませることに成功した安倍首相は、だんだん回数が重なるにつれて、見ている人間に、「いったい、この人の内面はどういう仕組みになっているのだろう?」と訝らせるくらい、ほとんど当たり前のように無視(例:G7)されたり、ある場合には、露骨に相手が格下の国であることをデモンストレーションとして演じてみせた習近平のように、いっそ見ているほうがハラハラするくらい失礼な態度に出られても、どこふく風というか、むっとした顔もみせずにニコニコと応じて、帰国すると、架空な「外交成果」を国民に報告していた。 日本の首相なのだから、ほんとうの実績ならともかく、あれほど空想的な「外交成果」を国内に向かって述べてしまえば、それはちゃんと国外からも見えていて、ますます各国の政府から失笑と、この場合は不幸なことに安倍首相個人に限らず、それを称賛する日本国民全体に対してまで見ている人間たちが軽蔑の気持が起きるのは当然わかっているはずで、見ていて、国内向けの配慮はしても、外交の話であるのに外国から軽侮されるほうへばかり行動するのは不思議に感じられた。 そのうちに安倍首相が用もないのにやってきた場合の対策マニュアルのようなものが、無言のうちに納得されていって、とにかく日本のマスメディア用に歓待を見せる席をつくってやる。 対等に扱っているシーンを、これも日本の記者たち用にお膳立てする。 つまりは安倍首相の訪問は国内で「外交をかっこよくすすめている国際派首相」というイメージを確立するためにやってくるので、その需要をみたしてやれば、見返りのない、案外莫大な金額のオカネをおいて、日本にとっては極めて不利な約束(例:オーストラリアの投資会社による日本人個人資産へのアクセス権、ロシアに対する「北方領土」四島主権の事実上の放棄の約束)を、ほとんど交渉の手間さえかけずに置き土産としておいていってくれることが判ってくると、各国とも安倍首相の訪問を歓迎するようになっていった。 下品な言い方をすれば鴨が円を背負ってやってきてくれるのだから、当たり前といえば当たり前です。 労せずして日本人が営々と築いてきた国富が我が手に入る。 こちらから見返りをだす必要は、ゼロ。 「顔をたてて」やればいいだけのことで、不思議なことに、どうやら安倍首相の側は、それでも日本に帰って国民の猛然たる非難にあう、ということはないらしい。 なんだか狐につままれたような、英語では too good to be true と言うが、現実の話なので、俄には信じがたくても、信じた方が自分の利益になるとなれば、とにかく毟り取れるあいだは毟ったほうの勝ちというか、どうせばらまくオカネならば、自分の国にばらまいてもらうに如くはない。 日本もハッピー、当該国もハッピー。 いまだに「ハッピー・シンゾー」と渾名がつかないでいるのが不思議なくらいであるとおもわれる。 (閑話休題) 最もわかりやすそうな例だと考えて外交をもちだしたが、この頃、日本は国を挙げて、どうやら21世紀の世界とは異なる文脈を歩き出したようです。 世界で焦眉の急であると考えられていることが日本では中心の話題になっているのを見たことがない。 パッと見た第一印象は、この変化が激しすぎて参加者全員がうんざりしている世界で、日本だけが20世紀を生きていることで、問題の立て方自体が20世紀的で、この記事も日本語で書いているとおり、自分では日本語が一応使えるので、日本の人とツイッタなどで話してみると、なんだか自分の祖父と話しているような気がしてくる。 どうかすると、世界のものごとを「親日」「反日」という分類をあてはめて考える端緒にしようと企てる人までいる。 記事を見る限りそういうことが大好きであったらしい戦前の1930年代くらいの朝日新聞記者が墓から蘇ってときどきミイラ化した指がとれたりするのに顔をしかめながら書いているのかとおもったら、20代の若い人です。 東アジアの他の国なら「親日」という言葉は、1945年以前の大日本帝国の協力者のことで、親ナチとおなじで、ちょうどいまでも90歳代に達した元ナチ幹部をモサドが追究して告発するように、国家として告発して、罰を受けさせようとするのとおなじことで判りやすいが、日本の側で「親日」「反日」と述べるところが、もう、よく判らないというか、文脈が異なっているわけで、 つまりはおおもとは、日本は戦前からひとつづきの大日本帝国の延長で、「国体」として同一で、その戦前の「焦慮する大アジア主義」とでもいうべき性急で暴力的なアジア征服の夢をもって、アジア中で無辜の市民を殺しまくり強姦しまくり、機嫌が悪ければ誰彼なく通りで言いがかりをつけてなぐりつけていた大日本帝国と同意するかどうか、と言っているのでしょう。 どうも日本人にとっては個人としての自分の存在と日本という自分が市民権をもっている国とは一体で、いわば日本という身体の一部のような存在で、したがって、日本に対して「でも、あなたはそういうが私の祖母は兄弟を日本兵に皆殺された」と述べると、日本の一部と感じている右腕国民がなぐりかかり、口(くち)国民が「嘘をつくな」と罵り出す。 国という観念と自分の肉体のあいだになんの疎隔もなくて、悪くいえば個人といえどもただの社会の部品だが、日本人は日本語で思考して生活しているのが普通で、英語のような態度が悪い言語とは異なって、間柄(あいだがら)言語とでも呼びたくなる、個人の判断そのものが他人との関係でくだされる、いわば相対性のなかでその都度うまれる価値が思考を支配する言語で出来た考えにおいては、自分が他者との関係によって規定されるのは自明と感じられている思考そのものの前提で、特に意識しなくても、日本という国と自分は一体であると感じるものであるらしい。 幸福といえば幸福な状態ではあるまいか。 細部に目を移すと、ドライブウェイを歩いて新聞を取りに行って、ゲートの前で近所のおっちゃんと会う、立ち話の短いあいだでさえ、「なあ、ガメ、アーダーン首相がスカーフを頭にまいて演説するってのは、ムスリムに媚びすぎだとおもわないか?」 「いや、おもわないよー。だってムスリムの特に女のひとたちは、スカーフをまいて町を歩くこと自体に恐怖心があるんだよ。 このあいだ、ほら、ニュージーランドヘラルドに、イスラムに改宗して顔をすっぽり覆うブルカを着てケンブリッジで暮らしている白い女の人のインタビューが出てたじゃない。スーパーの棚の前で野菜を手に取って眺めていると、女の人が横にすっと寄ってきて、同じように野菜を見ているふりをしながら低い声で『ここはおまえたちが来る国じゃない。出て行け』と言われたりするって。 … Continue reading

世界を愛する方法について

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Gloriousという。 いちどだけ全裸で大通りを歩く人間を見たことがある。 フットボールの競技場に塀を越えて飛び込んで、どんな場合でも滑稽にしか見えない例の男ヴァージョンの性器を激しく上下左右に振りながら全力で走り抜けるぶざまで物好きな若い男みたいに走っていたわけではないんだよ。 シドニーにKings Crossっていうところがあるんだけどね。 午前零時をまわった繁華街の舗道を向こうから回りの男達より頭ひとつ背が高い女の人がこちらに向かって歩いてきた。 トレンチコートを羽織っていてね。 踵のたかい銀色のstilettoを履いているひとだった。 ところが近付いてきたその美しい容貌の女の人を見たらトレンチコートの下は何も着ていない。 おまけに十メートルくらい手前になったら、コートを後に残して脱ぎすててしまって、stilettoをはいているだけになった。 もう少し精確にいうと、ダイアモンドあるいはダイアモンド風のネックレスとネックレスとデザインがあっているイヤリング。 宝石とstilettos. 非現実的な光景だった。 おまけに、ここがとっても重要なのだと強調したいが、周りの男達も、あまりのことに、まるで気が付いていないかのようで、びっくりして振り向いている人はいるが、あれほど美しい人が一糸まとわずに歩いているのに、マヌケなからかいを述べる若い男も、口笛も鳴らなくて、いま書いていて気が付いたが、あの女の人は少なくとも元はファッションモデルであったか、その訓練を受けたことがあるのに違いなくて、キャットウォークを職業的に颯爽と歩く人のように歩いてきて、すれちがうときに、はっきりとぼくの顔を見て、目を覗き込むようにして Deus te benedicat. と述べた。 笑うなよ。 その女の人は、たしかにそう告げて歩いて去っていったんだよ。 次の日会った大叔父に、その話をしたら、「あの辺はコールガールが多いから、麻薬をやりすぎてハイになった売春婦だったのかもしれないね」と感想を述べていたが、大叔父は物理学者で、物理学者らしく世界を説明するのがいつも下手で勘も手際も悪い人なので、まったくあてにならない。 きみは、どうおもったのかって? 初めに書いたでしょう? あまりに美しい人だったのでGloriousという単語が感想のすべてで、視覚的な記憶は細部に至るまでいまでも残っているが、リアリティのかけらもない、というよりも地上性のかけらもない出来事の視覚記憶に圧倒されて、言語的な感想はもちようがなかった。 ただ、その出来事に出会ってから、ぼくの頭はえらくまともになって、世界が明然と見えるようになった。 世界がキンッと冷えてるんだ。 硬度が増して、 分解能がいちだんあがったCCD/CMOSみたいに輪郭も色彩もシャープになって、現実がぼんやりとしたものではなくなった。 多分、ぼくの退屈はそこから始まったのだとおもう。 過去の自分の姿がおもいうかぶときに横から見た姿がおもいうかぶのは、どんな場合でも悪い徴候なのだけど。 冬で、氷のような細かい雨が降っていて、ぼくはヴィクトリアパークというクライストチャーチの南の丘陵にある公園の小高い岡に立っている。 ぼくは正しいことを言う人間が好きじゃないんだ。 正しいことを述べる人間に相槌を打つ人間に至っては、耐えがたいほど嫌いであるとおもう。 なぜかって? 簡単なことだよ。 そういう人間はうんざりするくらい退屈だからさ。 2ユーロ硬貨をいれると正しい答えが奥から押し出されて取り出し口からコロンと出てくる「賢者」ほど世の中にくだらないものはない。 ぼくは生まれてからこの世界がずっと嫌いだった。 きみはほんとうに努力すれば立派な人間になれるとおもうかい? 自分を十分に訓練すれば、初心者の頃には足をかけることすら思いも寄らなかった何百メートルにもわたって切り立ったあの垂直な崖を登攀できるようになるだろうか。 … Continue reading

ふたりの日本人

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わしは、人間の印象として、よほど見た目と日本語を話すという事実が一致しないらしい。 わしの趣味のひとつは、相手が日本人だとわかると、あるいはわかっていると、ここぞというときにわしが自慢の素晴らしいクリアな発音の、英語訛りが少しもない、純度99.999%の、というのはどうせばれないと思って書き放題書いているだけだが、それにしても外国人としてはかなり日本語人に近い発音の日本語でいきなり話して相手をぶっくらこかせることなんだけどね。 これまでに遭遇したおもろい反応は、 思わず手にもった料理を取り落として床にぶちまけてしまった若い仲居さんがいる。 幽霊でも観たように青ざめて固まってしまった割烹の大将がいる。 いま誰が自分に向かって日本語で話しかけたのだろう、と一瞬キョロキョロする女将がいる。 思い出しても楽しい反応は成田のモール(ショッピングセンター)のなかにあるタイ料理店のシェフの人で、その頃はコップンカップもちゃんと判っていなくてコップンカーと言ってしまうマヌケなタイ語だったので、通じなくて、日本語で話しかけたら、料理をしていた手を全面的に止めて、わし顔をまじまじと見て、「あんた、日本人?」と述べてから、 2秒ほども考えて、やっと安心したとでもいうように「そんなわけないよな」と呟くつぶやきかたが、笑いの神様と間(ま)がぴたりとあっていた。 どういう理由があるのか、鮨は未だに日本の人がやっている店がおいしい。 サーモンや鯛の鮨はいいが、ハマチになるとだいぶん怪しくなってきて、卵焼きやマグロになると問題にならない。 穴子や鰻になると、多分、塗りつけてある「ツメ」のせいで、なんだか東京で食べる鮨とは別の食べ物です。 この頃はオレンジカウンティのモール(ショッピングセンター)にも普通に「くら寿司」があったりして、日本みたいなことになっているが、もともとは英語国では回転寿司といっても安い鮨とは限らなくて、シドニーのピットストリートにも一軒そういう鮨バーが(いまでも多分)あるが、ウエスティンホテルのグラウンドフロアで、週末のマンイーティング、じゃないや、おデートに着飾った女のひとびとがカウンター沿いに蟠踞していて、壮観であったりする。 そういう英語国の高級回転寿司というけったいな生態の店のひとつに、ハンサムなわしがひとりで颯爽とあらわれたとおもいたまえ。 初めは相手にあわせて普通に英語で注文して話していたが、そういう性格なので、そろそろ脅かしちゃろ、と考えて、件の完璧な日本語でカウンタのなかの職人さんに話しかけます。 ところが驚かないんだよ、この人。 かわいくないというかなんというか。 眉ひとつ動かさずに「お客さん、日本語がお上手ですね。日本にいらしたんですか?」と言う。 つまらん。 そのとき横から強い中国訛りの日本語で「お客さん、お茶を替えましょうか?」と話しかける若い女の人がいる。 みると、やや機嫌が悪そうな顔をした丸い顔のアジア系の女の人で、店に入ってきたときにもやはり広東語訛りと推測される訛りの英語で挨拶してくれたウエイトレスさんです。 日本語で話しかけられているのに、多分、わし耳にはやや聴き取りにくい日本語だったせいもあって、おろかにも英語で返事をする、わし。 そのあとの女の人の憤懣に堪えない、という表情をわしは一生忘れることはないであろう。 「わたし、日本人です! あなた、どうして、英語で話しますか?」 その当然な抗議にたいする、パニックに陥っているらしいわしの答えは、ますます、いよいよ、クイックサンドに踏み込んでしまったマヌケな駱駝のように絶望的なもので、 「すみません。気が付かなかったものだから」と、これも英語で応えてしまうという救いのなさだった。 お茶をぶっかけられなくて、よかった。 英語国では粉茶は高いからね。 アホな白い人にぶっかけては、もったいなくてお茶農家の人が泣くだろう。 第一、手に入りにくい。 あ、いや、気が利かなくてすみません、と丁寧に、今度は日本語で謝ってから、 なんだか気分が変わって、 ごめんね、と友達言葉で話したら、やっと機嫌を直してもらえた。 日本に住んでいたの?と聞くと、 日本で生まれて育ちました、両親も日本人です、と相変わらず強い中国語訛りで応えてくれます。 わたし、日本人なんです。 正真正銘の、日本人! この話は、ここで終わりなんだけどね。 思い出すたびに自分が、恥ずかしくなる。 子供のときに、ヒロというおっちゃんの友達がいた。 ぼんやり40代くらいだとおもっていたが、いま振り返って考えてみると、30代も、前半だったのかもしれません。 … Continue reading

Bonnie and Clyde

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Hoodieを着て、フードを目深にかぶって、耳には白いケーブルのイアフォンを突っ込んでいる。 雨のなかで、傘もささずに、おもいつめたように道路の水たまりを見つめている。 別れたボーイフレンドのことを考えているのかも知れないし、この世界を破壊したいと願っているのかもしれない。 若いんだなあ、とおもう。 抱きしめてあげたい気がするが、同時に、そういう気持になるということは、まあ、つまりジジイだよね、と30代のおっさんになってしまっている自分に嫌気がさす。 見知らぬおっさんに抱きしめられたら、災難で、日本の電車のなかなら「この人、痴漢です!」だよね、と取り止めもないバカなことを考えながら眺めていたら、突然、ポケットからスマホを取りだしてイヤホンごと道路にたたきつけて、まだクルマが往来している道路を走ってわたっていってしまった。 まさか内心の声が聞こえたわけではないとおもうが、若い人間と自分との観念の高みの差をおもいしらされて愕然としてしまう。 十代の自分が、三十代の、いまの自分をみたら唾を吐きかけたくなるだろう。 人間であることの「痛み」は自分を守ろうとすることに起因する。 仕方がないんだよ。 眼の前にゲームが呈示されれば、与えられたルールで、どうすれば勝てるかの手順くらいは人間は20年も生きていればすぐに判るようになる。 人間の社会のサバイバルゲームは、あんまり数が多くない定石で出来ている。 「これはやっても仕方がない」「こういうときにこうしてもうまくいった例はない」と本にでも雑誌にでも至るところに書いてあって、それがひととおり頭に入ってしまえば、あとはチェスを指すのと同じことなので、いろいろな経験を要するもののなかでも人間の一生を恙なく生き延びるのには、そんなに年齢を重ねることを必要としない。 だから、人間は自分が生きていくということを自動化してしまうのであって、眼の前の人間を信用すべきか否かというようなことに至るまで、なれてくると、別にいちいち考えているわけではなくなる。 具体的には、第一、だいたいのことは顔つきだけでわかるようになってしまう。 まさか相手に言ったりはしないが、頼み事をされても内心では「あなたの、その酷い顔ではダメですね」と考えている。 美人でもハンサムでも、ひどい顔の人はひどいので、中国の公安警察は独自のグーグルグラスをつくって公安のブラックリストにある人間の顔が明色のフレームと嫌疑に囲まれて表示されるそうだが、特にそんなものはなくても、なれれば、 「この人はダメだな」とすぐ判るようになる。 おとなになるということは、つまりはそういうことなので、くだらないというか、 気が滅入るというか。 日本でも「俺たちに明日はない」という、なんとなくバカバカしい気がする邦題で伝記を脚色した映画が流行したことがあるらしいBonnie and Clydeには、いくつか(多少でも知的関心がある)アメリカ人が普通に知っている背景があって、例えばEminemが、あれほど、このアウトローのカップルにいれこむのは、もちろん理由がある。 20歳になったClyde Barrowが初めて19歳のBonnie Parkerに会うのは1930年のことで、極貧家庭に育ったふたりは、ひとめで恋に落ちて、朝から晩まで夢中でお互いの魂のなかにもぐりこみあうような数週間を過ごす。 大恐慌のさなかで、ときどき雇い主の都合だけで出来たゴミのような労働環境の仕事にありつくが、そんな仕事が長続きするわけもなくて、その頃、アメリカの田舎にはたいへんな数で存在した他の貧しい若者たちと同様に万引きから自動車泥棒までなんでもやった。 自動車泥棒は、特に、若い人間たちには人気がある犯罪で、このことにはこの頃フォードが世界で初めて大量生産のV8エンジンを装備したクルマを売り出したことが深く関係する。 例の、英語国の貧困家庭にはよくある、黒いタールで煮染めたような壁の小さなアパートに住めればいいほうで、テントを買うためのオカネをつくるために数ヶ月も激しい労働をしなければならなかった当時のアメリカでは、若い人びとの夢は、ある日、突然自分の心に「勇気」が宿って、当時のすべてのパトロールカーより速度が出たVフォードをとばして、州境を越えることだった。 ひらたく言えば、まるで神様が純粋な魂をまちがって箱から取りだしてしまったようなふたりは、1930年のアメリカの田舎にはどこにでもいる、「ワルガキ」たちの一組だったわけで、あとにコミックで描かれてベストセラーになるように、葉巻をくわえて機関銃をぶっ放す大胆な若い冒険者だったわけではなかった。 1930年、会ったばかりでBonnie との恋に夢中になっていたClydeが自動車泥棒の罪状でつかまって、警察と裁判官のはっきりした悪意によって悪名高いEastham Prisonに送られることで、ふたりの運命は、それまでとは、まったく違う性質のものに変わってしまう。 この刑務所でClydeは、(男同士であるのに)誰かを強姦することによって子供をつくりたいという奇妙な妄想に駆られたひとりの囚人に毎晩のように繰り返しレイプされることによって、最後のひとかけらのように手に握りしめていた世界への希望を完全に失ってしまう。 ある日、自分に襲いかかる男の頭を鉛管でぶち割ることによってClydeは「新しい人」になります。 暴力は、小柄でどちらかといえば内気だった少年を解放する。 恋人を助けるために刑務所に武器を隠し持ってやってきたBonnie Parkerと刑務所を脱走したりもするが、発見され連れ戻されて、結局、彼を刑務所から解き放ったのは、嘘と他のインメイトに頼んで切り落としてもらった足指のおかげだった。 刑務所から出たあとに起きた一連の出来事は、いろんな映画や本になっていて、そのまま殆ど脚色のないことなので、興味があれば、見てみるといいかもしれない。 死んだときBonnie … Continue reading

Band of brothers

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「ガメ、きみの友達たちは気の毒に、あの品性下劣な男に、いいようにあしらわれて敗退するようにみえるぞ」と日本のおっちゃん友達からemailが来ていたので、見に行ってみると、なるほど、これは負けますね、という展開だったので、頑張ってくれてありがとう、という手紙を書くことにしました。 ざっと見てみましたが、ためらいもなにもなく足撃ち(←お百姓さんが編み出した剣術で、見苦しさをかまわず遮二無二足だけを狙って竹刀で打ちにかかる.1年程度の練習で、もともと剣術が想定していなかったやりかたの汚さで、どんな剣聖にも勝てたが、あまりに醜悪でこんなものを許していたら剣道どころか武士道そのものが消滅してしまうというので禁止になった剣道術です。有名な流派では柳剛流というのがあります)にかかってくる能川元一さんに、どうしても最低の美学と人間としての矜恃は保ちたいタイムラインの人々が、愚弄されている。 すべての論拠がニセガイジンにかかっていて、ニセガイジンと集団で喚き続けた根拠が「英語力が誰が読んでも日本の中学生なみ」だったのだから、ほんとうは、そのもともとの論拠に集中して「おかしいではないか」と述べつづければいいだけであったのに、相手がそこに来るとだんまりになってしまうことに焦れて、矛先を牛蒡話に転じてしまう。 牛蒡話も、すでに、能川元一の異常な趣味の「自分が攻撃できるとおもったものは全部『魚拓』をとっておく」で皆が閲覧できるものだけを材料に、「仮に能川元一の言ったとおりだとして」と仮定して哲人どんが組み立てた「寓話論」が手元にあるのに、論拠もなにもなく能川元一に「そんなものは認められない」と言われると、なんとなく「そうか認められないのか」という気がしてきてしまって、能川の常套手段にはまって、「まず相手のいうことが正しいと仮定して自分で即興で反駁を考えてみればいいか」という、思うツボの自爆の道を歩いてしまう。 読んでいて、そうだったなあ、となつかしい感じがしたが、当時はまだ20代で若かったぼくは、なんとぶったまげたことに「Richard」のほうを名乗っている。 読みながら「先生、それはまずいんでは」と可笑しくなってしまった。 万が一名前から実名が判ったときにカッコイイほうを選んでしまっていて、やっぱり「投資家」なんておっさんくさくて嫌だったのか、あいつ、昔からカネの話は嫌いだったからな、と10年前の若かりし頃の自分の軽薄さをうらやむような気持になった。 能川が終始一貫ニセガイジンの根拠にしている英語は、いくら書いてみせたって、「高校生の作文だ。おれのほうが英語力が上だから、おれにはわかるんだ」という、ほんとは英語で言わないとすさまじくカッコワルイ科白を、おっさんの厚かましさで委細構わず述べて、それで終わりにしてしまうのが判っているので、ちょっと何百人というはてなのひとびとが「エイプマン(←能川先生の他人を中傷攻撃するときの偽名ですね)が正しい。おれも読んだが、高校生の作文だよ!」と口々に言い出したのには、母語でもあり、自分の日本語が英語人の群に「おれより下手だ」と嘲笑されることを想像すれば少し判りやすいだろうが、ぶっくらこいてしまったし、なにしろ根が短気なので頭に来たりしていたが、「まあ、5年くらいほったらかしにして、言い逃れが出来ないところまで、好きな事を言わせておこう」と思って、いっさい英語は書かずに「ほおれみろ、英語、書かないじゃないか」と自分は絶対に英語を書かないのを棚にあげて、はてな人の数を頼んで、嘲笑するのにまかせていた。 ちょうどいい機会だから、なぜ「ほおれ、証拠をだしてみろ」と言われると、なんだか意地になったように応じないのは、卑屈なことを平気でおこなう日本の文化とは異なって、ぼくが育った文化では、ちょっと例が下品でよくないが、やや女っぽく見える男の人が往来ででくわした見知らぬ男に「おまえ、ほんとうは女だろう、それが嘘でないといいはるなら、そのズボンをぬいでチ〇ポコをみせてみろ」と言われたときと同じ気持ちになる。 それを要求する能川元一は、はいはいと性器をだしてみせて、「これでよろしいですか?」と述べるということだろうが、こちらは、そういう卑屈なことはしたくないので、下劣な人間から要求されているあいだは、なにがあったって応じるわけはない。 軽蔑しているだけのことで、それをそういう要求を非礼にも平然と行う人間がどうとって、その同じく品性下劣に決まっている取り巻きがどうとったって、その取り巻きが何千人いたところで、そんな野蛮人の集まりなど怖くもなければ、くだらないとしかおもわない。 仮に日本中が同調してところで、そうか、そんなにダメな国なのか、とおもうだけのことです。 おぼえている人はおぼえているだろうが、英語を書き出したのは、たしかロウィナというスコットランド生まれのカナダ人が、もともとはアフリカ系の人で、アフリカ文学に詳しくて、話しかけてみたくてたまらなくなったからです。 話しかけてみると、案の定、アフリカ系作家に豊穣な知識を持っていて、いまのぼくの頭のなかにあるアフリカ現代文学の系譜は、おもにロウィナ先生の導きに拠っている。 そのうちにロウィナの友達であるキャサリンというシカゴに住む、途方もなく美しい静謐な英語を書く作家の友達がつきあってくれて、フォローしては、日本語の洪水に驚いてアンフォローして逃げてゆく英語人のなかで、ただふたり、ずっと一緒にいてくれて、いまでもツイッタ上の付き合いがあります。 ついでだから書いておくと、エイプマン本人だかエイプマンのいわば「ニセガイジン攻撃友達」だかが、ロウィナにおっそろしくわかりにくい英語で、「こいつはニセガイジンのウソツキだからフォローをやめないとろくな事はない」というダイレクトメールを出して、ロウィナが意味がとれないので困った挙げ句、どうもあなたのことが書いてあるようだから、読んで見てくれないか、と送ってきて、そのまんま「ぼくがウソツキだから付き合うと危ないと書いてあるね」と英語から英語への翻訳をしてあげたら、よくわかったからブロックしておくね、ということだった。 そのときにわかったのは、日本の人はマメというか、なんというか、そんなことまで一生懸命に努力しているので、あとで、モニとふたりで日本の人はおもしろいね、と笑い合ったものでした。 そのころは、能川先生は「ガメ・オベールは白人のことをコーカシアンと呼ぶから英語を知らない」と鬼を首をとったように述べるのに夢中で、まわりのはてな人も「おおー、これでガメ・オベールも終焉のときを迎えたか」で、大喜びだったが、 あとでやってきた哲人どんが「あのひとたちは小金井良精先生がつくった翻訳語を知らないのか」と驚いていて、黙っていていいのに、言ってしまったので、自分で調べてみたのでしょう、あっというまに言わなくなってしまった。 今中大輔たちに毎日のようにつきまとってニセガイジンを広めて歩いていいかげんにしろと言われるようになると、自分のアカウントが引用される度数があがるにつれて、今度は自分がトロルの被害者だといいだして、「つきまとわれているからつきまとう」という珍妙な理屈で相変わらず猛烈な数のツイートを始めた。 ぼくは実は能川元一がエイプマンの正体であることを、ずっと前から知っていた。 六甲山なんとかいうプロバイダだったとおもうが、日本のインターネットの匿名性なんてチャチなもので、そういう仕事の人に頼んで調べてもらえば半日で「正体」なんてわかってしまう。 え?それでは、ガメの正体も判ってしまうではないか?って、だって、正体ばれても困らないもの、どうだっていいじゃないか、そんなこと。 トンチンカンなピントがはずれたやりとりがあって、何の本に載っているんだ、と聞くので、取り巻きだったかエイプマン本人だったか忘れたが、そのときに隣町の図書館までママチャリをとばして見に行って証明してやる、というので、これはおもしろい、と考えて、なんだかおぼえてない本の名前をあげたら、ほんとにえらい勢いで自転車をこいで図書館まで行ってしまって、これには、ちょっと悪いことをしたという感じがしたが、ほかは話全体がバカバカしくて、能川先生には悪いが、いまだにどうしてもマジメに受け止める気になれない。 ひとつには、その頃からブログを読んでいる人は、みなが知っているとおり、あのブログはゲームサイトの広告・販売促進として書かれていたブログなわけで、 ガメ・オベールという名前をみれば、すぐGame Overと判るとおり、ゲームブログです。  やってみると、ソフトの届け先に大学研究室が多くて、じゃあ、おれが書くよ、ということになって、途中から日本にいるあいだのひまつぶしで出資者であるぼくがヒラ社員(役職名がないのだから嘘ではない(^^)ガメ・オベールという名前で、その月に売れてもらわねば困るゲームの内容に沿うような内容の記事を書いていた。 牛蒡の回の記事は、その頃テキサス州にあった小さな会社のボードゲームをソフトウエア化した米軍対日本軍のフィリピン攻略戦だったとおもいます。 これを仕入れの人が10本の注文を100本頼んでしまって、げげげになって、「一杯のかけそば」路線でブログを誰かが書いて売るしかない、と社長が述べていたのをおぼえている。 能川元一さんとエイプマンがおなじ人なのは、当時からわかっていたが、なにしろあの口汚さでは、ばらしてしまっては困るだろうということになって、まあ、黙っていようよ、と憤慨する社長などもなだめて、知らん顔をしていたが、こんなに威丈高になって、お話を深刻にしてしまうとしっていたら、返ってそのときにばらしてしまったほうが本人のためによかったのかもしれないが、アルコールがはいっていたのかなんなのか、自分でエイプマンはおれだと述べてしまって、それならじゃあ、こっちもばらしてしまうか、ということになった。 正直いって、10年いやがらせを続けられて、うんざりしていたし、不愉快でもあった。 能川元一さんの反応は奇妙で昨日はエイプマンはおれだと言わんばかりに誰がどうみたって同一人物であることをツイートしたかとおもえば、今度は、多分、これでは世間体に傷が付いていまの良識派知識人としての名声がなくなってしまうと考えたのか、今日は別人をよそおったりして、一貫しないが、内心は案外、なにしろ能川元一としてのアカウントで「エイプマンはおれだ」と述べてしまったツイートを、多分、あのひとはネトウヨと称されるひとのひとりではないかとおもうが、発見されて、人を呪わば穴ふたつ、といういかにも昔の封建日本の暗い陰湿な人間関係をおもわせる諺があるが、そのとおりで、今度は自分が、いつも他人を陥れるときに使う手のスクショでにっちもさっちもいかなくなって、気持ちが混乱しているのかもしれない。 今回は、とてもいいことがあって、ぼくは自分のTLで出来た友達が、まさか自分達で自発的に起ち上がって、ガメに日本語から去られてたまるかと口々にダイレクトメールやemailでのべて、おれはどんな方法でも止めてみせると言って、ほんとうは仕事が忙しいひとたちで、なによりもこういう争いごとが嫌いで、普段はどちらかといえば、能川や取り巻きの喧嘩好きを見て眉をひそめていたのをおぼえているのに、戦いに行く自分が冷笑人間がおおいネットのなかでどんなふうに言われるかわかっていて、それでも「やってみる。戦ってみる」とひとりひとり出かけていって、到頭、みんながぶっくらこいたことには哲人どんまで、考えてみればわかるが、「あんな人間たちを相手にして」というアカデミアの教授たちの冷笑を覚悟しながら、「若い人が戦うのに、ぼくが戦わないというわけにはいかないから」と述べて、能川元一のまともな人間では到底耐えられそうにない嘲笑罵倒に耐えていた。 ここまでされてブログを閉じて、更新もしないのでは人間とは言われないので、 ブログは更新します。 更新はするけれども、もう日本語にだいぶん飽きてきているので、物語であったり詩であったり、従来どおりの日記や手紙であったり、戯曲であったりするのを許してください。 それからツイッタは、薄気味わるい人が多いのが今回のことでもよく判ったので、 だんだん英語だけにしていくとおもいます。 ブログの更新の告知もしないので、まあ、ときどき、覗きに来てみてください。 … Continue reading
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